はちのすけさんのクチコミ(130ページ)全3,564件
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投稿日 2019年06月18日
総合評価:4.0
修学旅行生や外国人観光客が多く大にぎわいだったが、カメラを取り出しているとチェックする旨の警告が張り出されるなど、写真撮影にはかなりナーバスな雰囲気が漂っていた。お堂の内部はやはり素晴らしい。今回の鑑賞では単眼鏡を使い、じっくりと仏像を見た。すべての千手観音を観察したわけではないが、一体一体に個性があり、顔が違い、時間がいくらあっても足らないほどだ。また、建築物の教科書と称される建物もじっくりと見ることができた。三十三間の長大なお堂は、どこを切っても凛とした柱と千手観音で同じ風景の繰り返しかもしれないが、音楽で言えば『ボレロ』のように同じ旋律を繰り返しながら毎回違う感動を与えてくれるような感じだ。
- 旅行時期
- 2018年06月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2019年06月18日
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投稿日 2019年06月18日
総合評価:4.5
東福寺と数ある塔頭を巡るために6月上旬に足を運んだ。秋の紅葉は観賞していたが、新緑は初めてだ。エントランスからしてすごい。東大路側から入って臥雲橋から通天橋を見上げたが、緑が湧き上がるようだ。ぐるりと回り込んで通天橋から見た緑は、苔の風情も相まってまた違った景色をつくっている。また、人出が少ない初夏だから実現したのかもしれないが、今回、初めて六波羅門をくぐり思遠池、三門、本堂とじっくり拝観した。今まで有料エリアの通天橋と開山堂、書院と庭園しか見てこなかったが、観賞が浅かったことを反省した。とはいえ、庭園の素晴らしさは何度見ても変わらないが。
- 旅行時期
- 2018年06月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 4.5
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投稿日 2019年06月18日
総合評価:3.0
1897(明治30)年、京都で電話交換サービスがスタートしたことを記念し、1997(平成9)年にNTT京都支店の三条東洞院の角に設置されたモニュメント。 この時、タイムカプセルを埋設したが、20年後の2017年に掘り出している。二つのモニュメントが密接しているが、下の「京都電信電話発祥の地」は1872年に西京電信局が開設されたことを記念して1970年に設置されたものだ。
- 旅行時期
- 2019年06月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 2.5
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投稿日 2019年06月18日
総合評価:3.0
街中にちょこなんと石碑があるだけだが、前後の事情を掘り下げれば、興味深い場所だ。実家の商売を一度は継いだ宣長だったが、興味が持てず、学問の道で再出発することに。23歳で京都に遊学した宣長はこの碑がある地で医学と漢学を5年間学んだ。ここで宣長は国学の道に入ることを決めるとともに、京都の王朝文化への憧れを抱く。これがのちの国学の発展につながっていくのだと思えばこの地にオーラを感じる。碑文によると、宣長死後150年を期して地元の顕彰会が建立した。
- 旅行時期
- 2019年01月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 3.0
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投稿日 2019年06月18日
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投稿日 2019年06月18日
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投稿日 2019年06月15日
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投稿日 2019年06月15日
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投稿日 2019年06月15日
総合評価:3.0
豊臣秀吉の天正の地割で誕生した裏寺町にある浄土宗西山深草派の寺だ。もともとは別な場所にあったが、秀吉の地割で現地に移転してきたという。平安時代に仏師・定朝が彫り、高野山に祭られていた地蔵尊(醒ヶ井地蔵)が祭られている。ここも裏寺町の例にもれず、拝観はできない。
- 旅行時期
- 2019年06月
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0
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投稿日 2019年06月15日
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投稿日 2019年06月15日
総合評価:3.5
寺町通りから二条通りを西にぶらぶらと歩いていたら、伝統ある建築物が見えた。思わず近寄り、カメラのシャッターを切ったが、あとから調べるとそれが京都ハリストス正教会だった。京都市の指定文化財。聖堂の建築様式は日本では少ないロシア・ビザンチン様式で、最大長が22メートルに達するという。
- 旅行時期
- 2019年01月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0
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投稿日 2019年06月15日
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投稿日 2019年06月15日
総合評価:3.0
明治維新後に木戸孝允(桂小五郎)夫人となった幾松と桂小五郎が幕末に身を隠した場所だ。幾松は芸妓で、長州藩士の小五郎と知り合った。その後、禁門の変などを経て、長州藩は完全に幕府の敵となり、小五郎は「お尋ね者」に。幾松はそんな小五郎の政治活動を助けてかくまったという。碑がある料亭「幾松」には、小五郎が身を隠したとされる長持ちや抜け穴など、敵の目をくらますための仕掛けが今も残されているという。
- 旅行時期
- 2018年06月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0
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投稿日 2019年06月15日
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投稿日 2019年06月15日
総合評価:3.0
碑があるだけだが、歴史の舞台だ。幕末の大老・井伊直弼は勝手に外国と条約を結んだ釈明をするため老中の間部詮勝を京都に派遣する。その時に住んだのが、碑がある場所だ。間部は調停工作の一方で、幕府を批判する志士を捕縛し始める。これが安政の大獄の始まりだった。その意味では、この場所にも雰囲気がある。井伊の赤鬼、間部の青鬼と呼ばれたが、やがて2人は対立し、間部は退陣する。安政の大獄でとらえた志士の処刑に間部が反対したのが理由という。案外、いい人だと思うのだが。
- 旅行時期
- 2019年06月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0
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投稿日 2019年06月15日
総合評価:3.0
地下鉄烏丸線が京都-北大路で開通した時、御池駅に設けられた埋蔵文化財の展示コーナーを見に行ったことがある。その時は京都の地下から文化財が出土するのは当たり前だと思い、興味が持てなかった。今回、烏丸御池の交差点に置かれた石碑の内容はなかなか興味深い。縄文末期から古墳時代にかけて集落が営まれた証拠が多数出土したとあるが、この時代からこの土地が天災がなく安定していたことをうかがわせる。さらに足利将軍家や織田信長が宿営の地に選ぶなど中世は高級住宅街だったという。そういえば近くには尊氏ゆかりの邸宅跡や御所八幡宮、信長ゆかりの本能寺や二条城などが集中している。
- 旅行時期
- 2019年01月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0
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投稿日 2019年06月15日
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投稿日 2019年06月15日
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投稿日 2019年06月15日
























