2025/03/08 - 2025/03/16
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この旅行記のスケジュール
2025/02/08
この旅行記スケジュールを元に
越ヶ谷宿の本陣を世襲で務めた会田八右衛門家は、やがて経営がいきづまり没落、越ヶ谷町から退転したといいます。
その後は、大沢町の照光院が仮本陣を務めるなど宿場の中心は大沢町に移りました。
そして会田八右衛門家が本陣だったときに安永2年(1773年)まで脇本陣を務めていた「大松屋」(福井権右衛門)が安永9年(1780年)から越ヶ谷宿本陣となりました。
福井家は、その家伝によると、寛永年間(1624~44年)より代々権右衛門を襲名し、脇本陣も勤めた旅篭屋でした。幕命により本陣を引き受けることになり、さらに天明7年、問屋役(駅長)を福井家が兼帯することになったといいます。
本旅行記のテーマである東武鉄道が開業する以前、浅草広小路(雷門の近く)~宇都宮間の長距離乗合馬車が日光街道を通っていた歴史があります。その当時、越ケ谷の馬車立場(たてば=停留所)は、大沢の大松屋福井家前でした。
そして明治26年2月7日に千住馬車鉄道が千住茶釜橋~越ヶ谷~粕壁間を運行すると、馬1頭立てで12人乗りの赤い馬車は、その停車場も大松屋福井家前でした。
さらに明治32年8月27日に東武鉄道が開業すると、越ヶ谷駅は現在の北越谷駅の場所でした。
この頃の越ヶ谷の中心部は大沢町というのが、一般的な認識だったこたが良く分かります。
ところで本陣での食事はどのようなものなのか、弘化5年(1848年) の資料がありました。
夕食献立
御平(しいたけ、ゆば、長芋、竹の子、三つ葉)
御皿(くわい、蓮根、かんぴょう、しいたけ、ひろゆば)
御汁(しいたけ、焼き豆腐、青菜)
香の物(大根の味噌漬、しょうがの糀漬)
御膳(米飯)
※くわいは越ヶ谷の名産で、現在も全国第2位の生産量を誇ります。
朝食献立
御平(あんかけ豆腐、しょうが)
御汁(大根の千本切)
御皿(竹の子)
香の物(大根の味噌漬、大根の糀漬)
御膳(米飯)
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 徒歩
-
久伊豆神社の参道入り口と隣り合わせに、天嶽寺(てんがくじ)の入り口があります。
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入り口の庚申塚。
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青面金剛話像度申塔。
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青面金剛話像度申塔。
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参道を進み、山門の向かい側に地蔵大菩薩。
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浄土宗 至登山 遍照院 天嶽寺の山門。
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法界萬霊(ほうかいばんれい)の碑。
この世に命を授かった生き物全て、即ち人間、動物、植物等生命あるあらゆる存在を供養する位牌で、悪霊や災難がこれより中に入らないように祀られています。 -
黒塗りの山門をくぐると大きく枝を張る老松の下に、数百基の無縁仏墓石が置かれています。
越ヶ谷宿の住民は借地借家の者が多く、町人の転出入も激しかったようで、商売に失敗して退転したり、出稼ぎに出たまま行方知れずとなった人びとは無縁仏とされました。 -
地蔵堂(左)と薬師堂。
一つの建物に二つの堂があります。 -
こちらは不動堂。
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日清日露大東亞戰爭 戰没者英靈之碑。
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越ヶ谷吾山の句碑が建てられています。
ひと津るべ
水の光るや
けさの秋
昭和9年、越ヶ谷町有志により建立。 -
朱塗りの楼門。
江戸時代は、幕府の宗教政策により越ヶ谷町の檀那寺として、また元荒川の流路変更に際して天嶽寺の土地を提供した見返りとして、あるいはキリシタン取り締まりのためとして、越ヶ谷町唯一の寺院の特権を得ていました。越ヶ谷町の住民になるには、浄土宗に改宗し、必ず天嶽寺の檀家になる定めがありました。 -
楼門の前には、一対の狛犬があります。
