2025/11/23 - 2025/11/23
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この旅行記のスケジュール
2025/11/23
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高坂彫刻プロムナード
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アラン像
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高村光太郎像
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ポール・シニャック像
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ラビンドラナート・タゴール像
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棟方志功像
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徒歩での移動
西本宿交差点で折り返し
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新渡戸稲造像
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宮沢賢治像
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高橋元吉像
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マハトマ・ガンジー像
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徒歩での移動
高坂駅に戻りました
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この旅行記スケジュールを元に
東武東上本線高坂駅の西口にある「高坂彫刻プロムナード」を歩き、32体の彫像を鑑賞しました。
作品は全て彫刻家・高田博厚(たかた ひろあつ、1900~1987年)氏の作品です。
石川県矢田郷村(現七尾市)に生まれた高田は、東京美術学校(現東京藝術大学)を受験、結果は不合格ながらそのまま東京に残りました。
関東大震災を経て亡父の遺産を使いはたしてしまい、昭和6年(1931年)、妻と4人の子どもを残して、渡仏しました。
第二次世界大戦を欧州で過ごし、昭和32年に帰国しました。
晩年は鎌倉稲村ヶ崎に住居兼アトリエを構え、昭和62年(1987年)6月17日、86歳で没しました。
東松山市に高田博厚氏の作品群が置かれている理由は、元東松山市教育長の田口弘氏は、高村光太郎と親交があったことから昭和40年(1965年)に高田氏と出会い、そこから親交を深めたことによります。
高田氏の最晩年にあたる昭和61年(1986年)、高坂駅西口の区画整理事業により、まちづくりのシンボルとして「高坂彫刻プロムナード」が整備されました。
表紙の作品はマハトマ・ガンジー。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
-
高坂駅の駅舎内に大きな絵が展示されています。
「比企の野鳥達」と題されたこの絵は、ゆるやかな比企丘陵と水辺のある風景が描かれていいます。年間100種類を数える野鳥を見ることができ、この絵にも21種類が描かれています。
原画製作は埼玉県野鳥の会、陶板製作は大塚オーミ陶業(株)、昭和61年(1986年)4月。 -
高坂駅は、昭和62年(1987年)に第1回さいたま建築景観賞に選定、平成11年(1999年)に関東の駅百選に選定されました。
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高坂駅の西口を出ると、梶田隆章先生ノーベル物理学賞受賞記念碑が建っています。
梶田先生は、昭和34年(1959年~に東松山市大字上野本に生まれました。高坂駅と東松山駅の中間くらいの場所です。
梶田は、このころのことを「東松山のゆったりとした環境の中で育ったことに感謝しています」とおっしゃっています。 -
埼玉県立川越高等学校、埼玉大学理学部物理学科を卒業し、東京大学大学院理学系研究科修士課程のときにカミオカンデ計画に参加しました。
平成10年(1998年)、東京大学宇宙線研究所教授のときに「ニュートリノ振動の発見」を発表しました。この発見により、2015年にノーベル物理学賞を受賞しました。 -
光電子増倍管の模型。
