2014/08/19 - 2014/08/24
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ぱんスキュさん
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2014年8月8日~24日
バルト諸国+ポーランド、WW2関連のダークツーリズム・旧ソ連とナチスの痕跡を巡る旅(21)
ヘルシンキin→タリン→リガ→シャウレイ→ヴィリニュス→カウナス→クライペダ→ニダ→カリーニングラード→グダンスク→ワルシャワ→【クラコフout】
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2014年8月22日
帰国前日=クラコフ滞在最終日。バルト+ポーランド・ダークツーリズムの旅の締めくくりともいえる、アウシュビッツ強制絶滅収容所へ。本当は帰国直前に行きたくなかったのだけど(…重すぎるから)、天候の都合でこの日になり…。うーん、重い歩みをなんとか進めてかの地へ。
でもいざ行ってみると、この旅の最終日に相応しすぎる場所でした。ダークツーリズムの最終点がここで良かった、と心の底から思った。それ位、感銘を受けた場所でした。…旅の神様は最後まで粋な計らいをしてくれる。
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皆様ご存知のアウシュビッツ。基本的な説明はwiki等にあるので、まずはここを必読。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%84%EF%BC%9D%E3%83%93%E3%83%AB%E3%82%B1%E3%83%8A%E3%82%A6%E5%BC%B7%E5%88%B6%E5%8F%8E%E5%AE%B9%E6%89%80
この旅行記では自分なりの解説・感想とともに、意外と知られていない個人観光時の行き方等、2014年夏時点の情報を盛り込みました。
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アウシュビッツ強制収容所は2か所の敷地があります。1941年に第1アウシュビッツがソ連軍捕虜やポーランド政治犯などが収容されるのに作られ、その後ユダヤ人絶滅計画がナチスによって決定されると、近くに広大な第2アウシュビッツ=ビルケナウが建設されました。(もう少し離れた場所に第3アウシュビッツ=モノヴィッツ収容所もあったが、ソ連軍に破壊され現存せず)
現在は第1は博物館、第2アウシュビッツ=ビルケナウは野外展示場という趣です。時間などの都合で離れているビルケナウをスルーする旅行者も多いみたいですが、ビルケナウ見学は1時間もあれば大部分は回れるかと思いますので、2か所の見学をオススメ。
2つの施設は少し離れていますが、無料シャトルバスが出ており(夏期は頻発)、移動に問題ありません。
http://auschwitz.org/en/visiting/
★
約5時間をかけて全ての展示を見終わった感想…ああ、この大量虐殺は、機械的な営みの中で行われていたんだと。数え切れない人間を消しさるのは、悪の所業というより、機械的で官僚的な【作業】がなし得ることができるのだと。
1人1人のドイツ兵たちは、自分の行いがこの悲劇へとつながっていることを、必ずしも認識していたのだろうか。また彼らは悪事に加担していると理解できていたのだろうか…。いや、きっと命令に忠実に『職務』を成し遂げた結果なのではないのか。
そう気づいたとき、わたしたちの日常がアウシュビッツのような悲劇を生み出すこともあり得るのではないか、と思えて、その事実に改めて恐怖したのでした。薄っぺらい『平和への想い』だけでは、どうにもならない現実。。。
最後のダークツーリズムの地は著名な場所なだけに、現在進行形で色々な問いを投げかけてきました。やはり多くの人にこの地に訪れてほしいと思います。
※2015年1月1日より、アウシュビッツ博物館への入場は、事前の予約制になりました。詳しくは下記公式HPと、クチコミをご覧ください。
http://auschwitz.org/en/museum/news/new-system-of-online-booking-in-the-auschwitz-museum,1116.html
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 25万円 - 30万円
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス タクシー 徒歩 飛行機
- 航空会社
- アエロフロート・ロシア航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
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アウシュビッツ=オシフィエンチムへ向かうにはいくつかの方法があります。
一番簡単なのはクラクフから出ているツアーに参加することですが、料金がかかるのと自由に回りたかったので、個人で行くことに。
個人で公共交通機関を使って行く方法は、バスと列車の2種類です。バスはアウシュビッツ博物館前の駐車場or博物館の裏門で止まってくれるので便利です。
どちらで行くか悩んでいたため、とりあえずクラクフのバスターミナルに行って時刻表などチェックしてみた。MDA バスターミナル (クラクフ) バス系
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2014年夏季、クラクフバスターミナルにあったアウシュヴィッツ収容所行きへのバス時刻表。上から2つ目がそうです。
朝一の開館時間・8時に間に合う便を探していたのですが、これによると一番早くて8時半クラクフ発。よってバス便は諦めて列車で行くことに。
【アウシュビッツの開館時間】
季節によって異なります。特に冬季はクローズの時間が早くなるので注意。また4月〜10月の10:00〜15:00の入場は、すべてガイド付きツアーになります。個人で自由に回りたい場合、この時間帯を避けて入場してください。 -
地下のバス停留所に停まっていた、アウシュビッツ博物館行きのミニバス。このほかに大型バスでの運行もある模様。
【アウシュビッツへの道のり】
現地名はOświęcim="オシフィエンチム"と言います(アウシュビッツはドイツ名)。バスや列車で向かう時は、"オシヴィエンチム"の表示を探してください。どちらも終点です。 -
…っとこの時には見逃していたのですが、-なんとこのミニバスは早朝便も出していたようです。アウシュビッツより帰ってきてから発見しました…。残念!夏季臨時便か私設便だったのかもしれない。
【アウシュビッツへの所要時間】
アウシュビッツ=オシヴィエンチムの街は、クラクフから西に約50km強の場所に位置しており、公共交通機関で約1時間半ほどかかります。列車は最寄り駅より15分ほど歩く必要がありますが、バスだと博物館まで直通で楽です。 -
そんなわけで今回は電車で行くことにしました。6:03クラクフ中央駅発、オシヴィエンチム駅着は大体7時半ごろ。終点なので乗り過ごしがなくて良いです。料金は9.5ズオティ=約300円ちょっと。ポーランドの鉄道はやはり安い!
