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大分と福岡の名城巡りの中津城の紹介です。中津城址に位置する、中津大神宮と、中津神社の紹介です。中津大神宮は、『豊前の国のお伊勢様』と呼ばれて、地元の人の篤い信仰を受けているようです。

2018暮、大分の日本百名城(13/31):12月20日(3):中津城(2):中津大神宮、中津神社

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2018/12/19 - 2018/12/21

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旅人のくまさん

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大分と福岡の名城巡りの中津城の紹介です。中津城址に位置する、中津大神宮と、中津神社の紹介です。中津大神宮は、『豊前の国のお伊勢様』と呼ばれて、地元の人の篤い信仰を受けているようです。

交通手段
ANAグループ 新幹線 JR特急 JRローカル
  • 1882年(明治15年)に劇場『蓬莱観』が開かれた場所のようです。当時の有名役者・歌舞伎役者が出演し、近代~戦前には『博多座』と並び称される九州屈指の劇場となったとされる『蓬莱観』です。しかし、戦時中に強制疎開により取り壊しになり、現在は、庭園として整備されているようです。

    1882年(明治15年)に劇場『蓬莱観』が開かれた場所のようです。当時の有名役者・歌舞伎役者が出演し、近代~戦前には『博多座』と並び称される九州屈指の劇場となったとされる『蓬莱観』です。しかし、戦時中に強制疎開により取り壊しになり、現在は、庭園として整備されているようです。

  • 城下町を歩きながら、奥平家を主体とした歴史紹介をしましたが、少し時代を遡って、中津城の草創期の歴史を紹介します。築城年は天正16年(1588年)、黒田孝高(官兵衛、如水)によって築城されました。主な城主は、築城した黒田家、その後の改修と完成をさせた細川家、小笠原家と維新を迎えた奥平家の四家になります。(ウィキペディア)

    イチオシ

    城下町を歩きながら、奥平家を主体とした歴史紹介をしましたが、少し時代を遡って、中津城の草創期の歴史を紹介します。築城年は天正16年(1588年)、黒田孝高(官兵衛、如水)によって築城されました。主な城主は、築城した黒田家、その後の改修と完成をさせた細川家、小笠原家と維新を迎えた奥平家の四家になります。(ウィキペディア)

  • 中津城は、周防灘(豊前海)に臨む中津川(山国川の派川)河口の地に築城された、梯郭式の平城です。堀には海水が引き込まれているため、水城(海城)ともされ、四国にある今治城・高松城と並ぶ日本三大水城(みずじろ)の一つに数えられています。かつては、豊前国中津、現在は大分県の最北西の中津市に位置します。(同上)<br />*写真は、城址に位置する中津神社の鳥居光景です。

    中津城は、周防灘(豊前海)に臨む中津川(山国川の派川)河口の地に築城された、梯郭式の平城です。堀には海水が引き込まれているため、水城(海城)ともされ、四国にある今治城・高松城と並ぶ日本三大水城(みずじろ)の一つに数えられています。かつては、豊前国中津、現在は大分県の最北西の中津市に位置します。(同上)
    *写真は、城址に位置する中津神社の鳥居光景です。

  • 中津城は、本丸を中心として、北に二の丸、南に三ノ丸があり、全体ではほぼ直角三角形をなしていたため扇形に例えて『扇城(せんじょう)』とも呼ばれていました。櫓の棟数は22基、門は8棟、総構には、6箇所の虎口が開けられていました。中津川城、小犬丸城、丸山城の別名もあります。(同上)<br />*写真は、城内から眺めた東面の虎口の光景です。大部分の石垣は失われています。

    イチオシ

    中津城は、本丸を中心として、北に二の丸、南に三ノ丸があり、全体ではほぼ直角三角形をなしていたため扇形に例えて『扇城(せんじょう)』とも呼ばれていました。櫓の棟数は22基、門は8棟、総構には、6箇所の虎口が開けられていました。中津川城、小犬丸城、丸山城の別名もあります。(同上)
    *写真は、城内から眺めた東面の虎口の光景です。大部分の石垣は失われています。

