2015/08/23 - 2015/08/23
2282位(同エリア10319件中)
kojikojiさん
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- 旅行記1755冊
- クチコミ1205件
- Q&A回答73件
- 3,458,092アクセス
- フォロワー169人
念願の「大英博物館」にやってきました。ロンドへ来たら一度はここへ来たいと思っていながら何年たったのでしょうか。本当は開館と同時に入って夕方までここにいる予定でしたが、バッキンガム宮殿の衛兵交代式で半日潰れてしまったのが痛かったです。更に日曜日という事もあって凄い混雑でした。これではまともに見学出来ないし、時間も少ないので有名な収蔵品だけを見学することに変更しました。その途中に良いものがあれば見る程度です。それでも3時間くらいはかかったと思います。感想としては平日の朝一番に来て1日掛けて2日ほど時間を撮ってもう一度見たいという事です。それと今までにいろいろなテレビ番組で繰り返しこの博物館を見ていたので、「ヴィクトリア&アルバート博物館」で感じた様な新鮮な感動はありませんでした。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 4.5
- グルメ
- 4.5
- ショッピング
- 4.5
- 交通
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 20万円 - 25万円
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 船 タクシー 徒歩 飛行機
- 航空会社
- エティハド航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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バス停から歩いて10分くらいで「大英博物館」に到着しました。小雨がパラパラしていましたが、博物館の中は傘は必要ないので天気は関係ありません。
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まずはグレートコートに入りました。荷物のチェックも何も無く気が抜けるほどです。妻がお腹が空いたというので、まずはサンドイッチと飲み物を買って暫し休憩します。
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展示室1の国王の図書館はジョージ3世によって作られて、彼の息子ジョージ4世王によって国に寄贈されたそうです。
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図書館が寄付されたとき大英博物館建設に十分なスペースではなく、今日の中庭ビルディングの建設が必要となり建築家R・スマークによって設計されました。1997年に蔵書は新しい英国図書館が建設されて移されます。この 国王の図書館に納められている本は下院図書館から長期貸与されたものです。
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ここにはロゼッタ・ストーンのレプリカが置かれています。
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見ても触っても意味も分かりませんが。
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「ピラネージの花瓶」
イタリアの建築家と彫刻師ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージはグランド・ツアーの観光客を見込んで古代遺物の修復と販売を始めました。 イギリスのディーラー・ギャビン・ハミルトンと一緒の業務ではローマ市の近くのティヴォリの皇帝ハドリアヌスの別荘近くで見つかるたくさんの古代の遺物を得ました。 彼はこれらの断片を元に、非常に装飾的な模倣作品を制作しました。ピラネージの花瓶はスコットランドの貿易商ジョン・ボイドによってローマで購入されました。 -
ヴィクトリア&アルバートにあったようなレプリカがトイレの前に置かれてありました。出来栄えは本物と見まごうばかりです。コパン遺跡で発見されたものを19世紀に写したものです。
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その先の27室は現在のメキシコからの遺物が展示してあります。16世紀のヨーロッパとの接触まで特徴的な地域の文化は、先史時代からメキシコ周辺で全盛を迎えます。
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「ワステカ族の女神の彫刻」
メキシコ(西暦900-1521年)
豊かさはワステカ芸術の繰り返されて表現されるテーマです。女性の人物像は類似した特徴(腹の上に合された手や裸の胸)を共有して、スカートと大きな頭飾りを被っています。 この彫刻の上で示されるように、頭飾りは通常扇形の頂上で円錐状の帽子と長方形の飾りから成ります。 -
「ケツァルコアトルのモーセのマスク」
アステカ人はメキシコの谷に住みついて、1345年に首都テノチティトランを起こしました。 16世紀の初めにそれは世界最大の都市のひとつでした。戦争は彼らにとってとても重要で、南メキシコまで征服しました。 工芸品の大部分はスペイン侵略軍によって破壊されましたが、大映博物館にはいくつかの青緑色のモザイクが収蔵されました。 -
「青緑色のモザイクの双頭の蛇」
メキシコ(西暦15?16世紀)
アステカ人芸術の象徴です。胸の装飾として、冠婚葬祭に着けられていたでしょう。それは木に彫られた後に青緑色のモザイクでおおわれています。蛇のイメージは中央アメリカの宗教的な図像だそうです。トゲが多いカキ殻が蛇の頭の両方の鼻と口の回りに明るい赤の部分に使われ、巻貝が白い歯のために使われました。おそらく眼窩は黄鉄鉱と蜜蝋で埋まっていただろうと考えられます。 -
「テスカトリポカのマスク」
ミステク(西暦15?16世紀)
テスカトリポカを表したと考えられる人間の頭蓋骨を基材にした黒曜石と翡翠のモザイクのマスクです。マスクは1400年から1521年の間に製作されたと見られ、メキシコで発見され、1860年代にヘンリー・クリスティによって大英博物館に寄付されます。モザイクのはめ石はターコイズと亜炭で作られ、その目は貝のリングと黄鉄鉱でできている。それらは30歳代と見られる人間の頭蓋骨の上に直接貼り込まれています。歯は頭蓋骨そのままのものですが上前歯4本が無くなっています。頭蓋骨の後ろの部分は切断され革が張られています。頭蓋骨と顎の部分は革でつながれており動かすことができるそうです。 -
中国の雲南省の香格裏拉で角のある羊の頭蓋骨に金や銀で装飾したものを買ったことがあります。北アメリカや中央アメリカに住む人も元々はユーラシア大陸から渡ったと聞いたことがありますが、同じような文化が発展したのでしょうか。
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「祖先の葬式の壷」
サポテク族(紀元前2世紀から9世紀) -
ヤシュチランの楯17
マヤ(西暦600-900年)
メキシコとグアテマラの国境を流れるウスマシンタ川の川沿いにあるヤシュチランは美しいリンテルで有名な遺跡だそうです。 -
ヤシュチラン楯15
