朝倉・甘木・小郡旅行記(ブログ) 一覧に戻る
【通番009】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅福岡壱之③~大刀洗平和記念館編~<br /><br />2014年7月に訪れた沖縄県摩文仁の平和祈念公園に端を発した先の大戦における戦跡巡りの旅ですが、今回は福岡県の戦争を題材としている施設を訪ねるべくやってきました。福岡の旅ラストは、昨年秋に訪れた万世・知覧とつながりの深い旧陸軍大刀洗飛行場跡地に作られた筑前町立大刀洗平和記念館にやって来ました。<br /><br />【施設概要】<br />筑前町立大刀洗平和記念館(ちくぜんちょうりつたちあらいへいわきねんかん)<br />〒838-0814 福岡県朝倉郡筑前町高田2561-1<br />TEL:0946-23-1227<br />E-mail:tachiarai-heiwa@jewel.ocn.ne.jp<br />開館時間:9:00~17:00(入館は16:30まで)<br />休館日:年末年始(12月29日~1月3日)<br />入場料:大人500円(JAF割引適用で400円)<br /><br />【大刀洗陸軍飛行場・沿革】<br />大刀洗陸軍飛行場(たちあらいりくぐんひこうじょう)は、現在の福岡県三井郡大刀洗町と朝倉郡筑前町にまたがる地域にあった日本陸軍の飛行場です。大正5(1916)年に陸軍が計画し、大正8(1919)年10月に完成した飛行場です。土地の選定理由として、中国大陸に向かう航空隊の中継基地としての役割、海岸から距離があり敵艦隊の艦砲射撃の影響を受けないこと、飛行場に適した広大で障害物のない場所であることなどが考慮されています。昭和12(1937)年頃より飛行場に付随する施設が増え、陸軍航空兵の飛行機操縦教育における拠点のひとつとなりました。主滑走路(重爆撃機用:長さ1.3km・幅50m)と補助滑走路(戦闘機用:長さ1.1km・幅10m)の二本を兼ね備えている”東洋一の飛行場”として名を馳せ、太平洋戦争終盤には本土防衛の一翼を担うものの、終戦間近にアメリカ軍の空襲を受けて壊滅的な被害を受けました。終戦後、飛行場用地は農地およびキリンビール福岡工場用地に転用され、現在では当時の門柱や時計台(慰霊碑として改修)、監的壕(かんてきごう:ここに入って爆撃の命中を確認するもの)、井戸が原地蔵公民館付近に保存されています。<br /><br />【大刀洗陸軍飛行学校・沿革】<br />大刀洗陸軍飛行学校(たちあらいりくぐんひこうがっこう)は、日本陸軍の軍学校のひとつで、飛行機操縦に従事する少年飛行兵となる生徒および少年飛行兵、あるいは特別幹部候補生その他を教育する飛行学校であり、主として飛行機の基本操縦教育を行っていました。1940年(昭和15年)10月に設立され、1945年(昭和20年)2月に航空師団の一部に改編のため閉鎖されました。学校本部および本校は福岡県三井郡大刀洗村に置かれ、ほかに各地に分教所または教育隊がありました。<br /><br />この分教所と呼ばれるもの、大刀洗陸軍飛行学校が閉鎖されるまで稼働していたものが、国内13、国外(朝鮮半島)4の陸軍飛行場に併設されていたとの記録があります。もっともこの大刀洗飛行学校分教所というものが、随時設置されていたものではなく、新設と廃止を繰り返されていたものだったため、実際には「何校」あったか?ということは定かではないのが事実のようです。九州地区に多くあったとされるこの陸軍飛行場に併設された分教所ですが、先の大戦末期に「特別攻撃隊」の拠点となるべく飛行場としての役割に徹することになります。なかでも群を抜いた知名度を持つ場所が、鹿児島県薩摩半島中部の街「知覧(旧知覧町、現南九州市)」になります。<br /><br />知覧に関する記述は、昨年9月に訪れた際に書いていますが、この知覧特攻平和会館敷地内に移設された史跡のひとつに「大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所正門」があります。昭和16(1941)年末知覧航空基地の開設に合わせ、開設された大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所(のちに教育隊に改編)は、僅か3年足らずで解隊。やがて特攻の最前基地となっていきます。そしてこの知覧・万世の飛行場を、まだあどけなさが残る若者達が「菊水作戦」をはじめとする「特攻隊員」として、250kg爆弾を積んだ旧式の戦闘機を操り、ヨロヨロと南方の海へと向かって離陸し、そして帰ってきませんでした。<br /><br />大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所の開設に先立ち、昭和15(1940)年10月に旧陸軍大刀洗飛行場に併設する形で大刀洗陸軍飛行学校が開設されました。戦争の暗い影が忍び寄りつつあった時代ではあるもののまだ比較的余裕があった時代、この大刀洗陸軍飛行学校は、基礎教育を東京陸軍航空学校で終えた、操縦分科の陸軍少年飛行兵となる生徒や、同生徒の課程を修了して上等兵の階級を与えられた少年飛行兵に、飛行機の基本操縦教育を行うことを主な目的として始まりました。しかし太平洋戦争が勃発し、戦況が悪化する中、主流となっていた航空戦の「パイロット」の育成は必要不可欠になってきます。にわか作りではパイロットを育成できないことはわかってはいるものの、それを理由にできない時代背景もあり、既存の少年飛行兵の育成では追いつかず、昭和18(1943)年10月より、学士、若しくはそれに準ずる学歴を受験資格とし、その中から選抜した者を特別操縦見習士官(とくべつそうじゅうみならいしかん:略称-特操)として教育を、各地飛行学校で行うこととなり、その一端をこの大刀洗でも行うようになります。そして翌昭和19(1944)年4月には、航空機操縦部門の約3,250名の陸軍特別幹部候補生(りくぐんとくべつかんぶこうほせい:略称-特幹)が入校し、かつて東洋一と謳われた広大な敷地を持つ旧陸軍大刀洗飛行場と飛行学校は、賑わいをみせるかのように思われました。しかし敗戦色が濃厚となってくる時代背景で、「大空」を舞う「夢」を見て飛行学校へとやってきた若者達は、愚かな「特別攻撃隊」要員として駆り出され、この大刀洗を飛び立って前線の飛行場へと飛んだ後、死出の旅へと向かうことを余儀なくされます。そしてこの軍都大刀洗の街も、昭和20年3月27日・31日に「大刀洗大空襲」と呼ばれる大規模な戦略爆撃を受け、焦土と化します。