  • 中津城は、冬至の日には、朝日は宇佐神宮の方角から上り、夕日は英彦山の方角に落ちる場所に築城されています。また、吉富町にある八幡古表神社と薦(こも)神社とを結ぶ直線上に位置します。また、鬼門である北東には、闇無浜(くらなしはま)神社があります。(同上)<br />*写真は、木々の間から顔を出した天守光景です。

    中津城は、冬至の日には、朝日は宇佐神宮の方角から上り、夕日は英彦山の方角に落ちる場所に築城されています。また、吉富町にある八幡古表神社と薦(こも)神社とを結ぶ直線上に位置します。また、鬼門である北東には、闇無浜(くらなしはま)神社があります。(同上)
    *写真は、木々の間から顔を出した天守光景です。

  • かつての天守の紹介です。江戸時代の絵図には天守は描かれていず、「中津城下図」には、中津川沿岸の本丸鉄門脇に三重櫓が描かれているのみです。しかし、黒田孝高(如水)の手紙には、「天守に銭を積んで蓄えた」とあります。<br />*写真は、『中津城公園(公園地)』のタイトルがあった、図面と写真入りの説明看板の光景です。

    かつての天守の紹介です。江戸時代の絵図には天守は描かれていず、「中津城下図」には、中津川沿岸の本丸鉄門脇に三重櫓が描かれているのみです。しかし、黒田孝高(如水)の手紙には、「天守に銭を積んで蓄えた」とあります。
    *写真は、『中津城公園(公園地)』のタイトルがあった、図面と写真入りの説明看板の光景です。

  • 天守の話が続きます。その後、元和5年1月5日細川忠興書状に、小笠原忠真(忠興の三男忠利の義兄弟)へ中津城の天守を譲るとあり、当時忠真が築城中だった明石城へ送られましたが、明石城には天守はなく、他の建物に転用されたようです。(同上)<br />*写真は、『三斎池』のタイトルがあった説明看板です。『三斎』は、細川忠興の隠居号です。彼が手掛けた水道工事の池の名に冠されました。

    天守の話が続きます。その後、元和5年1月5日細川忠興書状に、小笠原忠真(忠興の三男忠利の義兄弟)へ中津城の天守を譲るとあり、当時忠真が築城中だった明石城へ送られましたが、明石城には天守はなく、他の建物に転用されたようです。(同上)
    *写真は、『三斎池』のタイトルがあった説明看板です。『三斎』は、細川忠興の隠居号です。彼が手掛けた水道工事の池の名に冠されました。

  • 天守の照会の最後です。文禄2年(1593年)に亡くなった小河信章の跡を継いだ小河之直へ、長政が発した3月3日付書状に、天守の欄干が腐った旨の記述がありますが、これが中津城かその後の居城福岡城を指すかは不明です。(同上)<br />*写真は、古い時代の縄張り図が記された説明看板です。左側に『中津城旧地図』、右側に『中津城の歴史』の題字がありました。

    天守の照会の最後です。文禄2年(1593年)に亡くなった小河信章の跡を継いだ小河之直へ、長政が発した3月3日付書状に、天守の欄干が腐った旨の記述がありますが、これが中津城かその後の居城福岡城を指すかは不明です。(同上)
    *写真は、古い時代の縄張り図が記された説明看板です。左側に『中津城旧地図』、右側に『中津城の歴史』の題字がありました。

  • 中津城の堀と石垣の紹介です。中津城に残る黒田孝高(如水)が普請した石垣は、天正16年(1588年)に普請され、現存する近世城郭の石垣としては九州最古のものです。本丸上段北面石垣(模擬天守北面下)は、黒田家の石垣に細川家が石垣を継いだ境が見られます。(同上)<br />*写真は、『ぐるーっと周防灘』のタイトルがあった観光案内地図です。

