2026/09/09 - 2026/09/09
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マリアンヌさん
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三菱一号館美術館で開催された「カフェに集う芸術家展」に出かけました。
世紀末、文化の発信地となったカフェ、ロートレックなどの有り様が良くわかって興味深かったです。
また、ムンサラット美術館からタイトル画は来訪しているものの、国内の国立西洋美術館、ポーラ美術館、ひろしま美術館、町田市立国際版画美術館など国内から作品を集めて展示され、とても良い内容の展示となっていることに感心しました。
撮影可能でしたので、気になった作品を記録に残したいと思います。
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久しぶりの東京駅、前線通過で雨予想のせいか観光客が少なかった。街路樹な気持ちいあ丸の内仲通りから三菱一号館美術館へ。
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第1章 カフェを描く ーレアリスムから印象派へ
キャプション抜粋
19世紀後半のパリでは、ナポレオン3 世の命によりセーヌ県知事オスマン男爵が大規模な都市改造を推し進めました。一方、美術界では、公式のサロンがほぼ唯一の発表の場であり、そこに出品し入選や褒章を得ることが、画家として成功する王道とされました。
こうした状況のなか、詩人シャルル・ボードレールは1863年の評論「現代生活の画家」において、「現在」の価値を芸術の主題とする重要性を説きます。
エドゥアール・マネはパリに生まれ、アカデミックな教育に違和感を覚えつつも、サロン出品を目指し、鉄道駅や劇場、カフェなど都市生活の場とそこを行き交う人々を描きました。カフェ・ゲルボワでは、マネやモネ、ルノワール、ピサロ、作家のゾラらが集い、新しい芸術をめぐる議論が実際に交わされました。 -
1874年に旗揚げした印象派が自然風景を主題としたのに対し、ルノワールやドガは、踊る人々や踊り子、劇場、カフェで飲食する人物といった都市生活の情景を描きます。一方で、近代絵画としてのカフェに先立ち、ドーミエやガヴァルニは、新聞や雑誌に掲載されたカリカチュアを通して、 パリの人々の日常、そこに登場するカフェや劇場の内部風景をすでに戯画化していました。
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1ー1近代絵画の誕生とカフェ キャプション抜粋
詩人ボードレールが唱えた現代生活を描くという理念を体現するかのように、マネや印象派の画家たちは、歴史や神話ではなく、今を生きる人々の姿や都市の光景に目を向けます。
印象派のなかでも人物表現に重きを置いたドガは、カフェ・ゲルボワでの議論を経て、1870年代以降、踊り子や劇場を主要な主題として探求しました。フォランの舞台裏一青のシンフォニーでは、踊り子と彼女たちを見つめるシルクハットの男性が描かれ、近代都市における視線と関係性が示唆されています。こうした劇場やカフェの情景は、のちにロートレックへと受け継がれ、近代都市の享楽と孤独を描く表現へと展開していきます。
エドゥアール・マネ
バラ色のくつ(ベルト・モリゾ)1872年 -
ベルト•モリゾ
黒いドレスの女性 (観劇の前) 1875年
マネが描いた「黒い帽子を被ったベルト・モリゾ」を彷彿させる。
キャプション抜粋
本作は、観劇に赴く直前の若い女性を描いた作品です。
1872年モリゾはスペインのマドリード、エスコリアル およびトレドへ批評家でマネの友人でもあるザカリー・アストリュクの案内で、姉とともに旅行しています。モリゾの近代生活表象は、当時の社会的制約のもとで、とりわけ家庭や親密な場面へと重心が置かれやすい側面がありました。そうした文脈において本作は、近代都市における女性の外出、 社交と結びつく主題を、モリゾが自らの筆致で狙えた一例として位置づけられます。 -
オーギュスト・ルノワール
パリ、トリニテ広場 1875年頃
キャプション抜粋
本作に描かれたトリニテ広場から北へ進むと、マネや印象派が集ったカフェ・ゲルボワがありました。ルノワールは1867年頃からここへ通い、マネやモネ、ドガらと定例会で夢中になって意見を交わしました。1873年秋には広場近くに大きなアトリエを借り、そこでのちに印象派と呼ばれる画家たちの共同出資会社設立に向けた会議も行われています。芸術家にとってカフェやアトリエは、交流と議論の場として重要な役割を果たしていました。 -
アルマン・ギヨマン
ロバンソンの散歩 1878年頃
キャプション抜粋
ギヨマンはパリ出身で、主に風景面を多く描いた画家です。アカデミー・スイスで学んだセザンヌやピサロとは戸外制作を重ね、生涯交流が続きました。 生活のため働きながら制作し、印象派が集うカフェ に通う余裕はなかったものの、友人の小さなレストランでルノワールやピサロと会うこともありました。 本作は、行楽地ロバンソンの風景で、馬やロバに乗り散策す人々が描かれています。 -
カミーユ・ピサロ
ポンヌフ 1902年 -
好きな雰囲気だったので拡大して。
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ポンヌフの賑わいが感じられる。
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アルフレード・シスレー
サン=マメス 1885年
今回、国内の美術館から作品を集めていたのだけど、特にひろしま美術館所蔵のものが多く、行ってみたくなった。 -
拡大して。
今年、去年フランスの美術館でシスレーは多数見れたけれど、安定の美しさ。 -