それに遡ること数ヶ月、大刀洗陸軍飛行学校は第51航空師団の一部に改編されることで歴史の幕を閉じる形になります。その後は主に「特攻隊」の中継基地として使われていましたが、昭和20年6月19日の福岡大空襲、8月6日の広島への原爆投下、8月9日の長崎への原爆投下を経て8月14日のポツダム宣言受諾の後敗戦を迎えます。<br /><br />大正8(1919)年10月に陸軍大刀洗飛行場として産声を上げ、大正14年には日本最大規模の航空基地となったこともあり、昭和4年4月から11年までは民間航空会社の東京・大阪~大陸便の中継基地になったなど、航空戦のみならず民間航空の歴史にも寄与してきたこの旧陸軍大刀洗飛行場と大刀洗陸軍飛行学校、そして軍都大刀洗でしたが、現在では当時の面影はなく、一部その史実を示す石碑が残るのみになっています。昭和14年4月28日に開業した国鉄甘木線も、第一次特定地方交通線として昭和61(1986)年3月31日に廃止、その後を引き継いだ甘木鉄道甘木線の単線線路をトコトコ走っています。たまたまなにかでこの太刀洗の歴史を知った方ならともかく、なにも知らなければそのままで通り過ぎてしまうのかも知れません。九州横断道のひとつである大分自動車道、その下り線(大分方面)のみ途中にある「大刀洗PA」。この「たちあらい」という響きであれっと思われることもあるような話は耳にしたことはありますが、実際にはどうなのでしょうか。<br /><br />またこの「大刀洗」と言う呼称も、「恐ろしい名称」とされることもあるそうなので、その「謂れ」とされるものを紹介します。<br />~太刀洗(たちあらい)伝説~<br />ときは南北朝時代、足利尊氏とタッグを組んで鎌倉幕府最後の執権「北条高時」を倒した後醍醐天皇ではありましたが、その後尊氏と仲違いをしたことで、2人の天皇、即ち尊氏方の京都の北朝方「光明天皇」、対して奈良吉野山後醍醐天皇自らが籠る南朝方、が併存する南北朝時代へと突入します。後醍醐天皇は全国に味方を作るべく、皇子を使者として使わします。征西大将軍として西方向、そして九州に向かったのが懐良親王(かねよししんのう)。この親王を熊本の居城で迎えたのが菊池武光でした。この二人のタッグは余程強烈だったようで、北朝方の九州探題軍を蹴散らして行きます。北朝方劣性を打破するべく双方が対立したことこそ、両軍合わせて10万が戦った「筑後川の戦い」になります。数に勝る北朝方を犠牲者も出しながらなんとか打ち破った南朝方の菊池武光、その血糊が付いた「太刀(刀のこと)」を洗った場所がここ、即ち「太刀洗」だと言われています。この戦いの勝利によって約13年間、九州は南朝方の支配が続くことになります。<br /><br />当然南北朝時代であれば「鉄砲」も伝来していません。であれば刀や槍が武器で、防具は鎧や兜といったところでしょう。それに加えても歩兵か騎兵かという選択肢しかない時代でした。それでも両軍合わせて5,000名が討ち死にしたと言われています。それが近代戦の飛び道具、それも大量破壊兵器が用いられた先の大戦において、東洋一の大刀洗飛行場への戦略爆撃により多数の犠牲者を出したということは、偶然なのかも知れませんが、なにか因果めいたものを感じてしまいます。<br /><br />ひとつ補足になりますが、この旧国鉄太刀洗駅と旧陸軍大刀洗飛行場は、大戦末期に「特攻隊」の前線基地である知覧や万世の飛行場に兵士を送る、また飛行機を送るといった「中継地」として役割を担っていたと先述しましたが、記録では「特攻出撃」があったことが残されています。昭和20(1945)年5月25日、双発機である四式重爆撃機「飛龍」を改造し、「さくら弾」と呼ばれる3tもの爆弾を搭載した「さくら弾機」。前方3km、後方300mを破壊する性能を持つ巨大爆弾「さくら弾」を搭載した最新鋭機とくれば、普通に考えると「攻防の切り札」と考えることが正論にも思えるのですが、この「さくら弾機」、機体の構造物に「ベニヤ板」を用い、片道の燃料しか積ませなかった「特攻専用機」でした。トラブルも多かったこの「さくら弾機」2機に8名の搭乗員を乗せ、大刀洗飛行場から南方へと死出の旅へと向かわれました。特攻出撃するもトラブルで帰投するものもあり、ある程度戦死された場所はわかることが多いにも関わらず、この「さくら弾機」の機体や搭乗員の方々の消息はわかっていません。爆装した97式戦闘機が不時着水しても誘爆は起こさず、51年の時を経て蘇ったのは偶然が重なったこともあるかも知れませんが、この「さくら弾機」の場合、装備的にも同様なことが起こるとも思えないことになにかやるせなさを感じます。確かこのことは、大刀洗平和記念館の展示資料に書いてあったと思いますが、紐解いた文献には記述がなかったため、敢えてこの場で再掲しておきます。<br /><br />太刀洗伝説によって産声をあげ、東洋一の飛行場に併設の飛行学校があった時代も過ぎた昭和20年。特攻隊員を見送った駅がある街は、戦略爆撃によって焦土と化した時を経て、昭和天皇の玉音放送により終戦を知りました。そして高度成長期に沸いた時も過ぎた昭和49(1974)年頃、この大刀洗在住の方がふらりと訪れた知覧に於いて、偶然雨宿りをするために飛びこんだ小屋で運命的な出会いをされることとなります。板津忠正氏、特攻隊の生き残りとして復員された後、地元で役所勤めの傍ら、1973年(昭和48年)頃から、全国の同期生の遺族を訪ね歩き、遺品を収集しては基地のあった知覧に展示し、慰霊を続けておられました。1978年(昭和53年)3月、知覧公園休憩所の一角に「知覧特攻遺品館」の完成時に、集めた遺品や遺影を遺品館に寄贈されます。しかし八畳一間くらいの小さな遺品室は、年々増える観覧者や遺品収集ですぐに手狭となってしまいます。そして1987年(昭和62年)に旧知覧町のまちづくり特別対策事業の一環として、現在の「知覧特攻平和会館」が新しく建てられることになり、初代の館長に就任されます。<br />(注)板津忠正氏は平成27(2015)年4月6日に90歳で逝去されました。ここに謹んでご冥福をお祈り致します。<br /><br />そして知覧を訪れた方は渕上宗重氏。地元福岡県朝倉市で建設業を営んでおられましたが、知覧を訪れた目的は趣味の「写真撮影」のためだったそうです。なのでそのときは全く「特攻基地」のことは念頭になかったことでした。