2008/10/14 - 2008/10/21
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旅人のくまさんさん
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ヒエラポリス見学に続く、パムッカレの見学です。世界遺産(自然遺産)に登録された景勝地で、文化遺産のヒエラポリスと合わせた複合遺産です。トルコ語の『パムッカレ』は、『綿の城(宮殿)』を意味します。(ウィキペディア、旅行ガイド・トルコ)
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 20万円 - 25万円
- 交通手段
- 観光バス
- 旅行の手配内容
- その他
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イチオシ
パムッカレの石灰棚は、二酸化炭素を含む弱酸性の雨水が、台地を作っている石灰岩中に浸透し、炭酸カルシウム(石灰)を溶かした地下水となります。その地下水が地熱で温められて地表に湧き出て温泉となり、その温水中から炭酸カルシウムが沈殿して、純白の棚田のような景観を作り出しました。昔からこの辺りが良質の綿花の一大生産地でしたから、その白い棚田は『綿の城』と呼ばれました。(同上)
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棚田の畦の部分は、流れてきた植物片などがひっかかり、これに石灰分が沈着して次第に堤のように成長します。これは温水が畦を越流する時に石灰分の沈積が加速するためでもあるようです。このような景観が約200mの高さにわたって形成されています。規模はずっと小さいですが、同種の微地形が鍾乳洞内にもみられることがあり、畦石池と呼ばれています。(同上)
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石灰棚と豊かな温泉を求めて紀元前からこの石灰質の大地の上には都市が形成され、紀元前2世紀に古代都市ヒエラポリスが置かれました。この壮大なパムッカレとヒエラポリス遺跡は、1988年にユネスコ世界遺産(複合遺産)にも登録されています。トルコの観光地の中でも外せない場所の一つで、自然が生んだ驚異の景色は一見の価値があります。(同上)
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現在は景観保護のため、立ち入り禁止のエリアもありますが、パムッカレでは実際に石灰棚の上を歩いて観光できます。その条件は、靴と靴下を脱いで裸足になっての見学です。現在、入浴は禁止されていますが、足湯のように温泉を楽しめる場所もありましたので、後ほど紹介します。
*写真は、石灰質に不純物が混じって黄色になった石灰棚の光景が続きます。 -
パムッカレの絶景と聞いてイメージするのは、白い石灰棚と温泉の青い水面が生み出す美しいコントラストです。しかし、現在は以前に比べて湯量が減ったこともあり、温水を時間給水でコントロールするようになったようです。その、白い石灰棚と温泉の青い水面のコントラストは、後ほど紹介します。石棚の光景が見えてきましたが、ここはまだ、真っ白ではありません。(同上)
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石灰棚の冷めた温水を美味しそうに飲むワンちゃんたちです。首輪は付けていませんが、『国が管理しているワンちゃんたち』との話も耳にしました。しかし、ネット検索しても、その種の情報は見当たりませんでした。トルコ原産の『カンガール・ドッグは国宝の犬』の情報はありましたので、これ等の情報が混同したのかも知れません(同上)
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こちらのワンちゃんも、美味しそうに石灰棚の冷めた水を飲んでいました。このワンちゃんは、先ほど紹介した、国宝のカンガール・ドッグによく似ているようでした。古くから牧羊犬や軍用犬として活躍していた、トルコ原産の犬種です。(同上)
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白い石灰棚と温泉の青い水面のコントラストがきれいな光景になってきました。ここで話題を変えて、古代エジプトのプトレマイオス朝のファラオ(女王)だった、クレオパトラ7世(紀元前69年~紀元前30年)が、この地にやって来た時の紹介です。クレオパトラは、プトレマイオス朝の最後の女王でした。『マルクス・アントニウス(紀元前83年~紀元前30年)』との関係でこの地に来ました。(同上)
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クレオパトラとアントニウスとのロマンスは、『ウィリアム・シェイクスピア(1564~1616年)』の戯曲、『アントニーとクレオパトラ』でも広く知られています。アントニウスは、旧カエサル派を代表する形で共和派と一旦和を結び、カエサルの葬儀挙行を認めさせました。そしてその葬儀の場で民衆を煽動して、共和派を追放しました。しかし、カエサルは遺言状でカエサルの姪の息子オクタウィアヌスを後継者に指名していました。アントニウスは、第二回三頭政治の一頭として権力を握りました。(同上)
