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大分と福岡の名城巡り、中津城の展示品の紹介が続きます。中津藩は、第8代から第17代までの9代に亘って(1717~1871年)、奥平家の藩主が継続し明治維新を迎えました。そのことも影響したのでしょうか、展示品の質・量ともに充実していました。維新政府成立への貢献もあったようです。

2018暮、大分の日本百名城(16/31):12月20日(6):中津城(5):展示品、甲冑、陣羽織

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2018/12/19 - 2018/12/21

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旅人のくまさん

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大分と福岡の名城巡り、中津城の展示品の紹介が続きます。中津藩は、第8代から第17代までの9代に亘って(1717~1871年)、奥平家の藩主が継続し明治維新を迎えました。そのことも影響したのでしょうか、展示品の質・量ともに充実していました。維新政府成立への貢献もあったようです。

交通手段
ANAグループ 新幹線 JR特急 JRローカル
  • 〇『卯花縅腹巻(うのはなおどし・はらまき)』<br />*年代:江戸時代中期<br />*着用:奥平家第7代中津藩主・昌成(まさしげ)公 (在位:1690~1743年)<br />*その他:奥平家重代の家宝、黒漆盛上本小札に卯花縅((中津城・公式サイト)

    〇『卯花縅腹巻(うのはなおどし・はらまき)』
    *年代:江戸時代中期
    *着用:奥平家第7代中津藩主・昌成(まさしげ)公 (在位:1690~1743年)
    *その他:奥平家重代の家宝、黒漆盛上本小札に卯花縅((中津城・公式サイト)

  • 〇左の説明文:『卯花縅腹巻(うのはなおどし・はらまき)』のタイトル<br />*年代:江戸時代中期<br />*着用:奥平家第7代中津藩主・昌成(まさしげ)公<br />〇右の名札:『奥平家第7代中津藩主・昌成公着用鎧』<br />*年代を重ねた名札のようです。(同上)

    〇左の説明文:『卯花縅腹巻(うのはなおどし・はらまき)』のタイトル
    *年代:江戸時代中期
    *着用:奥平家第7代中津藩主・昌成(まさしげ)公
    〇右の名札:『奥平家第7代中津藩主・昌成公着用鎧』
    *年代を重ねた名札のようです。(同上)

  • 〇右の説明文のタイトル:『紺糸縅大鎧(江戸時代中期)』<br />*弦走りの革を付けず、采配付きの鐶を付けた造りなどが紹介されていました。<br />〇左の説明文のタイトル:『大鎧』<br />*甲冑のうち、その中心部分が『大鎧』であることからはじまる基本事項の説明でした。『鎧』は、『よりそろう』が語源であることも紹介されていました。(同上)

    〇右の説明文のタイトル:『紺糸縅大鎧(江戸時代中期)』
    *弦走りの革を付けず、采配付きの鐶を付けた造りなどが紹介されていました。
    〇左の説明文のタイトル:『大鎧』
    *甲冑のうち、その中心部分が『大鎧』であることからはじまる基本事項の説明でした。『鎧』は、『よりそろう』が語源であることも紹介されていました。(同上)

  • 〇『筋冑(すじかぶと)』<br />*南北朝以前の冑は遺品によればほとんど星冑に限られていますが、南北朝時代の胴丸に具足している冑は、だいたいが筋冑(すじかぶと)とされます。室町時代は筋冑が流行したため星兜の存在は薄くなりましたが、室町時代末期には、再び星兜が一部で作られました。(同上)

    〇『筋冑(すじかぶと)』
    *南北朝以前の冑は遺品によればほとんど星冑に限られていますが、南北朝時代の胴丸に具足している冑は、だいたいが筋冑(すじかぶと)とされます。室町時代は筋冑が流行したため星兜の存在は薄くなりましたが、室町時代末期には、再び星兜が一部で作られました。(同上)

  • 〇『筋冑(すじかぶと):明珍作』の説明パネル<br />*黒漆六十二(?)筋鉢額皴眉打出し<br />*当世眉五枚<br />*奥平昌高公所用<br />*江戸時代中期 (同上)

    〇『筋冑(すじかぶと):明珍作』の説明パネル
    *黒漆六十二(?)筋鉢額皴眉打出し
    *当世眉五枚
    *奥平昌高公所用
    *江戸時代中期 (同上)