偶然にも知覧で「大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所」と書かれた「門柱」の写真を目のあたりにし、それに加え板津氏の「考え」に触発された渕上氏は、「知覧分教所」の「本校」であった「大刀洗陸軍飛行学校」の資料館がない現状、ならば作らければという想いに駆られ、当時の関係市町村に働き掛けますが、回答はダメ。当時の行政を取り巻く環境では、とても「公」の立場では作ることができないとの理由だったそうです。<br /><br />月日は流れ、国鉄甘木線が「第一次特定地方交通線」として昭和61(1986)年3月31日に廃止されます。それを引き継いだ第三セクターの甘木鉄道では、駅無人化に伴い、太刀洗駅舎も取り壊される憂き目に直面します。その駅舎を維持管理や修理を自分で行うことを条件にし、無償で借り受けられた渕上氏は、昭和62(1987)年4月に私設記念館としての「大刀洗平和記念館」を開設されます。以後渕上氏は、特攻隊員の遺書や遺品などを集めるために全国を回られることになります。<br /><br />私設「大刀洗平和記念館」を開設されてしばらく経った平成8(1996)年9月10日、博多湾の水深3mから一機の旧陸軍97式戦闘機が引き揚げられました。搭乗者はコクピットに残された箸箱から、渡辺利廣陸軍少尉だったことが判明します。沖縄戦への特攻出撃を命じられ、満州から朝鮮半島を経て、知覧飛行場へ向かう途中に雁の巣沖に不時着したものでした。<br /><br />この97式戦闘機は、それまでになかった「低翼単葉(コクピットより下方に一枚の主翼が付いているもの)機」であり、列強の新鋭機で主流だった「引込脚」ではなく頑丈な”固定脚”を採用していることは、ある意味斬新なものではあったようです。しかし軽量小型で馬力不足のエンジンでは、落下燃料タンクを両翼に取り付け、さらに250キロ爆弾を搭載して飛行するには、離陸から飛行まで常時エンジンを最大出力にしておく必要があったため、エンジンが焼きつきを起こして停止するなど故障が頻発し、出撃不能や帰投が続出する結果を生むことになります。この97式戦闘機も同様の理由から不時着し、海没したものと推測されています。<br /><br />搭乗員であった渡辺利廣少尉は、その後別の97式戦闘機で知覧から沖縄へ特攻出撃され戦死されます。この旧陸軍97式戦闘機ですが、現存する世界で「唯一」の機体であるがゆえ、九州各地の戦争資料展示施設からの引き取り希望が相次ぎます。そのあたりのやり取りについて記述しているものがなく推論の域ではあるのですが、この渡辺利廣少尉も朝鮮半島を出発後、大刀洗飛行場を経由し知覧へ向かうようになっていたのではないかと思います。それゆえ第一の引渡し先として、大刀洗飛行場所縁の地である甘木市、旧三輪町(現筑前町)、大刀洗町の一市二町が選ばれたのではないでしょうか。<br /><br />しかし引き渡されたまでは良しとして、51年もの間海中に沈んでいた戦闘機の損傷は激しく、解体修理・復元にどれくらいの費用が掛るものなのかを航空機メーカーに問い合わせたところ、1億~1億5千万と言う金額が掛るとのこと…。そこでこの渕上氏、先述のように当時「建設業」を営んでおられ、それを生かして「ならば10分の1のコストで自分たちでやってみよう」と素人には到底発想すらできないことを始められます。廃校になった学校のプールに浸し塩分の除去を行い、エンジン部分は解体清掃、そして修復されることに成功されます。そしてレストアされた97式戦闘機は、旧大刀洗平和記念館に搬入され、平成9(1997)年8月に一般公開されることになります。<br /><br />そんな遍歴を経て動き始めた私設大刀洗平和記念館でしたが、遺族の賛同を得て、少年飛行兵や特攻隊員の方々の遺影や遺書、そして97式戦闘機など約2,000点が集まったものの、開館後10年程はほとんど来館者がなかったそうです。しかしやめるわけにはいかなかった…、それは遺族から寄せられた特攻兵・少年飛行兵の遺影が130枚程あり、それを預かった以上責任は取らないといけない想いがあり、「身代わり観音」を安置し朝夕の供養を欠かさず続けられたことを回想し、語っておられたそうです。<br /><br />時は過ぎ、平成17(2005)年3月22日にこの97式戦闘機の譲渡先のひとつである旧三和町が、合併により現筑前町となりました。その際の合併特例債を利用し、筑前町立大刀洗平和記念館が開館する運びとなり渕上氏が開設した私設大刀洗平和会館は、平成20(2008)年12月をもって一旦閉館し、遺影や97式戦闘機を含む殆どの資料は、国道500号線を隔てた向かいの筑前町立大刀洗平和記念館へと移管されます。その他開設にあたり福岡航空宇宙協会から、こちらも世界に現存する唯一の実機である海軍252航空隊所属の「零式艦上戦闘機三二型」が寄贈されるなど展示内容を更に充実させ、平成21(2009)年10月3日に飛行機の格納庫を模した「カマボコ」型の外観を持つ筑前町立大刀洗平和記念館はオープンします。<br /><br />渕上氏の手によって、旧国鉄甘木線太刀洗駅舎を「再利用」して生まれた旧大刀洗平和記念館は約22年の役目を終え、筑前町立大刀洗平和会館の開設に合わせて、「未来への始発駅・太刀洗レトロステーション」として生まれ変わります。館内には、昭和を彷彿させる貴重な品々が展示されている他、戦時中そのままの姿で太刀洗駅改札口、線路地下道やそれへの下り口などが保存されており、戦地へと向かう兵士とその家族が別れを惜しみ、終戦間近には多くの旧陸軍特攻隊員が出撃基地である「大刀洗航空隊・知覧分駐隊」へと向かう姿を見守った時代の生き証人として、後世に「平和の尊さ」を静かに語りかけてくれています。それら古きよき昭和時代の「日常」と「非日常」を同時に体感することができることで、平和記念館とはまた違ったものを感じることができる場所になっています。そのひとつに旧太刀洗駅舎の線路地下道への下り口には、「別れの駅太刀洗」という説明書きが残されています。<br /><br />現在では地方ローカル線のひとつの無人駅にしか過ぎないこの「太刀洗駅」にこのような悲しい過去があったことは、なにも書かれていなければわからないと思いますが、その反面ただ目立てばいいという訳でもないように思います。しかし写真で切り取ったように、本当にさりげなく、そして自然な感じで書かれていることにより、胸を打たれる方も多いのではないでしょうか。これがドラマや映画の世界ではなく、僅か70年前に起こった史実であるということに…。