ジャン=ルイ・フォラン
舞台裏一青のシンフォニー 1900-23年頃
☆公益財団法 人大原芸術財団大原美術館 (Ohara Museum of Art, Ohara Art Foundation, Kurashiki)所蔵
ドガの絵画でもよく見る光景だけど、バレエ好きで見始めた頃にはわからなかったパトロンと踊り子の関係、考えさせられる。 -
ガストン•ラ・トゥーシュ
踊り子 不詳 -
エドガー・ドガ
馬上の散策 1867-68年 -
エドガー・ドガ
右手で右足をつかむ踊り子 1896-197年
余談ですが、山田五郎の美術解説YouTube番組が好きでした。
俺たちのドガと言いながらシャイなドガの性格等を語っていたことを思い出した。お若くて逝去されたこと、ショックで残念です。 -
エドガー・ドガ
赤い服の踊り子 1897年填
キャプション抜粋
ドガが踊り子のモティーフに本格的に取り組み始めたのは、1871年頃で生涯この主題を探求し続けました。
アカデミックな教育を受け、初期には歴史画や肖像面を描いたドガは、1868年頃からカプエ・ゲルボワに集うマネやモネ、ルノワールらと交流し、近代的な主題へと関心を深めます。ドガが切 開いた踊り子像は、フォランやラ・トーシュらにも影響を与えました。
複雑なポーズは繰り返し描かれ、蝋や粘土の彫刻制作により、量感や姿勢が立体的に検証されました。彫刻は絵画制作の重要 な研究手段でもあったのです。 -
1-2 メディアとしての版画の隆盛とカフェ キャプション抜粋
マネや印象派による近代絵画に先立ち、カフェの図像はレアリスムの画家。 版画家であるドーミエやガヴァルニによって繰り返し取り上げられてきました。 彼らは労働者、ブルジョワ、劇場の観客や演者といったモティーフを、社会 的役割の差異を明確にしながら、都市の娯楽空間のなかで可視化しました。
レアリスムにおいてカフェは現代社会の縮図であり、観察と批評の場として格好の主題となりました。 活版印刷の発展とリトグラフ技法の普及により、うした日常を題材とするカリカチュアは新聞や風刺雑誌を通じて広範に流通し、多くの人々に視覚的な経験 をたらしました。
粉挽きの機能を失った風車は、工業化の進行とともにカフェやダンスホールへと役割を終え、モンマルトルの娯楽文化を象徴する場となっていきます。19世紀中頃に復興したエッチング技法と同様に、前時代の遺産としての風車はノスタルジーの対象でもあり、芸術家に再発見されると、世紀末にかけてモンマルトルの象徴として定着していきました。
ポール・ガヴァルニ
〈ロレツトたち〉 1841年
一あんな子供にいれあげているの?一ちょっと、声が大きいわ よ! 3週間前のことよ。。。メダールの火曜日だったわ、一目 れしてしまったのよ。一ああ!なるほどね、それでそのアンリとやらとはまだ終わっていないのね。。。メダールの日は雨だったから、少なくとも40日間はもつわね。 -
既に展示は終了したそうだが、写真があったレオン・ジャックが描いたもの。
ムーランド・ラ・ガレツト
キャプション抜粋
かつてヨーロッバ各地では、風車は小麦を挽く身近な設備でした。 しかし19世紀、産業化が進み、蒸気機関を用いる工場が普及するにつれて、風車は次第に本来の役割を失っていきます。 モンマルトルの丘にあつたムーラン・ド・ラ・ガレツトも、 もとは粉挽きのための風車でした。
所有者のドゥブレ家は、この場所 を取り壊すのではなく、カレント(素朴な丸い軽食パン)と飲物を出 ガンゲツト、屋外の舞踏場として発展させました
1876年、ルノワールは、ムーランド?ラガレツトの舞踏会で、この場所を印象派の祝祭的な光景として描きました。その後も、ゴツホ、 ロートレツク、カザス、ピカソ、 ユトリロらが、室内の喧騒、人物の孤独、あるいは外観の風車に注目し、それぞれ異なる視点から同地を描いています。ムーラン・ド・ラ・ガレツトは、モンマルトル の風景であると同時に、近代都市パリの娯楽と芸術を象徴する場と なりました。 -
エドム・プノイユ
ダンスホール(モンパルナス) 『腐食銅版画家協会: 近代の腐食銅版画』誌」
1862-1867年 -
オノレ・ドーミエ
<ブラッスリーにて>
最新ニュース。25歳を過ぎると、美術学校のローマ賞の試験を受験できないそうだ。1835年以来、ずつとローマに行くっていうのが口癖だったお前さんには、まったく気の毒なことだな。 1863年 -
オノレ・ドーミエ
<音楽のクロッキー> 1852年
シャンゼリゼにて。はたして音楽のおかげでかろうじてビール が飲めるのか、それともビールのおかげで音楽を我慢できるのか、まったく分からなかった。
キャプション抜粋
カフェ・コンセールでの上演中の場面では、観客も控える演者たちも疲れ切った表情を浮かべ、退屈そうにやり過ごしています。 新人歌手の登竜門でもあったカフェ・コンセールは 出演料も低く、労働者階級の男や老婦人など観客層は多様で、格式張らない大衆的な娯楽空間でした。
ドーミエは舞台と客席を同一の画面に収めるため、空間を大胆に省略し、前景と後景を上下に二分する斬新な構図をとっています。この試みは、 のちにマネやドガらが室内照明の効果とともに発展させました。アカデミックな絵画を乗り越えようとした彼らは、新聞に掲載されたドーミエのカリカチュア に触発され、近代的な主題と構図を絵画に取り入れていったと考えられます。 -
当時のカフェを想起させるお洒落な展示。
通路の下に時折現れる黒猫。
第2章
夜のカフェ 一シェレ、ロートレックの世紀末
キャプション抜粋
19世紀になるとカフェは多様な人々が集まり、さまざまな交遊や活発な議論が行われるようになりました。また、この頃になるとカフェは多様化し、娯楽の要素を組み込んだカフェ・コンセールやガンゲット由来のキャバレーなどが生まれ、多くの庶民を集めるようになっていきました。 それは、単なる交友と議論の場から、体験型、没入型の夜の娯楽の誕生を意味します。ここでまさに時代を共有した芸術家たちが、さまざまな新しい芸術の発想を得て、さらなる芸術の創作へとつなげていきました。