  • 〇『胴丸』の説明文(中央下部)と、その周りの説明用のイラスト。<br />*平安時代から室町時代頃までに盛行した鎧の形式には「大鎧」「胴丸」「腹巻」などがあります。『胴丸』は、着用者の胴体周囲を覆い、右脇で開閉する形式のものです。大鎧の胴も右で引き合わせますが、右側面のみは空いていて、そこに脇楯という別の防具を付けるのに対し、『胴丸』の胴は全体が一続きです。(同上)

    〇『胴丸』の説明文(中央下部)と、その周りの説明用のイラスト。
    *平安時代から室町時代頃までに盛行した鎧の形式には「大鎧」「胴丸」「腹巻」などがあります。『胴丸』は、着用者の胴体周囲を覆い、右脇で開閉する形式のものです。大鎧の胴も右で引き合わせますが、右側面のみは空いていて、そこに脇楯という別の防具を付けるのに対し、『胴丸』の胴は全体が一続きです。(同上)

  • 〇『国寄(年?)偕塞(?)算』らしい文字の掛け軸<br />*落款:七十六翁昌高書<br />*奥平昌高公(1781~1855年)が亡くなった年(数え年)の揮毫です。<br />*天明元年(1781年)に薩摩藩主・島津重豪の次男として薩摩藩江戸藩邸で生まれました。母は側室・お登勢の方(慈光院)ですが、実母は直心影流剣術剣客・鈴木藤賢の娘と伝わります。(同上)

    〇『国寄(年?)偕塞(?)算』らしい文字の掛け軸
    *落款:七十六翁昌高書
    *奥平昌高公(1781~1855年)が亡くなった年(数え年)の揮毫です。
    *天明元年(1781年)に薩摩藩主・島津重豪の次男として薩摩藩江戸藩邸で生まれました。母は側室・お登勢の方(慈光院)ですが、実母は直心影流剣術剣客・鈴木藤賢の娘と伝わります。(同上)

  • 〇『横矧鋲綴二枚胴具足(』江戸時代初期)』<br />*奥平昌章公(1668~1695年)着用の甲冑です。<br />*昌章(まさあきら)公は、出羽山形藩第2代藩主、のち下野宇都宮藩主で、中津藩奥平家4代です。(同上)

    〇『横矧鋲綴二枚胴具足(』江戸時代初期)』
    *奥平昌章公(1668~1695年)着用の甲冑です。
    *昌章(まさあきら)公は、出羽山形藩第2代藩主、のち下野宇都宮藩主で、中津藩奥平家4代です。(同上)

  • 〇『横矧鋲綴二枚胴具足(』江戸時代初期)』<br />*錆地の横矧を鋲で綴った胴です。<br />*草摺りは、黒漆の一文字板札を紺糸で素懸け。<br />*冑は、覆輪懸筋の星鉢。<br />*松平家第6代・宇都宮藩主・昌章公着用。<br />*背板(右)、袖(左)が、カラーのイラストで説明されていました。(同上)

    〇『横矧鋲綴二枚胴具足(』江戸時代初期)』
    *錆地の横矧を鋲で綴った胴です。
    *草摺りは、黒漆の一文字板札を紺糸で素懸け。
    *冑は、覆輪懸筋の星鉢。
    *松平家第6代・宇都宮藩主・昌章公着用。
    *背板(右)、袖(左)が、カラーのイラストで説明されていました。(同上)

  • 〇『中津松平公の参勤交代(中津~京阪神~東海道)』の説明コーナーです。<br />*参勤交代は、江戸時代に先立つ、鎌倉時代に御家人を鎌倉に参上させたのが始まりとされます。制度化されたのが江戸幕府三代将軍の家光公の時代です。<br />*参勤交代の規模は、100万国とされた加賀の前田家では、4千人に及んだようです。その参勤交代は、1867年の版籍奉還で終焉しました。(同上)

    〇『中津松平公の参勤交代(中津~京阪神~東海道)』の説明コーナーです。
    *参勤交代は、江戸時代に先立つ、鎌倉時代に御家人を鎌倉に参上させたのが始まりとされます。制度化されたのが江戸幕府三代将軍の家光公の時代です。
    *参勤交代の規模は、100万国とされた加賀の前田家では、4千人に及んだようです。その参勤交代は、1867年の版籍奉還で終焉しました。(同上)

