熊野古道の一部である「雄ノ山峠」を和歌山から大阪側へ進むと「境川」という小さな川があります。この川が和泉国と紀伊国との国境...
続きを読むであったことから名付けられたようで、現在もこの川が和歌山県と大阪府との府県境になっています。
この川を大阪府側へ渡ったところに、「日本最後の仇討ち場」という看板があります。
安政4年(1857年)、土佐藩士の棚橋三郎は酒に酔って同じ土佐藩士の廣井大六に斬りかかり、川中に落として水死させました。棚橋三郎は藩を追放されましたが、廣井大六の一人息子であった磐之助は、父の仇を討つために17歳にして棚橋を探す旅に出ます。
磐之助は、大阪に旧知の坂本龍馬を尋ね、龍馬から紹介を受けた勝海舟の協力を得て幕府の仇討ち免許状と諸国の役人宛ての探索依頼状を受け、勝海舟の門弟になりながら捜索を続けました。当時、幕府は公式には仇討ちを禁じてはいなかったものの、仇討免許状の交付は既に行っていなかったため、磐之助が免許状を受けられたのはまさに勝海舟の尽力の賜であったと言えましょう。
それから6年たった文久3年(1863年)、紀州加太で工事人夫にそれらしき人物が居ると知ると、磐之助は紀州藩に申し出て憎き仇の棚橋三郎を取り押さえてもらいました。しかし、仇討ちを申し出たところ、紀州藩では「現在幕府では公式に仇討ちを許可していない。このため、御三家の一つである紀州藩において禁を破って仇討ちを認めることはできない。」とのつれない答え。
「もう仇討ちはできないのか」と磐之助が唇をかんだその時、紀州藩の役人は、「棚橋三郎を国払いとして、和泉国との国境である境橋まで連れて行ってそこで解放する。そこから先は紀州藩ではないから、仇討ちをしたければそこで勝手にすればよい。」との言葉が下されました。
勇躍、磐之助は境川で待ち受け、国払いにされた棚橋三郎を討って見事父の仇討ちを果たしたのです。その後もいくつか「仇討ち」とされる事件は起こりますが、幕府が発行した「仇討免許状」に基づいて実行された仇討ちはこれが日本で最後のものになるのだそうです。
仇討ち自体はもちろん現在の社会では到底認められることではありませんが、紀州藩が面子と人情の間で粋なはからいをしたこと、最後の仇討ちに坂本龍馬や勝海舟が関わっていたことなど、非常に興味深い出来事であることは間違いありません。
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投稿日:2015/09/16