当初は、シェレのように、依頼されて独特のイメージでその場所やイベント、商品などを紹介するポスターが主流でした。しかし世紀末には、ロートレックなどが、その場の生き生きとした魅力や演者たちをポスターにするようになりました。さらに多くの芸術家が、これらのカフェ、カフェ・コン セール、キャバレーなどに関わり、絵画や挿絵においても没入体験、共有体験をもとにした新しい表現が行われるようになるのでした。 -
2-1 公告芸術に表れるカフェ ーシェレのポスター
キャプション抜粋
1790年代後半、ドイツのアロイス・ゼネフェルダーが発明したリトグラフの技法は、広告に革命的な変化をもたらし、ポスターはより自由な表現を獲得しました。しかし19世紀中頃においては、まだ多色刷りをするには色ごとに版を用意しなければならず、大変な手間がかかっていました。これを 簡素化し、広告芸術の発展に大きく寄与したのが、ジュール・シェレです。
彼は赤 、黄、青の三色のみの色版を重ね合わせることで、さまざまな色調と明暗を表現することに成功しました。繊細かつ目を引く色彩にあふれたシェレのポスターは、ショービジネスの宣伝には最適でした。
ポスターにおいて、シェレは施設や商品、イベントの特徴よりも、明るく開放的に楽しむ女性たちを中心に描くことで、夜の世界の健康的な魅力を伝えることに成功しています。
こうした女性たちは「シェレット (Chérette)」と呼ばれ、この時代のーつの典型像となっていきます。
ジュール・シェレ
「1894年度謝肉祭 第2回仮面舞踏会」オペラ劇場
1893年 -
ジュール・シェレ
「華麗なるパントマイム」 ミュゼ・グレヴァン
1892年
キャプション抜粋
シェレは数多くのポスターを手がけましたが、とりわけカフェやキャバレーのための作品は、数・質ともに際立っています。ジャン=オノレ・フラゴナール やアントワーヌ・ヴァトーなど、18世紀ロココ期の芸術に感銘を受けたシェレは、優美で開放的な女性像「シェレット」を生み出し、パリの街を席巻しま した。
文字や情報を最小限に抑え、女性像を中心 に華やかな雰囲気を強調した構成は、人々を惹きつけました。 -
ジュール・シェレ
「カミーユ・ステファニー公演」 カジノ・ド・パリ 1894年
以前ニースでジュール・シェレ美術館で草上の昼食などを見たけれど、こんな位置にある画家と知らなかった。その美術館にはラウル・デュフィを見に行ったので。
https://4travel.jp/travelogue/11177737 -
フェルディナン・バック
「イヴェット・ギルベール公演」 スカラ 1893年 -
ジユール・シェレ
咳が出たら ジェローデル・ドロツプを 1890年 -
テオフィル・アレクサンドル・スタンラン
「イヴェット・ギルベール公演」 アンバサドゥール 1894年
キャプション抜粋
イヴェット・ギルベールは、当初はパリで女優として舞台に立つていましたが、人前で歌うようになると、これまでにない特徴的な歌声で人気を博し、エルドラド、ムーラン・ルージュやディヴァン・ジャポネなどを渡り歩き、カフェ・コンセール界 のスターとなりました。黒い長手袋がトレードマークで、彼女が描かれたポスターはすぐにそれと分かるようになっています。現在に至っても世紀末のアイコンとなっています。 -
ジュール・シェレ
「華麗なるパントマイム」 ミュゼ・グレヴァン
1892年 -
アルフォンス•ミュシャ
ラ・トスカ
1899年 -
ジョルジュ・デヴァリエール
ミュージック•ホール 1903年
公益財団法 人大原芸術財団大原美術館 (Ohara Museum of Art, Ohara Art Foundation, Kurashiki)所蔵
キャプション抜粋
パリ出身のデヴァリエールは、1900年頃からムーラン・ルージュといったモンマルトルの風俗 に主題を求めました。デヴァリエールが描いた頃のムーラン・ルージュは、ロートレック活躍期から10年近く経ち、人気に翳りが見えてきていました。
1903年に渡英した後は、ロンドンのミュージックホールに 通い、夜の世界に生きる人々を見つめています。
画家自身は、着飾った女性たちの美の背後に深い悲しみを感じたと語りました。本作は、ロンドンのミュージックホールに佇む歌手とも娼婦とも判別しがたい三人の女性を描いたものです。 -
シャルル・コッテ
ムーラン・ルージユの女たち 1892年
キャプションより
ブルターニュ地方の風俗を描いたことで知られるコッテですが、パリ時代には本作のようなパリの流行の場所に焦点を当てた作品も残しています。しかしロートレックらとは異なり、スター・ダンサーたちには興味を示さず、その場に集まった女性たちの何気ない瞬間を捉えています。
ダンスホールやカフェは男女にとって出会いの場としても機能しており、女性たちは羽根帽子やパフスリーブなど、当時の流行の衣装を身に着け、男性からの声掛けを待っているかのようです。 -
フィインセント・ヴァン・ゴッホ
モンマルトルの風車 1886年
キャプションより。
1886年、パリに到着したゴッホは、弟テオの住むモンマルトルの家で暮らしはじめました。間もなくして近くのコルモンのアトリエに通うようになります。 そこでロートレックやアンクタンらとも出会い、またパリで話題となっていた印象派の光の表現にも感銘を受け、この時期に明るい色彩と短い筆触を取り入れて作品を描きました。
本作はその典型の一つです。この風車は有名なダンスホールムーラン・ド・ラ・ガレットのものです。コッツ自身もモンマルトル周辺のカフェやキャバレーにも時折顔を出していましたが、本作では昼間多くの人で賑わっていた様子でなく、建物の裏手から素朴な風景として描きました。ゴッホはまだ庶民の暮らしが残るモンマルトルのきらびやかさとは別の側面に焦点を当て、自らの画風を進化させていったのです。 -
