2026/08/05 - 2026/08/05
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マリアンヌさん
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のんびりしていたら、危うく完売、大ゴッホ展ー夜のカフェテラス展に行ってきました。
また、国立新美術館で開催されていた「ピカソ meets ポール・スミス 遊び心の冒険へ」へも出かけました。
撮影可能でポール・スミスが自由な発想で創り上げた会場構成は、ポップで色鮮やかで楽しさに満ちていました。
また、国立近代美術館、丸紅ギャラリーにも出かけました。
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上野の森美術館で開催されていた大ゴッホ展に行きました。
7月下旬ネット予約しようと思ったら完売で、数日に渡りネット画面からキャンセルが出たタイミングを狙って、どうにか日時指定予約出来た。
館内は、夜のカフェテラス以外は撮影禁止だった。
過去にBunkamuraのゴッホ展や新宿のゴッホと静物展で見たものが出展されていたので、記録に残したいと思います。 -
庭の片隅 1881年 自宅の画集より。
ゴッホの両親が住んでいたエッテンの家の庭なのか。
ゴッホは素描家としての自分と自然について、手紙に「自然は常にはじめは芸術家に抵抗するが、それを真にまじめに受けとめようとする者は自らの道を誤ることはない。逆にこの戦いは勝利のためによい刺激になるのだ。根底において自然と真の芸術家とは一致する」と記しているそう。 -
麦わら帽のある静物 1881年
こちらは、新宿に来日してましたね。
「ゴッホと静物展」より。
https://4travel.jp/travelogue/11869784 -
スヘーフェニンゲンの魚干し小屋 1882年 自宅の画集より。
この作品は、美術商の叔父の二回目の注文によって描かれたもので、ハーグのスヘンク通りにあったゴッホのアトリエの窓から眺められた光景とのこと。 -
じゃがいもを食べる人々 1885年 自宅の画集より。
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りんごとカボチャのある静物 1885年
過去の「ゴッホと静物展」より。 -
ピエール=オーギュスト・ルノワール
《カフェにて》 1877年頃 展覧会HPより。 -
クロード・モネ
《モネのアトリエ舟》1874年 展覧会HPより。 -
青い花瓶にいけた花 1887年
過去の「ゴッホと静物展」より。 -
レストランの内部 1887年 自宅の画集より。
パリでのゴッホは、ドガの裸婦、モネの風景が素晴らしいと語っているが、実際に付き合ったのは、一世代下のロートレック、ベルナール、スーラ、シニャック、ゴーギャンといった画家たちだった。
だから印象派の色彩分割法というより、一歩進んだ新印象派の点描法の洗礼を特にシニャックから直接に受けることになった。
ゴッホには無縁の高級レストランのようだけど、ゴッホの色彩感覚が好きな一点です。 -
石膏像のある静物 1887年 自宅の画集より。
ゴッホはパリでデッサンを徹底的にやる必要があると考えていたが、結局画塾では何も得ることがなかったと言っている。
デッサンの練習とは思えぬひねった石膏像、モーパッサンのベラミ、ゴンクール兄弟のジェルミー・ラセルトゥの本、薔薇の小枝が描かれている。 -
フィンセント・ファン・ゴッホ
《夜のカフェテラス(フォルム広場)》 1888年
夜のカフェテラスを見るための行列は60人位で、絵の正面で見れる時間は体感2分だった(汗) -
額を外した感じで。
昨年、アルルに出かけたら、以前はあったカフェヴァン・ゴッホが、法的な問題(脱税等)により2023年7月から営業停止処分を受けており、店舗としての営業は行われていなかった。
残念だった。
絵画からアルルの夜空に黄色い壁やテントが灯りに照らされた美しい風景が、実際以上に目に浮かぶ。
上野の森美術館は、ちょっと狭くて残念な空間だけど、「夜のカフェテラス」を見れたのは嬉しかった。 -
とある別の日、国立新美術館で開催されていた「ピカソ meets ポール・スミス 遊び心の冒険へ」へ出かけました。
10年ほど前、ポール・スミス展に行き、とてもお洒落だったので、興味を惹かれて行きました。
<昔のポール・スミス展>
https://4travel.jp/travelogue/11160305 -
キャプションより。
「トロンプ?レスプリ (精神を欺くもの)
何かを別のものに変貌させる芸術的プロセスの典型というべき《牡牛の頭部》は、フレアウンド・オブジェクト(持ってきた日用品)を変容させた例として、ピカソの作品中で最も有名であることは疑いありません。 本作の元となった自転車のサドルとハンドルを、ピカソは1942年に世を去った友人の彫刻家フリオ・ゴンサレスの葬儀に参列する道すがら、とあるゴミ捨て場で見つけたといいます。
