2025/11/03 - 2025/11/03
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秋の恒例行事となりつつある「都道府県魅力度ランキング2025」が発表されて、埼玉県がとうとう47位を獲得しました。これまで46位にはなったことがあるものの、たぶん多くの埼玉県民が密かに期待していたであろう初の47位達成です。
来年には埼玉県民となって60年となるFUKUJIROも、埼玉県内の知られざる魅力スポットを発信し続けたいと思います。
ということで、幸手宿の街歩きを続けましょう。
現在の幸手市の鎮守は明治期に複数の神社を合祀した幸宮神社ですが、江戸時代の幸手宿の鎮守は、日本武尊の伝説が残る田宮の雷電神社でした。新旧の鎮守を参拝しましょう。
そして幸手宿の北端付近には歴史ある2つの寺院がありますので、こちらにもお参りしました。
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木村とうふ店。お休みです。
昭和12年(1937年)に創業し、3代目が経営する老舗豆腐店ですが、小規模事業者持続化補助金を活用して店舗改装を行いました。
季節によって厳選した国産大豆と伊豆大島産のにがりを使用した「特選」が人気だそうです。
幸手市は、個人営業の豆腐店が多い街として知られていますが、この20年間で半減したそうです。 -
愛の妻路地の突き当たりに位置している、「割烹ときわや」さんです。
八代将軍徳川吉宗が日光参詣の折に食されたという吉宗弁当が名物らしいのですが、やっぱり休業でした。
享保13年(1728年)4月14日に日光社参の途中で第8代将軍徳川吉宗公が食した昼食の献立は次のものでした(このように再現されているかは食べていないので不明です)。
一重 煮染め、焼き豆腐、切唐辛子、ヒジキ、色付けクワイ、塩煮山芋、煮染めハス、酒練りひしお、香の物、干生姜、塩山椒、小梅干
二重 御飯、砂糖、胡椒の紙包
御汁(くだき豆腐、こまごま菜) -
昼頃からだんだんと風が強くなり、この日は最大瞬間風速が17.7mの木枯らし1号となりました。
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かつては八幡香取社と称していましたが、明治42年(1909年)に神社の合祀が行われたのを機に、幸手の総鎮守となり、幸宮神社と改めました。
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幸宮神社の神額。
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参道に銀杏が落ちています。
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大きな銀杏、御神木でしょうか。
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その根元には、無数の銀杏が落ちています。
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手水舎。
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幸宮神社の拝殿。
幸宮神社の創建は不明ですが、奉納品のうちに元禄12年(1699年)3月吉日と記されたものがあることから、それ以前と推測されています。 -
舞殿。
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八坂神社。
境内社とされる以前は大字幸手字浪寄に鎮座し、御祭神として建速須佐之男命が祀られています。 -
社殿の前に囲いがあり、その中に松。
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幸宮神社拝殿。
主祭神 譽田別尊 (ほんだわけのみこと)
経津主神 (ふつぬしのかみ)
配 神 大物主神 (おおものぬしのかみ)
宇賀魂神 (うがのみたまのかみ)
菅原道真公(すがわらみちざねこう)
拝殿には江戸時代の絵師・宗文が描いた一対の絵馬が奉納されています。 -
幸宮神社の扁額。
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社殿の左手に鳥居があります。
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大杉神社です。
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御本殿。
棟札から文久3年 (1863年)に再建された総欅の流れ造りの建物です。
正面扉の両脇に昇龍・降龍、獅子・鳳凰・天邪鬼・鷹・松などが彫刻され、稲作の様子を田起こしから収穫まで描いた四季農耕の彫刻があります。
本殿の彫刻は平成3年(1991年)に市指定文化財となりました。 -
左面の胴羽目は、文王と太公望。
猟に出た文王は、水辺で釣りをしていた呂尚に出会いました。占いで人材を得ると告げられていた文王は呂尚と語り合い、「吾が太公が待ち望んでいた人物である」と喜び、呂尚を軍師として迎えいれました。後に呂尚は太公望と号しました。 -
背面の胴羽目は、頼朝の伏木隠れ。
源氏再興のため挙兵した源頼朝はわずか三百騎で平家方の三千余騎と対戦したものの、平家軍に敗れ、頼朝は土肥杉山の伏木(倒木)のうろの中に隠れました。
この彫刻は、石橋山の戦いを彫っています。