拡大して。
やはりゴッホは、いいですね。 -
アンリード・トウールーズ=ロートレツク
『ルイ13世風の椅子のリフレイン」 (アリスティド・ブリュアンのキャバレーにて) 1886年
キャプション抜粋
1885年、芸術キャバレー〈シャ・ノワール〉の移転跡地に〈ル・ミルリトン(葦笛)〉が開店しました。 支配人を務めたのはシヤンソン歌手アリスティド・ブリュアンで、上流階級を揶揄する挑発的な芸風で人気を博します。
本作では、鍔広帽子をかぶりタクトを振つて歌うプリュアンの姿が描かれています。粗野だと批判されつつも、ロートレックはその個性を好み、自身を含む仲間たちを画中に描き込みました。
また、彼はサインを入れる際に Lautreeのアナグラム「Treclau」を使用し、名家であるロートレック伯爵の名に傷がつかぬよう配慮していました。 -
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック
アリスティド・ブリュアン
1893年 -
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック
アリスティド・ブリュアン、彼のキャバレーにて
1893年
キャプション抜粋
歌手で興行師のアリスティド・ブリュアンは、1885年、<シャ・ ノワール〉が移転した後の店舗を引き継ぎ、〈ル・ミルリトン(葦笛) を開きました。ブリュアンは、モンマルトルやパリ周縁の地区、貧しさや孤独を抱える人々の生活を歌い上げました。時には客をからかい、挑発するような語り口も彼の舞台の大きな魅力でした。 ロートレックはこの店でブリュアンと知り合い、黒い帽子、マント、赤いマフラーという彼の姿をポスターに描き、強烈なアイコンとして定着させます。 -
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック
アリスティド・ブリュアン
1893年
キャプション抜粋
ロートレックはアリスティド・ブリュアンから依頼を受け、キャバレー宣伝用のポスターを制作しました。 本作はそのポスターのための油彩習作です。トレードマークの帽子と赤いマフラーを身につけ、ニヒルな笑みを浮かべるプリュアンの姿は、皮肉屋の彼の性格やパフォーマンスを連想させます。 -
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック
ムーラン・ルージュ、ラ・グーリュ 1891年
キャプション抜粋
「カドリーユの女王」と呼ばれたラ・グーリュは、踊りながら観客の酒を飲み干すことから「大食い」を意味するあだ名で呼ばれていました。彼女は、ムーラン・ルージュのスターダンサーでした。 ロートレックのポスター第一作となった本作では、 脚を振り上げている彼女と、その前面に同じく人気ダンサーの骨なしヴァランタンが描かれています。
本作が 街に貼り出されるとたちまち話題となり、ロートレック はポスターデザイナーとして一躍有名になりました。 -
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック
ムーラン・ルージュにて、 ラ・グーリュとその姉
1892年 -
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック
悦楽の女王 1892年
キャプション抜粋
《悦楽の女王》はポーランドの作家、ヴィクトール・ジョンの連作小説『社交動物園』の一作のために制作された宣伝用ポスターです。太った銀行家と彼にすり寄る高級娼婦が描かれています。こうした光景は、カフェでもよく見られたのでしよう。ロスチャイルド男爵は、このポスターは自分を茶化していると考え、出版を差し止めようとしましたが、失敗に終わっています。 -
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック
エルドラド、 アリスティド・ブリュアン
1892年 -
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック
金色の怪人面のある桟敷席
1893年 -
クリシー大通りに面した〈ムーラン・ルージュ(赤い風車)は、 1889年に開店しました。実用の風車ではなく、電飾で飾られた 赤い風車を掲げたこの店は、モンマルトルの夜を象徴する新しいランドマークとなります。 開店時にはジュール・シェルがポスター《ムーラン・ルージュの舞踏会》を制作しました。
さらに、1891年、ロートレックは《ムーラン・ルージュ、ラ・グーリュ》を発表し、ラ・グーリュや骨なしヴァランタンといった踊り手の姿を通じて、同店の華やかで大胆なイメージを決定づけました。
一方、シャルル・コッテの作品では、店内の享楽そのものではなく、腰かけてうなだれる女性たちの姿が描かれます。同じくムーラン・ルージュを舞台としていても、画家によって華やかな見世物、都市の熱気、あるいはそこに生きる人物の内面へと、視線の向け方は大きく変わったのです。 -
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック
ジャヌ・アブリル
「カフェ・コンセール』 1893年
キャプション抜粋
版元アンドレ・マルティが企画した版画集です。 イベルスは、アカデミー・ジュリアンに学び、そこで知り合ったボナールやモーリス・ドニのが組織したナビ派の創設に関わった画家です。風刺や広告の分野でも活躍し、劇場やキャバレーなどのために多くの作品を残しています。
ロートレックが鋭い観察で演者や観客を生き生きと表現し、イベルスも演者に焦点を当てての姿を生々しく表現しました。 19世紀末の出版文化と、カフェ・コンセールと視覚芸術との関係を語る上で貴重あると同時に当時活躍した演者の紹介誌にもなっています。 -