《牡牛の頭部》は、二つの物体を作者が全く手を入れることなく単に組み合わせてでき上がつたアシサンブラージユです。そのためマルセル・デュシャンのレデイメイド、特にその最初の例である1913年の《自転車の車輪》に関連づけられてきました。アシサンブラージュという魔法にも似た行為を通じて、そもそもの物体一自転車の部品 一は新たに創造された牡牛が備える喚起力に覆い隠されて見えなくなります。ここから意味上の混乱、いわば「トロンプ・レスプリ(精神を敷くもの)」が生じるのです。」 -
牡牛の頭部 パリ1942年春
自転車のサドルとハンドル -
キャプションより。
『ヴォーグ(流行)』中の芸術家
「ピカソは子どもの頃から雑誌や漫画を愛読していました。これは彼が文と絵とを結びつけることに強い喜びを覚えていたのと密接な結びつきがあるようです。早くも13歳のときには自前の雑誌を制作しており、『青と白』が一例で、当時彼が住んでいたラ・コルーニャの町で起きた出来事を報じるものです。のちにピカソは書物に絵をじかに描き込 むようになり、オノレ・ド・ルザックやギュスターヴ・フローベールの小説から破り取ったぺージに、物語の内容に即した人物像をスケッチしています。
ピカソは『ヴォーグ・パリ小誌1951年5月号に、猛々しい人物をいくつも描き入れています。デッサンを通じた再解釈ともいうべき作業のからくりを見事に示す例です。既製服(プレタポルテ) ウエディングドレスの販売を促進するモデルたちを捉えた通俗的な写真の数々が、 不条理かつグロテスクな、悪夢のごとき画像に転じられています。」 -
ヴォーグ誌表紙のカラーコーディネートがお洒落。
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とてもいい感じ。
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飾られていた写真。
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時代を感じるけどお洒落。
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ウェディングドレスが素敵。
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キャプションより。
「青の憂鬱
1901年秋、ピカソの友人カルロス・カサヘマスが自ら命を絶った数 ケ月後、ピカソは新たな造形言語を編み出しました。対象を単純化 し、色数をほとんど一つだけに絞り、エル・グレコから受け継いだ表現力あふれる線のデフォルメを特徴とする言語です。
ピカソは社会で 最も貧しい階層一乞食、娼婦、酔っ払いーをメランコリックに描き表すことに集中しました。空色から紺色に至る青が徐々に画面を浸し始め、以前より簡素でモニュメンタルな感覚が強まります。 バルセロナで数ケ月を過ごしたあと、1903年初頭にピカソは一時的にパリに戻り、ウォルテール大通りにあつた詩人マックス・シャコブ のアパルトマンに滞在しました。二人は無一文でした。ピカソは日中、 ジャコブが店員として生活費を稼ぐ間は寝て、夜は油彩やデッサンを描きました。そのためこの頃、彼が主に青を使っているのは、このようにオイルランプを灯して暗い中で作業する習慣がついたからかもしれません。」 -
男の肖像 1902年
悲しみと、ピカソ自身の極貧生活がきっかけで始まったという青の時代、個人的には青色に浸されたような感じが好きだ。 -
キャプションより。
「バラ色の女性たち: 《アヴィニョンの娘たち》への 前奏曲
1906年秋、ピカソはピレネー山脈のカタルーニャ側にある辺鄙な村 ゴソルでその夏に始めていた実験を続け、描く対象をほぼ完全に女性の身体に絞りつつ、形態と空間を単純化する作業を進めました。
いずれもイリュージョニズムを作り出す手法を放棄し、新たな表現言語を模索している点が特徴です。この言語は、同年初頭にパリのルーヴル美術館で古代イベリア美術を発見して強い関心を抱くようになったりする中で形成されたものでした。
その特色は、輪郭がくっきりとした単純な形態を組み合わせて構成したり、対象を正面の視点から捉え、古代の宗教美術のように定型化したり、使用する色彩を褐色系に限定する、などです。
続いてピカソは原キュビスムの造形言語を編み出していきました。人間身体の各部分はいっそう荒削りになり、ゆえに女性像は両性具有的な性質を明確にしました。この性質は数ヶ月後、《アヴィニョンの娘たち》で劇的な形を取って現れることになります。」 -
母と子ども パリ1907年夏
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女の胸像
(《アサイニヨンの娘たち》のための習作)