  • 〇同じく『中津松平公の参勤交代(中津~京阪神~東海道)』の説明コーナーです。<br />*海路は、瀬戸内海(中津~阪神地方)を船で約10日間。<br />*陸路は、中津~京阪間を約16日間。<br />*帆船のため、海路は風任せでした。<br />*写真は、現代に行われている参勤交代のお祭りのようです。(同上)

    〇同じく『中津松平公の参勤交代(中津~京阪神~東海道)』の説明コーナーです。
    *海路は、瀬戸内海(中津~阪神地方)を船で約10日間。
    *陸路は、中津~京阪間を約16日間。
    *帆船のため、海路は風任せでした。
    *写真は、現代に行われている参勤交代のお祭りのようです。(同上)

  • 『オオタカ』の表示があった剥製の光景です。鷹狩で使われた鳥のようでした。『この小さな体で、雉、雁、鴨、鶴、ウサギなどを一発で仕留めることができる』と紹介されていました。日本鷹匠協会会長からの寄贈の剥製でした。『オオタカ(大鷹)』は、日本における鷹類の代表的な種とされます。タカ目タカ科に属する鳥類で中型の種です。名前は大きさからではなく、羽の色が青みがかった灰色をした鷹を意味する『蒼鷹(アオタカ)』に由来します。(同上)

    イチオシ

    『オオタカ』の表示があった剥製の光景です。鷹狩で使われた鳥のようでした。『この小さな体で、雉、雁、鴨、鶴、ウサギなどを一発で仕留めることができる』と紹介されていました。日本鷹匠協会会長からの寄贈の剥製でした。『オオタカ(大鷹)』は、日本における鷹類の代表的な種とされます。タカ目タカ科に属する鳥類で中型の種です。名前は大きさからではなく、羽の色が青みがかった灰色をした鷹を意味する『蒼鷹(アオタカ)』に由来します。(同上)

  • 鷹狩に使われた道具類の展示のようです。鷹狩はアジアの遊牧民の間で発達した狩猟法とされ、紀元前3000年から紀元前2000年ごろの中央アジアないしモンゴル高原が起源と考えられています。日本における鷹狩りのもっと古い記録は、日本書紀の仁徳天皇の時代(355年)に鷹狩が行われ多くの雉を捕ったとあります。その鷹を調教したのは、百済の帰化人の『酒君(さけのきみ)』とされるようです。(同上)

    イチオシ

    鷹狩に使われた道具類の展示のようです。鷹狩はアジアの遊牧民の間で発達した狩猟法とされ、紀元前3000年から紀元前2000年ごろの中央アジアないしモンゴル高原が起源と考えられています。日本における鷹狩りのもっと古い記録は、日本書紀の仁徳天皇の時代(355年)に鷹狩が行われ多くの雉を捕ったとあります。その鷹を調教したのは、百済の帰化人の『酒君(さけのきみ)』とされるようです。(同上)

  • 〇『奥平家の長持』(推定)<br />*側面に三枚の葉を持つ『沢瀉(おもだか)』の家紋と、軍配紋がありました。黒漆塗に金箔で模様が描かれているようです。<br />*竿を通して担ぐことが出来るように、長持の長辺の前後に、丈夫な紐が付いているようでした。(同上)

    〇『奥平家の長持』(推定)
    *側面に三枚の葉を持つ『沢瀉(おもだか)』の家紋と、軍配紋がありました。黒漆塗に金箔で模様が描かれているようです。
    *竿を通して担ぐことが出来るように、長持の長辺の前後に、丈夫な紐が付いているようでした。(同上)

  • 『中津城歴代城主一覧」のタイトルがあった一覧表の光景です。天正16年(1588年)の黒田孝高に始まり、16代の奥平昌邁までの16代の藩主の一覧でした。<br />〇初代:黒田孝高:1587~1600年(長政時代を含む)<br />〇第2代:細川忠興:1600~1632年(小倉藩の忠利時代を含む)<br />〇第3代~第7代:小笠原長治~長邕:1632~1716年(5代)<br />〇第8代~第17代:奥平昌成~長邕:1717~1871年(9代) (同上)