【オシフィエンチム行き列車の時刻検索法】
http://rozklad-pkp.pl/en
ここのサイトで、FROM=Krakow Glowny/TO=Oswiencim と入れて検索すると、時刻表が出てきます。お昼以外は1時間に1本程度のようです。クラクフ本駅 (クラクフ中央駅) 駅
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約7時半、定刻通りにオシヴィエンチム駅に到着。乗客はまばらで、構内にはわたし1人…。この駅で本当にあっているかちょっとドキドキ。
オシフィエンチム駅 駅
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駅前のロータリーにはバスがあった。博物館行きだと思って乗りこもうとするも、早朝で途中駅までの運行のようで断られてしまう…。よって徒歩でアウシュビッツへ向かいます。
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駅前にあった地図看板。これで位置を確認すると、駅を背に右に進み、途中で道なりに左に曲がるとあるらしい。
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早朝の人気のないオシフィエンチムの街を歩く。気持ちいい位に誰もおらず、ここに強制収容所があったとは思えないくらい、のどかな郊外の風景です。
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道なりに歩くと看板が見えてきました。これが見えてきたら、看板の指示通りの方向に歩きましょう。
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道なりにどんどん進むと、今は使われていない線路が目につく。…それでアウシュビッツがすぐそばにあるということが分かった。
これは、ユダヤ人たちが運ばれてきた鉄道跡だ…。この線路はアウシュビッツへの片道列車が通った線路なんだ…。
理解した瞬間、心がざわつく。 -
線路を追っていくとたどり着いた…アウシュビッツ強制収容所の看板が見える。
オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
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広々とした駐車場と、その向こうに見えるエントランス。朝8時の早朝にもかかわらず、すでにツアーバスが何台も停まっていた。
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入口までの道に並ぶ展示。この一体には小さ目ながら本やお土産売り場あり。
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エントランスホール。
左側が敷地内への入口。右側からホールに入ることができ、トイレ、本屋兼売店、両替、荷物預け場などがある。展示品の盗難があるせいか、割と小さ目のカバンでも預けるようにと言われる。少し前にもドイツ人教師による展示品の窃盗(しかも遺髪…)があったとニュースになっていた。呆れるが現実。 -
入口のそばには個人観光者へのお知らせがある。前情報通り、10:00〜15:00の間は個人で回ることはできず、英語ツアーに参加しての見学が必須とのこと。これは混雑対策らしい。博物館への入場は無料だが、ツアーの場合はガイドへの費用がかかるそうだ。
【アウシュヴィッツの入場について】
2015年1月より、アウシュビッツへの入場は予約制になりました。HP等から前もって訪問時間を決めて申し込む必要があるそうです。ただし混雑していない場合は予約なしでもいけそうですが…。
この場合も、4〜10月の10〜15時の入場は要ツアー参加とのことです。 -
荷物預かり所の引換券。2ズオティ=約70円の料金がかかります。入場時に係員に止められたら、素直にこちらに預けましょう。
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両替所のレート表示。1JPY=0.0215とレート率はかなり悪かったです。参考まで中この日の為替は100円=約3ズオテイです。
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第一アウシュビッツの全図。縦3列に並んだ建物=ブロックは半分位が入場可能で、内部に展示がある。展示は全てテーマに沿っており、博物館群と言える構成。
右下の建物がエントランス、ここからスタート。上段中央〜右側にあり必見といわれる4.5.7.11ブロックから回り、その後は中段にある各国の追悼館→下段左のガス室等施設の順でした。 -
そして有名な『労働は自由になる』の看板。自由になるには死しかなかった収容所…最大限に皮肉なフレーズ。これを作成した収容者たちがせめてもの反抗として、Bの文字を上下に取り付けてたのは有名な話。
しかしこの門飾り、2007年に盗難に逢い3つ折の無残な姿で発見されるという事件があり…。それ以来、レプリカが掲げられているそうです。 -
接写してみた。確かに逆である。
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門をくぐると、草原と赤レンガ作りの建物が並びます。一見のどかに見えますが、敷地内は2重の高圧電線で囲まれています。