パリ1907年春
バラ色の展示室がとても華やか。 -
女あるいは水夫の胸像
(《アサイニヨンの娘たち》のための習作)
パリ1907年春 -
胸像
(《アサイニヨンの娘たちのための習作)
パリ1907年春 -
キャプションより。
「キユビスムの実験室
1906年秋、新たにいくつかの源泉一古代イベリア美術、ロマネ スク彫刻、アフリカ・オセアニアを中心とする非西洋の美術-から影響を受け、ピカソの作品に重要な方向転換が生じます。
ジョルジユ・ブランクとピカソの緊密な協働により、キュビスムは複数の美術領域で展開されました。主に油彩ですが、彫刻やパピエ・コレ(紙片を台紙に貼り付ける技法)もあり、この三つの実践すべてが互いに影響を与え合います。
原キュビスムの作品は当初、自然や風景を描き表すことに焦点を合わせましたが、キュビスムの芸術家たちはすぐに日常的な主題に 注意を向けるようになります。比較的稀ながら、建物を取り上げた キュビスム作品もあります。《サクレクール寺院》が一例で、 モンマルトルの丘の頂上にそびえる大聖堂を描いたものです。キュ ビスム運動初期にあたる1909年から1911年にかけてを美術史家たちは「分析的キュビスム」と名づけましたが、同じ時期はまた、絵に使う色を減らし、グレーとページュの様々な階調だけに限定しているのも特徴です。」 -
ボート カタルーニャ1911年
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《女の頭部》(フェルナンド) 習作
オルタ・デ・サン・ジョアン、スペイン1909年夏 -
グラス、リンゴ、本 パリ1911年春
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ザクロ、グラス、パイプ パリ1011年
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サクレクール寺院 パリ1909年一1910年
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ポール・スミスらしい空間。
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ピカソが描いたその有名な犬のドローイングの雰囲気に寄せて、ポール・スミス氏がリスペクトを込めてユーモラスに描き下ろしたもの。
ダックスフントの愛犬「ランプ(Lump)」
もともとはピカソの友人である写真家デヴィッド・ダグラス・ダンカンの愛犬だったが、ピカソと出会った瞬間に意気投合し、そのままピカソの邸宅で6年間共に暮らすことになったそう。 -
美しくて面白い空間。
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キャプションより。
「アッサンブラージュとコラージュ
ピカソやキュビスムの芸術家たち(ジョルジュ・ブラック、フアン・グリス、ジャン・メッツアンジェなど)は大量生産品や日用品を用いたコラージュの技法を自らの実践に組み込み、芸術は空間のイリュージョンを作り出し現実を模倣するものであると定めるパラダイムに挑戦状を叩きつけました。
キュビスムは当時の大衆的な物質的実践(デクパージュ[切り抜き絵]、日曜大工、木や大理石などを模した壁紙)をも取り入れ、芸術家が伝統的に行ってきた役割を一変させました。以後、 芸術家は現実を描き表すかわりに、現実の切れ端を作品に運び込むことができるようになったのです。
コラージュというこの革新的アイデアを三次元に移し替えたのが アッサンブラージュ技法でした。作品に使われるモノたちはしだいに 元の役目から外れて、新たな意味合いを帯びるようになりました。 このような用途変更はすでにキュビスム時代に登場していましたが、 1920年から30年代にかけてピカソはこれを体系的に実践するようになります。」 -
新聞紙や壁紙などの日用品を画面に貼り付ける「コラージュ」、その革新的な発想を立体の組み合わせへと発展させた「アッサンブラージュ」、そのイメージの切り貼り風の花柄の壁。
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口髪の男 パリ、194年春春
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顎鬚のある男の胸像 ボワジュルー、フランス1933年
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帽子の男 1915年
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グラスと新聞
アヴィニョン、フランス1914年夏
塗装された木の構成要素と鉛筆の線
油彩で塗装された木の支持体 -
グラスとタバコの箱 パリ1914年春