<br /><br />今回は筑前町立大刀洗平和記念館のみ駆け足で回ったに過ぎませんが、その設立にまつわる話として、旧大刀洗平和記念館である渕上宗重氏が私設されたものの「謂れ」を含め紹介しています。そのため表記にややこしいところがあることはご容赦頂きたいのですが、今回訪れた福岡の戦争関連の資料館にも三者三様あることを知りました。碓井平和祈念館、そして筑前町立平和記念館。どちらも始まりは私設された資料館が起源になっているものの、公立の施設として至っている現在では、運用に大きな差があるように思います。知名度や来館者数の問題もあるには違いないと思いますが、何より施設がかもし出す「設立理念」のブレのようなものを感じます。旧大刀洗平和記念館から筑前町立大刀洗平和記念館に移行する際には、その土地の所縁によって寄贈された97式戦闘機をはじめとするほぼ全てのものを受け入れて開館し、旧施設は新たに「太刀洗レトロステーション」として、また従来とは違った「コンセプト」のもとで開館し、この両者が絶妙な位置付けで並存することで良い意味で影響し合っているように思えます。しかし残念なことに、「碓井平和祈念館」と「兵士・庶民の戦争博物館」の場合は、それ程違った「コンセプト」を持っている訳ではないため、結果細やかに対応をされている「兵士・庶民の戦争博物館」の方がはるかに大きな存在感を持たれてしまう、そう思えてなりません。私自身旧大刀洗平和記念館を見学したことがないので、単純に比較論を言うことはできませんが、来館者にそう取られないように筑前町立大刀洗平和記念館では、公の機関ならではの「戦跡フィールドワーク」として、大刀洗やその周辺の街を歩いて回ることや、所縁の万世や知覧の慰霊祭への出席、そしてそれらの報告をSNSを用いて拡散を図っておられるなど、「ここならでは」のメリットやモチベーションなどがよくわかります。そして礎を作られた渕上宗重氏も、太刀洗レトロステーションには唯一「身代わり観音」を残されたものの、あとは平和記念館に託し、運営をされています。このあたりが大きな違いとなり、現状に至っているのではないかと思います。<br /><br />最後にひとつ、「たちあらい」の漢字の表記について「たちあらい」を変換すると、「大刀洗」と「太刀洗」のふた通りの結果が出ます。両方共間違いではないのですが、筑後平野北部の福岡県三井郡(みいぐん)大刀洗町には甘木鉄道西太刀洗駅、朝倉郡筑前町にある大刀洗平和記念館と甘木鉄道太刀洗駅があります。ちなみに旧日本陸軍大刀洗飛行場であり大刀洗陸軍飛行学校です。ややこしいですが、何故このようになってしまったかと言うと、単純に1889年に町村制が発足した際、村が「太刀洗村」と申請していたものが「大刀洗村」として官報に掲載されてしまったためだそうです。コロンブスのタマゴ状態ですが、やはり「使われ方」は把握して記述したほうが良いように思います。<br /><br />今回は時間が足りず、大刀洗の街歩きを含め、やり残したことが多々あります。そのことも踏まえ、近日中にもう一度大刀洗の街を訪れ、今度は時間を気にすることもなくゆっくり回りたいと思いつつ、この【通番009】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅福岡壱之③~大刀洗平和記念館編~を終わります。<br /><br /><br /><br />以下興味が湧いたらご覧下さい。<br />~戦跡を巡る旅シリーズ~<br /><br />【通番001】さんふらわあで航(い)く鹿児島陸軍特攻戦跡を訪ねる旅~万世・知覧編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10933877<br /><br />【通番002】さんふらわあで航(い)く鹿児島海軍特攻戦跡を巡る旅~笠之原・串良・鹿屋編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10933914<br /><br />【通番003】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅沖縄壱之①~豊見城・旧海軍司令部壕編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10963283<br /><br />【通番004】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅沖縄壱之②~宜野湾・嘉数(かかず)高台公園《私見》沖縄戦解釈編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10981023<br /><br />【通番005】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅滋賀壱之①~滋賀県平和祈念館・陸軍八日市飛行場跡編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10974454<br /><br />【通番006】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅福岡壱之①~碓井平和祈念館編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10990537<br /><br />【通番007】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅福岡壱之②~武富戦争資料館(兵士・庶民の戦争資料館)編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10990699<br /><br />【通番009】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅鹿児島その弐~喜界島戦争史跡:戦闘指揮所跡・海軍航空基地戦没者慰霊之碑・掩体壕編~<br />http://4travel.jp/travelogue/11015120<br /><br />※未完成<br />【通番010】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅沖縄壱之③~石垣島・八重山平和祈念会館とバンナ公園編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10964521