マヤ(西暦600-900年)
マヤ寺院からヘビまぼろし
大英博物館の英文の説明が非常に難しいのとマヤ文明やヤシュチュランについての知識が無いので深い意味は分かりません。ただ先祖の霊と交信しているのでしょうか全く初めて触れたレリーフに感銘を受けました。 -
「Hoa Hakananai'a」
イースター島やポリネシアの島々では西暦1000年から石像の制作で有名です。モアイ像として知られています。 Hakananai'aは「盗まれたか隠れた友人」を意味するそうです。西暦1000年頃から17世紀の後半まで作られました。キャプテン・クックが1774年にイースター島を訪問したとき、同行した画家のウィリアム・ホッジスはいくつかのモアイ像の油絵を製作しました。その後1860年代のキリスト教の布教によりモアイは倒されました。この像は1868年にイースター島へ行ったリチャード・アシュモア・パウエルの指揮下のイギリスの船HMSトパーズ号のクルーによって集められました。島民はクルーが像を動かすのを手伝いました。およそ4トンの重さの像をビーチの方へ移動してから、いかだでトパーズ号に移されました。像は当初赤と白で塗られましたが、顔料は海で剥離してしまいました。 そんな経緯で「盗まれたか隠れた友人」と呼ばれたのでしょう。 もう1つの小さい玄武岩像もありモアイ・ハヴァと呼ばれます。今年はブリュッセルのサンカントネール博物館でもモアイ像を見ることが出来たのでモアイの当たり年です。 -
「タラの像」
スリランカで鋳造された西暦700-750年の間の像です。
この像は仏教女神タラで同情の菩薩だそうです。仏教はおよそ紀元前3世紀にスリランカに伝来しています。スリランカは上座部仏教徒国(ビルマ、タイとカンボジアのような)ですが、他のスリランカの菩薩は大乗仏教仏教的です。この仏像は現在では失われたワックス技法を使用している図形的青銅鋳造物のすばらしい例です。 頭飾りの空洞の炎のような囲いは、おそらくかつて宝石でちりばめていました。 女神は下の衣服が足首へと流れて、ウエストは強調されています。 -
スリランカの北東部で発見されたこの仏像は当時のセイロン総督だった英国人ロバート・ブラウンリッグによって1812年頃に持ち出されます。その後彼は大英博物館にこの仏像を寄贈します。本家スリランカのコロンボ国立博物館にはこの仏像のコピーが展示されています。この当時スリランカの旅も計画中でしたが、この像に先に会えるとは思いませんでした。
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仏像と呼ぶには官能的な後ろ姿です。そしてコロンボでこの像のレプリカと再会することが出来ました。
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「仏陀の乾漆座像」
ラングーン(ビルマ)
現在のミャンマーのヤンゴンで造られた18世紀または19世紀の仏像です。仏教は5世紀にビルマに伝来していました。仏陀の座像は寺院での崇拝のために石や金属や木と漆で作られました。像の右手の指先にミロバランと呼ばれる果物があります。 伝説では仏陀が悟りを開いた際にインドラ神からこの果物を受け取ったとされます。ミロバランを持っている仏陀の像はミャンマー以外では珍しい形です。 -
この仏像を見ていたら昨年秋のミャンマー旅行を思い出しました。特にインレー湖のガベチャウン寺院という水上寺院で拝んだ子供のようなあどけない表情の仏像を思い出しました。どの旅も同じですがミャンマーの旅も素晴らしかったのでロンドンに居ながらインレー湖の心を飛ばせます。偶然ですが今回のエディハド航空の航路ではインレー湖上空を飛んで来ました。
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木製の台座はオリジナルは失われていたので、代わりに1995年にマンダレーの博物館のそばで製作されたそうです。隣のカラウェイという鳥の付いた器は昨年の春の旅でシンガポールのアジア文明博物館で見たものと同じクオリティです。
インレー湖:http://4travel.jp/travelogue/10943515 -
「交趾釉を施された道教の像」
明時代(16世紀) -
「笑っている布袋石像」
明時代の河南省(西暦1486年)
太って微笑んでいる修道士布袋は中国の仏教の人気の人物です。彼の人格はいくつかの中国の伝説が伝わります。また彼は将来の仏陀である弥勒菩薩の化身と考えられています。杭州郊外の霊印寺の境内にある飛来峰の石窟の像が有名です。 -
「キリストの茨の冠の聖遺物箱」
1390年代にパリで製作されたそうです。そしてフェルディナンド・デ・ロスチャイルドによって1898年に大英博物館に納められました。金をベースに宝石と真珠を惜しげなく飾り、特殊なエナメル細工の技術を使用しています。聖遺物箱は少なくとも16世紀から19世紀のハプスブルク・コレクションの中にありました。 -
フェルディナンド・ロスチャイルド男爵の遺贈物の部屋は半端な物はありません。彼の父から受け継がれるコレクションを拡大して、フェルディナンド男爵は彼の生涯の間に中世およびルネッサンス芸術を購入しました。コレクションは16世紀にドイツやオーストリアで王子と統治者によって作られる上品なコレクションに倣ったそうです。
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海馬に乗る女性の金と宝石ペンダントにエナメルをかぶせました。海馬が左を向いているとき宝石の正面が見られるようになっています。 これは非常に美しく後で博物館のポスターになっているのを知りました。
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ロスチャイルド家のお宝凄いです。
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マヨルカ陶器もそこらの博物館や美術館で観る物とはクオリティが違います。ロワールの城で見たフランス国王のコレクションよりもすごいです。
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「ヨハネの黙示録の女性」
銅製のプレートにエナメル
この部屋で一番気になったのがこのエナメルのプレートでした。見た瞬間の思ったのがデューラーのヨハネの黙示録を題材とした版画でした。1570年代におそらくリモージュで製作されたものです。
「なぜ驚くのか。わたしは、この女の秘められた意味と、女を乗せた獣、7つの頭と10本の角がある獣の秘められた意味とを知らせよう。」 とヨハネ黙示録にありますが、大淫婦バビロンはユハネの黙示録のアレゴリーでもあります。 -
世の東西を問わずこのような彫刻には黄楊材が使われるのですね。しかしこの彫刻の超絶技巧にも驚かされました。分割して作られているようですが僅かばかりの厚みの中にゴルゴダの丘が立体的に彫られています。
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ガラスに映った若い女性の視線の先が気になります。
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携帯用のケースの中にもピエタが克明に彫られています。
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一昔前のバリ島だったらこんな彫刻があったかもしれません。最近の木彫の質はかなり落ちていますが、20年近く前に良い物を買っておいて良かったと思います。