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妊婦 ヴァロリス、フランス1949年
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ギター ジュアン=レ=パン、フランス1920年
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レトロっぽい小花柄。
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キャプションより。
「古典主義の画家
1910年代末から20年代初頭にかけて、美術史家が「秩序への回帰」と呼ぶ風潮が芸術界を席巻しました。具象表現や古典的主題を復活させる動きです。第一次世界大戦は深い傷を残し、芸術は以前の「秩序」を体現することで復興に際しての参照点となることを期待されました。ピカソの場合、この時期の仕事は「新古典主義的」、さらには「アングル的」と評される一方、その発展と並行して彼は後期キュビスム様式を追求してもいました。
1920年代はまた、ピカソの社会的地位が変貌を遂げた時代でも ありました。私生活ではロシア帝国生まれのプロダンサーであった オルガ・コクローヴァと1918年に結婚。1921年には長男ポールが誕生。ピカソは自分の新たな家族を、油彩とデッサンの両方で無数の作品に描いています。この時期の作品が発する繊細さの印象は、くっきりした線が、何もない背景の上に、陰影も奥行きの感覚もいっさい添えずに人物を描き出していることによっても高まっています。」
シスレー家、オーギユスト・ルノワールの《婚約者たち》に基づく パリ1919年後半 -
オルガとパウロ 1922年-1923年
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ベッドに横たわる裸婦 パリ、サン=ラファエル1920年
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初聖体拝領者たち パリ1919年冬
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楽しみにしていた空間。
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キャプションより。
「子ども時代
ピカソは子ども時代を、主題、象徴、創作上の態度、形態探究の 原動力として、自作の核心に位置づけていました。ピカソは繰り返し子どもを描きました。それらのイメージは自分の子どもたちを愛おしげに描いており、家族の肖像画という伝統的ジャンルに収まるものですが、同時に普遍的な広がりを備えています。
とはいえ、ピカソと子ども時代のつながりは家族の枠内にとどまりません。彼にとって子どもは、自然に湧き上がる創造力や新たな視線 の初々しさ、型にはまったアカデミスム(公式美学)への明白な異議申し立てを具現する存在でした。子どもを描いた作品は私たちの視野を広げ、ピカソが子ども時代に関心を抱いたのは、眼差しを従来のあり方からずらすためだったのだと気づかせてくれます。ピカソは子どものデッサンを描くことを通じ、子どもの目で芸術を見つめ、もう 一度初々しさの感覚を捉えようとしました一芸術そのものの子ども時代に立ち戻ろうとしたのです。」 -
トラックの玩具で遊ぶ子ども 1953年
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アルルカンに扮したパウロ パリ1924年
洋服の柄にぴったりの背景。 -
拡大して。
モデル: ピカソと最初の妻オルガの間に生まれた長男「パウロ(ポール)」が3歳の頃の姿。
衣装: イタリアの即興演劇に登場する道化師「アルルカン」の、青と黄色のひし形模様の衣装を纏っている。ピカソはアルルカンに自分自身を投影していたと言われているそう。
未完成の魅力: 椅子の足元や背景など、あえて描き残された着彩前の部分(キャンバスの地)が、画面に独特のエネルギーや動きを与えている。 -
人形を抱くマヤ パリ1938年
モデル: 画中の少女は、ピカソと恋人マリー=テレーズ・ワルテルの間に生まれた愛娘マヤ・ヴィドマイヤー=ピカソ。
ピカソは溺愛するマヤの成長を多くの絵画に残したそう。
技法と表現: キュビスムとシュルレアリスムが融合したピカソ特有のスタイルで描かれている。マヤの顔のパーツ(目や鼻)は歪んで配置されている一方、腕に抱かれた「生命のない人形」の顔は左右対称で比較的正常に描かれているという、おもしろい対比が特徴とのこと。 -
このゾーンのポール・スミスの色使い、好きだなぁ。
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美しい展示空間。もちろん人で溢れてたけど、消しゴムしてます。
