2014/03/18 - 2014/03/23
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ポル・ポト派がカンボジアの実権を握っていた時代のトゥール・スレンの強制収容所です。1万4千~2万人の人が収容、拷問、虐殺され、生き残った人は、僅かに7名とも8名ともいわれます。
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イチオシ
トゥール・スレンの強制収容所を見学して感じたことは、殺すことを目的の一時収容所だったということです。東洋のアウシュビッツそのものです。S21は、その政治犯強制収容所の暗号名です。稼働中は、存在そのものが秘密とされました。
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生かすためのベッドではなく、拷問のためのベッドだったようです。この収容所が発見された時、そのまま放置されていた遺体のようです。
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ベッドの上に置かれた金属製の箱は、推測になりますが、拷問用の道具の一部が入っていたようです。ベッドの横には、『触るな!』の表示がありました。
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鮮明な写真ではありませんから、正確に読み取ることはできませんが、発見された時に、金属ベッドの上に放置された遺体のようです。1979年1月7日にベトナム軍はプノンペンを制圧しましたが、クメール・ルージュは全員撤退・逃亡した後でした。翌日、ベトナム人の従軍記者が異臭に気づき、この施設を発見しました。
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イチオシ
什器類が整理されて、ガランとした部屋の光景です。その部屋の片隅に、金属製のベッドだけがありました。ガラス窓には格子が見えました。生き残った画家のヴァン・ナットさんの証言作品には、手枷・足枷を付けられ、身動きも出来ない収容者が部屋一杯に横たわった絵がありました。片付けられたのは、金属製の重たい手枷・足枷だけだったかもしれません。
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展示室の紹介です。政治犯強制収容所跡は、現在は、国立の『トゥール・スレン虐殺犯罪博物館』となっています。クメール・ルージュが撤退間際に殺害した14人の遺体があり、収容所全体では50人程度の遺体がありました。また、膨大な量の収容・処刑記録文書が残されていました。
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地図の中央下部に多くに矢印の出発点となる場所が、首都のプノンペンです。その他の都市にも矢印の出発点がありますが、知識階級の人々を、強制的に田舎に追放した時のルートが示されているようでした。中国の文化大化革命時(1965~1977年)とイメージと時期が重なります。この図には、1975年(昭和50年)の日付がありました。
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これも、強制的な人の流れを示しているようですが、その内容は分かりません。1976年5月13日に、ポル・ポトは民主カンプチアの首相に就任し、全国で大粛清を始めました。ポル・ポトが目指したのは、毛沢東主義を基盤にした『原始共産主義社会』ともされます。
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解読できる説明文がありませんでしたが、1970年代、都会から田舎に強制移住させられ、重労働に従事させられている写真のようにも見えます。
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これは、S21の暗号名で呼ばれていた、トゥール・スレンの強制収容所で発生した遺品のようです。収容者の夥しい被服の山です。
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こちらも硝子戸の中に収納された被服の山です。周りの写り込みで、見難くなった写真ですが、囚人服かも知れません。
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『名前::ポル・ポト』のタイトルがあった写真です。本名は『サロット・サル(1928~1998年)』です。カンボジアでの大虐殺の首謀者です。
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名前が記されていましたが、読み取ることができませんでした。ポル・ポト派の指導者の一人のようです。強いて読むなら、政治犯収容所S21(トゥールスレン強制収容所)の所長だった『カン・ケク・イウ(Kang Kek Iew:1942~2011年)』です。別名は、『ドッチ』です。
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1970年代に撮影された写真のようです。銃を持った兵士に監視されながら、後手に縛られる強制収容者のようです。飛び散った血が黄色いシミを作っていました。
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辛うじて生き残った、画家のヴァン・ナットさんのトゥール・スレン強制収容所の証言作品です。ヴァン・ナットさんがトゥール・スレン刑務所に収容されたのは1977年12月のこととされます。