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狛犬。
神仏習合時代の名残ではなく、比較的新しいものです。 -
手水。
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鐘楼。
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梵鐘。
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至登山 遍照院 天嶽寺の本堂(大堂)。
天嶽寺は、文明10年(1478年)に太田道灌の叔父ともいわれる専阿源照によって開山された寺院ですが、その後小田原北条氏の居館の一つとされ、軍事的な出城に利用されていたとみられます。
浄土宗京都智恩院の末。武蔵国三十三ヶ所霊場第27番札所。 -
天獄寺の山号、至登山の扁額。
雲光院・法久院・遍照院・善樹院・松樹院の5寺院を塔頭に持ち近郷切っての大寺院でした。天保14年(1843年)の人別調書によると、越ヶ谷町の全戸数にあたる542軒、2,565人が天嶽寺の檀徒でした。
明治になり、神仏分離令が出されたとき、当時の住職は神官に転じて富士浅間社に移ったと云います。悲しいことに、寺の古い記録類は破棄されたらしいのです。 -
御本尊は阿弥陀如来像です。
堂内には越谷市指定有形文化財の木造釈迦如来涅槃像が祀られています。釈迦尊が入滅する姿を伝える寄木造りの作品で、長さ60cm、高さ17cm。江戸時代前期に造られたものだそうです。 -
元荒川橋の欄干には、市の鳥シラコバトの親子像がありました。
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いよいよ元荒川に架かる大沢橋(大橋)を渡ります。
大沢橋の最初の架橋は江戸中期以前で、現在の橋は昭和28年(1953年)に架けられました。歩道があります。 -
越ヶ谷宿の旅籠数は、本陣・脇本陣を含めて57軒(天保年間)でしたが、その内23軒は飯盛旅籠で、大沢橋を渡った右手一帯にまとめられていました。
現在は住宅地ですが、往時、日光街道では千住宿に次ぐ規模の遊郭が形成されていました。
明治以降も花街として繁盛し、昭和33年売春禁止法の施行後も芸妓屋・料理屋の二業組合が残っていました。
私が就職した頃の役員に越谷の方がいましたが、酔うと端唄を披露していたことを覚えています。 -
ボケの花。住宅地を歩いても新しい家以外はありませんでした。
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大沢橋を渡ると、左手に大沢一丁目河畔公園があります。茶色い建物は公衆トイレです。
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大沢宿場跡公園(大沢一丁目河畔公園)の碑。
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明治天皇大澤御小休所の碑。
明治9年(1876年)、明治天皇が大沢町にあった元の本陣・福井権右衛門宅で小休息をとったことを記念して福井家の門前に建てられました。
昭和17年(1942年)4月に大沢小学校の校庭に移設されていましたが、公園整備に合わせて再度移設されました。 -
東武鉄道が通過しました。
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温鈍屋(うどんや)跡。
元和元年(1615年)創業という老舗の川魚料理店がありましたが、予成23年(2011年)の火災により廃業。ここの鰻重は絶品だったそうです。 -
大沢橋から駅前通りとの交差点まではほぼ直線の道、800m続く大沢商店会です。
大沢の地名は、当地の住人深野源七郎が、長元3年(1030年)6月、富士山に登拝し、大沢の滝から五色の光をはなつ影向石を持ち帰り、この石を御神体に浅間宮(廃止)を勧請したことからと伝わります。
前方左手に安永9年(1780年)から越ヶ谷宿本陣を勤めた大松屋福井家の本陣屋敷がありました。 -
本陣「大松屋」(福井 権右衛門)跡。
安永2年(1773年)まで脇本陣を務め、安永9年(1780年)から本陣となりました。
天明3年(1783年)3月1日大沢町の大火により本陣を焼失するも、大名からの借金で再建、明治3年の本陣脇本陣廃止まで役目を全うしました。
表通りから現在の屋敷を見ることはできませんが、本陣役として使用した陣笠や本陣の宿札、そのほか「往還御用留」の本陣記録や地誌類が数多く残されているそうです。 -
毎年7月に行われる八坂神社祭礼では、旧日光街道の800mが歩行者天国になります。
