2018/12/19 - 2018/12/21
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旅人のくまさんさん
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大分と福岡の名城巡り、大分の岡城紹介の続きです。土井晩翠が、『荒城の月』の歌詞の構想のモデルとした城としたのは、宮城県仙台市の仙台藩青葉城址、福島県会津若松市の会津藩鶴ヶ城址等が挙げられていますが、滝廉太郎が曲の構想を練ったのは、この岡城に間違いないようです。それに相応しい像を目にすることができました。
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- ANAグループ 新幹線 JR特急 JRローカル
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〇空井戸跡:『二の丸の入り口付近にある大きな井戸である。当初から水は無く、空井戸であったとされるため、抜け道として使用されていたとか、財宝が隠されているなどの伝説が残されている。江戸時代には、60mほどの深さがあったとの記録がある。(岡城公式サイト)』、次の写真がその空井戸のようです。
*写真は、本丸跡など、多方向に矢印表示があった道案内標識です。 -
〇瀧廉太郎像:『瀧廉太郎の銅像は、少年時代に廉太郎と同じ学校に通っていた彫刻家の朝倉文夫によって昭和25年に作られました。廉太郎は、少年時代に遊び場にしていた岡城をモチーフにして、名曲「荒城の月」を作曲しました。銅像の裏側には、朝倉文夫が、自分の少年時代に廉太郎が学校の裏側にあたる岡城で尺八を演奏していた思い出と、銅像の制作のエピソードが刻まれています。(同上)』
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〇本丸跡:『本丸は、岡城中心部の最も重要な曲輪であり、中央部には藩主の住まいとなる本丸御殿が建てられていた。本丸御殿を取り囲むように、天守に相当する御三階櫓や角櫓、 多門櫓、金倉などが配置されていた。(同上)』
*写真は、『城代屋敷跡』の文字が刻まれた石標です。 -
〇清水門跡:清水門は、藩主が稲葉川のほとりに建てた河内谷御茶屋(藩主の休息場)へ向かうため設けられた門である。河内谷御茶屋の対岸の岸壁 に、三日月の 形を彫った「三日月岩」があり、藩主は、この三日月岩に明かりを灯し、月見を楽しんだと云う。(同上)』
*写真は、『籾蔵跡』の文字が刻まれた石標です。 -
〇荘嶽社(そうがくしゃ)・御廟所(ごびょうしょ):荘嶽社は、初代藩主の父である中川清秀、兄の中川秀政、初代藩主中川秀成を祀る神社である。御廟所は、歴代藩主の位牌が祀られる施設であり、儒教の教えに基づき造られた。荘嶽社・御 廟所の場所は、「東の郭」と呼ばれ、中川氏か岡城主となる以前の志賀氏の時代には、岡城の中心部であった。(同上)』
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イチオシ
〇下原門(しもばるもん)跡:『下原門は、岡城の搦手(裏口)の門として使用されていた。中川氏入部以前は、ここが大手門として使用されていたと云われている。下原 門東側の石垣には、石垣のズレを防ぐために、石材にホゾを切り、石をはめ込んだ「千切」と呼ばれる珍しい技法が用いられている。(同上)』
*写真は、崖の上に立つ石垣の光景です。 -
〇近戸門跡:『近戸門は、通用口としての機能を持ち、家臣や領民の日常的な出入りに使用されていた。「七曲り」と呼ばれるつづら折りの坂道は近戸門から城下へと続き、城下町と城を結んで いた。城内から近戸門を抜けた右側には、中川覚左衛門屋敷北側まで続く、長大な横堀が今も残る。(同上)』
*写真は、岡城の周りの山並み光景です。 -
〇中川覚左衛門屋敷跡(家老屋敷):『中川覚左衛門屋敷は、茶人古田織部の弟で、岡藩の家老を務めた古田重則にはじまる家系の屋敷である。当時の屋敷間取りがわかるよう、建物の床面を復元している。(同上)』
*古田織部(1543~1616年)は、大名で茶人、その弟子には徳川秀忠、伊達政宗、佐竹義宣、金森可重、佐久間将監、毛利秀元をはじめ錚々たる人がいます。 -
〇古田織部:本名は、古田重然(ふるた・しげなり)、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名、茶人で、芸術家です。通称は古田織部です。正室は、中川清秀妹・せんです。織部について、加藤唐九郎は「利休は自然の中から美を見いだした人だが作り出した人ではない。織部は美を作り出した人で、芸術としての陶器は織部から始まっている」と述べました。(ウィキペディア):脇道に入っての説明です。
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〇古田織部(続き):織部は千利休の「人と違うことをせよ」という教えの通り、利休の静謐さと対照的な動的な「破調の美」の道具組を行いました。織部が行った「破調の美」の表現法に、器をわざと壊して継ぎ合わせ、そこに生じる美を楽しむという方法があり、その実例として、大きさを縮めるために茶碗を十字に断ち切って漆で再接着した「大井戸茶碗 銘須弥 別銘十文字」があります。(同上)