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二重の有刺鉄線。ここには高圧電流が流れ、触れた者は絶命した。収容所での生活に耐えかね、『鉄線に行ってくる』と言って自ら命を絶った囚人もいた。
鉄線の向こう側に見えるのは監視塔。ドイツ兵にとって強制収容所での勤務は前線での戦闘よりも死亡率が低く、安全で楽な職務だとされていた。彼らはどんな気持ちでこの収容所の様子を眺めていたのだろう。 -
入り口付近にある、収容された人々から構成された楽団の絵。アウシュビッツに連れて来られた人々に対して歓迎の音楽を奏で、中の過酷さをカモフラージュし、また収容者が外へ強制労働に行く際にはマーチを演奏して彼らの歩みを進めたと言われています。
下記に詳しく記されています。
ビルケナウの有名音楽家、アルマ・ロゼ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%82%BC
NHKのドキュメンタリー『死の国の旋律〜アウシュビッツと音楽家たち』
http://www.nhk.or.jp/archives/nhk-archives/past/2014/150131.html -
第一アウシュビッツの敷地内。赤煉瓦の建物が並んで整然としており、70年前にここで悲劇が行われていたとは信じられないほどの静寂さとのどかさ。田舎町の小さな施設の一角といった趣。
ここで悲劇が行われていたとは、確かに言われなければ分からない感じ。 -
まずは入口から突き当たりにある4ブロック【extermination=虐殺】から見学を開始。
ここではアウシュビッツ全体における虐殺の状況や方法、写真展示などがなされていた。虐殺のシステムは、かなり自動化というか淡々と作業的で、ここが【殺人工場】と呼ばれているのが理解できた。
要するに、殺す方も罪悪感や後ろめたさを感じず、日常の仕事の一環として流れ作業で虐殺が行われていったということ。このシステムは正直凄いと思う。自分の仕事が人道に反しているとは考えず、日々の職務として行うことができるなんて。
現代にも同じようなシステムがあり、わたしたちだけが知らされてない…というホラーが成立するかもしれない可能性を否定できない。 -
『ユダヤ人は完全に絶滅されなければならない人種である』
…のっけから凄い言葉のお出迎え。ナチス占領下のポーランド総督ハンス・フランクの1941年の演説より。
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/ハンス・フランク -
この最大級の殺人工場と言われる強制収容所が、なぜこの地に作られたのかが示されている図。ここオシヴィエンチムは各所からの交通の便がよく、ソ連との東方戦線より幾分か離れていたからです。
こうしてヨーロッパ各地よりユダヤ人が強制的に連れて来られました。 -
ビルケナウに連れて来られたユダヤ人の人々の写真。
労働力になる男性は生かされたが、労働力にならないと判断されたユダヤ人
(女性や幼い子供たち含む)は、列車から降ろされると即ガス室に送られその一生を終えた。
この作業は【選別】と呼ばれ、ここで全体の3/4はガス室送りになった。その様子は後のビルケナウ見学と合わるとよく分かるかと思います。
このように虐殺はオートメーション化しており、収容所の日常の仕事として行われていたことが衝撃である。 -
第一アウシュビッツと第二アウシュビッツ=ビルケナウの位置関係と規模。後から作られたビルケナウの方が圧倒的に広大なことがわかります。
赤と黄色で囲まれた部分は『カナダ』と呼ばれた倉庫で、強制連行されたユダヤ人たちの持ち物を没収して保管していた。カナダは当時豊かだと思われていた国の象徴だったそうだ。
ユダヤ人たちは、強制収容所の現実を知らされないまま連れてこられたため、身の回りの荷物をすべて持ってきていたのだ。 -
続いて第五号館【犯罪の証拠品】。文字通りナチスの大量虐殺の証拠品の展示です。
この展示はは結構衝撃的で、物言わぬ物体たちがここで何が行われていたかを雄弁に語っています。 -
ガス室の模型と虐殺の様子。クレマトリウム(火葬場)と呼ばれた施設は、実は火葬場とともにガス室を備えていた。
クレマトリウム1は第一アウシュビッツに、クレマトリウム2〜5はビルケナウにあり、強制収容所に到着する毎日4000人もの人間のうち、【選別】に漏れたユダヤ人たちを効率良く殺し灰にしていった。 -
焼却炉ではなく、野焼きにされたユダヤ人の遺体。クレマトリウムでの焼却がキャパオーバーだったのだろう...写真撮影が禁止されていたアウシュビッツで、ゾンダーコマンド(ユダヤ人の雑務者)が違法を覚悟して撮影した1枚。
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ガス室へと追い立てられるユダヤ人女性たちの一群。髪の毛を剃られ裸にされた彼女らが向かう先がガス室だとは、パニックを防ぐため事前に知らされていなかった。
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ガス室で使われた毒ガス、チクロンBの空き缶の山。本来はシアン化合物系の殺虫・殺鼠剤だが、人体にも多大な害を与えられる薬物なのだ。
第一アウシュビッツは元々ソ連軍捕虜やポーランド兵/政治犯が多く収容されており、理不尽な罪状による絞首刑や銃殺刑による処刑が行われていた。その後、このチクロンBを使った大量虐殺の方法が試された。 -
犠牲者の遺留品の展示もありました。メガネの山…