    中津城の堀と石垣の紹介です。中津城に残る黒田孝高(如水)が普請した石垣は、天正16年(1588年)に普請され、現存する近世城郭の石垣としては九州最古のものです。本丸上段北面石垣(模擬天守北面下)は、黒田家の石垣に細川家が石垣を継いだ境が見られます。(同上)
    *写真は、『ぐるーっと周防灘』のタイトルがあった観光案内地図です。

  • 中津城の堀と石垣の紹介の続きです。本丸南の堀と石垣は、中津市によって修復、復元されています。ここにも黒田・細川時代の石垣改修の跡を見ることができます。黒田家時代に『打込み接ぎ』、細川家時代に野面積身の箇所があります(同上)<br />*写真は、内側(境内側)から眺めた、『中津神社』の鳥居光景です。右奥に見えるのが、『蓬莱観の庭園』がある場所です。

    中津城の堀と石垣の紹介の続きです。本丸南の堀と石垣は、中津市によって修復、復元されています。ここにも黒田・細川時代の石垣改修の跡を見ることができます。黒田家時代に『打込み接ぎ』、細川家時代に野面積身の箇所があります(同上)
    *写真は、内側(境内側)から眺めた、『中津神社』の鳥居光景です。右奥に見えるのが、『蓬莱観の庭園』がある場所です。

  • 石垣の紹介が続きます。黒田氏時代、細川氏時代ともに花崗岩を使用していますが、黒田氏時代のものは未加工の自然石ではなく、それ以前の山城の石を再利用したため、断面をL字型に加工した直方体になっているものが多いのが特徴です。実はこれ、福岡県築上郡上毛(こうげ)町にある7世紀の古代城跡「唐原山城」(とうばるさんじょう)の神籠石(こうごいし)を転用したものです。(ニッポン旅マガジン)

    石垣の紹介が続きます。黒田氏時代、細川氏時代ともに花崗岩を使用していますが、黒田氏時代のものは未加工の自然石ではなく、それ以前の山城の石を再利用したため、断面をL字型に加工した直方体になっているものが多いのが特徴です。実はこれ、福岡県築上郡上毛(こうげ)町にある7世紀の古代城跡「唐原山城」(とうばるさんじょう)の神籠石(こうごいし)を転用したものです。(ニッポン旅マガジン)

  • 「唐原山城」は、飛鳥時代(592~710年)の天智2年8月(663年10月)、白村江の戦いの敗戦後に築城した朝鮮式山城とされます。現在は「唐原山城跡」として、国の史跡に指定されている古代山城の神籠石列石を、黒田孝高(如水)が舟運を利用して運び出したようです。(同上)<br />*写真は、中津城址内の駐車場光景です。

    「唐原山城」は、飛鳥時代(592~710年)の天智2年8月(663年10月)、白村江の戦いの敗戦後に築城した朝鮮式山城とされます。現在は「唐原山城跡」として、国の史跡に指定されている古代山城の神籠石列石を、黒田孝高(如水)が舟運を利用して運び出したようです。(同上)
    *写真は、中津城址内の駐車場光景です。

  • 黒田孝高の居城時代には、まだ戦国の世で、度重なる合戦のために築城もはかどらず、神籠石の転用を思いついたのだと推測されます。また現在河川敷公園として整備されている高瀬川(現在の中津川)沿いの土手側(西側)には、この列石の特徴である、直方体の一辺が切り揃えられた溝の跡や鉄門跡を見ることもできます。(同上)

    黒田孝高の居城時代には、まだ戦国の世で、度重なる合戦のために築城もはかどらず、神籠石の転用を思いついたのだと推測されます。また現在河川敷公園として整備されている高瀬川(現在の中津川)沿いの土手側(西側)には、この列石の特徴である、直方体の一辺が切り揃えられた溝の跡や鉄門跡を見ることもできます。(同上)