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脇本陣「玉屋」(深野彦右衛門)跡。
安永9年(1780年)から脇本陣を務めました。深野造園さんの奥まったあたり。 -
脇本陣「虎屋」(山崎次兵衛)跡。
安永9年(1780年)から脇本陣を務めました。
越谷市では歴史的な場所についても案内等は一切ありません。不親切ではありますが、まるで、パズルを解くように楽しむことができました。 -
真言宗智山派の寺院で梅花山 照光院です。
武蔵国八十八ヶ所霊場28番。
寺号柱は平成11年建立。 -
参道を進むと、山門の前には鳥居と小さなお社が立っています。
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お社には「天神社」の額があります。
御祭神は菅原道真公です。
由来等不詳ですが、古峯神社が合祀されているようです。 -
山門の前に大沢小学校創設の地碑。昭和52年建立。
明治10年2月に大沢小学校の前身となる大沢学校が設立されました。 -
鐘楼。
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梵鐘は、安永8年(1779年)6月の鋳造。
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弘法大師像。
鐘楼の周りに無縁仏墓石が並び、多くの飯盛女が葬られたそうです。 -
鐘楼堂の鬼瓦。
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照光院の本堂。
御本尊は阿弥陀如来坐像。
会田八右衛門が本陣を退いた安永2年(1773年)から安永9年(1780年)まで6年間にわたり仮本陣を勤めていました。 -
もう一つ建物があります。大師堂でしょうか。
照光院はひっそりとしており、仮本陣の説明等もありませんでした。 -
さて旧日光街道を少し歩くと、街道から東側に香取神社が鎮座しています。
一の鳥居と社号柱。 -
扁額は香取大神。
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参道の狛犬(吽形)。宝歴元年(1751年)の作です。
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参道の狛犬(阿形)。
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その先にも狛犬(阿形)です。安永9年(1780年)の作。
台座には「天下泰平」とありました。 -
狛犬(吽形)。こちらの台座には「國土安全」。
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二の鳥居。
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二の鳥居の扁額は天満宮です。
明治後期に合祀されたようです。 -
参道に飾り枠があります。
季節ごとに飾り付けがあります。 -
赤い花。
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手水舎。
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安産の石。
犬の張り子が置かれています。
「この石を撫でると、子授け、安産が叶います」との事。 -
力石。
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力石。
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拝殿前の狛犬(阿形)。
安永9年(1780年)の作。参道の狛犬と同じ年齢ですが、状態が良いです。 -
狛犬(吽形)。
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香取神社拝殿。
応永年間(1394~1427年)の創建と伝えられています。下総国一之宮である香取神宮(千葉県香取市)を勧請し、大沢村の鎮守として、鷺後(さぎしろ)という地に鎮座しました。
越ヶ谷宿が成立後、寛永年間に現在地に遷移され、当時は元荒川を挟んで久伊豆神社と向かい合っていました。 -
主祭神の経津主大神は天照大御神の神勅を奉じて出雲の国譲りの大業を成し遂げられ、また東国開拓を完遂し、平和国家の建設と民生の安定福祉に貢献されました。
国家鎮護の神、武勇の神、産業開発の神として崇められています。
香取神社は利根川・江戸川沿いを中心に分布し関東地方など約400社あります。
