2018/12/19 - 2018/12/21
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旅人のくまさんさん
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岡城は、文治元年(1185年)、大野郡緒方荘の武将緒方三郎惟栄(これよし:生没年不詳)が、兄の源頼朝(1147~1199年)と仲違いをしていた源義経(1159~1189年)を迎えるために築城したと伝えられます。惟栄は捕えられ、上野国(こうずけのくに:現群馬県)に流されました。
- 交通手段
- ANAグループ 新幹線 JR特急 JRローカル
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『三の丸跡』のタイトルがあった説明パネルの光景です。『三の丸』には、西側に『太鼓櫓門』、東側に『御門櫓(埋御門)』の2箇所の出入口があったことなどが説明されていました。下部右の図面に『三の丸』の位置、下部左の図面に間取りが紹介されていました。三の丸は、藩主が他藩の使者や家臣と対面する場所だったようです。(岡城・公式サイト)
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イチオシ
三の丸跡から眺めた、高石垣の光景です。本丸の高石垣のようでした。岡城の歴史の紹介です。建武の頃、豊後国守護大友氏の分家で大野荘志賀村南方に住む志賀貞朝は、後醍醐天皇の命令を受け、岡城を修理して北朝と戦ったとされますが、志賀氏の直入郡への進出は、南北朝なかばの応安2年(1369年)から後とする説もあります(豊後国志巻六)。 豊後国志の直入郡の項によれば、その城は『(騎(木)牟礼)の城』でした。のちに志賀氏の居城は岡城に移りました。(づ上)
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同じく、三の丸跡から眺めた、高石垣と、その周りの光景です。高石垣の下には、通路の周りに虎口らしい石垣が見えていました。岡城の歴史紹介の続きです。天正14年(1586年)から翌年の豊薩戦争では、島津の大軍が岡城を襲いました。豊薩合戦地も呼ばれ、天正14年(1586年)から天正15年(1587年)にかけて行なわれた豊後の大友家と薩摩の島津家の戦争です。(同上)
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僅か18歳の志賀親次(親善)は岡城を守り、よく戦って豊臣秀吉から感状を与えられました。岡城が、大野川、稲葉川と玉来川という天然の堀に守られた標高80メートルの堅城という利点もありました。しかし、文禄2年(1593年)、大友義統(1558~1610年)が、慶長の役の鳳山撤退の責めで領地を没収されると、同時に志賀親次(1566~1660年)も岡城を去りました。(同上)
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大きな鏡石が使われた虎口らしい場所の周りの石垣光景です。岡城の歴史紹介が続きます。志賀氏の後には、文禄3年(1594年)2月、播磨国三木城から中川秀成が総勢4千人余で入りました。築城に当たり志賀氏の館を仮の住居とし、戦国時代の城郭を基礎として城郭の整備・城下の町割りなどを行いました。大急ぎでの近代城郭への変身でした。(同上)
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同じく、大きな鏡石が使われた虎口らしい場所の石垣光景です。本丸は、慶長元年(1597年)に完成、寛文3年(1663年)には西の丸御殿が造られ城の中心部分とされていきました。岡城は山城的殿舎、平山城的殿舎(本丸、二の丸、三の丸)、平城的殿舎(西の丸)で構成され、これらが一体となっている近世城郭史上特異な城とされます。(同上)
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『太鼓櫓』の文字が刻まれた石標の光景です。太鼓櫓跡は、西中仕切跡を抜けるとすぐ正面に見えてくる岡城の表玄関の石垣です。岡城中枢部である本丸、二の丸、三の丸への出入口です。太鼓櫓門跡の石垣は、城内では最も大きな石材を使用していて、加工の度合いが極めて高度な『切込み接ぎ』です。(同上)
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石垣の修復工事のための車両通行用に敷かれた厚い鉄板の光景です。岡城では、平成26年(2014年)の台風19号被害で、石垣崩落の危険個所が発生しました。現在の修復工事箇所とは違いますが、二の丸や三の丸へ向かう途中の約200メートル続く石垣のほぼ中央部分でした。幅約9メートル、高さ約4・5メートルに亘り柱状節理の岩盤が崩れました。(同上)
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崩れた岩盤の上に築かれた石垣が崩れ落ちる危険があったため、文化財に詳しい専門家の意見を聴き、文化庁とも話し合って石垣を守るための工法が検討されました。その結果造られたのが、下段が幅8メートル高さ11メートル、上段が幅4メートル高さ4・5メートルのコンクリート基礎でした。その景観を巡って、賛否両論の意見が交わされたようです。(同上)
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『貫木門跡』の文字が刻まれた石標と、その背後の切込み接ぎの石垣の光景です。『貫木』は、『かんぬき』と読むのでしょうか、『門の扉が開かないようにする横木』のことを意味するようです。『閂』の文字も使われます。(同上)
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同じく、『貫木門跡』の文字が刻まれた石標と、その背後の切込み接ぎの石垣の光景です。その石垣の亀甲積の部分に隙間が出来ているのは、伐採された樹木の根の影響のようでした。(同上)
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『貫木門跡』の石段への登り階段の光景です。整備された石段でしたから、上に登ってみることにしました。この辺りの石垣は、岡城の中でも圧巻です。現代人には、少し登り難い、急傾斜の石段でした。(同上)
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イチオシ