    『中津城歴代城主一覧」のタイトルがあった一覧表の光景です。天正16年(1588年)の黒田孝高に始まり、16代の奥平昌邁までの16代の藩主の一覧でした。
    〇初代:黒田孝高:1587~1600年(長政時代を含む)
    〇第2代:細川忠興:1600~1632年(小倉藩の忠利時代を含む)
    〇第3代~第7代:小笠原長治~長邕:1632~1716年(5代)
    〇第8代~第17代:奥平昌成~長邕:1717~1871年(9代) (同上)

  • 広々とした、展示室内の光景です。正面右側には、この後紹介する『奥平信昌公着用の陣羽織』の展示が見えていました。『沢潟(おもだか)』のデザインが斬新な、『紺羅紗地沢潟紋様陣羽織(安土桃山時代)』の陣羽織です。左右には、書画が中心に展示されていました。(同上)

    広々とした、展示室内の光景です。正面右側には、この後紹介する『奥平信昌公着用の陣羽織』の展示が見えていました。『沢潟(おもだか)』のデザインが斬新な、『紺羅紗地沢潟紋様陣羽織(安土桃山時代)』の陣羽織です。左右には、書画が中心に展示されていました。(同上)

  • とりあえずズームアップで紹介する『奥平信昌公着用の陣羽織』の展示光景です。左端は、奥平信昌公が長篠の戦い(1575年)時に着用した鎧です。桔梗に丸の沢潟紋を持つ、『紺地打延五枚胴具足(安土桃山時代)』の甲冑です。こちらも後ほど個別に紹介します。(同上)

    とりあえずズームアップで紹介する『奥平信昌公着用の陣羽織』の展示光景です。左端は、奥平信昌公が長篠の戦い(1575年)時に着用した鎧です。桔梗に丸の沢潟紋を持つ、『紺地打延五枚胴具足(安土桃山時代)』の甲冑です。こちらも後ほど個別に紹介します。(同上)

  • 『館長・伯爵・奥平昌恒氏』の表示があったセピア写真の展示光景です。その下に『NHK朝ドラ「花子とアン」と奥平家』のタイトルの説明書きがありました。ドラマの主人公のモデルの柳原白蓮(大正三美人の一人で、歌人)の兄の柳原義光伯爵(大正天皇の従兄で、柳原白蓮の異母兄)と奥平昌恒伯爵は、共に伊達宗城伯爵(宇和島藩5代藩主)の孫で、1歳違いの従兄弟だったことなどが紹介されていました。(同上)

    イチオシ

    『館長・伯爵・奥平昌恒氏』の表示があったセピア写真の展示光景です。その下に『NHK朝ドラ「花子とアン」と奥平家』のタイトルの説明書きがありました。ドラマの主人公のモデルの柳原白蓮(大正三美人の一人で、歌人)の兄の柳原義光伯爵(大正天皇の従兄で、柳原白蓮の異母兄)と奥平昌恒伯爵は、共に伊達宗城伯爵(宇和島藩5代藩主)の孫で、1歳違いの従兄弟だったことなどが紹介されていました。(同上)

  • 〇『旧伯爵・奥平家椅子』<br />*よほどしっかりとした革が張られているのでしょうか、『ご自由にお座りください』の表示がありました。奥平家の家風を伝える展示方法かも知れませんが、ひじ掛けの部分には傷があるようでした。<br />*優雅な曲線を持った、欧州の名品のような椅子でした。(同上)

    〇『旧伯爵・奥平家椅子』
    *よほどしっかりとした革が張られているのでしょうか、『ご自由にお座りください』の表示がありました。奥平家の家風を伝える展示方法かも知れませんが、ひじ掛けの部分には傷があるようでした。
    *優雅な曲線を持った、欧州の名品のような椅子でした。(同上)

  • 〇『各大名江戸藩邸之図(文久年間)』<br />*文久年間は、万延の後、元治の前になります。大化以降241番目の元号です。1861年から1864年までの期間です。この時代の天皇は『孝明天皇(在位:1846~1861年)』、江戸幕府将軍は『徳川家茂(在位:1859~1866年)』でした。<br />*文字が読めませんでしたが、右側の江戸湾寄りに、3箇所ほどの藩邸が記されているようでした。(同上)

    〇『各大名江戸藩邸之図(文久年間)』
    *文久年間は、万延の後、元治の前になります。大化以降241番目の元号です。1861年から1864年までの期間です。この時代の天皇は『孝明天皇(在位:1846~1861年)』、江戸幕府将軍は『徳川家茂(在位:1859~1866年)』でした。
    *文字が読めませんでしたが、右側の江戸湾寄りに、3箇所ほどの藩邸が記されているようでした。(同上)