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給食風景です。これも、辛うじて生き残った、画家のヴァン・ナットさんのトゥール・スレン強制収容所の証言作品です。一つの部屋に50人くらいの人々が押し込められたとされます。鉄の足枷をされ、寝返りをうつことも充分にできない状態の中、毎日、水のようなお粥しか与えられなかったとも証言されています。その食事の様子です。
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S21(トゥールスレン強制収容所)に処分されずに残された資料の中の写真のようです。ご冥福をお祈りする意味合いで撮影しました。
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強制収容所の番号札を付けられた人たちの写真が続きます。S21A(トゥールスレン強制収容所)の所長だった『カン・ケク・イウ『Kang Kek Iew:1942~2011年)』は、書類を処分するよう命令を受けましたが、あまりにも膨大過ぎて処分する時間的余裕もなかったようです。
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S21A(トゥールスレン強制収容所)の所長だった『カン・ケク・イウ(Kang Kek Iew:別名ドッチ::1942~2011年)』は、2010年7月26日カンボジア特別法廷から、人道に対する罪とジュネーブ条約の重大な違反により、35年の禁固刑の判決を受けました。最終的には、2012年2月、上訴審で一審の禁固35年の判決が破棄され、最高刑の終身刑判決を受けました。
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S21A(トゥールスレン強制収容所)には、2年9ヶ月の間に14,000~20,000人が収容されたと言われ、そのうち生還できたのは8人だけです。看守達が欲している答え、『私はアメリカ帝国主義の手先でした』『私はベトナムのスパイでした』を言い、その対価として拷問の責め苦からの解放(=処刑)を得ました。
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ポル・ポト政権は、教育、文化、信仰、貨幣、病院などの存在を全否定し、すべての人々を強制的に地方に移住させ、集団農業や、過酷な重労働に従事させました。3年8ヶ月に及んだポル・ポト政権時代、トゥール・スレン強制収容所を始めとして、全国で推定150万人の人々が亡くなりました。
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1979年1月7日にベトナム軍によりプノンペンが制圧され、翌日にトゥール・スレン強制収容所が発見されました。クメール・ルージュが撤退間際に殺害した14人の遺体をはじめ、収容所全体では50人程度の遺体が残されていました。
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政権を握ったポル・ポトの時代、旧政権の幹部や、教職者、医師、学生などの知識階層に対し、裏切り者などのレッテルを貼った人々を次々と捕らえ。そして、トゥール・スレン強制収容所をはじめとする各地に点在した収容施設で凄惨な拷問を加えた後、それらの人々を粛清していきました。足枷をされた収容者の人です。
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収容者の人は、名前ではなく番号で管理されていたようです。まだ若く、生への望みを顔に漂わせた男性収容者の人です。
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番号札で管理された、男性と女性の収容者の人達です。厳しい収容所生活で、衰弱した様子が窺われました。
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死体が発掘され、並べられた頭蓋骨です。夥しい数です。現在、博物館のガラス戸棚に並べられている頭蓋骨かも知れません。
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同じく、遺体の発掘写真です。トゥール・スレン強制収容所の展示物は、2003年にユネスコの記憶遺産に登録されました。
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遺体発掘の現場写真です。殺された収容者の遺体は、裏手のトゥール・スレン小学校跡に埋められましたが、すぐに満杯になったのと、処刑時の叫び声が響く事から、1977年には処刑・埋葬場がプノンペンの南西15キロのチュンエク村に移されました。
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ベトナム軍がS-21を発見し、内部を調べ始めたのは1979年1月8日のことです。推測ですが、その時に撮影されたもののようです。既に亡くなった人や瀕死の人達のようです。看守には10代の少年少女がなる事が多く、S21の秘密を守るため、多くの看守が後に収容され処刑されています。
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イチオシ
トゥール・スレンの強制収容所に収容された人達の体の自由を奪った、足枷・手枷の金具のようです。家畜以下に扱われたことが想像されます。
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