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一体どれだけの金と金糸と真珠と宝石を使っているのでしょう。
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このロスチャイルドコレクションの中で一番欲しいと思ったのはこれです。ハルシオン・デイズもこんなのを作ってくれると良いのですが。
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一度グレートコートに戻ってきましたここからエジプトの彫刻のある4号室へ進みます。有名なライオン像がありました。しかし人が多くて思うように見学できません。
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「ロゼッタ・ストーン」
エジプトのプトレマイオス朝(紀元前196年)
ロゼッタ・ストーンの内容や由来はネット検索で調べられますが、大英博物館のHP上の話で面白かったのは第1次世界大戦の終了の頃の1917年のロンドンの空襲時に避難した話です。他の重要な収蔵品と共に博物館近くの地下鉄のホルボーン駅の地下50フィートの場所に2年間保管されたそうです。 -
ロゼッタ・ストーンの裏側です。側面も良く見たかったのですが、何度近くを通っても凄い人でした。この第4室からエジプト文明の展示が始まります。ここでエジプト美術を見たことで真剣にエジプト旅行を考えるようになりました。
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「アメンホテプ3世の石灰岩胸像」
テーベ出土
およそ紀元前1350年前の第18王朝第9代のファラオです。トトメス1世やトトメス2世の時代を経て絶頂に達した王国を継承し、在位期間も40年近くに及びます。アメン神を崇敬しテーベにカルナックのアメン神殿と直結する分神殿となるルクソール神殿を建設しています。同地に広大な自身の葬祭殿も建設し、この像もそこから発見された物のようです。 -
「セクメトの花崗岩像」
テーベ出土
紀元前1350年前、第18王朝
ラーの片目から生まれライオンの頭を持つ女神です。プタハの妻であり子供にはネフェルトゥムがいます。同じ獅子頭の女神であるバステトやテフヌトと同一視されることもあり、レトポリスやメンフィスで信仰されていました。復讐者であり王の守護神とされ、破壊を司る女神です。 -
「セクメトの黒い花崗岩像」
カルナック、テーベ出土
第18の王朝、およそ紀元前1360年
セクメトとは「強力な女」という意味だそうです。アメンホテプ3世は特にセクメトを崇拝し尊び、730の像があったとも言われています。破壊を司る女神を静めることを目的とする儀式に使われたのかもしれません。 これらの像の600が残され、そのうちは大英博物館は20以上収蔵しています。女神像の中には頭の上部に太陽が載っています。そして彼女は手には声明を意味するアンクを持っています。また笏を持つ姿の像もあります。 -
「アメンホテプ3世の花崗岩頭部」
カルナック出土
エジプトのファラオの像は後の統治者によって奪われることもありました。 通常の手順は単に古いものの上に自分の名前を刻むことでした。しかし場合によっては身体の特徴も変えられました。ラムセス2世はこのようにアメンホテプ3世のいくつかの像を作り変えたようです。 ラムセス2世は彫像の特徴的な厚い唇をより薄く変え、 アメンホテプ像の太った腹部も削ったりもしています。 -
「トトメス3世の花崗岩立像」
エジプト第18王朝6代のファラオで、即位名はメンケペルラーです。意味は「ラー神の顕現は永続なり」です。幼くして父王が亡くなったため継母ハトシェプストが即位したので、ハトシェプストの補佐という形でしか政治を行えず、大半の時間を軍隊ですごしたそうです。後年は周辺諸国に遠征して国威を回復しエジプト史上最大の帝国を築いた王です。首が折られ顎のつけ髭が取れていますが、かえって人間らしい表情が読み取れて親しみを感じます。 -
「プラハシェプスの石灰岩の扉」
サッカラ(エジプト)から
第5の王朝、およそ紀元前2380年
メンフィス周辺の実力者の墓の標準的な装飾だったそうです。プラハシェプスはプタハの第一人者だった上に長寿で90歳まで生きたそうです。 -
1つ1つじっくり見ていきたい気持ちと裏腹に無情にも時間がだんだん無くなってきます。前日にバッキンガム宮殿の衛兵交代があると思って間違えた3時間くらいのロスがここにきて痛手になってきました。
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「ネンケフカの彩色石灰岩像」
デシャシャ遺跡出土
第5の王朝、およそ紀元前2400年
古王朝の頂点の時代の地方の有力者の像で、この像はダシャシャ遺跡のネンケフカの墓から出土しました。このような独立した像は古王朝時代の墓の特徴で亡くなった人を記憶するためのものでした。顔や髪形が色鮮やかに残されたエジプト彫刻の傑作とされるものです。 -
「アメンホテプ3世の赤花崗岩ライオン」
第18王朝 紀元前1370年スーダンのソレブから出土です。 -
ファラオは自分をライオンとして描写することによって王の力を誇示しています。
ライオンの体を持ったスフィンクスとして表現されることはありましたが、完全なライオンの姿をするものは珍しいです。胸(アメンホテップ3世によって加えられる)の銘は「統治者のライオン」と書かれてあります。当初あった象嵌の目は失われています。 -
イチオシ
「ネクタネボ1世のスクリーン」
第30王朝のファラオで在位中はアテナイやスパルタから援軍を受けてペルシアの再征服から王国を守ることに専念していました。18年という長く安定した政権を通じて、無数の記念碑や神殿を建立した偉大な建築者としても名を残しています。薄彫りの人物像に仏教的な雰囲気を感じました。 -
「若きメムノン像」
ラムセウムから出土したものです。
ラムセス2世は古王朝第19代のファラオで、父セティ1世の次男として出生しています。父の跡を継いで即位し紀元前1279年から紀元前1213年までの約67年間という長期間在位しています。胸像の右胸のところにある穴はナポレオン・ボナパルトの軍が掘り起こそうとしてつけた穴と言われています。 -
「ゲイヤー・アンダーソンの猫」
サッカラ出土
紀元前600年以降
女神バステトの化身
猫は古代エジプト人が初めて家畜化した動物と言われており、エジプト先王朝時代の遺跡の墓より猫の骨が発見されていることから、紀元前4000年紀後半には家畜化されていたと考えられています。金のイアリンクと鼻にもリングを付けています。首にはホルス神の目が描かれた銀の魔よけがついています。多分目の部分にも貴石で出来た目が入っていたのでしょう。非常にお洒落な女性のような姿です。 -
イチオシ
ゲイヤー・アンダーソンとはこの猫の像を寄進した人の名前です。英国軍医で美術収集家であったジョン・ゲイヤー・アンダーソン少佐により設立された博物館がカイロにあり、いつか行って見たいと思っていますがなかなか叶いません。
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「スカラベの閃緑岩彫刻」
イスタンブール出土
プトレマイオス王朝 紀元前332-30年