  • レプリカですが、国宝の太刀の『大般若長光』の展示です。『大般若長光(だいはんにゃ・ながみつ)』は、鎌倉時代の備前国(岡山県)の刀工・長光作の太刀です。備前長船派(おさふねは)の刀工、長光の代表作として古来名高い太刀は、室町時代に他に類をみない銭六百貫という代付(だいづけ)がなされたために、大般若経六百巻に引き合わせて、この優雅な名前がつきました。(同上)

    レプリカですが、国宝の太刀の『大般若長光』の展示です。『大般若長光(だいはんにゃ・ながみつ)』は、鎌倉時代の備前国(岡山県)の刀工・長光作の太刀です。備前長船派(おさふねは)の刀工、長光の代表作として古来名高い太刀は、室町時代に他に類をみない銭六百貫という代付(だいづけ)がなされたために、大般若経六百巻に引き合わせて、この優雅な名前がつきました。(同上)

  • 『国宝・太刀・大般若長光(模造)』タイトルがあった説明パネルの光景です。『徳川家康公より奥平信昌公拝領の太刀・鎌倉時代・13世紀』の添書きがありました。室町幕府の足利将軍家に代々伝わったこの銘刀のオリジナルは、織田信長、徳川家康、奥平信昌などの手を経て、現在は東京国立博物館が所蔵しています。(同上)

    『国宝・太刀・大般若長光(模造)』タイトルがあった説明パネルの光景です。『徳川家康公より奥平信昌公拝領の太刀・鎌倉時代・13世紀』の添書きがありました。室町幕府の足利将軍家に代々伝わったこの銘刀のオリジナルは、織田信長、徳川家康、奥平信昌などの手を経て、現在は東京国立博物館が所蔵しています。(同上)

  • 題字が確認できなかった年代物の掛け軸の粗油会です。軍配が二つ描かれていました。奥平家の祖先時代の掛け軸のようでした。軍配の中に日の丸模様が絵画から、その日の丸の中に、文字や記号のようなものが記されていました。残念ながら、文字は小さ過ぎて読取れませんでした。(同上)

    題字が確認できなかった年代物の掛け軸の粗油会です。軍配が二つ描かれていました。奥平家の祖先時代の掛け軸のようでした。軍配の中に日の丸模様が絵画から、その日の丸の中に、文字や記号のようなものが記されていました。残念ながら、文字は小さ過ぎて読取れませんでした。(同上)

  • 〇『徳川家康公座像』(推定)<br />*1行目:『現寿(?)東照宮』<br />*2行目:『爵位(?)三公(?)』<br />*3行目:『六十(?)(?)仁(?)<br />*4行目:『古今(?)(?)(?)』<br />と、読めない文字が沢山ありました。因みに、家康公の爵位は、生前は従一位、薨去後は正一位です。江戸幕府の歴代の征夷代将軍は、その例に倣っているようでした。また、朝廷から贈られた神号は、『東照大権現』です。(同上)

    〇『徳川家康公座像』(推定)
    *1行目:『現寿(?)東照宮』
    *2行目:『爵位(?)三公(?)』
    *3行目:『六十(?)(?)仁(?)
    *4行目:『古今(?)(?)(?)』
    と、読めない文字が沢山ありました。因みに、家康公の爵位は、生前は従一位、薨去後は正一位です。江戸幕府の歴代の征夷代将軍は、その例に倣っているようでした。また、朝廷から贈られた神号は、『東照大権現』です。(同上)

  • 豊臣秀吉による、1590年(天正18年)の小田原攻めに関係する古文書などの展示です。天正18年の春頃、秀吉は惣無事令違反を大義として北条討伐の軍令を発し、徳川家康もこれに加わりました。言いがかりとも言えますし、時代の流れともいえる出来事です。家康は豊臣方の主力として小田原征伐に貢献する一方、合戦前や小田原城の開城でも秀吉と北条家をつなぐ重要な役割を果たしています。(同上)