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アントニウスは、パルティア遠征でローマを裏切ってパルティアへ味方したアルメニア王国を攻撃し、国王アルタウァスデス2世を捕虜としました。そしてその凱旋式をローマではなくアレクサンドリアで挙行し、自らの支配領土をクレオパトラや息子らへ無断で分割しました。また、オクタウィアヌスが公開させた遺言状の内容、貞淑な妻オクタウィアへの一方的離縁などでローマ人の神経を逆撫でしました。(同上)
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アントニウスの失策を見たオクタウィアヌスは、アントニウスとの対決を決断し、プトレマイオス朝に対して宣戦布告しました。オクタウィアヌスの軍とアントニウス派およびプトレマイオス朝などとの連合軍はギリシャのアクティウム沖で激突、このアクティウムの海戦で敗北したアントニウスとクレオパトラは、エジプトへ敗走しました。(同上)
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この敗戦により趨勢は決し、これまでアントニウスに従っていたユダヤのヘロデなども彼を見限りました。このような背景で、オクタウィアヌスはエジプトの首都アレクサンドリアへ軍を進めました。アントニウスはクレオパトラが自殺したとの報を聞き、自らも自刃しました。しかし、クレオパトラ自殺は誤報でした。アントニウスの死から約10日後、クレオパトラも自殺しました。(同上)
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クレオパトラは、生前にアントニウスと同じ墓に入れるよう遺言していて、オクタウィアヌスはそれを認めました。エジプトを征服したオクタウィアヌスは、紀元前30年、「カエサルの後継者」となる可能性があったカエサリオンを呼び戻して殺害し、プトレマイオス朝を滅ぼしました。そして、エジプトをローマに編入して皇帝直轄地としました。写真は、崖の上から流れ落ちるお湯のようです。(同上)
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クレオパトラがアントニウスとの間にもうけていた3人の子供達は、オクタウィアヌスの姉で、アントニウスの前妻であるオクタウィアに預けられ、養育されました。心が広い人だったようです。アントニウスの子供で、女子は長生きし、『クレオパトラ・セレネ2世(紀元前39年~紀元6年)』は、ローマの名門・マウレタニア王ユバ2世と結婚しました。現在のアルジェリアになるようです。(同上)
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歴史家によるクレオパトラの評価です。ローマ帝政時代のプルタルコスは『対比列伝』において、オクタウィアヌスの姉でアントニウスの妻のオクタウィアが、夫が不在の家を守りつつ、更に子弟の教育にも力を入れたのに対し、クレオパトラは徹頭徹尾、エジプトと自己の保身と愛のため、カエサル、ポンペイウス、アントニウスと駆け引きを繰り広げた自己中心的な人物として描いています。(同上)
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フランスの哲学者『ブレーズ・パスカル(1623~1662年)』は、クレオパトラがその美貌と色香でカエサルやアントニウスを翻弄したとして、「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら、歴史が変わっていた」、と評しました。パスカルはこの話を単に例えとして記述しているようです。後世、日本でもこの種のフレーズの例え話が数多く作られました。写真は、朝日に染まった光景です。(同上)
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アントニウスとトルコで結婚したクレオパトラは、アテネまで新婚旅行に出かけます。そして、紀元前39年には二人の間にアレクサンドロス・ヘリオスと言う男の子とクレオパトラ・セレネと言う女の子の男女の双子が、紀元前36年にはプトレマイオス・ピラデルポスという男の子も誕生しました。クレオパトラにぞっこんのアントニウスですが、ローマ帝国の一部であったトルコ南部を彼女にプレゼントしてしまいます。紀元前33年、アントニウスとクレオパトラはトルコのエフェスで冬を過ごし、年が明けるとアントニウスは妻オクタウィアと正式に離婚しました。こうした振る舞いは、ローマ市民の怒りをかき立てたようです。(同上)
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クレオパトラの墓はまだ見つかっていませんが、アントニウスとともにアレクサンドリアの西方にある神殿跡付近に埋葬されているのではないかと目され、発掘作業が続けられているようです。一説には、クレオパトラとアントニウスは自分たちの墓が時の支配者たちに荒らされるのではないかと恐れ、見つかりにくい場所に隠したのではないかと考えられているようです。(同上)