第九章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~福岡:大刀洗平和記念館編~

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2015/03/08 - 2015/03/11

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たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。

たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん

【通番009】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅福岡壱之③~大刀洗平和記念館編~

2014年7月に訪れた沖縄県摩文仁の平和祈念公園に端を発した先の大戦における戦跡巡りの旅ですが、今回は福岡県の戦争を題材としている施設を訪ねるべくやってきました。福岡の旅ラストは、昨年秋に訪れた万世・知覧とつながりの深い旧陸軍大刀洗飛行場跡地に作られた筑前町立大刀洗平和記念館にやって来ました。

【施設概要】
筑前町立大刀洗平和記念館(ちくぜんちょうりつたちあらいへいわきねんかん)
〒838-0814 福岡県朝倉郡筑前町高田2561-1
TEL:0946-23-1227
E-mail:tachiarai-heiwa@jewel.ocn.ne.jp
開館時間:9:00~17:00(入館は16:30まで)
休館日:年末年始(12月29日~1月3日)
入場料:大人500円(JAF割引適用で400円)

【大刀洗陸軍飛行場・沿革】
大刀洗陸軍飛行場(たちあらいりくぐんひこうじょう)は、現在の福岡県三井郡大刀洗町と朝倉郡筑前町にまたがる地域にあった日本陸軍の飛行場です。大正5(1916)年に陸軍が計画し、大正8(1919)年10月に完成した飛行場です。土地の選定理由として、中国大陸に向かう航空隊の中継基地としての役割、海岸から距離があり敵艦隊の艦砲射撃の影響を受けないこと、飛行場に適した広大で障害物のない場所であることなどが考慮されています。昭和12(1937)年頃より飛行場に付随する施設が増え、陸軍航空兵の飛行機操縦教育における拠点のひとつとなりました。主滑走路(重爆撃機用:長さ1.3km・幅50m)と補助滑走路(戦闘機用:長さ1.1km・幅10m)の二本を兼ね備えている”東洋一の飛行場”として名を馳せ、太平洋戦争終盤には本土防衛の一翼を担うものの、終戦間近にアメリカ軍の空襲を受けて壊滅的な被害を受けました。終戦後、飛行場用地は農地およびキリンビール福岡工場用地に転用され、現在では当時の門柱や時計台(慰霊碑として改修)、監的壕(かんてきごう:ここに入って爆撃の命中を確認するもの)、井戸が原地蔵公民館付近に保存されています。

【大刀洗陸軍飛行学校・沿革】
大刀洗陸軍飛行学校(たちあらいりくぐんひこうがっこう)は、日本陸軍の軍学校のひとつで、飛行機操縦に従事する少年飛行兵となる生徒および少年飛行兵、あるいは特別幹部候補生その他を教育する飛行学校であり、主として飛行機の基本操縦教育を行っていました。1940年(昭和15年)10月に設立され、1945年(昭和20年)2月に航空師団の一部に改編のため閉鎖されました。学校本部および本校は福岡県三井郡大刀洗村に置かれ、ほかに各地に分教所または教育隊がありました。

この分教所と呼ばれるもの、大刀洗陸軍飛行学校が閉鎖されるまで稼働していたものが、国内13、国外(朝鮮半島)4の陸軍飛行場に併設されていたとの記録があります。もっともこの大刀洗飛行学校分教所というものが、随時設置されていたものではなく、新設と廃止を繰り返されていたものだったため、実際には「何校」あったか?ということは定かではないのが事実のようです。九州地区に多くあったとされるこの陸軍飛行場に併設された分教所ですが、先の大戦末期に「特別攻撃隊」の拠点となるべく飛行場としての役割に徹することになります。なかでも群を抜いた知名度を持つ場所が、鹿児島県薩摩半島中部の街「知覧(旧知覧町、現南九州市)」になります。

知覧に関する記述は、昨年9月に訪れた際に書いていますが、この知覧特攻平和会館敷地内に移設された史跡のひとつに「大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所正門」があります。昭和16(1941)年末知覧航空基地の開設に合わせ、開設された大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所(のちに教育隊に改編)は、僅か3年足らずで解隊。やがて特攻の最前基地となっていきます。そしてこの知覧・万世の飛行場を、まだあどけなさが残る若者達が「菊水作戦」をはじめとする「特攻隊員」として、250kg爆弾を積んだ旧式の戦闘機を操り、ヨロヨロと南方の海へと向かって離陸し、そして帰ってきませんでした。

大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所の開設に先立ち、昭和15(1940)年10月に旧陸軍大刀洗飛行場に併設する形で大刀洗陸軍飛行学校が開設されました。戦争の暗い影が忍び寄りつつあった時代ではあるもののまだ比較的余裕があった時代、この大刀洗陸軍飛行学校は、基礎教育を東京陸軍航空学校で終えた、操縦分科の陸軍少年飛行兵となる生徒や、同生徒の課程を修了して上等兵の階級を与えられた少年飛行兵に、飛行機の基本操縦教育を行うことを主な目的として始まりました。しかし太平洋戦争が勃発し、戦況が悪化する中、主流となっていた航空戦の「パイロット」の育成は必要不可欠になってきます。にわか作りではパイロットを育成できないことはわかってはいるものの、それを理由にできない時代背景もあり、既存の少年飛行兵の育成では追いつかず、昭和18(1943)年10月より、学士、若しくはそれに準ずる学歴を受験資格とし、その中から選抜した者を特別操縦見習士官(とくべつそうじゅうみならいしかん:略称-特操)として教育を、各地飛行学校で行うこととなり、その一端をこの大刀洗でも行うようになります。そして翌昭和19(1944)年4月には、航空機操縦部門の約3,250名の陸軍特別幹部候補生(りくぐんとくべつかんぶこうほせい:略称-特幹)が入校し、かつて東洋一と謳われた広大な敷地を持つ旧陸軍大刀洗飛行場と飛行学校は、賑わいをみせるかのように思われました。しかし敗戦色が濃厚となってくる時代背景で、「大空」を舞う「夢」を見て飛行学校へとやってきた若者達は、愚かな「特別攻撃隊」要員として駆り出され、この大刀洗を飛び立って前線の飛行場へと飛んだ後、死出の旅へと向かうことを余儀なくされます。そしてこの軍都大刀洗の街も、昭和20年3月27日・31日に「大刀洗大空襲」と呼ばれる大規模な戦略爆撃を受け、焦土と化します。それに遡ること数ヶ月、大刀洗陸軍飛行学校は第51航空師団の一部に改編されることで歴史の幕を閉じる形になります。その後は主に「特攻隊」の中継基地として使われていましたが、昭和20年6月19日の福岡大空襲、8月6日の広島への原爆投下、8月9日の長崎への原爆投下を経て8月14日のポツダム宣言受諾の後敗戦を迎えます。