『貫木門跡』の石段を登った場所から眺めた光景です。虎口を形成している石垣を上から眺めることができました。石垣の上には櫓が建ち、武装兵が詰めていたでしょうから、中々の難関に見えました。(同上)
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同じく、『貫木門跡』の石段を登った場所から眺めた周囲の光景です。石垣の縁部分に近付くのは、かなり怖そうでした。多分、崖の上から、更に切り立った高石垣のようです。遠くの景色を眺めるだけにしておきました。(同上)
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『貫木門跡』の石段を登った場所から眺めた城内の光景です。石垣の保護と景観保全のためでしょうか、石垣の端の方に、根元から伐採された切り株がありました。かなり大きな大木に育っていたようです。ほっておけば、石垣にも大きな影響が出そうです。(同上)
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同じく、『貫木門跡』の石段を登った場所から眺めた、城跡の周りの樹林の光景です。こちらも石垣の端に近寄るのは遠慮しました。周りに掴まるものが何も見当たりませんでした。早々に石段を下りました。(同上)
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イチオシ
中央、やや右手に見える石標には、『城代屋敷跡』の文字が刻まれていました。通路に近い場所でしたから、往きにも目にしました。城主不在時の代理城主の役割を持つ人が住んだ場所のようですが、家老屋敷跡よりも規模は小さいようでした。(同上)
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『城代屋敷跡』はそのまま通過して、さらに西側方面に向かいました。その途中の通路光景です。往きに目にした、籾(もみ)蔵跡や桜馬場跡等があった場所も既に通過したようです。まるで貸し切りのような、今日の岡城見学です。(同上)
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ここからは、往きに通った道を外れて、通路より右側方面(北側)方面に向かいました。通路の左脇には、整然と積まれた石垣が続いていました。それより低い右脇の石垣には、各所に崩れた痕がありました。大規模な屋敷跡のようです。(同上)
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縄張図を参照しますと、東西に細く伸びた城域の中心部の左右(北部及び南部)は、険しい崖で守られているようでした。その北側の急峻な崖付近の光景です。この辺りは清水谷と呼ばれているようです。(同上)
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同じく、家老屋敷跡の敷地の上から眺めた、北側の急峻な崖地光景の紹介です。滝廉太郎像があった二の丸から東北が『地獄谷』、西北側のこちらが『清水谷』になるようです。(同上)
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『家老屋敷跡』の文字が刻まれた石標の光景です。縄張図には、民部、覚左衛門、但見の三つの家老屋敷跡が記されていました。城代屋敷跡に近い場所ですから、ここは中川但見屋敷跡のようです。(同上)
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整地された、『家老屋敷跡』の光景です。広大な敷地でした。文禄3年(1594年)2月、播磨国三木城から入った中川秀成が、築城の時に仮の住居とした、志賀氏の館があった場所になるようです。天正8年(1584年)、三木城は羽柴(豊臣)秀吉の『三木の干し殺し』により落城、中川秀成は、その後の第9代三木城主でした。(同上)
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中川但見屋敷跡内を通って、西に向かった時の途中の光景です。中川但見屋敷跡の西側には、北から賄方(まかないかた)跡、武具方(ぶぐかた)跡と朱印状蔵跡が縄張図に記されていました。朱印状蔵は、御朱印状などの公式文書の保管場所を指すようです。(同上)
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中央下部の白壁の建物は、観光用に造られたトイレですが、かつての『賄方跡』に建ちます。家老屋敷よりはかなり低くなった場所でした。その手前(南側)に隣接するのが、『武具方跡』です。家老屋敷跡より低く、賄方跡より高い敷地の武具方跡でした。(同上)
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『武具方跡』の敷地から撮影した光景になるようです。右手に見える高石垣は、家老屋敷跡の北側を守る石垣です。『武具(ぶぐ)』は、戦いに使われる道具のうち、主に柄物、弓矢、鎧、兜、甲冑、小手、手甲、具足などを指します。いわゆる武器に含まれるもので、兵器に対して歴史的な呼び名の『武具』です。(同上)
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同じく、『武具方跡』の敷地からの光景です。『武具』の中でも、白兵戦や格闘戦などの戦闘の際に用いられる武器や防具ほか、シンボル的存在の軍旗、軍艦旗や纏、指揮用具である軍配・団扇・采配の他に、火薬容器、馬具等、戦の身の回り品等を含め、武具と呼ばれます。(同上)
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『武具方跡』の文字が刻まれた石標の光景です。『武具庫』と、それを管理する人達が携わった場所のようです。相当な広さがありますから、『武具庫』だけではなかったようです。(同上)
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緩やかな曲線を持った長石垣の光景です。縄張図を参照しますと、『西の丸』の東面の石垣のようでした。曲線ながら、表面が綺麗に揃えられた、『打込み接ぎ』の石垣のようでした。(同上)
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推測ですが、移転した建物跡のような、地面の起伏と区画らしい跡の光景でした。あるいは畑が耕されていたのかも知れません。現在は、国指定の史跡ですから、。立ち退きが行われたのかも知れません。(同上)
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