スカラベ(フンコロガシ)は古代エジプトで再生を司るといわれ、昇る太陽の永続性のシンボルです。転がす糞が太陽とみなされました。 この閃緑岩で出来た彫刻は長さ1.5メートルで現存する最大の彫刻の1つです。おそらく当初は神殿に立っていたと思われます。それはプトレマイオス朝時代のコンスタンチノープルが後の東ローマ帝国の首都であったときと思われます もう1つの大きなスカラベがカルナックの神殿の神聖な湖の近くにあります。当初アメンホテプ1世の葬祭神殿にありました。 -
イスタンブールのサルタン・アフメットの周辺にはテオドシウス1世がエジプトからルクソールのカルナック神殿にあったオベリスクを取り寄せてヒッポドロームのトラックの内側にそれを建てさせていますし、10世紀の皇帝コンスタンティノス1世はもうひとつのオベリスクを競馬場の反対側の端に建てています。
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「ヌビア遺跡のプトレマイオスの花崗岩のナオ」
フィエラ神殿から
プトレマイオ1世の統治時代に造られたフィエラ神殿の一部で、コプト教会で再利用されているのを発見されました。この例はフィエラ島のコプト教会でいろいろなブロックを再利用して見つかりました。新アスワン・ダムの建設後、水没を避けるために移設されました。このナオがどの神殿から来たかは明らかでありませんが、イシス神を祭る神殿だったと考えられています。 -
「シルト岩の彫られた王の頭部」
第26から30代王朝(紀元前600-340年)
緑のシルト岩の頭部は後期の期間のプトレマイオス朝の彫刻に特有の穏やかさを持っています。そして第26王朝のイアフメス2世または第30王朝のナクトネブエフ1世の頭部と思われます。 非常に滑らかに磨かれた石は後の彫刻にも特有です。
おそらくローマの期間に若干の修理は行われています。 -
「タハルカ王を守る羊の形のアメン神の花崗岩像」
スーダンのカワ神殿出土
第25王朝(紀元前690-664年)
タハルカはヌビアの第25王朝の最後の主要なファラオでした。彼がアシュルベニパル王によって導かれ、紀元前663年にテーベを略奪したアッシリアの軍を逃れるためにエジプトからヌビアへ避難します。このスフィンクスはタルハカが建設したヌビアのカワの神殿から来ました。
羊はアメン神の化身の1つで、この像はタハルカ王を守ることを表しています。そして王は前足の間に立っています。神殿の西の参道で発見された1つはハルツームの国立博物館に、1つは大英博物館に収蔵されています。カルナック神殿にも羊の頭のスフィンクスを見ることが出来ます。 -
「花崗閃緑岩に彫られたアメンヘテプ3世の像」
テーベの葬祭神殿出土
第18王朝アメンヘテプ3世はテーベのナイル川西岸で自らの葬祭神殿のために何百もの彫刻を造らせますが、そのほとんどの正確な最初の位置はわかっていません。この彫刻の王座の側に上エジプトと下エジプトを統治する王である分かるシンボルが彫られてあります。銘が後頭部にもあり、それは名前に反対するためかアメンの名前が削られています。これは後継者のアメンヘテフ?王によるものと考えられます。アメンヘテプ3世の葬祭神殿の像の多くは現在は大英博物館にあります。 -
イチオシ
「アッシリアのバラワット門の有翼人面牡牛像」
4年前にパリのルーブル美術館で観て以来の古代アッシリアの彫像やレリーフが並んでいます。このジャンルでは明らかに大英博物館の方が数段上です。もともと宗主国という事もあるでしょう。この像は戦争の女神イシュタルを祭る寺院の入り口に建っていました。 -
キャプションを訳すと「鷲の頭を持つ魂の守護者」といった意味でしょうか。
紀元前865年-860年のアッシリアのレリーフです。ニムルドのニヌルタ神殿からの出土品です。エドワード1世から寄贈されたとあります。まるで目の前にいる神をそのまま映す取ったような迷いの無い彫の精度に驚かされます。 -
「魂の守護者」
ニムルドの北西宮殿出土。
ボンベイのプリンス・オブ・ウェールズ博物館とイラクから持ってこられたそうです。 -
「有翼人面獅子像」一見同じ彫刻のようですが脚部が獅子の爪を持ったものと牡牛の蹄をもったものがあります。
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こちらは脚が獅子の爪を持ったもので、正面から見ると前脚は2本ですが。横から見ると歩いているように見せるためのもう1本増えて5本あります。
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「アッシリアのライオン像」
ニムルド遺跡(古代カルフ)北イラク出土。
アッシリア(紀元前883-859年)
イシュタル神殿への入口の守護獣
この巨大なライオン像は女神イシュタルに奉納される小さい神殿の入口の側面に置かれている一対の彫刻でした。この神殿は1849年にヘンリー・レーヤードによって発掘されました。神殿の扉のそばのライオンの彫像を置くことはメソポタミアでの古代からの習慣でした。 実際のライオンはこの地域に一般的で19世紀までこの地域に生息していました。5本目の足は歩いているようにも正面から見られることができる芸術的な慣例です。ライオンは楔形文字の献辞でおおわれています。 -
「ティグラト・ピレセル王の中央宮殿からのレリーフ」
ニムルド遺跡(古代カルフ)北イラク出土。
アッシリア(紀元前730-727年)
この雪花石膏のレリーフはカルフのティグラト・ピレセル王の宮殿の装飾の一部でした。アッシリアの兵士が守備を固めた都市から囚人の群れを追い払う間、王は彼の二輪戦車に乗っています。上部に書かれた楔形文字は彼の建造物と軍の業績ですが、レリーフの場面とは直接関係はありません。 -
エジプト文明の彫刻も素晴らしかったですが、見慣れていることもありこのアッシリアの彫刻やレリーフには新鮮な驚きと感動を覚えました。妻もこの一連の部屋には興味を持っていました。
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「アッシュールナツィルパル王の北西宮殿の有翼人面獅子像」
ニムルド遺跡(古代カルフ)北イラク出土。
アッシリア(紀元前883-859年)
これはアッシュールナツィルパル王の謁見の間の入口の一対のレリーフです。 石の神話の保護者は古代のメソポタミアの宮殿への出入口にしばしば置かれました。そして悪魔的な力から保護する役目がありました。それはどんな悪に対してでも前方に大股で歩いているように見えます。1845年から1851年にアッシリアにいたオースティン・ヘンリー・レーヤードによって発掘されました。 その完成度の高さと保存状態の良さには驚かされます。 -
「アッシュールナツィルパル王の側面に立つ鷲の頭を持つ魂の守護者」
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「アッシュールナツィルパル王の北西宮殿のレリーフ」
ニムルド遺跡(古代カルフ)北イラク出土。
アッシリア(紀元前883-859年)
アッシュールナツィルパル王の謁見の間への入室を彼の宮殿を守りました。 魔法を使用して建物の入口を保護する伝統はメソポタミアで非常に古からありました。超自然的な生きもののイメージを置き、悪意のあるデーモンを脅して追い払います。翼を持った男性の像はアプアル・ルと呼ばれる超自然的なもので、鹿と枝を持っています。口ひげと長い髪をカールさせて房のついたキルトとフリンジ付きで刺繍されたローブを着ています。 -
「サルゴン王の宮殿有翼人面牡牛像」
コルサバット 北イラク
アッシリア(紀元前710-705年)
大映博物館で最も重い物のひとつです。
一対の有翼人面牡牛像はサルゴン王の砦への入口を守った不思議な像です。在位の後半にサルゴンは自分自身の新しい首都を作りました。そして彼はドゥル・サルキン(サルゴンの要塞)と呼びました。 -