ニュートリノは他の物質とほとんど反応しませんが、「スーパーカミオカンデ」では、地下にある大きなタンクの中に超純水を入れて、まれにニュートリノが水の分子にぶつかる時に発生する光を捕まえます。スーパーカミオカンテ内には、約1万個の光電子増倍管が取り付けられています。
岐阜県奥飛騨の神岡でスーパーカミオカンデの働きを表示するリアルモニターを見たときの旅行記もご覧ください。
https://4travel.jp/travelogue/11617609 -
高坂彫刻プロムナード(高田博厚彫刻群)の案内表示がありました。
昭和61年(1986年)、高坂駅西口の区画整理事業により、まちづくりのシンボルとして高田博厚の作品を設置しました。 -
1.遠望
昭和56年(1981年)制作、昭和61年(1986年)設置。 -
渋川市役所にも「遠望」があります。
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2.大地
昭和53年(1978年)制作、昭和61年(1986年)設置。 -
逆光のため、表情が読み取れません。
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3.水浴(La Baigneuse)
昭和44年(1969年)制作、昭和62年(1987年)設置。
水浴は福井市美術館にもあります。 -
ことばの「身振り」によってではない。内面の思念が要約凝集されて、もっとも簡潔に一元化して「存在」している。これが真の「形」なのだ。彫刻とはそれ以外のなにものでもない。<作者>
後ろ手にはタオルを持っていました。 -
4.アラン(1868~1951)
昭和7年(1932年)制作。
パリ在住時代の貴重な作品です。 -
アランは、フランスの哲学者。
詩人のマルセル・マルチネの紹介で?田とアランは知り合います。
マルチネは貧しい高田を助けるため、高田がアランの像を作ることを決めました。
アランは自分の胸像の写真を見て「タカタは本物だ」と友人に話したそうです。 -
彼はモンテーニュやゲーテの直系子孫なのである。
哲学とはもっとも深い意味において自分を見出すことである。人間の連續を。<作者> -
5.海(La Mer)
昭和37年(1962年)制作、昭和62年(1987年)設置。 -
ある日、陽暮れに近い時刻に海岸にたたずんでいたら、にわかに天地一切が薔薇色のもやに包まれてしまった。空も海も地面ももう区別がつかない。そうして一面のばら色の中に、空にも海にも地にも、ちらちらと金色に輝くものがある。もやの動きなのだろう。物音も水の中のように遠のいてしまった。風景そのものが恍惚状態にとけてしまっている。僕は茫然としていた。「自分」しかないのだ。しかもそれが何か広大無辺なものに包まれていて、実に懐かしいのだ。<作者>
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大分市の赤レンガ館前にも「ラ・メール (海)」の像があります。
今は閉館してしまった青森市の棟方志功記念館の庭園にも「海」がありました。 -
6.女のトルソ
昭和40年(1965年)制作。 -
首も手もないトルソの美しさは近代の発見と言えよう。昔は「美に対する観念」というより、むしろ藝術品を求める注文主が「完全姿態」を要求した。しかし、発掘された古代作品が、首や腕がない時、より本質の「美」を示していることへの感覚的知恵を近代人に与えた。<作者>
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7.高村光太郎(詩人、彫刻家、1883年~1956年)。
昭和34年(1959年)制作。
1918年、18歳で上京した高田は、友人の画家富沢直に誘われて高村光太郎のアトリエを訪ねます。高村は17歳も年の離れた高田を対等の存在として扱い、友情を深めました。そして高田を彫刻の道へと導きます。 -
高村の代表作は、『乙女の像』(彫刻)、『道程』『智恵子抄』。
高田が渡仏してから高村は「君が行ってしまってから、彫刻の話のできる相手がいなくなってしまった」と手紙を送り、それに対して高田は「私にとっても彼ひとりだった」と著書に記しています。 -
日本の彫刻界で彼のように聡明確実な腕を持った者は一人もいなかった。その上彼の世間を相手にしない孤高な魂はそれに気品を与えた。彼は木盆にヴェルレーヌの詩、「われは選ばれたる者の怖れと喜びを持つ」を原語で自ら彫りつけていた。<作者>
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8.カテドラル(La Cathedrale)
昭和12年(1937年)制作。
ロダンが『フランスのカテドラル』の中で、ランスの寺を「跪いて祈る女」と云っているのは、勿論君は知っている。僕がはじめてランスの寺で受けた感動は、後年ギリシアのシシリアで受けたものと同質である。
