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信長所縁の瑞雲山・政秀寺の紹介です。お寺の名前は、信長の青年期の養育係だった、平手政秀に因みます。自刃した政秀を弔うために、信長が小牧山の南に建立したお寺が始まりです。

2015秋、信長所縁の瑞雲山・政秀寺(1/2):大雄宝殿、庫裏、庭石、庭木、山門

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2015/09/12 - 2015/09/12

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旅人のくまさん

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信長所縁の瑞雲山・政秀寺の紹介です。お寺の名前は、信長の青年期の養育係だった、平手政秀に因みます。自刃した政秀を弔うために、信長が小牧山の南に建立したお寺が始まりです。

  • 『瑞雲山・政秀寺』の正面出入口の光景です。東西に走る若宮大通に面した北側に位置しています。江戸時代初期の清州越しのお寺の一つです。

    『瑞雲山・政秀寺』の正面出入口の光景です。東西に走る若宮大通に面した北側に位置しています。江戸時代初期の清州越しのお寺の一つです。

  • 『瑞雲山・政秀寺』の文字が刻まれた石碑の光景です。通説では、織田信長が、自分の素行不良を嘆いて諌死した平手政秀の菩堤を弔うため、小牧山の南、政秀の領地小木村に創建し、沢彦和尚を開山としたのが始まりとされるお寺です。

    『瑞雲山・政秀寺』の文字が刻まれた石碑の光景です。通説では、織田信長が、自分の素行不良を嘆いて諌死した平手政秀の菩堤を弔うため、小牧山の南、政秀の領地小木村に創建し、沢彦和尚を開山としたのが始まりとされるお寺です。

  • 正面入口から眺めた、『瑞雲山・政秀寺』の境内光景です。小牧山の南にあったこのお寺は、天正12年(1584年)、秀吉軍と織田信雄・徳川軍が争った、『小牧・長久手の戦い』で焼失しました。その翌年に清須に再興され、慶長15年(1610年)の『清須越し』で現在地に移設されました。

    正面入口から眺めた、『瑞雲山・政秀寺』の境内光景です。小牧山の南にあったこのお寺は、天正12年(1584年)、秀吉軍と織田信雄・徳川軍が争った、『小牧・長久手の戦い』で焼失しました。その翌年に清須に再興され、慶長15年(1610年)の『清須越し』で現在地に移設されました。

  • 立ち入りが制限されていた、別の入口から眺めた本堂の光景です。祀られている平手政秀(1492〜1553年)は、信長の父、あるいはその先代から織田家に仕えていた家老です。若い頃の信長の教育係でした。自刃したのは、信長の父の信秀が亡くなった翌年の天文22年(1553年)でした。この時、信長は号泣したと伝わります。

    立ち入りが制限されていた、別の入口から眺めた本堂の光景です。祀られている平手政秀(1492〜1553年)は、信長の父、あるいはその先代から織田家に仕えていた家老です。若い頃の信長の教育係でした。自刃したのは、信長の父の信秀が亡くなった翌年の天文22年(1553年)でした。この時、信長は号泣したと伝わります。