1842年から1844年にフランスの考古学者P・ボッタによって発見されました。
発掘を終えた時にあまりに重かったので、彼らは雄牛の一対を置いていきました。1849年にヘンリー・ローリンソンはフランスの領事から像を買いとって、およそ16トンの雪花石を分割してこの問題を解決しました。 -
「サルゴン王の宮殿有翼人面牡牛像」の後ろに立つ男。元々1つの岩だったものを分割した跡があります。本来であればその場所に置いておくことが良いのでしょうが、中東の政治情勢を考えれば大英博物館に収蔵されるのは仕方ないとも思いますが、この周辺国の宗主国だった責任も大きいと思います。
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射手の統制のとられた姿とうろこ状の模様は木々を表すのでしょうか。
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「ラチッシュの攻撃」
戦争の場面は簡単なレリーフでも残酷なイメージは伝わってきます。射手や略奪品を運ぶ兵隊、捕虜を串刺しにしている場面も見て取れます。 -
「アッシリアの投てき手」
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「王の獅子狩り」
アッシリア(紀元前645年〜635年)
ニネヴェ 北宮殿出土。 -
「王の獅子狩り」
アッシリア(紀元前645年〜635年)
ニネヴェ 北宮殿出土。 -
「王の獅子狩り」
アッシリア(紀元前645年〜635年)
ニネヴェ 北宮殿出土。 -
「アッシュールナツィルパル王の謁見の間のレリーフ」
ニムルド遺跡(古代カルフ)北イラク出土。
このレリーフは当初は王座の後に置かれました。
アッシュールナツィルパル王は2回レリーフに現れます。儀式のローブを着て王の権限を象徴している棍棒を持っている姿と翼のある神を崇拝する姿です。王の力の源である神はアッシュール神またはシャマシュ(太陽と正義の神)である場合があります。 -
「キタラーを持つアポロンの大理石像」
紀元前200年-150年に造られたヘレニズムのオリジナルを紀元200年頃に写したローマ時代のコピーです。キタラーとは竪琴の事です。ここからギリシャ時代に繋がる展示が始まります。 -
「タナグラス」
ヘレニズム時代のテラコッタ像です。その当時の服飾文化や彩色からいろいろなことが分かります。 -
イチオシ
「モロシアン・ハウンド」
絶滅した古代南ヨーロッパの犬です。 -
ジェニングズ犬として知られるのギリシア彫刻のローマ時代のコピーはここに収蔵されています。絶滅した犬の姿が大理石像だけで残っているってすごいことですね。
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「ヒュプノスのブロンズの頭部」
ヘーシオドスの「神統記」に書かれたヒュプノスはニュクスの息子でその兄弟にはタナトスやモロスなどの「死」を意味する神々がいます。また夢(オネイロス)がヒュプノスの兄弟でもあります。ヒュプノスは眠りを司る神です。フェルナン・クノップスの「青い翼」に描かれる像もこのヒュノプスです。 -
「ハルカリナソスの霊廟からのヘラクレスによるアマゾネス戦記のレリーフ」
ギリシア(紀元前350年)
ボドルム(トルコの地中海沿岸の城塞都市)の城壁にあったヘラクレスとアマゾネスの戦いの場面です。 -
数十メートルに渡って戦いの場面が描かれています。アッシリアのレリーフに比べると彫も深く表現できることも格段に増えています。
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「ハルカリナッソスの霊廟の馬の彫刻」
ギリシア(紀元前350年)
ボドルム出土。
古代の世界の七不思議のひとつがハルカリナソスのマウソロス霊廟です。世界七不思議のうちで現存しているのはピラミッドだけです。マウソロスとその妻アルテミシアの遺体を安置するために造られた霊廟で、ギリシア人建築家のピュティオスとサテュロスによって設計され、スコパス、レオカレス、ブリュアクシス、ティモテオスという4人の高名な彫刻家によってフリーズ(彫刻帯)が施されました。 -
「ハルカリナッソスの獅子像」
ハルカリナッソスは現在のトルコのボドルムにあたり、アレクサンドロス3世がアケメネス朝ペルシアと戦った場所でもあります。 -
「リキヤの貴族パヤヴァの墓」
リキヤ(紀元前375-360年)
クサントス出土。
独立したリキヤ墓で最も一般の形のひとつは木造を模倣することです。大英博物館のリキヤの石棺は完全な形で残されています。埋葬者のパヤヴァという名前は石棺に彫られてあり、生前の姿も石棺に彫られてあります 彼の仲間はギリシアのスタイルで服を着ています。しかし隣接した側ではたっぷりしたペルシャのドレス着た姿も彫られてあります。リキヤの国王のシンボルだったライオンも曲がった屋根から突き出ています。この石棺は1838年にチャールズ・フェローズ卿によってクサントスで発見され、「ゴシック建築で造られた墓」と呼ばれたそうです。 -
リキヤの石棺を見ているとトルコと北キプロスを巡った旅で、アンタルヤでしばらくのんびりしたことがありました。その時日帰りのエクスカーションで遺跡巡りしたことを思い出しました。
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ギリシャの兜を初めて見たのはクレタ島の博物館だったかテッサロニキの博物館だったか。その青銅の美しさに驚いた記憶があります。
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古代ギリシャの赤絵式の技法は紀元前6世紀末にアテナイで生まれたそうです。赤像式とも呼ばれ、黒絵式のような線刻ではなく描線で詳細を直接描くことで表現の幅が広がったと言われます。
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こちらは黒絵式陶器です。時代は紀元前620年から紀元前480年頃で、アルカイク期の中期から後期にほぼ相当し、黒像式とも呼ばれます。人物像などをシルエットで描き線刻で詳細な描写をするという技法で、紀元前7世紀のコリントスで発明されました。
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中央にテセウスのミノタウロス退治の絵が描かれています。テセウスはクレタ島に乗り込んでミノタウロスを退治するため、父王アイゲウスの反対を押し切り生贄の1人となります。ミノタウロスが幽閉されているラビリンスは名工ダイダロスによって築かれた脱出不可能と言われる迷宮です。ミノス王の娘アリアドネがテセウスに恋をしてしまい、彼に赤い麻糸の鞠と短剣をこっそり手渡します。テセウスはアリアドネからもらった毬の麻糸の端を入口の扉に結び付け、糸を少しずつ伸ばしながら、他の生贄たちと共に迷宮の奥へと進んでいきます。一行はついにミノタウロスと遭遇し、テセウスは勇敢にミノタウロスと戦い、アリアドネからもらった短剣で見事これを討ちとります。
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「エレクテイオンの女人像柱」
アテネのアクロポリス(紀元前420年)
アクロポリスの丘の北側に立つ神殿で一番目を引くのは柱として屋根を支える6体のコレー(乙女)像です。 -