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック
ディヴァン・ジャポネ 1893年
個人的に構図、色彩一番好きな作品。
キャプションより。
カフェ・コンセールとは、飲食店でありながら歌やダンスなどのショーを見せるもので、カフェ・シャンタンなどとも呼ばれます。ディヴァアン・ジャポネもそのうちの一つで、その名は「日本風の長椅子」を意味し、当時流行のジャポネズリ(日本風、日本趣味的装飾)を取り入れようと1883年に開店しました。ロートレックは本作において、舞台で歌う演者よりもそれを鑑賞する側に焦点を当てました。カンカンダンサーのジャヌ・アブリルがポスターの中央に描かれ、その横には批評家で社交界の名士であるエドゥアール・デュジャルダンが描かれています。演者は首から下しか描かれていませんが、黒長手袋から彼女がイジェット・ギルベールであることが示されます。このウイットに富んだ描き方は、ロートレックの得意とするところでした。 -
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック
ジャヌ・アヴリル (ジャルダン・ド・パリ) 1893年 -
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック
ジャヌ・アヴリル 1899年 -
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック
「レスタンプ・オリジナル」誌、 表紙 1893年
キャプション抜粋
「カフェ・コンセール」と同じ版元のアンドレ・マルティが、1893年から1895年にかけて限定100部で出版した豪華版画アルバムです。ボナール、ヴュイヤール、 ヴァロットン、ルドンらが参加し、多くは1点のみ提供 しています。ロートレックは、表紙を含む3点を提供 し、マルティとの継続的な協働がわかります。
技法や主題は多様で、ポスターなど宣伝用のリトグラフが氾濫していた世紀末にあって、あえて芸術としての版画を世に問いかけたもので、版画の芸術化に大きな影響を与えました。 -
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック
アイリッシュ・アンド・アメリカン・バー、ロワイヤル街 「ザ・チャップ・プツク」誌 1895年 -
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック
アンバサドゥールにて、 カフェ・コンセールの女歌手 1894年 -
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック
マルセル・ランデール嬢、胸像
1895年
キャプションより。
マルセル=ランデール、本名アンヌ=マリー・マルセル・バスティヤンは、(ヴァリエテ座)の舞台女優 です。ロートレックは彼女のことを気に入り、オペレッタ「シルペリック」に何度も足を運んでは彼女の姿を描きました。ランデール嬢は奔放でダイナミックな演技で有名であり、その舞台での姿を彷彿とさせるような表情で描かれています。 -
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック
メイベル・フォール 1895年
キャプション抜粋
1890年代パリで活躍したメイベル・フォールはアイルランド出身の歌姫で、古いアイルランド民謡とアメリカの黒人歌謡を得意としていました。舞台ではフリル付きの衣装を着て、黒い子猫を抱き、少女のような姿で性的な意味合いを含んだ歌を歌うことを売りにしていました。 -
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック
『ラ・ルヴュ・ブランシュ』誌 1895年
キャプション抜粋
『ラ・ルヴュ・ブランシュ』は、ベルギーで1889年に創刊された前衛芸術雑誌です。発行人の一人であるタデ・ナタンソンはモンマルトルの芸術家グループと友好的な関係にあり、本作はロートレックが1895年に依頼された広告用のポスターです。水玉模様のドレスを身に着けたファッショナブルな女性は、ナタンソンの妻ミシア。スケートをしている姿を描いていますが、下半身は大胆にカットされることで、躍動感が増しています。 -
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック
桟敷席(ファウスト) 1896年 -
3ー1「パリの頭脳」と呼ばれた〈シャ・ノワール)とその影響
キャプション抜粋
モンマルトルのロシュシュアール通りにおいて、1881年ロドルフ・サリスによって芸術キャバレー〈シャノワール〉が開かれました。詩人、画家、音楽家、風刺家らが集ったこの場所は、文学・音楽・視覚芸術が交錯するボヘミアン文化の交差点として機能し、「パリの頭脳」とも称される知的空間を形成しました。毎夜行われたの朗読やシャンソンは、サリスの巧みな司会によって観客参加型の風刺的言説空間へと昇華されました。
あわせて発行された雑誌『シャ・ノワール』には、詩、コラム、社会風刺、時事漫画が掲載され、スタンラン、ヴィレットらによる挿絵は、当時の都市文化を鋭く映し出しています。
なかでもアンリ・リヴィエールが考案した影絵芝居は高い人気を博し「アントワーヌの誘惑」に代表される演目は象徴主義的な想像力を舞台化したとして知られます。
ジャポニズムの影響を受けたこれらの影絵芝居は、平面性と簡潔な色調の重なりによって構成され、象徴的イメージの連鎖として観客に強い印象を残しました。