よろしければ香取神宮・鹿島神宮・息栖神社の東国三社を参拝した旅行記もご覧ください。
https://4travel.jp/travelogue/11558375 -
御本殿は慶應2年(1866年)~明治元年(1868年)に再建されました。壁には浅草山谷町の彫物師・長谷川竹次郎の見事な彫刻が施されています。越谷市指定文化財です。
西面の胴羽目の右側は、鹿島大神宮、香取大神宮と書かれた旗を持って参詣に向かっている様子が彫られています。
奉納者名には、饂飩屋(うどんや)万治郎や福井権右衛門の名前があります。
左側は、天孫降臨です。鉾を持った猿田彦大神がニニギノミコトを豊葦原の国へ道案内する場面のようです。 -
腰羽目の上段は鶏で、下段は孔雀がモチーフです。
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北面の題材は「大江山の酒呑童子(しゅてんどうじ)鬼退治」です。
右は、源頼光と家来の四天王(渡辺綱・坂田公時・碓井貞光・卜部秀武)が山伏に変装して大江山の山麓で3人の老人(八幡大菩薩、熊野権現、住吉大明神)に出会って、鬼に効く毒入り酒と、鬼に心を読まれなくする兜を授かる場面です。
左では、遠メガネで見張っている鬼や、毒酒を鬼たちにすすめている場面が彫られています。 -
腰羽目の上段には「二十四孝」からの題材が彫られ、地面から出てきた黄金の釜が光を放っている様子です。
下段は大変珍しい題材で、越谷の地場産業だった藍染め「紺屋」の作業風景が彫刻されています。「地蔵橋組 紺屋吉蔵」が奉納したものです。 -
東面の題材は「源頼朝の富士の巻狩り」です。
源頼朝が建久4年(1193年)に富士の裾野で開いた巻狩り(遊興や神事祭礼や軍事訓練のための大規模な狩猟)を描いています。
そして左側では、馬に乗る源頼朝のそばで、曽我兄弟が父の仇である工藤祐経を討つ様子です。 -
東面の腰羽目は「七福神」が彫られています。
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稲荷神社。御本殿の東側に鎮座しています。
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稲荷神社。
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和傘が飾られています。
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香取神社の境内末社の八坂神社です。
古くは牛頭天王社でしたが、明治維新により素戔嗚尊を祀る八坂神社となりました。
一時は香取神社に合祀されていましたが、昭和63年に現在の社殿を再建し、分祀しました。
昭和51年からは祭礼を再開し、毎年7月には天王様の祭りとして親しまれています。 -
越谷最大とも言われる八坂神社祭礼(天王祭)では旧日光街道の800mか歩行者天国になります。
令和7年の開催予定、各町の神輿渡御は、7月19日(土)は14時~21時30分、20日(日)は12時~21時。 -
神楽殿。
-
パルテきたこし。
地上28階・地下1階建、中規模のショッピングモールを併設したマンション(217戸)です。平成13年(2001年)4月竣工。
北越谷駅前にありますが、名前が残念ですね。 -
旧日光街道の春日部市方向です。
かつては粕壁最膳院まで千住馬車鉄道が通っていました。 -
北越谷駅です。
明治32年の東武鉄道の開業時には、この駅が越ヶ谷駅でした。当時の駅舎には貴賓室があり、皇族が埼玉鴨場へ来場する際に利用されていました。
駅の向こう側(西側)の地名は北越谷ですが、北越谷駅の住所も含め東側の地名は大沢です。 -
大正8年(1919年)に現在の越谷駅が新設されることになり、武州大沢(ぶしゅうおおさわ)駅と改称されました。昭和31年(1956年)には北越谷駅に再度改称され、現在に至っています。
平成11年(1999年)に現在の高架駅となりました。 -
駅舎の壁に大きな「越谷だるま」の絵がありました。
越谷だるまは、他のだるまに比べて色が白く鼻がやや高い顔立ちが特徴です。
江戸時代の中期から始まった越谷だるまは、年間40万個が生産されています。ちなみに、有名な高崎だるまは年間100~120万個が生産されているそうです。 -
現在は一般的な赤いだるまをはじめ、紅白だるまや五色だるまなどが作られ、全国に出荷されています。昭和59年に「越谷張子だるま」が埼玉県の伝統的手工芸品に指定されました。
越谷の街歩きを終えました。最後までお読みいただきましてありがとうございました。
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