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そして一番衝撃だったのが、持ち主の名前が書かれたトランク類。強制収容所への連行時に、虐殺等をカモフラージュするためにあえて名前を書かせ、いつかは出られると錯覚させたのです…。
この一つ一つの鞄に持ち主がいたという事実が信じられないほどの数。生々しい記名と生への希望と、待ち受ける残酷な現実…。
持ち主が記名されているのにこの地にとどまっているのは、親族等も虐殺に遭い引き取り手がいなかったからだと言われる。ヨーロッパのユダヤ人共同体はこうして根こそぎ解体された。
この他に犠牲者の頭髪(写真禁止)や靴などの遺留品もありましたが、この鞄が最高のインパクトでした。 -
義手義足の山…障害者はガス室送りの第一候補であった。
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靴の山…この奥には鏡や櫛といった女性の生活用品が並んでいました。
また遺髪もあり、それはクッションの詰め物などにされていたとの展示あり。写真不可。 -
第6ブロック【囚人たちの生活】
収容所での生活は過酷だった。
強制労働に加え、寒さと1日1800kカロリー程度の粗末な食事で囚人たちはやせ衰え弱っていった。衰弱死・病死していった人たちも大変多かった。 -
アウシュビッツに来た囚人(ソ連軍捕虜やポーランド政治犯)は、番号の刺青を入れさせられました。死体になったときに身元確認を行うためです。
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1945年にソ連軍がアウシュビッツ強制収容所を解放した際に、運良く生き延びていた人々。身体は骨が透けるほど痩せ細り、かなりの極限状態だったことが分かります。
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ナチス看守による暴行や強制連行、私刑などが描かれた絵があった。見てると色々想像できて辛い。
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アウシュビッツに収容された子供たちの生活を紹介したコーナー。
ナチスは232,000人もの子供たちを連行したと言われている。そのうちの大半(216,000人)を占めたユダヤ人の子供たちのほとんどは、ビルケナウに列車が着くや否や即ガス室に送られたとのこと。
1945年にソ連がここを解放した時には、わずか650人の子供しか生き延びていなかったそうです…。 -
悪名高い死の天使、ヨーゼフ・メンゲレ医師による、双子の子供の肺へのレントゲンレポート。彼は双子の子供を人体実験の被験者として好んだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%AC -
強制収容所内で撮られた貴重な1枚。囚人服を着せられた子供たち…その瞳は何を写していたのだろう。ちなみに右の写真の最前列真ん中の女性の方は生き延び、Q&Aで答えていますが大変興味深いです。
http://labaq.com/archives/51818476.html -
幼い子供たちが犠牲の矛先になるという構図は、世界全土の戦争に共通することだけどやはり辛いものがある。
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収容者に着せられた、縦縞のパジャマのような囚人服。かなり目立つ仕様で、脱走を難しくしていた。
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第7ブロック【生活状態と衛生について】
ここでは劣悪だった強制収容所の衛生状態などについての展示。 -
初期のベッド。このように床に粗末な藁ぶきのようなものを敷いて寝かされていた。この地域は冬の冷え込みが激しく、とても厳しい状態に置かれていた。
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トイレ。プライバシーもなく、1日に使用できる時間帯も極わずかであったという。
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洗い場。狭い水場である。
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そのうち木製のベッドが導入されたが、1つの段に複数人が寝かせられていた。
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第11ブロック、通称【死の棟】
この強制収容所内での監獄という位置づけであり、ここに入ったものは生きて出ることは難しかったとされる。 -
入口すぐにある『ゲシュタポの法廷』。ここで最も宣告された刑が『死刑』。10号棟と11号棟の間にある『死の壁』を背にしての銃殺刑が一般的であった。
囚人たちが死刑を宣告された罪状は以下の通り:
・収容所内で抵抗運動を企てた報復
・ナチス支配下のポーランドへの反逆
・収容所から脱走者が出たとき
・囚人と(外部が)コンタクトを取ったときや、助けをえた報復
・ポーランド愛国的な行動の報復
要はナチスに逆らったものは生きて帰れなかったということです。 -
銃殺刑が執行される直前、この部屋で衣服を脱ぐように指示された。そして突然この室内で死刑が執行されることもしばしば起こったという。SSは囚人の命をどうでもよいと思っていたのだ。