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斬新な赤が印象的。
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キャプションより。
「闘牛
ピカソは闘牛に魅了されていました。その痕跡はラ・コルーニヤで 制作した最初のデツサンから晩年の大マタドール像に至る彼の仕事に刻まれています。
ピカソは、スペイン的想像力と強固に結びついたこのテーマをこよなく好み、見た目の華々しさを削ぎ落として視覚上の力、象徴的意味合い、神聖な次元に関心の対象を絞りました。熱烈な愛好者であつた彼は子どもの頃から闘牛という儀式に足繁く通い、スペインや南仏に滞在した折にも引き続き闘牛場に足を運びました。
ピカソの作品はしばしば行為が絶頂に達する瞬間に焦点を合わせます。牛が馬に襲いかかってそのはらわたをより出す、闘牛士が死を迎えるなどの瞬間です。コヒーダ、すなわち牡牛が闘牛士を片方の角に引つかけて宙に投げ上げる悲劇的な瞬間は、1910年代末から1930年代にかけて数点の作品に描かれました。ここでアレーナの円形は想像上の劇場となり、セクシュアリテイ、殺戮、聖なるものが 絡み合い混じり合います。」 -
牡牛を誘う (「ラ•タウロマキア(闘牛)」のための 挿図、第10葉) カンヌ、フランス1957年5月
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牡牛を確で突く (「ラ•タウロマキア(闘牛術)」のための 挿図、第26葉) カンヌ、フランス1957年
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牡牛の頭部 ポワジュルー、フランス1931年
このゾーン、ポール・スミスがデザインする洋服や小物のような色鮮やか。 -
コリーダ:闘牛士の死 ボワジユルー、フランス1933年
南仏を旅行した折、アルルで闘牛を見たことがある。
闘牛士は無事だったが、剣で牛を仕留めるという生死を戦う鮮烈なイベントだった。 -
キャプションより。
「ストライプ
1930年代、ピカソは油彩、デッサン、版画でストライプというモチーフを用いた実験を行うようになります。実をいえばピカソはこうした 作品で、モデルを捉える自らの知覚を通じて女性肖像という古典的 テーマをやり直したのです。1932年の油彩《読書》に見られるとおり、マリー=テレーズ・ワルテルは全身エロティックな曲線で表されています。この時期の人物像は深く眠っているか読書に没頭しているかのどちらかで、自らの裸身と豊かな胸をあらわにしています。 他方、シュルレアリスム写真家ドラ・マールにインスピレーシヨンを受けた油彩群は、モデル特有の外見的特徴によって見分けがつきます。
ピカソはマールをほぼ真正面から捉えて《読書》より明確な輪郭線と深く開いた襟元を与え、より暖かみのある色を使いつつ、エロティックな雰囲気をよりあからさまにしています。1939年作の《ストライプの帽子をかぶった女の胸像》では黒線がびっしりと絡み合い、深い絶望の念を伝えます。」 -
腕を重ねて座る女
[ル・トランブレ=シュル=モルドル]、フランス1937年
絵の中のオレンジ色のストライプと呼応している。 -
帽子をかぶつた女 パリ1939年
このゾーン、まさにポール・スミスの遊び心あふれる色使い。 -
ストライプの帽子をかぶった女の胸像 パリ1939年
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読書 ボワジュルー、フランス1932年
これも絵の中のストライプにぴったり。
ポール・スミスのセンスで、絵画鑑賞が楽しくなる。 -
キャプションより。
「戦時中
戦時下にピカソが扱った主題一主に静物、肖像、ヌード、加えて 風景をいくつか一以前から好んで描いていたテーマに近いですが、そういった作品の背後にはしばしば戦争が潜んでいます。この頃ピカソが制作した肖像は、同時期に横行していた残酷で非人間的な行為を反映しています。これらの作品に見られる形態の暴力は、 主題がごくありふれたものであるのと対照的です。例えば《帽子をかぶった女の胸像》の顔は歪み、作り変えられて両目の位置がずれ、口がねじれた頭部は、奇妙な肉の塊のようです。
ピカソはまた、時代の厳しさを室内の描写に置き換えてもいます。《室内のフクロウ》に見られるとおり、この時期の静物画や 室内画は息苦しいほどクローズアップしたフレーミングや暗い色調が 特徴です。ピカソは動物全般、特に鳥を愛しました。ならばこの絵のフクロウは心休まる存在に思えるかもしれませんが、それがとまっている椅子はどういうわけか尖った槍に姿を変え、場面に不吉な趣きを与えています。」
座る女 パリ1945年 -
室内のフクロウ パリ1946年