また、影絵芝居の巡業を告知するスタンランのポスター《シャ・ノワール》は、黒猫の図像によってキャバレーの理念を視覚化し、不朽のアイコンとなりました。一方、同時代にゴーガンの思想を信奉した画家たちは私的な結社としてナビ派を形成します。ヴァロットンの木版画に見られる白と黒の強い対比や平面性は、同時代の影絵の視覚文化と顕著な親和性を示しています。 -
第3章
シャソワールの登場とその後の展開 一パリとバルセロナの往還
19世紀後半、ボードレールが唱えた現代性という理念は、マネや印象派の画家たちに新たな視覚的主題を与え、とりわけカフェは都市の近代性を象徴する重要なモティーフとなりました。 ベルエポック期には、シェレやロートレックによる多色刷りリトグラフのポスターが、ムーラン・ルージュなどのカフェやキャバレー文化を視覚的に拡張し、芸術と大衆文化の結節点を形成します。
本章で焦点を当てる シャ・ノワール(Le Chat Noir: 黒猫)は、1881年にロドルフ・サリスによってモンマルトルに開かれた芸術キャバレーです。その背景には、詩人エミール・グドー主宰の文学結社「イドロパット」やジュール・レヴィの「アンコエラン(支離滅裂芸術)」運動がありました。彼らはアカデミスムのみならず、印象派すら既成の芸術とみなし「絵画の描けない者による絵画」といった逆説的な理念によって、新たな表現の可能性を見出そうとしました。
シャ・ノワールは、そうした前衛的結社や雑誌、舞台表現が連関する文化ネットワークのなかで人気を博しました。特にアンリ・リヴィエールが中心となり発展させた影絵芝居は、シルエットによる平面性と象徴性を特徴とし、同時代美術と共鳴しつつ、巡業によってヨーロッパ各地に伝播していきました。
この影響の具体例として、本章では1897年にバルセロナで開店したクアトラ・ガッツを取り上げます。鉄道網によりパリと結ばれた同地では、ラモン・カザスやサンティアゴ・ルシニョル らムダルニズマ(カタルーニャ近代芸術運動)の芸術家たちが往還のなかで新しい芸術を吸収し、シャ・ノワールを範とするカフェ文化を根づかせました。若きパブロ・ピカソもこの環境で制作を深めていきます。
しかし20世紀初頭に向け、カフェやキャバレーは特定の場所そのものから、芸術家が社会や自己を表現する装置としての性格を強めていきます。モンマルトルからモンパルナスへの重心移動はその象徴であり、本章は近代芸術における「場」の意味が変容していく過程を後づけるものです。 -
テオフィル・アレクサンドル・スタンラン
シヤ・ノワール・コレクシヨン 1898年
キャプション抜粋
1897年、ロドルフ・サリスが死去すると、シャ・ノワールは中心人物を失って急速に衰退し、まもなく閉店することとなります。この閉店の際、シャ・ノワールの備品や装飾品、舞台装置などが売りに出されました。そのときのポスターが本作で、スタンランの《シャ・ノワール巡業公演》のデザインが再利用されました。 -
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック
『怒れる牝牛』誌
1896年 -
アドルフ・レオン・ヴィレット
商工業製品万国博覧会
1893年 -
アンリ・リヴィエール
波『レスタンプ・オリジナル』 1893年
キャプション
アンリ・リヴィエールは、18歳頃からサリスの芸術キャバレー 〈シャ・ノワール〉に出入りし、機関紙の編集・挿絵を通して多くの芸術家と交流しました。1885年の移転後、影絵芝居の劇場が店内に設けられると、1886年からその制作を任され、 亜鉛版を切り抜いたシルエットや透過素材を用いて表現を発展させます。
本作では、実際には刷らない紙の白い部分を飛沫として生かすなど海の瞬間的な運動を簡潔な形と他で表現しています。 -
フェリックス• ヴァロットン
『ニブ』誌、第2号 1895年 -
フェリック・ヴァロットン
大騒ぎ、あるいはカフエの情景
キャプション抜粋
本作は、トランプの賭けに負けた紳士が相手に掴みかかり、カフェ店内が騒然となった瞬間を捉えた作品と考えられます。
近代都市パリの冷めた観察者 ヴァロットンは、日常に潜む突発的な事件の衝撃を風刺とユーモアを変えて描き出しました。
争う当事者の躍動感と緊張感が見事に同居しています。また周りの傍観者たちは、心配そうに見守る者や呑気に構える者など多様で、この画家が冷静かつ鋭く人間模様を注視していたことがうかがえます。 -
フェリックス・ヴァロットン
公園、夕暮れ
1895年 -
ピエール・ボナール
ピガール広場 1905年頃
キャプション抜粋
本作は、モンマルトル南部に位置し、カフェやキャバレーが集積する界隈を描いていますが、主題は 店内ではなく広場を行き交う人々の姿です。画面右上には、カフェあるいはビストロの軒先にかかるストライプのストールがわずかに描き込まれ、19世紀後半以降に整備された都市空間とそこで発展した屋外の社交文化の一端が垣間見えます。 -
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック
シンプソンのチェーン
1896年 -
3ー2 <シャ・ノワール>から<クアトラ・ガッツ>へ
写真はクアトラ・ガッツ
1889年に、ミケル・ウトリリョは新聞『ヴァンガルディア』紙の特派員としてパリに赴任し、シヤ・ノワールの常連となりました。彼はその舞台演出や雑誌編集、観客との関係性を間近で観察し、モンマルトルのカフェ文化を批判的に吸収していきます。続いてサンティアゴ・ロシニョルとラモン・カザスもパリに渡りムーラン・ド・ラ・ガレツト周辺に居を構え、同紙に「風車だより」と題する連載を寄稿しました。
彼らはいずれも19世紀末バルセロナのムダルニズマを担った画家であり、モンマルトルの都市的ボヘミアン文化を単なる刺激としてではなく、距離を保った観察の対象として捉えていました。
1897年、ウトリリョ、ルシニョル、カザス、ペラ・ロメウが関与して、 バルセロナに芸術カフエイクアトラ・ガッツを開店します。これはシャ・ノワールを範としつつ、詩の朗読、演劇、美術展示を通じて、カタルーニャ独自の前衛的文化拠点を形成しようとする試みでした。