伏木の捜索が行われ、平家方の梶原景時は頼朝を発見するも「ここに人はいない」と報告し難を逃れたことから、鎌倉幕府を開いた頼朝は梶原景時を側近として重用しました。 -
向かって右面の胴羽目は、三顧の礼。
劉備玄徳が諸葛亮孔明を軍師に招く為に孔明の庵を訪れ、三度目でようやく会えたという逸話に因んでいます。
目上または年長の人が、目下あるいは年下への人に対しても礼を尽くすことの例え。 -
石碑。
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境内社の稲荷神社。
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稲荷神社。
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境内の一番奥に忠靈塔が建てられていました。
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続いて雷電神社に来ました。
鳥居は平成8年建立。 -
村社雷電神社の碑。
幸手の地名の由来とされる日本武尊が上陸した「薩手(さって)が島」、そして田宮の雷電神社に農神を祀ったという伝説に出てくるその雷電神社です。
中世、この地は田宮庄と呼ばれており、幸手市内で最古級の神社です。江戸時代、幸手宿の総鎮守でした。 -
参道の先に社殿が見えますが、手前の狛犬がちょっと変わっています。
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向かって左の狛犬(阿形)は普通です。
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しかし向かって右の狛犬(吽形)は参道の正面を向いて、睨んでいます。そして狛犬(阿形)にお尻を向けています。
一つ江戸より杉戸宿の近津神社には見返り狛犬が鎮座していましたが、その変形スタイルでしょうか。
台座には御大典記念と彫られていますので、昭和の初め頃に奉納されたようです。 -
伊勢多々御神楽の碑。
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雷電神社の社殿。
はるか昔のこと、田の中に金色の雷神が落ち、これを祠り田の中の宮、田宮としました。
雷神は、水との関係が深く、特に農民の信仰を集めました。雷電神社の御神体は金銅製の雷神像で、雷除け・雹除けに霊験があるとされ、また恵みの雨をもたらしてくれる神として信仰されてきました。 -
雷電神社の扁額。
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社殿の壁にも狛犬があります。
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向かって右に阿形の狛犬。ただし、阿形は本来は獅子ですが、一般的に狛犬とされています。
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向かって左に吽形の狛犬。
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伊勢大宮記念の碑。
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十三夜塔。
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力石。左は約84cm、右は約74cm。
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旧日光街道に戻ると、この辺りが幸手宿の荒宿だったところです。
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荒宿バス停の時刻表。
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旧日光街道の荒宿交差点です。右は浅間横町、左は大正新道になります。
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幸手宿の垂れ幕がありました。
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真っ直ぐに伸びてきた旧日光街道ですが、大きく右にカーブしています。
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カーブの先に「幸手一里塚跡」 の碑があります。日本橋から12里地点です。
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一里塚は旅行者の目印として約4kmごとに造られた塚のことで、江戸時代には約9m四方の塚が造られ、その上に榎の木が植えられていました。
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一里塚を過ぎたこの辺りが幸手宿の北端とされていました。
このまま道なりに進むと国道4号線に合流し、権現堂堤の北端辺りに出ます。 -
旧日光街道のカーブ地点まで戻ると、北に見えるのが正福寺です。
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大きな石灯籠。