  • 正面の常緑樹の右奥に見えているのは、『中津大神宮』の拝殿光景です。『豊前の国のお伊勢様』と親しまれている神社と紹介されていました。中津大神宮は、明治14年(1881年)、伊勢の神宮の大神様の御分霊を奉迎鎮祭し、神宮豊前教会として中津城址に御鎮座しました。(同上)』<br />*写真は、『中津大神宮』正面の石段と石標の光景です。

    正面の常緑樹の右奥に見えているのは、『中津大神宮』の拝殿光景です。『豊前の国のお伊勢様』と親しまれている神社と紹介されていました。中津大神宮は、明治14年(1881年)、伊勢の神宮の大神様の御分霊を奉迎鎮祭し、神宮豊前教会として中津城址に御鎮座しました。(同上)』
    *写真は、『中津大神宮』正面の石段と石標の光景です。

  • 創建時は、豊前の国(企救郡・田川郡・京都郡・仲津郡・築城郡・上毛郡・下毛郡・宇佐郡)の方々に 伊勢神宮の神札(神宮大麻)と神宮暦を頒布していたと紹介されていました。その後、神宮教、神宮奉斎会と改称されました。<br />*写真は、『中津大神宮』の手水所です。真新しい注連縄が飾られていました。

    創建時は、豊前の国(企救郡・田川郡・京都郡・仲津郡・築城郡・上毛郡・下毛郡・宇佐郡)の方々に 伊勢神宮の神札(神宮大麻)と神宮暦を頒布していたと紹介されていました。その後、神宮教、神宮奉斎会と改称されました。
    *写真は、『中津大神宮』の手水所です。真新しい注連縄が飾られていました。

  • 自然石を使ったらしい、大きな手水鉢(ちょうずばち)の光景です。先ほど紹介した、手水所(ちょうずどころ)の中に置かれていました。かなりの大きさで水か八の石質に石灰分が多いのでしょうか、内面は白っぽくなっていました。

    自然石を使ったらしい、大きな手水鉢(ちょうずばち)の光景です。先ほど紹介した、手水所(ちょうずどころ)の中に置かれていました。かなりの大きさで水か八の石質に石灰分が多いのでしょうか、内面は白っぽくなっていました。

  • 『中津大神宮』の拝殿光景です。ご祭神は、次の四柱です。<br />〇天照大御神(あまてらすおおみかみ):伊勢神宮内宮の祭神で、皇室の御祖神。<br />〇豊受大御神(とようけのおおみかみ):伊勢神宮外宮の祭神。農業などの守護神。<br />〇倭姫命(やまとひめのみこと):天照大御神の御杖代(みつえしろ)。<br />〇天宇豆売命(あめのうずめのみこと):芸能・芸術の神。

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    『中津大神宮』の拝殿光景です。ご祭神は、次の四柱です。
    〇天照大御神(あまてらすおおみかみ):伊勢神宮内宮の祭神で、皇室の御祖神。
    〇豊受大御神(とようけのおおみかみ):伊勢神宮外宮の祭神。農業などの守護神。
    〇倭姫命(やまとひめのみこと):天照大御神の御杖代(みつえしろ)。
    〇天宇豆売命(あめのうずめのみこと):芸能・芸術の神。

  • 阿形(あぎょう)の雄の獅子像です。参道の右側に位置し、左の前足の下に玉が置かれていました。『狛犬(こまいぬ)』と呼ばれ、獅子に似た獣で、想像上の生物とされます。像として神社や寺院の入口の両脇、あるいは本殿・本堂の正面左右などに一対で向き合う形、または守るべき寺社に背を向け、参拝者と正対する形で置かれることが多いようです。飛鳥時代に日本に伝わった当初は獅子で、左右の姿に差異はなく、平安時代になってそれぞれ異なる外見を持つ獅子と狛犬の像が対で置かれるようになり、狭義には後者のみを「狛犬」としますが、現在では両者を併せて狛犬と呼ぶのが一般化しています。(ウィキペディア)