    豊臣秀吉による、1590年(天正18年)の小田原攻めに関係する古文書などの展示です。天正18年の春頃、秀吉は惣無事令違反を大義として北条討伐の軍令を発し、徳川家康もこれに加わりました。言いがかりとも言えますし、時代の流れともいえる出来事です。家康は豊臣方の主力として小田原征伐に貢献する一方、合戦前や小田原城の開城でも秀吉と北条家をつなぐ重要な役割を果たしています。(同上)

  • 『軍法事』のタイトルがあった、徳川家康公が部下の奥平九郎に宛てた文書です。15箇条の掟文は、1590年の北条氏が籠もる小田原城攻めの際に、家康の部下の諸将に出されたものです。ざっと目を通しただけですが、厳しい掟が具体手に記述されていました。先ほどのオリジナルの文書を、読み易くして展示したもののようです。(同上)

    『軍法事』のタイトルがあった、徳川家康公が部下の奥平九郎に宛てた文書です。15箇条の掟文は、1590年の北条氏が籠もる小田原城攻めの際に、家康の部下の諸将に出されたものです。ざっと目を通しただけですが、厳しい掟が具体手に記述されていました。先ほどのオリジナルの文書を、読み易くして展示したもののようです。(同上)

  • 〇『軍法事十五箇条』の解釈(国学院大学教授・桑田忠親氏)<br />*天正18年(1590年)、豊臣秀吉が北条氏を降ろすために小田原城を攻めた時、この軍に参加した徳川家康が、陣中の諸将に下したものです。<br />*戦中の軍律から、平時の心得まで、細かく記されており、当時軍律律の厳しさを窺うことができます。<br />*典型的な、家康の花押が押されています。(同上)

    〇『軍法事十五箇条』の解釈(国学院大学教授・桑田忠親氏)
    *天正18年(1590年)、豊臣秀吉が北条氏を降ろすために小田原城を攻めた時、この軍に参加した徳川家康が、陣中の諸将に下したものです。
    *戦中の軍律から、平時の心得まで、細かく記されており、当時軍律律の厳しさを窺うことができます。
    *典型的な、家康の花押が押されています。(同上)

  • 典型的と紹介した、徳川家康公の花押のズームアップ光景です。花押の前に『天正18年・2月吉日』の日付けがありました。『花押』についての紹介です。花押の始まりは平安時代とされ、署名者と他者を区別するために、草書を崩した図柄のようなサインが生み出されました。鎌倉時代以降、武士たちの間で文書のやり取りが増えると、武家様(ぶけよう)と呼ばれる武士特有の署記方法が生まれました。(同上)

    典型的と紹介した、徳川家康公の花押のズームアップ光景です。花押の前に『天正18年・2月吉日』の日付けがありました。『花押』についての紹介です。花押の始まりは平安時代とされ、署名者と他者を区別するために、草書を崩した図柄のようなサインが生み出されました。鎌倉時代以降、武士たちの間で文書のやり取りが増えると、武家様(ぶけよう)と呼ばれる武士特有の署記方法が生まれました。(同上)

  • 二段に分けて台紙に御張られた古文書の光景です。差秋ほどの家康公の花押とは異なっていました。この花押が、文書解読のキーになりそうですが、まだ名前が特定できていません。徳川家は、家康から13代目の家定まで、花押のパターンは統一されていました。伊達政宗や、豊臣秀吉、織田信長の花押も、それぞれに特徴的でした。(同上)

    二段に分けて台紙に御張られた古文書の光景です。差秋ほどの家康公の花押とは異なっていました。この花押が、文書解読のキーになりそうですが、まだ名前が特定できていません。徳川家は、家康から13代目の家定まで、花押のパターンは統一されていました。伊達政宗や、豊臣秀吉、織田信長の花押も、それぞれに特徴的でした。(同上)

  • 模擬天守から眺めた、城内外の光景です。奥平家を中心とした、中津城の展示館の照会は、この後も続きます。平戸藩士の末裔だった父は、候文が得でしたが、右手では表文字を、左手では、それをひっくり返した裏文字が書けました。日常は右利きでしたが、元々は左利きだったと、父から聞きました。懐かしい思い出です。(同上)<br />

    模擬天守から眺めた、城内外の光景です。奥平家を中心とした、中津城の展示館の照会は、この後も続きます。平戸藩士の末裔だった父は、候文が得でしたが、右手では表文字を、左手では、それをひっくり返した裏文字が書けました。日常は右利きでしたが、元々は左利きだったと、父から聞きました。懐かしい思い出です。(同上)

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