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帽子をかぶった女の胸像 パリ1941年
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ロブスターを持つ少年 パリ1941年
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キャプションより。
「一点もの
ピカソは早くも1906年、同じくスペイン出身のパコ・ドゥリオがモンマルトルに構えていたアトリエで粘土焼成の手ほどきを受けて最初のテラコッタ作品を完成させていました。1948年に居を定めたヴァロリスでのことでした。マドゥラ工房で1954年までに制作された数千に及ぶオリジナル(一点もの) 作品は、様々な面でピカソが粘土を練り、成形し、彫り込みを入れ、 絵付けすることをこよなく愛し、技量、好奇心、創造性を発揮したことを反映しています。大小の皿、ピッチャー、花瓶、ランプの支柱に 加え、陶片、煉瓦、陶板、ピニャト(土鍋)、ガゼル(窯の中の棚を 仕切るのに用いられる陶製の筒)にも、音楽を奏でる牧神や踊る女性たち、動物、闘牛の情景などが描かれました。これらはピカソが新たな環境を得たことを感じさせます。このようにして習得され た陶芸は豊かな成果をもたらし、ピカソが造形や社会をめぐって様々な考察をめぐらせていく中で核心的な位置を占めました。」 -
上 : ナイフ、フォーク、半分に切った リンゴと皮が乗った皿
ヴァロリス、フランス1947年-1948年
中央 : 中央に小さな顔と様式化された葉が装飾された皿
表面に太陽 カンヌ、ヴァロリス、フランス1957年
左 : 甲青を着た騎士と従者を描いた 馬上槍試合の場面が装飾された皿 ヴァロリス、フランス1951年
右 : 表面に太陽、裏面に葉が装飾されたスペインの陶器皿
ムージャン、ヴァロリス、フランス1961年
下 : 表面に牧神の頭、裏面に花が 装飾された長方形の陶器の皿 ヴァロリス、フランス1948年 -
陶器も斬新だね。
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キャプションより。
「《草上の昼食》
1950年代、ピカソは西洋美術史上の名作に基づく変奏ともいうべき連作を仕上げました。ウジエーヌ・ドラクロワ《アルジェの女たち》と ディエゴ・ベラスケス《ラス・メニーナス》を再解釈したのち、ピカソは エドゥアール・マネの代表作《草上の昼食》に取りかかります。マネの 絵は古典的絵画の各主要ジャンルー戸外風景、会話、静物 を再構築し同一の情景の中に集約してみせるものでした。マネや ベラスケスに似てピカソも、芸術家とモデルの間の関係という装置、鑑賞者の居場所という装置を探究します。1954年にマネのプロジェクトは一つ粗描しているものの、既存の作品を自分のものにして再解 釈するというこの手続きに彼が全面的に取り組んだのは、主に1959年夏から62年にかけてでした。その規模ゆえに同連作は、ピカソが 「巨匠たち」に向かい合った事例の中でも独自の位置を占めており、 マネ作品をめぐって油彩27点、デッサン約140点、さらにリノカット 版画5点、彫刻数点が制作されました。」 -
草上の昼食(マネに基づく)
ヴォーグナルグ、フランス1960年 -
このように変奏されるのね。
並べると少しはわかるように感じる。 -
拡大して。
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こちらも。
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草上の昼食(マネに基づく)
ムージャン、フランス1961年 -
草上の昼食(マネに基づく)
ムージャン、フランス1961年 -
キャプション
「ピカソのボーダーシャツ
メデイアでピカソのイメージが本格的に結晶化したのは報道写真が降盛をきわめテレビが登場した第二次世界大戦後のことでした。こうして集団的想像力の中で、ステレオタイプ化したピカソのイメージが根を張りました。薄毛の頭に白髪、ボーダーシヤツの男性というイメージです。写真家ロベール・ドアノーが撮影した一連のポートレイトは、 このイメージの形成に決定的な役割を果たしました。
1952年、ドアノーはグアロリスのピカソ邸を訪れます。ピカソはカメラの前でもくつろいだ様子を見せ、身の回りのものと遊び心たっぷりに戯れます ー例えば小さなパンをいくつか自分の前のテーブル上に、まるで指のように並べています。 ピカソの服装は一貫して、「貧しくとも自由気ままに生きるボヘミアンだが働き者」という彼の基本イメージを強化しました。ポートレイト写真でも画像でも、キュビスム時代の青のオーバーオールから1950年代や60年代の、今やトレードマークとなつたボーダーシャツに至るまで、一貫して労働者の仕事着を選んで身につけています。」 -
喫煙者Ⅱ 1964年