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処刑器具の展示。移動式の首吊り台などあり、さすがに背筋が凍ります。死の壁の銃殺刑の前に殴り殺されたりしたこともしばしばあった模様。酷い。
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地下牢へと続く階段。残念ながら現在、ここから先は撮影禁止。
脱走など企てた囚人に懲罰を与えるための立ち牢や殺害のための窒息牢・飢餓牢などがあり、閉じ込められた人たちが残したメッセージなどもそのままありました。 -
11ブロックの見取り図。簡易法廷や死の壁に向かう前の脱衣所などがあり、地下には日の届くことのない牢屋があった。
またこの地下牢では、ソ連兵捕虜らに初めてガス処刑が試された場所でもある。この『実験』の成功から、ガス室を作ることを決定したのだ。 -
地下牢の壁に書かれた囚人たちのメッセージ。処刑を待つ間に地下牢に入れられた、彼らの最後のメッセージだ。
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二階には囚人として捉えられていたポーランド国民軍にまつわる展示などあり。近隣住民に助けを求めた手紙など。
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強制収容所内でのオーケストラによるスコアなど。これは労働に駆り立てるためのマーチでしょうか。
オーケストラのメンバーになると普通の囚人よりも待遇が良くなり、生き延びる率が上がるとも言われていました。 -
死の壁と言われる処刑場。ここで多くの囚人が銃殺された。
しかしこの銃による処刑はドイツ兵に心理的負担を与えていると評価され、後に『より人道的な方法』での処刑が検討された結果、ガスによる処刑が考えだされたと言われる。 -
死の壁における銃殺刑の様子の絵。裸にされ壁に並べられた囚人、処刑後の遺体を運ぶ囚人…どんなにか無念だったことだろう。
-
第一アウシュビッツに収容され、命を落とした人々。ポーランド人とソ連の捕虜が大半で、収容される際に写真を取られた。様々な職業と年齢だけど、
亡くなった年が同じなのが辛い…
しかし写真と死亡年が分かるのはまだ良い方。1943年までは写真とIDの記録が行われたが、その後は犯罪者などにしかこの作業は行われなかった。
また第二アウシュビッツに連れて来られ即日ガス室に送られたようなユダヤ人たちの写真は、もちろん残されていない。 -
真ん中のバラックの列は、ヨーロッパ諸国ごとに分かれた展示が行われている。最初は第15号館・ポーランド館へ。
入り口のPと錨を足したマーク!この旅に頻出の、あのポーランド国民軍のシンボルがここにも。 -
ポーランドの展示は、ポーランド地下政府と国民軍に関する展示が多数。
-
ここでもPに錨のマーク!この旅で散々目にしてきた、ポーランド国民軍のマークだ。
-
ワルシャワ蜂起の様子と、その後ワルシャワが廃墟になっていった様がここにも展示されていた。
ワルシャワで蜂起博物館を訪れた際の旅行記です。
http://4travel.jp/travelogue/10953748 -
【アウシュビッツのオランダ】
アウシュビッツにはナチス占領下のヨーロッパ各国よりユダヤ人が集められた。オランダ、チェコ、ロシア、フランス、そして流浪の民・ロマ族。アウシュビッツの中央列は追悼館として、展示館が各国に一つずつ設置されていた。 -
オランダ館には『アンネの日記』で有名なアンネ・フランクのコーナーがあった。ユダヤのお祭り"パスオーバー"の食べ物・マッツァをかじるアンネ。あどけない表情で、彼女のその後の運命とのコントラストを考えると、なんともやりきれない。
アンネ・フランク
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF -
フランス館。ここは元病棟だったため、その様子の展示もなされていた。しかしながら治療と呼べるような行為は行われず、大抵のものはそのまま死に至ったため、囚人たちは病気を隠す傾向にあったようだ。
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中央の点呼広場。ここでSSは囚人たちを並ばせ点呼を行った。この点呼は何時間にも及び、その間囚人たちは立ちっぱなしだったため、確実に体力を奪っていった。
ここではまた見せしめの絞首刑が、しばしば実行された。 -
1943年7月には、ここでポーランド囚人13名が集団絞首刑に処された。脱走者を手助けしたり、近隣住民とコンタクトを取っていたという疑いである。
-
最後の見学エリアは、ガス室のあった一帯。こんもりとした丘が復元されたクレマトリウム1(ガス室と火葬場)。
かつては爆薬庫だったこの建物。最初は死体安置所になり、ついでガス室に改装されて大量虐殺の現場になった。最初の犠牲者はソ連軍捕虜。1940年から1943年まで稼働していたが、ビルケナウにより大きく性能の良いクレマトリウムができると徐々にそちらにシフトしていき、最後は防空シェルター兼倉庫として使われた。現在はガス室の状態に復元された姿です。 -
ガス室の入口。
中は写真撮影禁止でしたが、ガス室と人体焼却炉が隣り合った石造りの内部は、夏なのにひんやりした空気が流れていました。
『アウシュビッツから出るには煙突の煙になるしかない』とまで言われた収容所の劣悪な待遇。ここで希望や将来への期待をもつのはとても困難で、毎日を生き抜くので精一杯だっただろう。しかしまた、生存した人間に必須だったのは、希望だったとも言われています。 -
