和歌山市北部には、大谷古墳や鳴滝遺跡のほか、晒山(さらしやま)古墳群、雨ケ谷古墳群、鳴滝古墳群などの古墳が密集しています。...
続きを読む
このエリアには、現在の楠見小学校も含まれます。
昭和42年、楠見小学校の校舎増築工事の際に調査を行ったところ、杯、高杯、壺などの土師器や、甕、壺、器台、鉢などの須恵器が大量に発見されました。
土師器は、弥生式土器と同じように手で成形した土器を「野焼き(地面に穴を掘って土器を並べ、回りに木材を置いて大きな焚き火をおこして焼き上げる)」という技法を用いて焼くもので、いわゆる「素焼き」の一種です。これに対して、須恵器というのは、轆轤を使って形を整えた土器を、登り窯という設備を使って高温(1,100度~1,200度)で焼き固めたもので、「陶質土器」とも呼ばれます。
土師器が縄文時代から弥生時代へと続く日本の歴史とともに発達してきた技法であるのに対して、須恵器は4世紀末頃に朝鮮半島から日本に伝えられた技法であると言われています。土師器と比べて非常に硬く、水漏れしにくいという性質を持つ須恵器は非常に重宝されますが、轆轤や登り窯という当時としては最先端の技術を駆使して作られるものであったため、どこでも誰でも作れるというものではなかったようです。
日本最古の須恵器生産地は堺から岸和田にかけての大阪府南部だと言われていますが、楠見小学校のあたりでもこれとあまり変わらない時期に須恵器の生産をするための窯が設けられていたと推定されています。
この地域で、かなり早い時期から須恵器が生産されていたこと、及びこの古墳群に隣接する大谷古墳から発掘された馬冑(ばちゅう、うまかぶと)が朝鮮半島から伝えられたものと思われること、などをあわせて考えると、当時、ここには最先端の知識と技術を携えて朝鮮半島から渡来した技術者集団が居住していたのであろうと思われます。
閉じる
投稿日:2015/09/16