カリアティディスと呼ばれ高さは2.3メートルあります。5体はアクロポリス博物館に展示されているのを見ましたが、1体はパルテノン神殿の破風彫像と一緒に大英博物館に収蔵されていたのだと知りました。
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ネレイデス・モニュメントは古代ギリシャの影響を受けたイオニア式の墳墓でクサントスの君主リキア人のアルビナスの墳墓で、紀元前390年頃のものと考えられています。チャールズ・フェローズ卿によって19世紀に発見された時には崩れ落ちた状態でしたが、イギリスに持ち帰って復元されたそうです。
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パルテノンは女神アテナイに奉納される寺院として建設されました。それはアテネのアクロポリスの上の建築として都市国家の富と権力の象徴となりました。
帯状装飾がアテネの宗教的な行列を表し、破風とメトープはギリシャ神話からのエピソードを表します。アクロポリスの丘にも何度か上り、アテネのいくつかの丘からもアクロポリスを望みました。そしてこの日初めてパルテノンを飾っていた彫刻を目にするのです。 -
「パルテノンの西の帯状装飾からの騎手」
このレリーフはパルテノンの西側の角の近くに置かれました。前方の騎手は仲間を振り返るために体をよじって頭に手をを上げます。このジェスチャーはおそらく合図と考えられます。 -
イギリスの外交官であった第7代エルギン伯爵トマス・ブルースが、オスマン帝国駐在の特命全権大使としてイスタンブルに赴任すると、このパルテノン神殿の調査を始めます。当時のギリシアはオスマン帝国領で神殿彫刻に関心を抱いたエルギン伯は、スルタン・セリム?世から許可を得て多くの彫刻を切り取ってイギリスへ持ち帰ります。これがエルギン・マーブルと呼ばれる所以です。
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この彫刻は1930年に大英図書館職員らに無断で行われた洗浄作業において表面を強く研磨したため大半から当時の色を知る痕跡が失われてしまったなど被害にも遭っています。
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「パルテノンの東部の破風からセレーネの馬の上部」
アクロポリス/アテネ、(紀元前438-432年)
パルテノンから最高の彫刻の1つです。パルテノンの東部の破風はアテナイの父ゼウスの上部からの出生を表します。 破風の三角形のまさしくその角で太陽神ヘリオスの二輪戦車で月に女神を連れることでした。そして二輪馬車の馬は大英博物館にあり、セレーネの胴はアテネにあります。見開いた目や膨らんだ鼻腔、静脈が筋立ち、口の表情からは荒い息遣いが聞こえて来そうです。
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アクロポリスでは神殿に近づくことは出来ませんが、ここでは至近距離で彫刻を観ることが出来ます。この彫刻の大きさからも神殿の巨大さが推測できます。
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大理石を積んだギリシャ神殿のような収蔵室なので鑑賞しているとアテネにいる様な気分になってきます。
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躍動的な彫刻が部屋の周りを覆っています。
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大英博物館で絶対観たい部屋だったのである意味満足できました。
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「浴室でかがんでいる裸のアフロディテの大理石像」
西暦2世紀ローマ
ヘレニズム時代のギリシャのオリジナルのバージョン
紀元前4世紀には彫刻家プラクシテレスはアフロディテ(ビーナス)の実物大の裸の像を作成しました。それは南西部トルコのクニドスにあった彼女の神殿に置かれました。それは古典的な彫刻の中の重要な革新で、以降のヘレニズムの彫刻家は裸のアフロディテのいくつかの新しいタイプを創造しました。これはおそらく女性の社会的地位と女性に対する男性の態度における変化が反映されています。それまでは男性の像だけが裸でした。 -
イチオシ
画家P・レーリーの名をとって「レーリーのビーナス」とも呼ばれます。彼はチャールズ2世のコレクションからこの彫刻を手に入れましたが、1649年に国王の処刑に続き、レーリーの自身の死後にロイヤル・コレクションに戻されました。
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階段を登って2階の見学を進めます。休憩したらもう歩けなくなりそうです。
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「ウルの牡山羊」
南イラクのウル遺跡出土(紀元前2600-2400年)
イラク南部にあるウルの王墓で発掘された一対のオス山羊の像。製作された年代は紀元前2600年から2400年頃で、発掘された2体のうち1体は大英博物館の56号室のメソポタミア・ギャラリーに、もう1体はアメリカ・フィラデルフィアにあるペンシルベニア大学考古学人類学博物館に所蔵されています。 それは発掘者レナード・ウーリーによる「ウルの牡山羊」という名前がつけられました。 -
雄羊の頭と足は金箔で覆われ耳は銅で出来ています。捻じれた角と肩口の青い毛皮はラピスラズリです。残りの毛皮部分は貝殻で出来ています。
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「女王のリラ(弦楽器)」
南イラクウル出土。(紀元前2600-2400年)
来世のための音楽を奏でる楽器です。レナード・ウーリーは、ウルの王墓でいくつかのリラ(弦楽器)を発見しました。これは彼が女王プアビの墓で見つけた2つのうちの1つです。宝石と多数の貴石と生贄にされた10人の女性と共に埋葬されていました。リラの木の部分は土中で腐敗しましたが、ウーリーは石膏を流し込んで成型しました。類似した大型リラは「ウルのスタンダード」に描かれています。ところが肝心なウルのスタンダードは日本に貸し出されてここにはありませんでした。 -
イチオシ
「夜の女王」
南イラク バビロニア(紀元前1800-1750年)
この大きな飾り額は焼かれたわらの粘土でできています。高浮き彫りで描かれた 曲線美の裸の女性の像は当初赤く塗られました。 彼女はメソポタミアの神に特有の角状の頭飾りを着て、正義(神学の象徴)のロッドとリングを手に持っています。 彼女の足は猛禽類の鉤爪で、彼女の脇にいる2羽のフクロウと類似しています。 背景は当初黒く塗られましたがそれは夜と関係していたことを示唆しました。 彼女は山を意味する2匹のライオンの背に立っています。 -
ネブカドネザル?世のバビロン宮殿の壁面のレリーフです。パリのルーブル博物館には対になるように左向きのライオンのレリーフがありました。
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階段に置かれた巨大なレリーフです。
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一番混んでいたのはミイラの部屋です。部屋によっては人とすれ違えないほどの混雑でした。