大正8(1919)年10月に陸軍大刀洗飛行場として産声を上げ、大正14年には日本最大規模の航空基地となったこともあり、昭和4年4月から11年までは民間航空会社の東京・大阪~大陸便の中継基地になったなど、航空戦のみならず民間航空の歴史にも寄与してきたこの旧陸軍大刀洗飛行場と大刀洗陸軍飛行学校、そして軍都大刀洗でしたが、現在では当時の面影はなく、一部その史実を示す石碑が残るのみになっています。昭和14年4月28日に開業した国鉄甘木線も、第一次特定地方交通線として昭和61(1986)年3月31日に廃止、その後を引き継いだ甘木鉄道甘木線の単線線路をトコトコ走っています。たまたまなにかでこの太刀洗の歴史を知った方ならともかく、なにも知らなければそのままで通り過ぎてしまうのかも知れません。九州横断道のひとつである大分自動車道、その下り線(大分方面)のみ途中にある「大刀洗PA」。この「たちあらい」という響きであれっと思われることもあるような話は耳にしたことはありますが、実際にはどうなのでしょうか。

またこの「大刀洗」と言う呼称も、「恐ろしい名称」とされることもあるそうなので、その「謂れ」とされるものを紹介します。
~太刀洗(たちあらい)伝説~
ときは南北朝時代、足利尊氏とタッグを組んで鎌倉幕府最後の執権「北条高時」を倒した後醍醐天皇ではありましたが、その後尊氏と仲違いをしたことで、2人の天皇、即ち尊氏方の京都の北朝方「光明天皇」、対して奈良吉野山後醍醐天皇自らが籠る南朝方、が併存する南北朝時代へと突入します。後醍醐天皇は全国に味方を作るべく、皇子を使者として使わします。征西大将軍として西方向、そして九州に向かったのが懐良親王(かねよししんのう)。この親王を熊本の居城で迎えたのが菊池武光でした。この二人のタッグは余程強烈だったようで、北朝方の九州探題軍を蹴散らして行きます。北朝方劣性を打破するべく双方が対立したことこそ、両軍合わせて10万が戦った「筑後川の戦い」になります。数に勝る北朝方を犠牲者も出しながらなんとか打ち破った南朝方の菊池武光、その血糊が付いた「太刀(刀のこと)」を洗った場所がここ、即ち「太刀洗」だと言われています。この戦いの勝利によって約13年間、九州は南朝方の支配が続くことになります。

当然南北朝時代であれば「鉄砲」も伝来していません。であれば刀や槍が武器で、防具は鎧や兜といったところでしょう。それに加えても歩兵か騎兵かという選択肢しかない時代でした。それでも両軍合わせて5,000名が討ち死にしたと言われています。それが近代戦の飛び道具、それも大量破壊兵器が用いられた先の大戦において、東洋一の大刀洗飛行場への戦略爆撃により多数の犠牲者を出したということは、偶然なのかも知れませんが、なにか因果めいたものを感じてしまいます。

ひとつ補足になりますが、この旧国鉄太刀洗駅と旧陸軍大刀洗飛行場は、大戦末期に「特攻隊」の前線基地である知覧や万世の飛行場に兵士を送る、また飛行機を送るといった「中継地」として役割を担っていたと先述しましたが、記録では「特攻出撃」があったことが残されています。昭和20(1945)年5月25日、双発機である四式重爆撃機「飛龍」を改造し、「さくら弾」と呼ばれる3tもの爆弾を搭載した「さくら弾機」。前方3km、後方300mを破壊する性能を持つ巨大爆弾「さくら弾」を搭載した最新鋭機とくれば、普通に考えると「攻防の切り札」と考えることが正論にも思えるのですが、この「さくら弾機」、機体の構造物に「ベニヤ板」を用い、片道の燃料しか積ませなかった「特攻専用機」でした。トラブルも多かったこの「さくら弾機」2機に8名の搭乗員を乗せ、大刀洗飛行場から南方へと死出の旅へと向かわれました。特攻出撃するもトラブルで帰投するものもあり、ある程度戦死された場所はわかることが多いにも関わらず、この「さくら弾機」の機体や搭乗員の方々の消息はわかっていません。爆装した97式戦闘機が不時着水しても誘爆は起こさず、51年の時を経て蘇ったのは偶然が重なったこともあるかも知れませんが、この「さくら弾機」の場合、装備的にも同様なことが起こるとも思えないことになにかやるせなさを感じます。確かこのことは、大刀洗平和記念館の展示資料に書いてあったと思いますが、紐解いた文献には記述がなかったため、敢えてこの場で再掲しておきます。

太刀洗伝説によって産声をあげ、東洋一の飛行場に併設の飛行学校があった時代も過ぎた昭和20年。特攻隊員を見送った駅がある街は、戦略爆撃によって焦土と化した時を経て、昭和天皇の玉音放送により終戦を知りました。そして高度成長期に沸いた時も過ぎた昭和49(1974)年頃、この大刀洗在住の方がふらりと訪れた知覧に於いて、偶然雨宿りをするために飛びこんだ小屋で運命的な出会いをされることとなります。板津忠正氏、特攻隊の生き残りとして復員された後、地元で役所勤めの傍ら、1973年(昭和48年)頃から、全国の同期生の遺族を訪ね歩き、遺品を収集しては基地のあった知覧に展示し、慰霊を続けておられました。1978年(昭和53年)3月、知覧公園休憩所の一角に「知覧特攻遺品館」の完成時に、集めた遺品や遺影を遺品館に寄贈されます。しかし八畳一間くらいの小さな遺品室は、年々増える観覧者や遺品収集ですぐに手狭となってしまいます。そして1987年(昭和62年)に旧知覧町のまちづくり特別対策事業の一環として、現在の「知覧特攻平和会館」が新しく建てられることになり、初代の館長に就任されます。
(注)板津忠正氏は平成27(2015)年4月6日に90歳で逝去されました。ここに謹んでご冥福をお祈り致します。