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キャプションより。
「晩年:1969-1972
実際ピカソの最晩年は並外れた創造性と生産性が特徴でした。 1961年以後はムージャンのマス・ノートル=ダム=ド=ヴィに暮らし 1969年から1971年|こかけてデッサン194点、1971年から1972年 にかけて版画156点、1969年から1973年の死に至るまで油彩350 点以上を完成させています。こうして生み出された膨大な数の作品 は、アヴィニョンで1970年と1973年に開催された展覧会で披露されました。
この頃のピカソは明らかに人物像を好んで取り上げ、男性や女性の単独肖像や集団肖像、また時には《家族》のような家族を描いた絵など、様々な形で探究しています。色彩も堰を切ってあふれ出ました。さらに、以前に比べて筆の動きが自由になり、描く仕草を如実に感じさせる点が特徴です。このような晩年の作品を、グロテスクだとかもうろくしているとか揶揄した評者もいた一方で、当時の批評家の大半は、90歳を越えたにもかかわらずピカソの絵画の 技量や創造性は衰えを見せていないと称賛しました。」 -
座る老いた男 ムージヤン、フランス 1970年
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家族 ムージヤン、フランス1970年
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女の半身像 1970年
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キャプションより。
「展覧会のピカソ
パブロ・ピカソが生前に開催した個展は数百に及び、うちいくつかは彼の経歴における決定的な道標となりました。1901年、パリでは 初となったアンブロワーズ・ヴォラール画廊での展覧会、1932年、パリのジョルジュ・プティ画廊で行った初の回顧展(本人が展示を監修)、1939年、ニューヨーク近代美術館での展覧会(反ファシズムの堂々たる代表作《ゲルニカ)を含んでいた)、1970年と1973年のアヴィニョンの教皇宮殿での後期作品を紹介する展覧会などです。
展覧会が開かれるたび、ピカソ作品を告知するポスターが街路を覆い、さらに幅広い層の人々が彼の創作に親しむことができました。 記録されているだけで400点以上に及ぶ展覧会ポスターのうちかなりのものはデッサンまたは版画といったグラフィック作品を掲載しています。この種の作品はフラットでムラのない色面を多用したり白と黒だけで構成されていたりするため、忠実に複製できるからです。」 -
女の頭部 No. ドラ・マールの肖像 パリ1939年
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クラーナハ(子)に基づく 若い女の肖像 II
カンヌ、フランス1958年 -
ポンポン帽子と柄ブラウスを着た 女の肖像
ムージャン、フランス1962年 -
枝を持つ牧神 パリ1948年
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この絶妙なポスターの混ぜ具合が絶妙。
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ポスターだけでも楽しくなる。
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それにしてもすごい数の展覧会数。
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ポール・ボキューズでランチ。
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ポール・スミスプロデュースの楽しい絵画鑑賞だった。
暑い夏、いまだに外でテニスしている私だけど、クーラーの効いた美術館に限るなと感じた。 -
とある日、国立近代美術館常設展へ。
ポールセザンヌ(1839-1906)
「大きな花束」
キャプションより。
「花をモチーフにした静物画の大作です。画面の中心に、花瓶に挿した大きな花束を置き、その華やかな印象を描きながら も、画家の意識は、花束の放射状の広がりとテーブルおよび奥の壁がつくりだす空間を、いかに二次元の絵画として作り上げるかに向かっています。せり上がる歪んだテーブル面や、その形と矛盾するテーブルクロスの折れ、さらに基本につながっていない葉や花 など。これらの意図的な操作や変形を通して、セザンヌは様々な絵画空間の実験を試みています。」 -
ピエール・ボナール(1867-1947)
「プロウアンス風景」
キャプションより。