春の小雨の降る日、細い道に入って右にまがったら、 不意に眼の前に、雲の流れる濡れた空の下に、膝を祈り、胸を張り、合掌し天を仰いで若い女が祈っていた。ランスのカテドラルが……。<作者> -
9.憩(Le Repos)
昭和36年(1961年)制作。 -
真の「空間」とは「自然」の中に「自我」が生むものなのだ。高い藝術作品がこれを示している。<作者>
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10.女の大トルソ(Grand torse de femme)
昭和39年(1964年)制作。
一つの姿態、一つのトルソ。これは多様の外界から 「選ばれた」形である。構造(コムポジシオン)はここではじめて存在理由を持つ。そしてたとえば、私は一生無限に「トルソ」を作り続けるだろう。<作者> -
11.在 No.2
昭和55年(1980年)制作。 -
彫刻が真の「彫刻」でありうるのは、あらゆる塾術作品に共通する一つの普遍性、形而上なものが「形」を通して内奥からにじみ出ている「存在」であることだけである。<作者>
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12.ポール・シニャック(Paul Signac、1863-1935)
昭和36年(1961年)制作、平成元年(1989年)設置。
点描法を発展させたフランス新印象派の代表的画家であるポール・シニャックの自宅を1931年に訪れた高田は、初対面のシニャックとセザンヌの絵を前にして芸術論で意気投合します。
この時シニャックは68歳で既に大家でしたが、高田の資質を見抜いたシニャックは、自分が主唱するアンデパンダン展に推薦しました。
4年後の1935年8月15日、シニャック71歳没。 -
それから次々と部屋の絵のコレクションを見てまわった。セザンヌの30号の風景、これは驚くべき傑作だ。僕はうなった。シニャックもうなっている……。<作者>
-
道路脇に憲法九条の碑がありました。
本年(2025年)10月12日、個人所有の土地に建てられました。
シュウさんやキムさん、プーチンさんを説得する方が先なのではと思います。 -
13.女のトルソ(Torse de femme)
昭和38年(1963年)制作、平成元年(1989年)設置。
どのように完全な姿態を巧みに写しても、それは真の「形」とはならない。人体の一部を現わしても、それが極限の「調和」をえているならば、それこそ本当の「形」である。<作者> -
西へ向かっていた道は、徐々に南向きに変化します。
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14.ラビンドラナート・タゴール(Devendranath Tagore)
昭和54年(1979年)制作、平成元年(1989年)設置。 -
タゴールはインドの詩人、思想家、作曲家。
1861年、 ベンガル管区・コルカタの生まれ。
1913年にアジアで初のノーベル賞(文学賞)を受賞。
1916年(大正5年)、来日し日本の国家主義を批判しました。
1941年8月7日、80歳没。 -
タゴールの絵――それはお伽話と詩と神秘とが一つになっている「たのしみ」である――に彼の精神風土、詩魂、思想の原形質があると、私は思うのである。タゴールの思想形体は難かしいものではないのだ。彼の本質はひじょうに単純素朴なのである。彼の絵がよくそれを示しているだろう。<作者>
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15.女のトルソ
昭和48年(1973年)制作、平成元年(1989年)設置。
藝術品はその「思念」を、それが包まれている詩と幻で私達に伝える。それで私がマイヨルの作品に地中海を感じるとき、私の想像は作品をも裏切らず、私をもあざむかないであろう。附けられた「題」は少しも干渉して来ない。一つの女のトルソ。<作者> -
所々に案内表示が出ています。
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関越自動車道(東京方向)。
3連休の中日だったので渋滞はありませんでしたが、すぐ近くの高坂SAは渋滞の特異地点です。 -
16.棟方志功
昭和54年(1979年)制作、平成6年(1994年)設置。
明治36年(1903年)9月5日青森市生まれ、昭和50年(1975年)9月13日、棟方志功72歳没。高田博厚よりも3歳下であるが、生前お互いに認め合っていたものの会うことはなかったそうです。 -
昭和54年、高田は宗像の写真を見てこの胸像を制作しました。
同じ像が、青森市にあった棟方志功記念館にありましたが、閉館語はどうなったのでしょうか。