    阿形(あぎょう)の雄の獅子像です。参道の右側に位置し、左の前足の下に玉が置かれていました。『狛犬(こまいぬ)』と呼ばれ、獅子に似た獣で、想像上の生物とされます。像として神社や寺院の入口の両脇、あるいは本殿・本堂の正面左右などに一対で向き合う形、または守るべき寺社に背を向け、参拝者と正対する形で置かれることが多いようです。飛鳥時代に日本に伝わった当初は獅子で、左右の姿に差異はなく、平安時代になってそれぞれ異なる外見を持つ獅子と狛犬の像が対で置かれるようになり、狭義には後者のみを「狛犬」としますが、現在では両者を併せて狛犬と呼ぶのが一般化しています。(ウィキペディア)

  • 吽(うん)形の雌の獅子像です形の雌の獅子像です。参道の左手に位置し、右の前脚の下に子獅子の姿がありました。雌雄の狛犬ともに、まだ新しい造りのようで、がっちりとした身体つきでした。この雌雄の獅子は、どちらも角がありませんが、無角の獅子と有角の狛犬とが一対とされる伝統があるようです。起源はペルシャ、インドにおけるライオン(獅子)を象った像で、日本には、中国の唐の時代の獅子が、仏教とともに伝わったとされています。(同上)

    吽(うん)形の雌の獅子像です形の雌の獅子像です。参道の左手に位置し、右の前脚の下に子獅子の姿がありました。雌雄の狛犬ともに、まだ新しい造りのようで、がっちりとした身体つきでした。この雌雄の獅子は、どちらも角がありませんが、無角の獅子と有角の狛犬とが一対とされる伝統があるようです。起源はペルシャ、インドにおけるライオン(獅子)を象った像で、日本には、中国の唐の時代の獅子が、仏教とともに伝わったとされています。(同上)

  • 六角形の台座の上に立つ、立派な石碑の光景です。『御即位奉祝記念』の文字が刻まれていました。境内には、西南役中津隊之碑、中津隊百年祭記念碑、恭事神明碑、御即位奉祝記念碑、 日露記念砲弾碑、松尾芭蕉の俳句碑等々、歴史を物語る石碑が多くあるようです。推測ですが、この碑は昭和天皇の即位記念碑当たりのようです。

    六角形の台座の上に立つ、立派な石碑の光景です。『御即位奉祝記念』の文字が刻まれていました。境内には、西南役中津隊之碑、中津隊百年祭記念碑、恭事神明碑、御即位奉祝記念碑、 日露記念砲弾碑、松尾芭蕉の俳句碑等々、歴史を物語る石碑が多くあるようです。推測ですが、この碑は昭和天皇の即位記念碑当たりのようです。

  • 『中津大神宮由緒記』のタイトルがあった説明パネルの光景です。『御祭神は天照皇大神・豊受大神他二柱です。明治14年9月伊勢ノ神宮御分霊を奉迎鎮祭し、神宮豊前教会として御鎮座しました。明治32年神宮教解散、神宮奉斎会設立により、神宮奉斎会中津支部と改称、神宮大麻と神宮暦領布業務を担当しました。(由緒記)』<br />

    『中津大神宮由緒記』のタイトルがあった説明パネルの光景です。『御祭神は天照皇大神・豊受大神他二柱です。明治14年9月伊勢ノ神宮御分霊を奉迎鎮祭し、神宮豊前教会として御鎮座しました。明治32年神宮教解散、神宮奉斎会設立により、神宮奉斎会中津支部と改称、神宮大麻と神宮暦領布業務を担当しました。(由緒記)』