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パリのルーブル美術館のエジプトの棺などのコレクションも凄かったですが、大英博物館のコレクションはミイラ自体が非常に保存の良い状態なのに驚かされました。
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包まれた布に描かれた姿を見るとローマ人のような姿です。一般の人はこのような簡易な形で生前の姿を残されたのでしょうか。
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これはかなりリアルな姿に引いてしまいます。ホラー映画に出てくるような…。
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金箔で覆われた柩や表までヒエログリフで覆われた素晴らしい柩が並びます。
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柩の内部にも隙間なく文字で埋め尽くされています。生前の埋葬者の人生がかかれてあるのでしょうか。
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ある意味数千年経っても生前の姿が残されているのですから羨ましい気もしますが、毎日この人混みでは落ち着いて寝てもいられないでしょう。
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「男の頭蓋骨とマスク」
ローマ時代のエジプト、およそ西暦100-170年頃のものです。
古代エジプトの葬式のイメージは木の棺に描かれるミイラの肖像に制限されませんでした。 しばしば体を覆うため石膏マスクは見つかっています。特に中央エジプトで人気があったようでもあります。このミイラに被せてあった肖像マスクは非常にリアルです。 首の筋肉の表現はこの人が高齢だったことを暗示します。現代の警察の科学捜査にも負けないものを感じます。 -
イチオシ
「女性のマスク」
ローマ時代のエジプト(西暦100-120年)
こちらは女性を描いたミイラの石膏マスクです。
このマスクの表面は型で造られてその後頭飾りとして胴体に付けられました。 女性ははだけた胸に襟と腕に翼のあるスカラベの付いた黄色のチュニックを着ています。髪にはバラのつぼみの花輪で飾られています。 袖はイシスとネフティスの翼が見えます。イヤリングとブレスレットと指輪のスタイルは、西暦2世紀前半頃と思われます。ヘアスタイルは伝統的なエジプトのものに基づき、葬式の肖像として人気がありました。このマスクは伝統的なエジプトの葬式の図像の要素がまだローマ時代にも残っていたことを証明します。しかし現代と変わらない女性の化粧に驚かされます。 -
「ホルネジテフのミイラの棺」
テーベで発見された初期プトレマイオス朝の時代の紀元前3世紀頃の棺です。 -
「アルテミドラスの肖像のミイラの棺」
エジプトのハワラで出土したローマ時代の棺で、西暦100-120年頃のものです。
ミイラになる体は赤い塗料を塗った化粧漆喰のケースに入れられます。 肖像画はケースの上部に描かれました。それはエンカウスティーク(顔料と蜜蝋を混ぜたもの)とエージェント(樹脂または卵)との混合したものが木の上に塗られます。 肖像の下に伝統的なエジプトの葬式の様式の金箔が貼られています。故人の人生は胸全体に短いギリシア語で書かれてあります。CTスキャンは柩から遺体を取り出すことなくアルテミドラスのミイラの状態を確認できます。鼻骨への損傷と後頭部の隙間が確認できるそうです。 面白いことに治癒の徴候がありません。遺体をミイラにする過程での荒っぽい処置の結果かもしれませんが、損傷は死因であったかもしれません。アルテミドラスは多分18歳から21歳の間に亡くなっています。それは柩の肖像画とも一致しています。 -
パピルスに描かれたヒエログリフも素晴らしい物がありました。
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それくらい部屋は混んでいてとても蒸し暑かったです。
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猫のミイラが置かれた部屋の一角。これはかなりリアルです。
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「猫のミイラ」
アビドス(北部エジプト)から出土。
ローマ時代の西暦1世紀頃のものです。
神と関連付された動物はミイラにされました。 猫は女神バステトと関係していますミイラにされた猫は非常に精巧に包まれました。多くの猫は自然に死んだのではなく殺されてミイラにされたようです。大英博物館の調査では多くが1才未満だったことを示しています。おそらく信仰の対象としてミイラが作られ販売されたと思われます。残念なことに考古学者が調査する前に多くの猫のミイラは略奪されました。180,000匹ものミイラの猫は19世紀の終わりまでに肥料にされました。 -
マイケル・コーエン・ギャラリー
「ネバムンの墓のフレスコ画」
大英博物館は1820年代にネバムンと呼ばれている裕福なエジプトの当局者の墓から11のフレスコ壁画を得ました。およそ紀元前1350年に遡る古代エジプトから最も有名な芸術作品のいくつかです。修復保存と研究の10年の期間の後に壁画は初めて一緒に展示されています。 -
「ネバムンの牛(墓の壁面フレスコの断片)」
テーベ/エジプト(第18王朝後半 紀元前1350年頃)
この断片はガチョウの群れと牛の群を調べているネバムンを描いた壁面の一部です。 ヒエログリフは農民の口論の場面を記述しています。牛の交互の色とパターンは動物の躍動感を感じさせる素晴らしいものです。作者はデザインの明快さを保つためにいくつかを牛の足を省略しています。牧夫は彼の前の農民に言っています。「さあ!逃げてください!称賛された人の面前で話さないでください!彼は話している人々をひどく嫌います … 。静かに、そして順序を守って通ってください … 彼はすべての情報を知っています。穀物の筆記者と調査をします。」 -
「ネバムンのガチョウ(墓の壁面フレスコの断片)」
テーベ/エジプト(第18王朝後半 紀元前1350年頃)
この筆記者は小脇にパレット(ペン-ボックス)抱え持って1本のパピルスをネバムンに提出します。農民はおじぎをしてネバムンの方へ尊敬のジェスチャーをします。 彼らの後の男は棒を持って彼らに言います。
「座ってください。そして話さないでください!」
農民のガチョウは巨大で活発な一団として表現されます。 -
これはネバムンの墓で最も重要な場面の一部です。それを目立たせるためにアイボリーの背景よりもむしろ白で正式なスタイルで描かれています。
ワインと凝った香水ジャーで全部の場面はネバムンの葬儀で、彼の妻の前に巨大で大量の贅沢な食物を並べます。 親類が死者を訪ねに来たとき、彼らの息子ネジャメスはアメン神の祭りで高い花束を提供します。ワインの大きな瓶はブドウと蔓で飾られます。 -
「ネバムンの庭(墓の壁面フレスコの断片)」
テーベ/エジプト(第18王朝後半 紀元前1350年頃)
庭園の場面と新しい生命の象徴が描かれています。
来世のネバムンの庭は裕福なエジプト人の現実の庭と変わりありません。プールは鳥と魚でいっぱいで、花の境界と木の陰になった列に囲まれています。果樹はイチジクやナツメヤシなどが確認できます。プールの右側で女神は木から乗り出して果物をネバムンに渡します。 -