ガス室そばにあった絞首台。ここで幾人もの収容者が様々な処刑されてきたが、最後に上がったのは、ルドルフ・ヘス元収容所長。1947年人道に対する罪などにより、彼自身もまたこの地で死刑に処された。刑場以外での執行は極めて異例である。
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強制収容所の所長が事務をしていた建物。ガス室の真ん前にある。ヘスは家族思いの植物好きな人間だった。それが業務の中で歯車に組み込まれ、結果として強制収容所内の虐殺の業務の責任者となった。
WW2当時にナチスに反することは難しかったと思われるが、戦争が終われば自分がどのような処遇を受けるのか、想像力が及ばなかったのだろうか。彼一人の力ではどうにもならないとはいえ… -
これにて第一アウシュビッツ見学終了。現在時刻11:30、およそ3時間半の見学でした。
入口を見ると行列が!これは10-15時に入る個人旅行者はツアーへの参加が義務付けられており、それを待つ人の列だと思われます。
2015年からは予約制になったので混雑も解消されると思いますが、朝一のほうが静かに落ち着いて見学ができるのでお勧めです。
個人だと自分で好きなように回れるのが良いです。ツアーだとこうはいかないよねぇ…無論解説付きのツアーも魅力的なんですが、ツアー時間は2時間半くらいらしく、全ての館を回ることはできないそうなので。
ちなみにアウシュビッツ公認日本人ガイドの中谷さんにガイドを打診したのですが、自分のクラクフ滞在中は全て予定が入っており、残念ながらお願いできませんでした。 -
第二アウシュビッツ=ビルケナウへの無料シャトルバス。5分程度で移動できて便利です。
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アウシュビッツ⇔ビルケナウの無料往復シャトルバス時刻表。基本は毎時00/30分発と30分に1本ですが、夏期は15分に1本に増便しており便利。
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シャトルバス内部。非常に綺麗でしかも混んで無くて良い乗り心地。
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…とバスの扉を見ると、このシャトルバスは2014年6月にドイツのフォルクスワーゲン社が寄附したという表示が。どおりで綺麗で新しいわけだ。
★
フォルクスワーゲン社(ドイツ語で"国民の車")は、ナチス=ドイツの国策企業として産まれ、戦時中は強制収容所の人々を強制労働させた過去があるため、現在も賠償や補償を積極的にやっているとのこと。こういった姿勢が会社のみならずドイツという国全体の信頼感に繋がっている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%B3 -
アウシュビッツからビルケナウまでは約3km。タクシーでの移動もできます。また時間はかかりますが徒歩でも行けるみたいです。
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12時前、第二アウシュビッツ=ビルケナウ到着。
入口左手にはインフォメーションセンターが、門を入ってすぐ右側にトイレ(有料)があり。ここは荷物チェックや持込カバンのサイズ規定がないため、第一アウシュビッツで荷物を返してもらってから入場することもできます。ビルケナウ (アウシュヴィッツ第二強制収容所) 史跡・遺跡
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イチオシ
死の門と呼ばれた監視塔をくぐって振り向いた図。列車の引きこみ線は、そのままガス室前まで伸びています。
線路に手向けられた造花。当時ここで虐殺されたユダヤ人の親族にとっては、アウシュビッツに行くことはお墓参りの意味があるとのことで、時折施設の各地にお花が添えられていました。 -
ビルケナウ全図。広大過ぎて迷うと思いきや、主要な見学場所は鉄道線を辿っていけば良かった。
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強制連行に使われた列車の車両。これが列を連ねて走り、中には過密状態に押し込められたユダヤ人たちが乗せられていた。
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ここに連れて来られたユダヤ人は、ナチスによって【選別】され、主に女性と子供たちを含む75%の人間が、即日ガス室に送られた。
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かなり広大な敷地内。バラックが現存している部分はごく一部ですが、かつてはこの野原一面にバラックが建てられ、ユダヤ人たちが収容されていた。
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残されているバラックは数少ないですが、入場可能なものがあり内部見学できます。
敷地の女子棟のバラック。レンガ造りの第一アウシュビッツに比べ、急ピッチで作られたあばら家のような建物。この木のベッドの一段に3〜5人ものユダヤ人が詰め込まれていた。 -
こちらは正面に向かって右半分(北側)を占めていた男子棟の見取り図。大半は破壊されていますが、入口に近いいくつかのバラックは残されている。
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木製のバラックと有刺鉄線が生々しい男子棟。