同店の壁に掲げられた《二人乗り自転車のラモン・カザスとペラ・ロメウ》は自転車という近代的な乗り物を用いて進歩や都市を想起させます。また、同時代のロートレックのポスター《シンプソンの チェーン》と親和性の高いテーマでカフェを飾つたといえます。
若きピカソも1899年頃からこの店に出入りし、同店の芸術家サークルに加わっていきます。クアトラ・ガッツは、パリのカフェ やキャバレー文化をバルセロナに移し替えながら、カタルーニャ独自の近代芸術運動を育む場となりました。 -
サンティアゴ・ルシニョル
カフェ・デ・ザンコエラン
1889-1890年
キャプション抜粋
本作は、19世紀末パリのカフェを舞台に、カタルーニャ出身の芸術家ネットワークが確かに存在したことと、都市娯楽文化との交点を描き出す作品です。ルシニョルは1889年のパリ万博期に渡仏し、カザスらとモンマルトルに集い異郷の共同体を形成しました。題名の「アンコエラン(支離滅裂)」は、諧謔的、反アカデミックな運動であり、展覧会や仮装舞踏会を通じて1880年代から90年代にかけて広く展開しました。
少なくとも1886年から1892年には、ピガールに近いフォンテーヌ通りに〈カフェ・デ・ザンコエラン〉を掲げる店が存したことが知られています。
本作は実在の場を写すものではなく、当時のカフェの雰囲気を再構成した架空の場面として理解されます。 -
ラモン・カザス
アニス・デル・モノ 1898年
キャプションより。
サロン・デ・ザンデパンダンは、公式サロンに対抗して1884年に創設され「無審査、無賞」を掲げつつ新しい芸術動向を横断する場となりました。1892年の第8回展ではロートレックが《ムーラン・ ルージュ・ラ・グーリエ》を出品し、絵画とポスターが同一空間に併存する契機を生みます。
一方、カザスとルシニョルは1890年にモンマルトルのムーランド・ラ・ガレツトを拠点にパリの独立系展に参加しました。1896年のバルセロナ初のポスター展が開かれ、シェル、グラッセ、ロートレックらが紹介され、ポスターが「芸術/広告」として注目される機運が高まります。
1898年には 「アニス・デル・モノ」のポスターのコンクールでカザスが最後秀作を制作し、受賞作品が同商品の象徴的イメージとして定着しました。 -
ラモン・カザス
マドレーヌ 1892年
キャプションより。
画面中央、赤いブラウスをまとってテーブルに腰かける女性は、通称マドレーヌ、本名はルイーズ・ オルタンス・ボワギョームです。彼女はモンマルトルの〈ムーラン・ド・ラ・ガレット〉に出入りしていた実在の人物で、本作のほかロートレックなどの作品にもモデルとして登場します。
マドレーヌは壁際に一人で座り、足先は画面右へ、上半身はテーブルに傾き、頭は正面を向きながらも視線は画面左へと流れます。この姿勢は、静止した座像に内在的な回転運動をほのめかし、観者の視線を画面的に循環させる効果を生みます。
テーブル上のゴブレットに注がれたワインや、彼女の右手の煙草は、19世紀末パリのカフェ文化を象徴する細部です。同時に当時としてはいささか挑発的であつたカフェで 一人、酒と煙草を嗜む女性という主題を明確に 提示します。それは公共空間における「尊敬/不徳」の境界が可視的には曖昧であった状況において、しばしば売春(あるいはdemi-mande半社交界) を想起させうる記号として機能しえたからです。
本作に漂う誰かを待っているかのような仕草は、群衆のなかの孤独や疎外感という主題をも浮かび上がらせ、それはボードレールが論じ、マネや印象派の画家たちが繰り返し描いた近代都市の感性と響きあっています。 -
3ー3 くクアトラガツツ)からピカソ、そしてモンパルナスへ
パブロ・ピカソはバルセロナのサラ・パレスでカザスらの展示に触れたのち、芸術家たちの拠点であったクアトラ・ガッツにおいて1900年に個展を開催しました。先達であるカザスやルシニョルがパリを経験したように、ピカソもまた同年にはじめてパリへ赴き、モンマルトルのカフェや芸術と直接向き合うことになります。
この時期に制作された《カンカン》は、ロートレックのポスター《エグランティーヌ嬢一座》を想起させる構図をもちますが、単なる左右反転や人物の簡略化にとどまらず、線描と色彩を通じて独自の再解釈が試みられています。
ピカソはロートレックの図像表現を参照しつつ、 それを自らの造形言語へと変換しました。 バルセロナとパリを往復するなかで、ピカソはやがて青色を基調とする表現へと傾斜し、青の時代と呼ばれる制作に向かう契機を得ます。
《酒場の 二人の女》に描かれているのは、都市に生きる貧しさや孤独であり、鑑賞者に背を向ける女性の姿は、カフェや酒場を社会の周縁を映し出す場として捉える視点を示しています。
一方、20世紀初頭には芸術の重心がモンマルトルからモンパルナスへと 移行し、エコールド・パリと総称される画家たちは、それぞれに新たな カフェやアトリエを拠点として制作を展開しました。芸術家とカフェの関係は形を変えながら更新され続け、近代芸術における重要な創造の場であり続けたのです。 -
パブロ・ピカソ
カンカン 1900年
キャプション抜粋
本作は、ピカソが90年秋にはじめてパリを訪れ、モンマルトルのアトリエを拠点とした時期に制作された作品です。
ロートレックのポスター 《エグランテイーヌ嬢ー座》を左右反転させた構成との近似が言及されますが、重要なのは両者の差異です。ロートレックが踊り子たちの脚の連鎖によって運動の「型」を強調したのに対し、ピカソは踊り子たちの造形を均質化せず、前景から奥へと輪郭を崩し、存在の密度に追うを与えています。茶色の地に白いハイライトを散らしてフリルを際立たせる一方、両面左端 に集中的に置かれた青緑のストロークは、視線を人物の表情へ導くと同時に、後年の青の時代を先取りする兆しとも読めます。