そして知覧を訪れた方は渕上宗重氏。地元福岡県朝倉市で建設業を営んでおられましたが、知覧を訪れた目的は趣味の「写真撮影」のためだったそうです。なのでそのときは全く「特攻基地」のことは念頭になかったことでした。偶然にも知覧で「大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所」と書かれた「門柱」の写真を目のあたりにし、それに加え板津氏の「考え」に触発された渕上氏は、「知覧分教所」の「本校」であった「大刀洗陸軍飛行学校」の資料館がない現状、ならば作らければという想いに駆られ、当時の関係市町村に働き掛けますが、回答はダメ。当時の行政を取り巻く環境では、とても「公」の立場では作ることができないとの理由だったそうです。

月日は流れ、国鉄甘木線が「第一次特定地方交通線」として昭和61(1986)年3月31日に廃止されます。それを引き継いだ第三セクターの甘木鉄道では、駅無人化に伴い、太刀洗駅舎も取り壊される憂き目に直面します。その駅舎を維持管理や修理を自分で行うことを条件にし、無償で借り受けられた渕上氏は、昭和62(1987)年4月に私設記念館としての「大刀洗平和記念館」を開設されます。以後渕上氏は、特攻隊員の遺書や遺品などを集めるために全国を回られることになります。

私設「大刀洗平和記念館」を開設されてしばらく経った平成8(1996)年9月10日、博多湾の水深3mから一機の旧陸軍97式戦闘機が引き揚げられました。搭乗者はコクピットに残された箸箱から、渡辺利廣陸軍少尉だったことが判明します。沖縄戦への特攻出撃を命じられ、満州から朝鮮半島を経て、知覧飛行場へ向かう途中に雁の巣沖に不時着したものでした。

この97式戦闘機は、それまでになかった「低翼単葉(コクピットより下方に一枚の主翼が付いているもの)機」であり、列強の新鋭機で主流だった「引込脚」ではなく頑丈な”固定脚”を採用していることは、ある意味斬新なものではあったようです。しかし軽量小型で馬力不足のエンジンでは、落下燃料タンクを両翼に取り付け、さらに250キロ爆弾を搭載して飛行するには、離陸から飛行まで常時エンジンを最大出力にしておく必要があったため、エンジンが焼きつきを起こして停止するなど故障が頻発し、出撃不能や帰投が続出する結果を生むことになります。この97式戦闘機も同様の理由から不時着し、海没したものと推測されています。

搭乗員であった渡辺利廣少尉は、その後別の97式戦闘機で知覧から沖縄へ特攻出撃され戦死されます。この旧陸軍97式戦闘機ですが、現存する世界で「唯一」の機体であるがゆえ、九州各地の戦争資料展示施設からの引き取り希望が相次ぎます。そのあたりのやり取りについて記述しているものがなく推論の域ではあるのですが、この渡辺利廣少尉も朝鮮半島を出発後、大刀洗飛行場を経由し知覧へ向かうようになっていたのではないかと思います。それゆえ第一の引渡し先として、大刀洗飛行場所縁の地である甘木市、旧三輪町(現筑前町)、大刀洗町の一市二町が選ばれたのではないでしょうか。

しかし引き渡されたまでは良しとして、51年もの間海中に沈んでいた戦闘機の損傷は激しく、解体修理・復元にどれくらいの費用が掛るものなのかを航空機メーカーに問い合わせたところ、1億~1億5千万と言う金額が掛るとのこと…。そこでこの渕上氏、先述のように当時「建設業」を営んでおられ、それを生かして「ならば10分の1のコストで自分たちでやってみよう」と素人には到底発想すらできないことを始められます。廃校になった学校のプールに浸し塩分の除去を行い、エンジン部分は解体清掃、そして修復されることに成功されます。そしてレストアされた97式戦闘機は、旧大刀洗平和記念館に搬入され、平成9(1997)年8月に一般公開されることになります。

そんな遍歴を経て動き始めた私設大刀洗平和記念館でしたが、遺族の賛同を得て、少年飛行兵や特攻隊員の方々の遺影や遺書、そして97式戦闘機など約2,000点が集まったものの、開館後10年程はほとんど来館者がなかったそうです。しかしやめるわけにはいかなかった…、それは遺族から寄せられた特攻兵・少年飛行兵の遺影が130枚程あり、それを預かった以上責任は取らないといけない想いがあり、「身代わり観音」を安置し朝夕の供養を欠かさず続けられたことを回想し、語っておられたそうです。

時は過ぎ、平成17(2005)年3月22日にこの97式戦闘機の譲渡先のひとつである旧三和町が、合併により現筑前町となりました。その際の合併特例債を利用し、筑前町立大刀洗平和記念館が開館する運びとなり渕上氏が開設した私設大刀洗平和会館は、平成20(2008)年12月をもって一旦閉館し、遺影や97式戦闘機を含む殆どの資料は、国道500号線を隔てた向かいの筑前町立大刀洗平和記念館へと移管されます。その他開設にあたり福岡航空宇宙協会から、こちらも世界に現存する唯一の実機である海軍252航空隊所属の「零式艦上戦闘機三二型」が寄贈されるなど展示内容を更に充実させ、平成21(2009)年10月3日に飛行機の格納庫を模した「カマボコ」型の外観を持つ筑前町立大刀洗平和記念館はオープンします。