  • 政秀寺の庫裏らしい建物の玄関光景です。現在は臨済宗妙心寺派のお寺です。この碑は、庭木手入れの職人さん達の姿がありました。

    政秀寺の庫裏らしい建物の玄関光景です。現在は臨済宗妙心寺派のお寺です。この碑は、庭木手入れの職人さん達の姿がありました。

  • 庫裏らしい建物の入口近くにあった、大きな庭石の光景です。火山岩にも見える荒々しい岩肌の庭石でした。

    庫裏らしい建物の入口近くにあった、大きな庭石の光景です。火山岩にも見える荒々しい岩肌の庭石でした。

  • 締め切ってあった門の内側からの光景です。この門が正門らしく、本堂の建物に正対していました。

    締め切ってあった門の内側からの光景です。この門が正門らしく、本堂の建物に正対していました。

  • 『瑞雲山・政秀寺』の境内光景です。禅宗のお寺らしく、武骨な感じがした庭石などです。

    『瑞雲山・政秀寺』の境内光景です。禅宗のお寺らしく、武骨な感じがした庭石などです。

  • 正面から眺めた本堂の大雄宝殿の光景です。庭木の手入れをされている職人さん達の休憩時間でした。閉まっていましたが、本尊は木造十一面観世音菩薩坐像です。

    正面から眺めた本堂の大雄宝殿の光景です。庭木の手入れをされている職人さん達の休憩時間でした。閉まっていましたが、本尊は木造十一面観世音菩薩坐像です。

  • 本堂の扁額のズームアップ光景です。『大雄宝殿』の金文字がありました。末尾に『妙心管長96叟』の落款がありました。

    本堂の扁額のズームアップ光景です。『大雄宝殿』の金文字がありました。末尾に『妙心管長96叟』の落款がありました。

  • 大雄宝殿の石段の上に置かれていた狛犬の光景です。本堂に向かって右側の阿形の雄獅子です。

    大雄宝殿の石段の上に置かれていた狛犬の光景です。本堂に向かって右側の阿形の雄獅子です。

  • 同じく、一対で置かれていた大雄宝殿の左側の狛犬の光景です。吽形の雌獅子です。

    同じく、一対で置かれていた大雄宝殿の左側の狛犬の光景です。吽形の雌獅子です。

  • 本堂前の境内に祀られていた、観世音菩薩像です。少し赤味を帯びた石像でした。

    本堂前の境内に祀られていた、観世音菩薩像です。少し赤味を帯びた石像でした。

  • 手入れが行き届いていた、政秀寺の境内光景です。

    手入れが行き届いていた、政秀寺の境内光景です。

  • 内側から眺めた山門の光景です。新しい造りに見えましたが、格式を感じさせました。

    内側から眺めた山門の光景です。新しい造りに見えましたが、格式を感じさせました。

  • 山門の鬼瓦と軒丸瓦のズームアップ光景です。修復年代は分かりませんが、まだ新しい造りのようでした。軒丸瓦は、三つ巴紋でした。平手政秀は、経済、外交、茶湯、軍事等の広い分野に素養も持った人とされ、その養育の効果は信長公にしっかりと伝授されていたようです。信長の当時の世間の評判の、『うつけ』とは違った面です。

    山門の鬼瓦と軒丸瓦のズームアップ光景です。修復年代は分かりませんが、まだ新しい造りのようでした。軒丸瓦は、三つ巴紋でした。平手政秀は、経済、外交、茶湯、軍事等の広い分野に素養も持った人とされ、その養育の効果は信長公にしっかりと伝授されていたようです。信長の当時の世間の評判の、『うつけ』とは違った面です。

  • 山門の柱の下部光景です。外観上は伝統を踏まえた造りでした。平手政秀の話題に戻ります。尾張国春日井郡にあった志賀城の城主であり、信長の誕生以来の傅役でした。おもな業績等の年表を年代順に紹介しておきます。<br />☆明応元年(1492年):誕生<br />☆享禄3年(1530年):織田信秀の家老<br />☆天文2年(1533年):公家の山科言継が政秀宅に宿泊、人物と屋敷を称賛<br />☆天文3年(1534年):信長誕生、信長の家老<br />☆天文9年(1540年):伊勢神宮外宮造営のための寄進に尽力<br />☆天文12年(1543年):皇居修理の4千貫文寄進の信秀の名代<br />☆天文18年(1549年):信長と斉藤道三の娘の農姫の婚姻に尽力<br />☆天文21年(1552年):信秀死去、信長相続<br />☆天文22年(1553年):自刃<br />

    山門の柱の下部光景です。外観上は伝統を踏まえた造りでした。平手政秀の話題に戻ります。尾張国春日井郡にあった志賀城の城主であり、信長の誕生以来の傅役でした。おもな業績等の年表を年代順に紹介しておきます。
    ☆明応元年(1492年):誕生
    ☆享禄3年(1530年):織田信秀の家老
    ☆天文2年(1533年):公家の山科言継が政秀宅に宿泊、人物と屋敷を称賛
    ☆天文3年(1534年):信長誕生、信長の家老
    ☆天文9年(1540年):伊勢神宮外宮造営のための寄進に尽力
    ☆天文12年(1543年):皇居修理の4千貫文寄進の信秀の名代
    ☆天文18年(1549年):信長と斉藤道三の娘の農姫の婚姻に尽力
    ☆天文21年(1552年):信秀死去、信長相続
    ☆天文22年(1553年):自刃