イチオシ
「沼地で狩りをしているネバムン」
テーベ/エジプト(第18王朝後半 紀元前1350年頃)
沼地での鳥の狩猟をしているネバムンの姿です。
ナイル川の沼地で彼の妻ハトシェプストと彼らの若い娘と一緒に小型舟で鳥を狩っています。肥沃な沼地は再生とエロチシズムの場所とみなされました。彼が生まれ変わっていたので、狩猟好きなネバムンの勝利を意味することができます。ネバムンは大股で歩いている姿は常に幸せで永遠に若い事を意味します。 -
部屋は移ってギリシャ領だったシチリアやキプロスの出土品になります。部屋にあった面白い写真です。100年くらい前はこうやって出土した石像の頭部を並べて売っていたのでしょうね。首を落としたのは古代の人かもしれませんが、こうやって貴重な遺跡の出土品は散逸したのでしょうね。そう考えると大英博物館の意義も感じられます。
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キプロス島はギリシャ神話においてアフロディテの土地です。ペトラ・トゥ・ロミウというこの世のものとは思えない美しい海岸があります。その海岸に立ってこの海の泡からビーナスが誕生した丘と感慨深く思ったことがあります。キプロス共和国サイドも北キプロスの博物館も数多く見学しましたが、そこに収蔵されている物よりもクオリティの良い出土品がここには並んでいました。
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「嘆く家族」
地中海世界のトルコやギリシャの島々を旅していていろいろな博物館に寄ると必ずこのような家族愛を感じる墓石に出会います。この墓石も中央の男性のものでしょう。左の女性は母親で右側は父親か兄弟でしょう。 -
「キプロスの偉大な女神」
シンプルな形はキクラデス諸島の白い大理石で造られた女神像のようでもあります。 -
「女性の指導者の姿を模倣した花瓶」
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シチリアの博物館やギリシャの島々の博物館で見掛ける女性の頭部をデザインした花瓶が並んでいます。
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「頭の形を模した花瓶」
南イタリアからの出土したファッショナブルな女性のこのテラコッタは墓に置かれる花瓶として作られました。紀元前300年から350年頃多くの花瓶はこのような頭の形になりました。墓に埋葬されるために作られていて決して実際に使われなかったので機能性は必要はありませんでした。 -
肘をつく男性のテラコッタの骨壷」
エトルリア(紀元前150年-100年)
エトルリア人の彩色した陶器の骨壺です。エトルリア人は夫婦の仲が良く、イタリアで見られる墓石は必ず夫婦が並んで座っていますこの骨壺は若い男性なのでまだ結婚していなかったのかもしれません。側面に描かれた戦いの場面は非常にリアルです。出来た頃は彩色も美しかったのでしょう。 -
「Seianti Hanunia Tlesnasaの石棺」は紀元前150-140年の間に造られたエトルリアの貴族の夫人の実物大の石棺です。1887年以降大英博物館のコレクションの一部となります。 エトルリアの貴族的な女性セイアンティの明るい姿を描いた石棺が、トスカーナのキウージの近くポギオ・カンタレッロで1886年に発見されて、その後売りに出されました。
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イチオシ
多分生前の貴族女性の性格まで表現されているように感じました。類似した石棺はフィレンツェの国立考古学的博物館のコレクションの中にあります。
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「アウグストゥスの頭部」
スーダン(紀元前27-25年)
この頭はかつて皇帝アウグストゥスの像の一部でした。紀元前31年に彼はアクティウムの戦いでマーク・アントニウスとクレオパトラを破ってエジプトを占領しました。そしてエジプトはローマの行政区になりました。
ローマの反撃で像の多くを取り戻されしたが、この頭部は勝利を記念する寺院の下に埋められました。アウグストゥスの頭部は誇張されているように見えます。 彼の穏やかな遠くを見る視線はガラスと石で出来た目で強調されています。この当時コインと像は、ローマの皇帝のイメージを伝播することの主要な媒体でした。 -
「クロコダイルに乗るアフリカ人の曲芸師」
これと同じような像をどこかの国のどこかの博物館で見ているのだけど全く思い出せません。 -
イチオシ
「若い男性のブロンズ像」
先ほどのアウグストゥスの像もそうですが、大抵のギリシャ時代のブロンズ像は目が失われています。このように残った物は非常に珍しいと思います。ギリシャ内陸部のデルフィの博物館で御者の像の目を見たといの衝撃はいまだに忘れられません。 -
「ロイヤル・ゴールデン・カップ」
ロイアル・ゴールド・カップは公式の使用のために、または王室の饗宴のためにデザインされました。それは皇帝ディオクレティアヌスの在位の間に殉教したと考えられる聖アグネスの伝説から場面を描いています。キリストと聖アグネスを示している2つのメダリオンは蓋とボウルに挿入されます。脚は福音者のシンボルで飾られます。 -
「サットン・フーの鉄兜」
西暦7世紀前半に英国で作られたこの鉄兜は非常に珍しいそうです。埋葬室が崩壊されたとき鉄兜はひどく破損しました。正確にまるでジグソーパズルであるように残りの断片を見つけて修復しました。鉄兜は鉄のキャップと首のプロテクター、頬当て部分とフェースマスクから構成されます。元の形はローマの騎兵隊の兜に由来します。兜の表面は銀色の銅合金パネルでおおわれています。 -
この不思議な形のグラスは家に幾つかあります。もちろんオリジナルでは無いのですが、プラハのシュテルンベルグ宮殿(国立美術館)のミュージアム・ショップに置かれてありました。非常い良く出来たチェコのガラス作品でプラハ郊外の工房で造られている物でした。全て手作りですが出来栄えの良さと値段の安さが気に入って購入しました。その後ほとんど見かけることは無いので買っておいて良かったと思います。
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「ルイス島のチェス駒」
素朴な動物の骨を彫ったチェスの駒です。 -
そうハリー・ポッターの映画で出てくるチェスの駒はこれがモデルになっているそうです。そのいくつかも日本で開催されている大英博物館展に貸し出されているようでした。
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3時間くらいで駆け足の見学しか出来なかったのが残念です。まだまだ見たかったものは沢山あります。この後の予定もあるのでここまでで諦めることにします。
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頭の中が飽和状態でミュージアム・ショップに立ち寄ることも忘れて出て来てしまいました。
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入場するときに振っていた雨もあがり、青空になってきました。近くのバス停まで出てストランド通りまで出て「コートールド美術館」に向かいます。
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