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男子棟のバラック内部。女子棟よりも敷地が広いのが空恐ろしい事実である。
ここに400人もの人々が住まわされていたという。飢えと寒さと酷い衛生状態のため腸チフス等の感染症も流行り、彼らは次々に命を落としていったという。 -
1945年1月、WW2末期にソ連軍によって解放されたときの写真。かなり荒れており衛生状態などが劣悪だったことがわかる。
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引き込み線路の行き止まりにある、破壊されたクレマトリウム(大量虐殺施設)。ユダヤ人たちはシャワーを浴びろと嘘を言い、髪を切って服を脱がせた後シャワー室に模したガス室に入れ、一度に何百人ものユダヤ人を殺したと言われる。
隣には焼却炉があり、ゾンダーコマンドと呼ばれるユダヤ人特別労務者に遺体を焼かせ、灰を近くの池へと捨てた。ちなみにユダヤ教で火葬はタブーです。
ソ連軍が迫り来る中でナチスが証拠隠滅のために撤退前に壊したり、またゾンダーコマンドたちの反乱によって壊されたものもあった(クレマトリウム4)。 -
クレマトリウムは地下にも敷地が及ぶ。
ドイツ兵が罪悪感を抱かずに済むように、死体の焼却等の直接的な仕事はゾンダーコマンドにやらせていた。同胞の『処理』をさせられていた彼らは、他のユダヤ人よりも良い待遇だったが、証拠隠滅のため彼らも定期的に殺害されたそうだ。
第12期のゾンダーコマンドはそんな現状に反旗を翻し、クレマトリウム4を破壊してナチスの恐怖支配に抵抗した。 -
クレマトリウムおよび追悼施設の地図。鉄道の引き込み線の最後に当たるこの一帯は大勢の人が亡くなった場所であるため、慰霊碑等が建てられている。
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クレマトリウムのすぐ側には慰霊碑がある。静かな気持ちで祈りを捧げる。さぞかし無念なことだったろう…
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犠牲者各国の言葉で記された虐殺の記憶。
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ガス室のそばにある慰霊碑。英語・ドイツ語・ヘブライ語・イディッシュ語の4言語で追悼の祈りの言葉が記してあった。
この裏手にあった池からは、焼却炉で焼かれた後に捨てられた遺灰が大量に出てきた。 -
引込線の最後から入口を眺めた図。
第一アウシュビッツはどちらかと言えば綺麗に整備されており、『見せる』要素が強かったように思える。
しかしこちらのビルケナウは、そのまま『在った』という要素が強く、収容所としてはこちらの方がリアリティが強い印象だ。
★
見学を終えて。
これだけの所業ができたのは、虐殺へプロセスが高度にシステム化されていたからで、関わった人間に必ずしも【悪】の意志があったとは思えない。。。もちろんこの事実自体は【悪】なんですが、人間は知らず知らずのうちに悪事に加担させられていることがある事実を、ここにきて思い知らされた。
システムから起こる、悪事への加担の可能性。
自分の日常とアウシュビッツの悲劇とが、延長の末につながったような感覚に陥った瞬間だった。。。 -
現在時刻12:45。約1時間の見学を終え、クラクフへのバス便がある、第一アウシュビッツへ戻ります。
ビルケナウ→第一アウシュビッツのシャトルバス時刻表。毎時15/45分発の便に加え、夏季は増便があり15分に1本のペースで出ていて便利。 -
第一アウシュビッツに戻りました。ここからクラクフ行きのバスを探します。
-
第一アウシュビッツの敷地外、すぐ正面にあるイタリアンレストラン。ここの駐車場からクラクフ行きのバスが出ていた。
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レストランの建物内にはインフォメーションセンターなどもありました。バスの時刻表もあり。
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インフォメーションセンターに掲示してあった、クラクフ行きへのバス時刻表。ミニバスを含めるとかなり頻発している模様。
Bus Timetable Oswiencim to Krakow 2014 summer -
インフォメーションセンター近くのバス停から、ライコニック社運行のクラクフ行きバスがちょうど停車していた。タイミングよかったー!
このバスは1〜2時間おきに運行していました。大型バスで乗り心地良し。13:10定刻通りに出発、15時にはクラクフのバスターミナルに到着。
さあ、明日は帰国の日。長かったこの旅も終わりにして、帰る場所がある喜びを噛みしめる。 -
8月23日、帰国日の朝。
重い歴史の探訪もこれにて終了。10時発のアエロフロート便でいよいよ帰国。
…が、ここで最後のトラブルが発生!クラクフのバスターミナルから7時10分の空港行きバスを待つも、なんとこの便がやってこず…。一緒に待っていたバルセロナから来てた女子2人組と相談し、バスは諦めてタクシーシェアで空港へ。
何故来なかったのかしら…と、皆で話すも真相は分からず仕舞い。MDA バスターミナル (クラクフ) バス系
-
タクシー飛ばして40分ほどでクラクフ空港到着。十分な額のポーランドズオティ現金を持ち合わせてなかったわたしの分のタクシー代の差額を、バルセロナ女子たちが払ってくれた!