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〇中川民部屋敷跡:『中川民部屋敷は、3代藩主中川久清の息子である中川久旨の家系の屋敷である。発掘調査により確認された屋敷の間取りを、礎石により配置して復元している。同上)』、先ほど紹介した加藤唐九郎(1897~1985年)は、荒川豊蔵(1894~1985年)と双璧だった大家でしたが、『永仁の壺事件』により、人間国宝や文化勲章等とは無縁の人となりました。(同上)
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〇滝廉太郎記念館(城下町):『荒城の月』や『箱根八里』、『花』などを作曲、明治の西洋音楽黎明期の代表的な音楽家、瀧廉太郎(1879-1903)が12歳から14歳まで暮らした屋敷が、瀧廉太郎記念館となっています。館内では手紙や写真、譜面などが展示されていて、廉太郎の生涯を知ることができます。廉太郎の感性を育んだ空間が残されている、おそらく日本で唯一の場所でしょう。(竹田市公式サイト)』
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〇竹田市歴史文化館・由学館(城下町):竹田市歴史文化館・由学館の館内には、国指定史跡「岡城跡」について楽しみながら学べる「岡城ガイダンスセンター」、市民の文化芸術活動の発表の場である「市民ギャラリー」、竹田市の歴史文化を紹介する特別展や企画展が開催される「特別展示室ちくでん館」があります。また、文人田能村竹田の住まいであった国指定史跡「旧竹田荘」も見学できます。(同上)
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〇『蕃山先生頌徳碑』の文字が刻まれた大石碑の光景です。この碑は、たことに因みます。期、岡山藩主・池田光政に仕え、藩改革に功績をあげた陽明学者・熊沢蕃山が、ここ竹田の岡藩主に仕えたことに因みます。岡藩3代目藩主の中川久清は、岡山藩主の池田光政とは又従兄弟に当たることから、岡山藩で活躍した蕃山の手腕に期待を寄せ、豊後の国・竹田に招きました。岡山藩で熊沢蕃山は藩主の信任を得て、番頭となり、陽明学に基づく王道政治を藩内の広め、成果を上げていました。「人は皆天地の子孫なれば、何のいやしきといふ者があらん(夜会記)」という平等原理を反映したやり方に、藩士から非難の声が上がり、竹田滞在は約40日と短かったようです。御用学の朱子学の林羅山の讒言もあったようです。(同上)
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写真は、この場所からの眺望を記した説明パネルです。陽明学者・熊沢蕃山(くまざわ・ばんざん:1619~1691年)の話題に戻ります。京都で浪人だった父と母の間に生まれ、8歳の時、母方の祖父、熊沢守久の養子となり、陽明学は、中江藤樹(1608~1848年)に学びました。正保2年(1645年)、口添えで岡山藩に出仕し、慶安2年(1649年)には藩主の池田光政に随行し江戸に出府しています。(同上)
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熊沢蕃山の紹介が続きます。貞享4年(1687年)、『大学或問』が幕政を批判したとされ、蕃山は69歳の高齢にもかかわらず、幕命により、老中を務めた、松平信之の嫡子である下総国古河藩主・松平忠之に預けられました。しかし、蕃山の治山・治水の技術は古河藩でも頼りにされ、家老や藩士たちを指導することがあったようです。古河市内の関戸には「蕃山溜」と呼ばれる溜池が残されています。(同上)
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古河城で逝去、享年73でした。蕃山の遺骸は忠之により茨城県古河市大堤にある鮭延寺に手厚く葬られました。墓碑銘は当初「息游軒墓」とありましたが、後に「熊沢息游軒伯継墓」と刻まれました。幕末、蕃山の思想は再び脚光を浴びるところとなりました。藤田東湖、山田方谷、吉田松陰などが傾倒し、倒幕の原動力となりました。また、勝海舟は蕃山を評して「儒服を着た英雄」と述べています。(以上)
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〇藤田東湖:蕃山の影響を受けた、幕末の指導者の紹介です。藤田東湖(1806~1855年)は、戸田忠太夫と水戸藩の双璧をなし、徳川斉昭の腹心として水戸の両田と称されました。また、水戸の両田に武田耕雲斎を加え、水戸の三田とも称されます。水戸学の大家として著名ですが、本居宣長の国学を大幅に取り入れ、尊王の絶対化を説きました。安政2年10月2日(1855年)の安政の大地震に遭い死去しました。(同上)
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〇山田方谷:山田方谷(ほうこく:1805~1877年)は、幕末期の儒家・陽明学者で、備中松山藩士でした。3歳で漢字を覚えるなど、幼い頃から神童と呼ばれました。京都遊学もでき、藩政にも大きな成果を残しました。司馬遼太郎は、取材で高梁を訪れた際、「山田方谷は素晴らしい。だが、小説にするには難しい人物だ」「山田方谷は偉すぎる」と述べています。(同上)