  • 由緒記の続きです。『豊前の国(企救・田川・京都・中津・築城・上毛・下毛・宇佐)総しづめの社として、また、豊前の国の「お伊勢様」としてあまねく人々の崇拝をあつめ、その後、幾多の変遷を経て昭和21年4月中津大神宮として今日に至ります。(同上)』<br />*写真は、大きな台座の上の小さな獅子像の光景です。阿形の雄の獅子像です。

    由緒記の続きです。『豊前の国(企救・田川・京都・中津・築城・上毛・下毛・宇佐)総しづめの社として、また、豊前の国の「お伊勢様」としてあまねく人々の崇拝をあつめ、その後、幾多の変遷を経て昭和21年4月中津大神宮として今日に至ります。(同上)』
    *写真は、大きな台座の上の小さな獅子像の光景です。阿形の雄の獅子像です。

  • 『また、奉拝殿の格天井には創建当時の崇敬者の手による天井絵216枚が奉納されています。御本殿は伊勢の神宮と同じ、神明造りです。奉拝殿は、勇壮、かつ豪壮にして、近郷では珍しく妻入り縦長型の大型拝殿です。(同上)』なお、由緒書きは、「中津の郷土史を語る会」によるものです。<br />*写真は、大きな台座の上の小さな獅子像は、吽形の雌の獅子像です。

    『また、奉拝殿の格天井には創建当時の崇敬者の手による天井絵216枚が奉納されています。御本殿は伊勢の神宮と同じ、神明造りです。奉拝殿は、勇壮、かつ豪壮にして、近郷では珍しく妻入り縦長型の大型拝殿です。(同上)』なお、由緒書きは、「中津の郷土史を語る会」によるものです。
    *写真は、大きな台座の上の小さな獅子像は、吽形の雌の獅子像です。

  • 拝殿内には、明治の日本を代表する書道家、宮小路康文謹書の『大哉神徳』の大扁額が掲げられています。宮小路家は、太宰府天満宮の社家六度寺で、明治期には<br />書家の宮小路康文(号浩潮)を輩出した家とされます。(同上)』<br />*写真は、『中津大神宮』の拝殿光景です。

    拝殿内には、明治の日本を代表する書道家、宮小路康文謹書の『大哉神徳』の大扁額が掲げられています。宮小路家は、太宰府天満宮の社家六度寺で、明治期には
    書家の宮小路康文(号浩潮)を輩出した家とされます。(同上)』
    *写真は、『中津大神宮』の拝殿光景です。

  • 写真は、『中津大神宮』の拝殿の破風のズームアップ光景です。『神宮豊前教会』として中津城址に鎮座したのは、明治14年(1881年)でしたが、『中津大神宮』の呼び名となったのは、昭和21年(1946年)とされます。(同上)』

    写真は、『中津大神宮』の拝殿の破風のズームアップ光景です。『神宮豊前教会』として中津城址に鎮座したのは、明治14年(1881年)でしたが、『中津大神宮』の呼び名となったのは、昭和21年(1946年)とされます。(同上)』

  • 日本最大の内戦とも呼ばれている、『西南の役』に関する石標(歌碑)のようです。明治10年(1877)3月31日、西南戦争の只中、豊前中津で薩摩軍(西郷軍)に呼応した士族たちが反乱を起こしました。そのうち増田宋太郎率いる64人が薩摩軍に身を投じました。西南戦争では、西郷隆盛をはじめとする薩摩人だけでなく、明治政府に不満を抱く九州各地の士族たちも起ち上がりました。(WEB歴史街道)

    日本最大の内戦とも呼ばれている、『西南の役』に関する石標(歌碑)のようです。明治10年(1877)3月31日、西南戦争の只中、豊前中津で薩摩軍(西郷軍)に呼応した士族たちが反乱を起こしました。そのうち増田宋太郎率いる64人が薩摩軍に身を投じました。西南戦争では、西郷隆盛をはじめとする薩摩人だけでなく、明治政府に不満を抱く九州各地の士族たちも起ち上がりました。(WEB歴史街道)