せめてものお礼と、唯一持っていたラトビア発行の2ユーロを手渡す。すると彼女たちは『…あれ?!これ、どこのユーロかしら…あっ、ラトヴァ!』とビックリ顔。
ラトビアはその時最も新しいユーロ導入国で、ラトビア発行のユーロはまだそれほど流通していなかったよう。彼女らの故郷はスペインというユーロ最西端なので尚更。
『お土産にしてね』というと、嬉しそうな表情をしてくれたので、ひとまず安心。ヨハネ パウロ2世 クラクフ バリツェ国際空港 (KRK) 空港
-
こじんまりした空港は、ライアンエアの客の列で活気があった…アエロフロートのカウンターはガラガラでよかったです笑
カフェで休憩のち、最後の買い物を済ませセキュリティエリアへ。ついにさよならだ。 -
クラクフ空港→モスクワ経由の東京・成田への帰国便搭乗券。帰り便もスムースで、機内のコッシャー食とシェレメチェボ空港の様子は以前書いた旅行記を参照。
http://4travel.jp/travelogue/10922411
http://4travel.jp/travelogue/10924616
★
バルト4国+ポーランド、WW2を巡るダークリズムはここに完結。
ソ連とナチス、両方とも無き国家になった現在。2つの国のWW2〜冷戦終了までにあった戦争の負の部分を風化させないことはとても重要。
また悲劇を繰り返さないようにするためには、その体制やプロセスを精査して知り、状況を作らないようにすることも必要。漠然とした平和への想いだけではなく、他者への想像力そして戦争を起こさせないという具体的なアクションが大事なんだ。
今回の旅で得られた戦争と極限下の人間のリアリティ…それは心に深く刻みこまれ、この先忘れることは無いのだろう。それだけ示唆に富んだ、豊かなダークツーリズムでした。
★
再度、帰るべき平和な故郷があって幸せだとしみじみ思う。
さあ戻ろう、祖国・日本へ。 -
残念ながら現在も世界各地で紛争が行われ、各地では依然として民間人の虐殺が各地で絶えることはない…
過去の歴史から何を学び、そして今この瞬間に何をすべきなのか。今回の旅では重い課題を与えられました。これは一生のテーマです。
★
最後にアウシュビッツ第4ブロックに展示してあった、この旅を締めくくるにふさわしい言葉をもって、本シリーズ旅行記を閉じさせて頂きます。長々と拙文にお付き合い頂きありがとうございました。
"The one who does not remember history is bound to live through it again” - George Santayana
"歴史を思い出さない人間は、必ずやもう一度その状況の中を生きることになるだろう。"
アメリカの哲学者 ジョージ・サンタナヤ
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この旅行記へのコメント (2)
-
- Zebraさん 2015/09/24 21:24:13
- こんばんは
- はじめまして。
クラクフの古い旅行記を書いていて、
シナゴークのクチコミ経由で訪問しました。
仕事で頻繁にドイツに行きます。
オランダのアンネフランクの家も行ったことがあります。
ドイツの友人たちと、ナチスの話題も、出ることがあります。
でも、アウシュヴィッツに訪問したことはありません。
こんなにきちんと旅行記を読んだのは初めてかもしれません。
ごめんなさい……うまく言葉にできませんが、
ありがとうございました。
Zebra
- ぱんスキュさん からの返信 2015/09/29 07:01:20
- RE: こんばんは
- Zebraさま
はじめまして。
数多あるアウシュビッツの旅行記から拙文を選んで頂きありがとうございます。
お仕事でドイツに行かれるとのこと、羨ましいです。
わたしは逆にドイツ人の知り合いはおらず、現地の人々がどう考えているかは興味があっても知る術がありません…。
もしこの旅行記がZebraさまの何かお役にたてたなら幸いです。
そして、是非とも一度何かの折に行かれることをお勧めします。
重い場所ですが、やはり知ることが大切なような気が致します。
こちらこそ感想を教えて頂きありがとうございました。
ぱんスキュ
>はじめまして。
>
> クラクフの古い旅行記を書いていて、
> シナゴークのクチコミ経由で訪問しました。
>
> 仕事で頻繁にドイツに行きます。
> オランダのアンネフランクの家も行ったことがあります。
> ドイツの友人たちと、ナチスの話題も、出ることがあります。
>
> でも、アウシュヴィッツに訪問したことはありません。
>
>
> こんなにきちんと旅行記を読んだのは初めてかもしれません。
> ごめんなさい……うまく言葉にできませんが、
> ありがとうございました。
>
> Zebra
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