  • 頑丈に造られた木製の山門の扉の光景です。平手政秀は、和歌・茶湯に長じるインテリで、経済や外交にも明るい万能的な教養人でした。皇室との交渉役を果たしていることから人脈と作法の知識もあったようです。尾張の守護代の重臣の家臣の身分にしては、稀有なスキルを持った人のようです。

    頑丈に造られた木製の山門の扉の光景です。平手政秀は、和歌・茶湯に長じるインテリで、経済や外交にも明るい万能的な教養人でした。皇室との交渉役を果たしていることから人脈と作法の知識もあったようです。尾張の守護代の重臣の家臣の身分にしては、稀有なスキルを持った人のようです。

  • 山門の付近から眺めた本堂の大雄宝殿の光景です。平手政秀の墓は、かつてこのお寺にありましたが、現在は名古屋市東部の平和公園内の政秀寺墓地に移されています。

    山門の付近から眺めた本堂の大雄宝殿の光景です。平手政秀の墓は、かつてこのお寺にありましたが、現在は名古屋市東部の平和公園内の政秀寺墓地に移されています。

  • 庭石と、庭木の光景です。ツワブキやトクサをはじめ、各種の植物も植え込まれていました。

    庭石と、庭木の光景です。ツワブキやトクサをはじめ、各種の植物も植え込まれていました。

  • 庫裏らしい建物の光景です。妙心寺派は、臨済宗最大の宗派で、末寺は3400とも言われます。1337年、関山慧玄により始まりました。

    庫裏らしい建物の光景です。妙心寺派は、臨済宗最大の宗派で、末寺は3400とも言われます。1337年、関山慧玄により始まりました。

  • 瑞々しいツワブキ(石蕗、艶蕗)の葉の光景です。キク科ツワブキ属の多年草です。黄色の花を咲かせる花期は10〜11月です。

    瑞々しいツワブキ(石蕗、艶蕗)の葉の光景です。キク科ツワブキ属の多年草です。黄色の花を咲かせる花期は10〜11月です。

  • センリョウ(千両)か、マンリョウ(万両)です。緑の実が付いていました。寒くなると赤く熟れてきます。

    センリョウ(千両)か、マンリョウ(万両)です。緑の実が付いていました。寒くなると赤く熟れてきます。

  • 庭木の光景です。カエデ(楓)の古木のようでした。山門の西側にありました。

    庭木の光景です。カエデ(楓)の古木のようでした。山門の西側にありました。

  • お寺では付き物の植物、ソテツ(蘇鉄)です。裸子植物ソテツ科の常緑低木です。食料が乏しい時の救飢食として利用されているようです。

    お寺では付き物の植物、ソテツ(蘇鉄)です。裸子植物ソテツ科の常緑低木です。食料が乏しい時の救飢食として利用されているようです。

  • 庭石の光景です。詳しいことは分かりませんでしたが、中々貴重な石も使われているようでした。

    庭石の光景です。詳しいことは分かりませんでしたが、中々貴重な石も使われているようでした。

  • 同じく、庭石の光景です。池などの水は使われていませんでしたから、枯山水の範疇のようです。

    同じく、庭石の光景です。池などの水は使われていませんでしたから、枯山水の範疇のようです。

  • 隅の方には、使われなくなった七重塔らしい残材などが固唾けられていました。蹲なども余った品のようです。水を抜いておかないと、ボウフラが湧きそうです。

    隅の方には、使われなくなった七重塔らしい残材などが固唾けられていました。蹲なども余った品のようです。水を抜いておかないと、ボウフラが湧きそうです。

  • フイリヤブラン(斑入り藪蘭)の紫色の花です。ラン科ではなく、ユリ科の常緑多年草です。

    フイリヤブラン(斑入り藪蘭)の紫色の花です。ラン科ではなく、ユリ科の常緑多年草です。

  • 一輪だけ咲いていたムクゲ(槿、木槿)のピンク色の花です。フヨウ(芙蓉)によく似た、アオイ科フヨウ属の落葉樹です。

    一輪だけ咲いていたムクゲ(槿、木槿)のピンク色の花です。フヨウ(芙蓉)によく似た、アオイ科フヨウ属の落葉樹です。

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