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『二の丸跡』のタイトルがあった説明パネルの光景です。二の丸は、北の方向にL字型に張り出した地形と紹介されています。右下の写真が、その形状を表しているようです。左下の写真は、二の丸の右上に位置する『月見櫓』の図面です。二の丸は、風雅な雰囲気も持った一角だったようです。
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『二の丸跡』に建つ、滝廉太郎像です。瀧廉太郎(1879~1903年)は、日本の音楽家、作曲家でした。明治の西洋音楽黎明期における代表的な音楽家の一人とされます。瀧吉弘の長男として東京府芝区南佐久間町(現:東京都港区西新橋2丁目)に生まれました。瀧家は江戸時代に、豊後国日出藩の家老職を代々つとめた上級武士の家柄です。本来は『瀧』の表記ですが、『滝廉太郎』と記されるのが一般的になったようです。早世を惜しまれた天才作曲家でした。(ウィキペディア)
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滝廉太郎像のズームアップ光景です。父・吉弘は、大蔵省から内務省に転じ、大久保利通や伊藤博文らのもとで内務官僚として勤めた後、地方官として神奈川県や富山県富山市、大分県竹田市などを移り住んだため、廉太郎も生後間もなくから各地を回ることになりました。明治23年(1890年)、15歳で東京音楽学校(現:東京藝術大学)に入学、明治31年(1898年)に本科を卒業し、研究科に進みました。廉太郎は、作曲とピアノ演奏でめきめきと才能を伸ばしていきました。(同上)
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滝廉太郎像の頭部のズームアップ光景です。明治34年(1901年)4月、日本人の音楽家では2人目となるヨーロッパ留学生としてドイツ留学しましたが、肺結核を発病し、現地で入院治療しましたが病状は改善せず、帰国を余儀なくされました。彼の代表作である『荒城の月』は、『箱根八里』と並んで文部省編纂の『中学唱歌』に掲載されました。享年25歳(満23歳)でした。(同上)
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『荒城の月』の1~2番の歌詞です。写真は、一人たたずむ廉太郎像です。
1 春高楼の花の宴 めぐる盃かげさして
千代の松が枝わけいでし むかしの光いまいずこ
2 秋陣営の霜の色 鳴きゆく雁の数見せて
植うるつるぎに照りそいし むかしの光いまいずこ -
『荒城の月』の3~4番の歌詞です。
3 いま荒城のよわの月 替わらぬ光たがためぞ
垣に残るはただかづら 松に歌うはただあらし
4 天上影は替わらねど 栄枯は移る世の姿
写さんとてか今もなお 嗚呼荒城のよわの月
『荒城の月』は、土井晩翠作詞・滝廉太郎作曲による歌曲です。哀調をおびたメロディと歌詞が特徴。日本で作曲された初めての西洋音楽の歌曲とされ、日本の歴史的に重要な曲です。(同上)
*写真は、『二ノ丸趾』の文字が刻まれた石標の光景です。 -
『荒城の月』の作詞家の土井晩翠(どい・ばんすい:1872~1952年)についても紹介しておきます。詩人、英文学者。本名、林吉(りんきち)。元々、姓の読みは「つちい」でしたが、昭和初期に改称しました。男性的な漢詩調の詩風で、女性的な詩風の島崎藤村と並んで「藤晩時代」と称されました。瀧廉太郎の作曲で知られる『荒城の月』の作詞者としても知られ、校歌・寮歌なども多く作詞しました。(同上)
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石垣の修復工事中の場所の光景です。背後の石垣『岡城天満神社』の上に見えている建物は、本丸の跡に建っているようでした。この後紹介する、『岡城天満神社』になるようです。写真を撮影しているこの場所は、二の丸のエリアになるのでしょうか、足場を組んで、本格的な補修工事が行われていました。(同上)
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打込み接ぎの石垣のズームアップ光景です。『落とし積み』に見える箇所がいくつもありました。水平は合わせていない、乱積みになるようです。全体に石の大きさが揃っていました。間詰め石はほとんど使われていません。(同上)
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少し高くなった場所から見下ろした、二の丸エリアの光景です。工事用の車両の出入りのため、通路には鉄板が敷き詰められているようでした。西側方面の光景になるようです。それにしても、岡城の石垣の造りは立派です。(同上)
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本丸光景です。本丸は、岡城中心部の最も重要な曲輪であり、中央部には藩主の住まいとなる本丸御殿が建てられていました。今は、隅の方で常緑樹が茂り、小さな社と、掲示板らしいものが見えました。この後、引き続いて紹介します。(同上)
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