渕上氏の手によって、旧国鉄甘木線太刀洗駅舎を「再利用」して生まれた旧大刀洗平和記念館は約22年の役目を終え、筑前町立大刀洗平和会館の開設に合わせて、「未来への始発駅・太刀洗レトロステーション」として生まれ変わります。館内には、昭和を彷彿させる貴重な品々が展示されている他、戦時中そのままの姿で太刀洗駅改札口、線路地下道やそれへの下り口などが保存されており、戦地へと向かう兵士とその家族が別れを惜しみ、終戦間近には多くの旧陸軍特攻隊員が出撃基地である「大刀洗航空隊・知覧分駐隊」へと向かう姿を見守った時代の生き証人として、後世に「平和の尊さ」を静かに語りかけてくれています。それら古きよき昭和時代の「日常」と「非日常」を同時に体感することができることで、平和記念館とはまた違ったものを感じることができる場所になっています。そのひとつに旧太刀洗駅舎の線路地下道への下り口には、「別れの駅太刀洗」という説明書きが残されています。

現在では地方ローカル線のひとつの無人駅にしか過ぎないこの「太刀洗駅」にこのような悲しい過去があったことは、なにも書かれていなければわからないと思いますが、その反面ただ目立てばいいという訳でもないように思います。しかし写真で切り取ったように、本当にさりげなく、そして自然な感じで書かれていることにより、胸を打たれる方も多いのではないでしょうか。これがドラマや映画の世界ではなく、僅か70年前に起こった史実であるということに…。

今回は筑前町立大刀洗平和記念館のみ駆け足で回ったに過ぎませんが、その設立にまつわる話として、旧大刀洗平和記念館である渕上宗重氏が私設されたものの「謂れ」を含め紹介しています。そのため表記にややこしいところがあることはご容赦頂きたいのですが、今回訪れた福岡の戦争関連の資料館にも三者三様あることを知りました。碓井平和祈念館、そして筑前町立平和記念館。どちらも始まりは私設された資料館が起源になっているものの、公立の施設として至っている現在では、運用に大きな差があるように思います。知名度や来館者数の問題もあるには違いないと思いますが、何より施設がかもし出す「設立理念」のブレのようなものを感じます。旧大刀洗平和記念館から筑前町立大刀洗平和記念館に移行する際には、その土地の所縁によって寄贈された97式戦闘機をはじめとするほぼ全てのものを受け入れて開館し、旧施設は新たに「太刀洗レトロステーション」として、また従来とは違った「コンセプト」のもとで開館し、この両者が絶妙な位置付けで並存することで良い意味で影響し合っているように思えます。しかし残念なことに、「碓井平和祈念館」と「兵士・庶民の戦争博物館」の場合は、それ程違った「コンセプト」を持っている訳ではないため、結果細やかに対応をされている「兵士・庶民の戦争博物館」の方がはるかに大きな存在感を持たれてしまう、そう思えてなりません。私自身旧大刀洗平和記念館を見学したことがないので、単純に比較論を言うことはできませんが、来館者にそう取られないように筑前町立大刀洗平和記念館では、公の機関ならではの「戦跡フィールドワーク」として、大刀洗やその周辺の街を歩いて回ることや、所縁の万世や知覧の慰霊祭への出席、そしてそれらの報告をSNSを用いて拡散を図っておられるなど、「ここならでは」のメリットやモチベーションなどがよくわかります。そして礎を作られた渕上宗重氏も、太刀洗レトロステーションには唯一「身代わり観音」を残されたものの、あとは平和記念館に託し、運営をされています。このあたりが大きな違いとなり、現状に至っているのではないかと思います。

最後にひとつ、「たちあらい」の漢字の表記について「たちあらい」を変換すると、「大刀洗」と「太刀洗」のふた通りの結果が出ます。両方共間違いではないのですが、筑後平野北部の福岡県三井郡(みいぐん)大刀洗町には甘木鉄道西太刀洗駅、朝倉郡筑前町にある大刀洗平和記念館と甘木鉄道太刀洗駅があります。ちなみに旧日本陸軍大刀洗飛行場であり大刀洗陸軍飛行学校です。ややこしいですが、何故このようになってしまったかと言うと、単純に1889年に町村制が発足した際、村が「太刀洗村」と申請していたものが「大刀洗村」として官報に掲載されてしまったためだそうです。コロンブスのタマゴ状態ですが、やはり「使われ方」は把握して記述したほうが良いように思います。

今回は時間が足りず、大刀洗の街歩きを含め、やり残したことが多々あります。そのことも踏まえ、近日中にもう一度大刀洗の街を訪れ、今度は時間を気にすることもなくゆっくり回りたいと思いつつ、この【通番009】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅福岡壱之③~大刀洗平和記念館編~を終わります。



以下興味が湧いたらご覧下さい。
~戦跡を巡る旅シリーズ~

【通番001】さんふらわあで航(い)く鹿児島陸軍特攻戦跡を訪ねる旅~万世・知覧編~
http://4travel.jp/travelogue/10933877

【通番002】さんふらわあで航(い)く鹿児島海軍特攻戦跡を巡る旅~笠之原・串良・鹿屋編~
http://4travel.jp/travelogue/10933914

【通番003】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅沖縄壱之①~豊見城・旧海軍司令部壕編~
http://4travel.jp/travelogue/10963283

【通番004】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅沖縄壱之②~宜野湾・嘉数(かかず)高台公園《私見》沖縄戦解釈編~
http://4travel.jp/travelogue/10981023

【通番005】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅滋賀壱之①~滋賀県平和祈念館・陸軍八日市飛行場跡編~
http://4travel.jp/travelogue/10974454

【通番006】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅福岡壱之①~碓井平和祈念館編~
http://4travel.jp/travelogue/10990537

【通番007】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅福岡壱之②~武富戦争資料館(兵士・庶民の戦争資料館)編~
http://4travel.jp/travelogue/10990699

【通番009】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅鹿児島その弐~喜界島戦争史跡:戦闘指揮所跡・海軍航空基地戦没者慰霊之碑・掩体壕編~
http://4travel.jp/travelogue/11015120

※未完成
【通番010】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅沖縄壱之③~石垣島・八重山平和祈念会館とバンナ公園編~
http://4travel.jp/travelogue/10964521

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ホテル
4.0
グルメ
5.0
交通
4.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
3万円 - 5万円
交通手段
高速・路線バス レンタカー JRローカル 自家用車 徒歩 ジェットスター

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