よろしければ、棟方志功記念館を訪ねた旅行記もご覧ください。
https://4travel.jp/travelogue/11696980 -
棟方は、私が幼時の凧絵を連想したように、素朴な民衆作家から出発した。当時日本では、柳宗悦が民衆作品の美しさを一般に教え、陶器の浜田庄司がこれを享け継いだ。棟方はこの空気の中で育った。私は長い間日本を離れていたので、彼の約三十年間の仕事を知らなかったが帰ってきて彼の仕事を見て、彼がもう「版画家」を超脱した本当の美術家であるのに感動した。<作者>
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この木だけが紅葉してました。
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17.空のトルソ
昭和53年(1978年)制作、平成6年(1994年)設置。
トルソには珍しく、顔があります。
画家が一定の額(テイマンシオン)の中に風景や静物や人物を構成するように彫刻家は内部のものが形を構成する知恵を学ぶ。この意味で、私にとって人体も肖像もおなじことである。「形」とは内部から押し出る力の極限限界なのだ。これらを捉えること、すなわち、内部の力を一元的な形体・簡潔率直な形にして要約するのが彫刻であろう。
彫刻とは純粋な形而上(メタフィジック)な術であり、音楽と共通する。<作者> -
西本宿交差点。手前は彫刻通り、交差点から先は並木通りに変わります。
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折り返して彫刻通りを高坂駅へ戻ります。
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「まなびのみち」コースマップ。
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18.新渡戸稲造
昭和51年(1976年)制作、平成6年(1994年)設置。
高田博厚は盛岡市に依頼されてこの胸像を制作しました。
苦悩に満ち表情をしていますが、国際連盟設立に際して事務次長の一人に選ばれた新渡戸稲造は、その運営にあたりたいへんな苦労がありました。それを表現した作品です。 -
私の人物像は「似ていない」とよく言われる。ある一時の面しか見ていない者はそう思う。当然だろう。けれども、本当の肖像彫刻というものは、(私が考えているところでは)「人間」の容貌にそれが経てきた「時間」の層、その厚みが出なかったら意味を失うだろう。<作者>
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駅に向かって坂道を上って行きます。
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19.裸婦立像
昭和38年(1963年)制作、平成6年(1994年)設置。
創作行動とは孤独な行為である。ことに彫刻藝術は、「心ある者」のみをその前に立ち止まらせ、そして無限に語りかけてくれるものであろう。彫刻自体が独りあるものなのだ。<作者> -
20.宮沢賢治(詩人、童話作家、1896年~1933年)
昭和46年(1971年)制作、平成6年(1994年)設置。
4歳違いですが生前に交流はなく、高田は賢治の弟の清六から受け取った写真を見て制作しました。 -
「私の賢治」で好い。それは素朴実直な東北人、土壌に根を張った辛抱づよい一律に凝まった人間存在。私が打たれたのはその「単純」な徳性であり、もしそれに「詩人」とか「思想家」などという調味料を加えようとしたら、私自身が混迷してしまうだろう。…………同じ東北人でありながら啄木と賢治は対蹠的な存在である。<作者>
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21.空(Le Ciel)
昭和53年(1978年)制作。 -
直立像が両腕を持つ場合、その位置の決め方がいかにむずかしいか。マイヨルはそれに苦心した。彼は直立姿態に彫刻本質を感じ、一生をかけた。<作者>
福井市美術館にも「空」があります。 -
22.憩う(Reposer)
昭和51年(1976年)制作。 -
マイヨルは「形」を再発見した。彼はそして「自然」の中から「思想」をくみとる。それの純化したのが「形」なのである。<作者>
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福井市美術館にも「憩う」があります。
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23.男のトルソ(ヘラクレス)