ロートレックが脚の連鎖によって視線を一方向へ迷いたのに対し、ピカソは輪郭の揺らぎと奥行き方向の注意を通じて群舞の同質性を部分的に解体し、観る側の撮れる知覚そのものを知覚化しているかのようです。 -
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック
エグランティーヌ嬢一座
1896年 -
パブロ・ピカソ
座る若い男
1899年 -
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック
メイ・ミルトン 1895年 -
アメデオ・モディリアーニ
青いブラウスの婦人像
1910年頃 -
パブロ・ピカソ
酒場の二人の女 1902年
個人的に好きな青の時代、今年はパリと国立近代美術館に続き3回も見れて嬉しい。
キャプションより。
本作は、いわゆる青の時代に属する代表作です。バーカウンターに並んで腰かけるニ人の女性は背を向け、酒場での社交よりも沈黙と滞留が強調されます。卓上のグラスやカウンターは水平に捉えられる一方、座面との位置関係にはわずかな翻顫が生じ、観者の把握を揺さぶる構成となっています。
画面を覆う青は、身体の重さや孤立を前景化する色彩的装置として機能します。ピカソは1901年から1904年頃にかけて単色的な青の色調と、貧困や周縁に生きる人々を主題とする制作へと傾斜しました。
本作の二人もまた明確な物語を与えられ ないまま、同じ場にいながら互いに交差しない関係として提示され、観者は「誰であるか」より先に「いかに在るか」を受け取ります。
別題「Pierreuses au bar」が示すように、主題は街娼と結びつけて語られてきました。ただし本作に限っては、画家が同主題を知識として得た経緯よりも青の単色化と空間の微細なねじれを通じて、近代都市パリの歓楽の裏面にある孤独と貧しさを造形化した点にまず焦点を置くべきでしょう -
モーリス・ユトリロ
ムーラン・ド・ラ・ガレット
1910年頃 -
モーリス・ユトリロ
モンモランシーの通り
1912年頃
これ、ユトリロ展でも見たな。
https://4travel.jp/travelogue/12017072 -
モーリス・ユトリロ
雪のラパン•アジル 1976年頃 -
Cafe1894でランチしようと思ったらランチタイム終了だった。
企画展に因んでネコがいる。 -
それではということで明治安田CAFE 丸の内へ。
待ち時間20分ということで、明治生命館見学へ。無料です。 -
パンフレットより抜粋。
東京建築祭でも人気の明治生命館。
明治生命館が竣工したのは、昭和9年(1934年)3月のことです。 建物の設計は、東京美術学校(現東京藝術大学)教授の岡田信一郎。建物全体の構成や設備の充実度から、昭和初期におけるオフィスビルの最高峰を示すものといわれています。
戦時中の金属回収、東京大空襲、そして終戦後にはアメリカ極東空軍司令部(FEAF)として使用するためにGHQ(連合国軍最高司令官 総司令部)に接収され、米・英・中・ソの4カ国代表による対日理事会 (ACJ)の会場として使用されるなど、昭和の激動を乗り越えてきた明治生命館には、そのすみずみにまで時代の記憶が刻印されています。平成9年(1997年)昭和の建造物としては初めて国の重要文化財に指定されました。 -
明治生命館の建築。パンフレットより抜粋。
明治生命館の主要な意匠は、古代ギリシア・ローマを源流とする古典主義様式でまとめられています。なかでもひときわ印象的なのは、お堀端に面したその外観。5層分を貫く巨大なコリント式の列柱が 立ち並び、西欧の古典主義建築にもひけをとらない圧倒的な力感をみせています。
列柱は、エンタシスと呼ばれる、視覚矯正のための微妙なふくらみが付けられ、上部へ行くほど細くなっています。 -
応接室。
実は現役時代の同業他社。
持ち回り定例会議で来社していた時代もある。
皇居が見える上層階の役員会議室にお邪魔していた。
当時はGHQ本部になった第一生命でマッカーサーの椅子にも座らせてもらったが、明治生命もGHQのFEAFとなっていたことは知らなかった。 -
執務室。
旧明治生命は三菱グループの主要企業。(現在は明治安田生命)
三菱一号館美術館同様、丸の内三菱村に位置しているゆえに、とても立派な建築となっている。 -
マントルピースの意匠が素晴らしい。
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応接室。
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灯りの意匠も素晴らしい。
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食堂。
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食堂の配膳のためのエレベーターかな。
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会議室。
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応接室。
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マントルピース。
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一回りして1階へ。
窓回りの鉄細工が美しい。 -
カフェへ。
ウイングバックチェアがいい感じ。
昔は、本店営業店舗フロアだったと思う。 -
ハヤシライス、美味しく頂戴した。
充実の美術館散歩だった。
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