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『クレオパトラの名前が残る場所(その1)』:クレオパトラ島(エーゲ海):クレオパトラとアントニウス所縁の場所として、有名なのが『クレオパトラ島』と呼ばれるエーゲ海の島です。エーゲ海地方南東のリゾート地マルマリスの北16㎞のギョコヴァ湾に浮かぶ島です。現在の名は『セディル島(Sedir Adası)』です。(同上)
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『クレオパトラの名前が残る場所(その2)』:クレオパトラビーチ(セディル島):セディル島にある、黄金色の綺麗な砂浜で有名なビーチです。言い伝えによると、このビーチでクレオパトラとアントニウスが泳いだと言われ、実はこのビーチの砂はクレオパトラがエジプトから船で持ってこさせた北アフリカの、しかもエジプトにしかない砂と言われています。(同上)
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『クレオパトラの名前が残る場所(その3)』:クレオパトラ・プール(アンティーク・プール):既に名前を紹介しましたが、パムッカレの遺跡が沈んでいるアンティーク・プールは、『クレオパトラ・プール』と呼ばれ、クレオパトラが泳いだと言われて、人気の観光場所になっています。(同上)
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『クレオパトラの名前が残る場所(その4)』:古都・エフェス:地名に名前は残っていませんが、古都・エフェスは、クレオパトラとアントニウスにとって縁の深い場所とされます。二人が新婚旅行で訪れた場所で、忘れてはいけない一番有名な場所が、あの古代都市「エフェス」です。エフェスは二人にとって大事な場所で、新婚旅行だけでなく、冬季はこの地で過ごしていたとも言われています。(同上)
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足湯を楽しみながら、周りの景色の撮影に余念のない方々です。私も、同じように背後から撮影されていたかも知れません。この後は、太陽光の加減で、劇的に変化する水の色も紹介します。今回の旅行では、パムッカレでの足湯のことがありましたので、私も脱いだ靴を入れるビニル袋を用意して見学しました。(同上)
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パムッカレの石灰棚を作り上げた温泉水は、重炭酸塩、硫酸塩、カルシウム、および二酸化炭素などのミネラルが含まれています。この温泉水には、心臓病、循環器疾患、高血圧、神経性の障害、リウマチ、目や皮膚の病気、神経や肉体の疲労、消化器疾患、栄養障害などさまざまな効能があるとされます。日本風に言えば、『湯治場(とうじば)』です。(同上)
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イチオシ
先に紹介した、石灰棚の上にあるヒエラポリスは、温泉としてヘレニズム時代・ローマ帝国時代・ビザンツ帝国時代を通して温泉保養地として繁栄を極めました。推測ですが、パムッカレの麓に見える湯治場らしい、プールと建物の光景です。プールは、お湯が干上がっているようにも見えました。(同上)
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トルコは、世界屈指の温泉国といわれていて、1,500以上の源泉地があります。特に多い地域はマルマラ地方、エーゲ地方、中央アナトリアの西部とされます。トルコの温泉はヨーロッパの温泉に比べて、水量、温度、成分などが豊富と言われているようです。(同上)
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前方に見えるのが、お湯を湛えた石灰棚の先端光景になるようです。岩石ではなく、薄っすらと青みを帯びた、お湯の色らしい光景でした。こちらは日陰にならないのでしょうか、全体が朝日に照らされていました。(同上)
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パムッカレの美しい景観は、時間帯によって様々に表情を変えます。早朝の空気の澄んだ時間や、空の青さに石灰棚の白が映える日中の時間帯も綺麗ですが、お勧めは夕日の沈む夕焼け時です。パムッカレの石灰棚が、落ちてゆく夕日に照らされて、どんどん黄金色に染まっていきます。この写真は、夕日ではありませんが、朝日で染まった石灰棚の光景です(同上)
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イチオシ
朝日に染まる、石灰棚の光景が続きます。朝日に輝く白い石灰棚と青い水の光景と並んで見どころになっているのが、夕焼けに染まる石灰棚の光景ですが、この光景は朝日で染まった石灰棚の光景です。(同上)
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まだ午前中の時間帯ですが、夕暮れのような光景になりました。山の陰になった場所に差し込んだ朝日の光景です。石灰棚の上に濃い陰影をつけて染め上げ、まるで夕焼けのような光景でした。(同上)
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