昭和池48年(11973年)制作。
「ベルヴェデレ」の首も腕もない一つのトルソは、「ラオコーン」の身振りが説明するよりももっと真に自由に「人間」を示している。ミケランジェロはそれを知り、彼の作品でそれを私達に教えてくれた。<作者> -
24.女のトルソ
昭和池48年(11973年)制作。
トルソがそれだけで完全作品になるためには、よほどの力量、というより作者の内面的充実がいる。単純に見えるから、そこに無量のものを満たすのがむずかしいのである。古代作品にはこれがあった。<作者> -
中通公園に「
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25.礼拝
昭和57年(1982年)制作。
福井県国際交流会館にも「礼拝」があります。 -
私がいる家のすぐ後ろの丘の上のサン・ミシェル寺の鐘がなる。夕べの祈の鐘である。ここの山峡の高みにあるアヌンシアータ修道院の神父が私に言ったことがある。「私は40年この山から一歩も下に降りないで、毎日海の潮を見ていました……」<作者>
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後ろ姿も優美です。
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26.高橋元吉(明治26年(1893年)~昭和40年(1965年))
昭和45年(1970年)制作。
群馬県前橋市生まれの高橋元吉は、高田との出会いでお互いを認め合い、以降親密な関係を築き、生涯の友人となりました。
生き方も歩き方も二人はずいぶんちがっていた。しかし、自我の内部が命令するもの、精神の秩序、この点で二人は全く一つであった。<作者> -
27.在 No.1
昭和55年(1980年)制作。 -
「主よ、日は傾き夕暮が迫ってきましたから、どうか私たちと共にいてください……」「ルカ伝」の中の、イエスが復活して弟子たちのところに現れ、食事を共にした折の弟子たちの言葉である。<作者>
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28.女のトルソ
和40年(1965年)制作。
姿態や構造に過剰な「説明」がなく、ただ「黙って在る」ことがそれに接する者に「無限に語りかけ」てくる。これが美術の本質だ。言いかえると首も手も足もないただ「人間の中心なる胴体」だけで「美」を示せる作家が本当の彫刻家だ。<作者> -
29.横たわる女
昭和44年(1969年)制作。
ただ親密な中で、歩みたどってきた私達の精神の姿を語り合いたい。形に触れ得るよろこび、どのような話にも、常に私達の魂が形而上のひろやかさにつながっているある歓びを得たい。<作者> -
30.マハトマ・ガンジー(Mahtma Gandhi、1869年~1948年)、インド独立の父。
昭和41年(1966年)制作。
昭和6年(1931年)に渡仏したばかりの高田博厚は、ロマン・ロランに誘われてガンジーとの対談に同席したそうです。ガンジーがロマン・ロラン邸に滞在していた一週間、ガンジーと同じ時間を過ごしていました。 -
部屋の窓際に大きな老眼鏡をかけたやせこけた白衣の小人が達磨のように坐って、糸車を紡いでいる。こちらの壁際に私は坐る。黙礼して一言もかわさない。寂かな部屋の中にじんじんとして伝わってくるものがある。なんにもいわないで、こんなに人間の存在を強く感じることはない。<作者>
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よろしければムンバイのガンジー博物館を訪問した旅行記もご覧ください。
https://4travel.jp/travelogue/11456734 -
31.パラスのトルソ
昭和39年(1964年)制作。
パラスはギリシア神話のアテネ女神の別名で、ホメロスの物語ではいつも「パラス・アテネ」と呼ばれている。<作者> -
高坂駅の手前に32体目の彫像が見えてきました。
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32.水浴(La Baigneuse)
道路の反対側、3体目の同じモチーフです。 -
こちらも後ろ手にタオルを持っています。
-
高坂駅。
東武鉄道東上本線の駅です。副駅名は「大東文化大学東松山キャンパス前」ですが、約3km離れています。
大正12年(1923年)10月1日開業。
現在の駅舎は昭和61年(1986年)4月に改築、竣工しました。
また、昭和30年~昭和59年まで日本セメント東松山専用線の分岐駅でした。
最後までお読みいただきましてありがとうございました。
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