「描かれているのは南仏ブログアンスの風景。光にあふれたこの地の環境が、ボナールの表現とりわけ色彩に与えた影響は、はかりしれませ ん。ボナールが好んで用いていた黄色に加え、 さまざまな階調のピンク、青、そして白など、震えるようにきらめく色彩が画面に散りばめられ、まるで宝石箱の中をのぞくかのようです。
これだけの色数(実に多様な筆触にも注目)をひとつの画面に取り込み、なおかつ絵画が破綻せずに緊張感をもって成立しているのは 驚嘆すべきことでしよう。ボナールが、20世紀絵画史において圧倒的な色彩の使い手である ことを体現するような作品です。」 -
藤田嗣治(1886-1968)
「五人の裸婦」
キャプションより。
「五人の女性はそれぞれ、 布を持つー触覚、耳を触るー聴覚、口を指す= 味覚、犬を伴う=嗅覚と、人間の五感を表す とも言われます。中央を占める女性は、絵画 にとって一番重要な視覚というわけです。」 -
奈良美智(1959- )
「Harmless Kitty」
キャプションより。
「奈良がドイツに住んでいた頃に描いたもので、 タイトルは「悪意のない/罪のない子猫ちやん」 と訳すことができます。画面を見る限りでは 性別は不明。猫の着ぐるみは、突飛に見えるかもしれませんが、それがあることにより、 私たち、見る側のまなざしが、「Harmless Kitty」のまなざしとストレートに向き合うように なっているわけです。しっぽの部分に見られるように、描き直しが、視認できるように、 つまり、半ば意図的に残されているのも、 逃せないポイントです。」 -
荻原守衛(1879-1910)
「女」
キャプションより。
「守衛はフランスの彫刻、オーギュスト •ロダンの影響を日本にもたらした作家の 一人です。ダイナミックなひねりの運動がその最大の特徴です。ちなみに守衛は、新宿中村屋の女主人、相馬黒光(1876-1955)をひそかに慕っていたと伝えられます。遺作となったこの作品には、黒光の面影があるとも言われます。」 -
草間彌生(1929- )
「冥界への道標」
キャプションより。
「草間と言えば水玉ですが、無数の突起もまた、 彼女の作品世界を彩る主要なモチーフです。そ れは彼女が強迫観念を抱いていた男性の性器に基づいています。それを、柔らかい彫刻で表現しているのも、ポイントのひとつ。タイトルになっている「冥界への道標」も草間にとっては 普遍的なテーマです。」 -
近くの丸紅ギャラリーで開催されてい「美しきシモネッタ展」へ。丸紅ビルの1階には大きな段幕が。
こんな作品を丸紅が所蔵しているとは知らなかった。
<美しきシモネッタ>
15世紀フィレンツェで「絶世の美女」と謳われた貴族、シモネッタ・ヴェスプッチ(1453年 - 1476年)がモデルとされている。
彼女はボッティチェリの最大のミューズであり、ヴィーナスの誕生やプリマヴェーラに描かれた女神の面影も、彼女がベースになっていると言われているそう。22~23歳という若さで結核により夭折したため、のちに伝説的な美女として語り継がれた。 -
「La Bella Cimonetta」丸紅ギャラリーHPより。
サンドロ・ボッティチェリ
実物は神聖さを感じる美しさだった。まさに眼福でした。
<シモネッタの生涯>
ジェノヴァ共和国の裕福な貴族カッタネオ家に生まれまた。
港町ポルトヴェーネレで生まれたとも言われている。
15歳~16歳のとき、フィレンツェの富裕な名門貴族マルコ・ヴェスプッチと政略結婚。(夫の遠縁には、探検家アメリゴ・ヴェスプッチがいる)
花の都フィレンツェに移住し、金髪の巻き髪と上品で神聖な美貌から街中の羨望の的に。
メディチ家のロレンツォ・デ・メディチや、その弟ジュリアーノ・デ・メディチをはじめ、多くの貴族や芸術家が彼女に恋をした。
ジュリアーノとシモネッタはプラトニックな恋人関係(あるいは相思相愛)であったと噂されたそう。
1476年シモネッタは肺結核に倒れ、わずか22歳の若さで急逝。
彼女を熱烈に愛したジュリアーノ・デ・メディチも、シモネッタの死からちょうど2年後の1478年歴史的な暗殺事件(パッツィ家の陰謀)によって25歳の若さで命を落とした。 -
カフェでキャロットケーキをいただいて、ひと休み。
<DILL COFFEE PARLOR> -
ニコライ堂。
学生時代、お茶の水で過ごしたにもかかわらず、初めて中に入った。
1891(明治24)年に竣工した日本最大のビザンチン様式の教会堂で、国の重要文化財に指定されている。
建築家のジョサイア・コンドルも実施設計に関わっている。 -
内部撮影不可で絵ハガキ購入。
日本に正教会の教えをもたらしたロシア人宣教師の聖ニコライにちなんで「ニコライ堂」と呼ばれている。1923年の関東大震災で大きな被害を受けたが、1929年に現在の姿へと修復・再建された。
ブルガリアやルーマニアで東方正教会を訪れたことがあるが、想像以上に立派な聖堂だった。
なかなか楽しい夏の美術展でした。
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