  • 石碑(歌碑)の傍らにあった『歌碑説明』の看板の光景です。薩摩軍の主な部隊には、都城隊(旧薩摩藩領)、佐土原隊(薩摩藩支藩)、熊本の熊本隊・熊本協同隊・竜口隊、人吉の人吉隊、日向の延岡隊・高鍋隊・飫肥隊、高鍋分領の福島隊、豊後の竹田報国隊、そして中津隊などがあります。彼らは薩摩軍に与した部隊であることから、「党薩隊」とも呼ばれ、最盛期にはその数は1万人を超えました。(同上)

    石碑(歌碑)の傍らにあった『歌碑説明』の看板の光景です。薩摩軍の主な部隊には、都城隊(旧薩摩藩領)、佐土原隊(薩摩藩支藩)、熊本の熊本隊・熊本協同隊・竜口隊、人吉の人吉隊、日向の延岡隊・高鍋隊・飫肥隊、高鍋分領の福島隊、豊後の竹田報国隊、そして中津隊などがあります。彼らは薩摩軍に与した部隊であることから、「党薩隊」とも呼ばれ、最盛期にはその数は1万人を超えました。(同上)

  • 明治維新に向けて、命がけで戦ったにもかかわらず、新政府の廃藩置県、秩禄処分で旧藩士の収入が大幅に減ることになり、さらに四民平等で武士階級の特権も奪われてしまったからです。近代化に向けて急ぐあまり、明治政府は士族に見返りを与える余裕がありませんでした。(同上)<br />*写真は、『中津大神宮社務所』の表札があった建物の玄関光景です。

    明治維新に向けて、命がけで戦ったにもかかわらず、新政府の廃藩置県、秩禄処分で旧藩士の収入が大幅に減ることになり、さらに四民平等で武士階級の特権も奪われてしまったからです。近代化に向けて急ぐあまり、明治政府は士族に見返りを与える余裕がありませんでした。(同上)
    *写真は、『中津大神宮社務所』の表札があった建物の玄関光景です。

  • 中津隊を率いた増田宋太郎は、実は福沢諭吉の再従弟にあたります。 嘉永2年(1849年)の生まれ、当時29歳でした。薩摩軍と官軍の最後決戦地地は和田越えでしたが、官軍の勝ちに終わり、西郷隆盛は、自らの軍服を焼き捨て、死に場所としての薩摩を目指しました。増田宋太郎は部下を解散させました。(同上)<br />*写真は、中津神社の拝殿の光景です。

    中津隊を率いた増田宋太郎は、実は福沢諭吉の再従弟にあたります。 嘉永2年(1849年)の生まれ、当時29歳でした。薩摩軍と官軍の最後決戦地地は和田越えでしたが、官軍の勝ちに終わり、西郷隆盛は、自らの軍服を焼き捨て、死に場所としての薩摩を目指しました。増田宋太郎は部下を解散させました。(同上)
    *写真は、中津神社の拝殿の光景です。

  • 薩摩軍は高千穂や神門などを経由して鹿児島に戻りました。薩摩軍300人余りは鹿児島の城山に籠り、5万の政府軍に包囲される中、9月24日に総攻撃を受け、西郷は自刃、主だった将兵はすべて西郷と運命をともにしました。その中に、増田の姿もありました。西南の役は終結しました。<br />*写真は、北の方角の目印になる、『北斗七星』の表示です。

    薩摩軍は高千穂や神門などを経由して鹿児島に戻りました。薩摩軍300人余りは鹿児島の城山に籠り、5万の政府軍に包囲される中、9月24日に総攻撃を受け、西郷は自刃、主だった将兵はすべて西郷と運命をともにしました。その中に、増田の姿もありました。西南の役は終結しました。
    *写真は、北の方角の目印になる、『北斗七星』の表示です。

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