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香水山 楊池院 正福寺(しょうふくじ)。真言宗智山派のお寺です。
創建年は不詳ですが、永正8年(1511年)秀宥によって中興されました。 -
幸手宿の面影を残す日光道中道標がありました。
向かって左側には「日光道中」、右側には「ごんげんどうかし(権現堂河岸)」と彫られています。
江戸時代の幸手宿は、中川の舟運でたいそう栄えていました。
道路拡幅工事に際してここに移転されたものです。 -
境内の南端付近に庭があります。
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そこに幸手義賑窮餓之碑が建立されています。埼玉県指定文化財(昭和14年3月31日指定)。
天明3年(1783年)に浅間山が大噴火した際、江戸周辺では大飢饉が発生しました。
幸手宿の名主や豪商21人が金銭・穀物を出し合い、難民の救済にあたりました。
この善行が当時の関東郡代・伊奈忠尊に伝わり、この「義賑窮餓之碑(ぎしんきゅうがのひ)」が建てられました。 -
積み上げられた石仏や墓石。
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本堂。
慶安元年(1648年)には幕府より寺領13石を賜り、末寺49か寺を擁する大寺院として隆盛を誇っていました。 -
鉄筋コンクリート造りの本堂です。
御本尊は、江戸時代には蔵前神社にあった不動明王像を譲り受け、お祀りしています。
以前の御本尊であった不動明王像は江戸時代末期の水害で流失してしまいました。 -
本堂前に鎮座する獅子像(阿形)。
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獅子像(吽形)。
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旧日光街道を南へ少し戻ります。
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聖福寺(しょうふくじ)。
正福寺に隣接しており、読みも同じです。 -
聖福寺の参道。
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丸うなる
月をかぞえて
十夜かな -
参道入り口に芭蕉句碑があります。
元禄2年(1689年)、松尾芭蕉と河合曽良は、幸手宿を通過しています。特別な記述はないので、旅の2日目は先を急いだものと思われます。
元禄6年、深川芭蕉庵での十三夜連句会で、芭蕉と曽良は旅路を思い起こして幸手に関連する句を詠んでいます。
芭蕉「幸手を行かば 栗橋の関」
特に思い出はなかった様子が窺えます。
曽良「松杉を はさみ揃ゆる 寺の門」
この寺の門が、聖福寺の勅使門だったといわれています。 -
安永年間に描かれた日光道中行程記安見絵図が掲示されていました。栗橋宿。
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幸手宿。
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杉戸宿から和戸村。
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参道の先に勅使門(ちょくしもん)が見えます。
江戸時代、聖福寺境内には日光社参による休憩所・宿泊地となる御殿が設置されました。
御殿の焼失後は再建されることはなく、聖福寺の本堂が代わって利用されていました。 -
聖福寺勅使門(幸手市指定文化財 平成3年4月1日指定)。
日光社参での主要なルートは、日光御成道を北上し、幸手から日光街道を進むものでした。
この唐破風の山門は、日光社参時の徳川将軍か日光東照宮に幣帛を奉献する勅使(日光例幣使)だけが通ることのできた門でした。 -
山門の扁額「菩提山」。
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鐘楼。
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梵鐘。
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菩提山 東皐院 聖福寺は浄土宗のお寺です。
応永年間(1394年~1428年)の創建、慶安元年(1648年)に、幕府より寺領10石が与えられました。
「徳川実紀」によると、日光社参での幸手御殿(御殿焼失後は聖福寺の本堂)の利用は、徳川家光の寛永17年、19年、慶安元年、徳川家綱の慶安2年、寛文3年、徳川吉宗の享保13年、徳川家治の安永5年、徳川家慶の天保14年にあったということです。
訪問日には境内でイベントが行われていたので、邪魔にならないよう退散しました。 -
大正新道に出て幸手駅を目指します。
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海鮮料理の魚万さん、休日は夜間のみの営業でした。
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幸手中郵便局。
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幸手駅まで戻りました。
駅の西口にも興味があったのですが、風が強くて寒くなってきたので、早めに帰宅しましょう。
最後までお読みいただきましてありがとうございました。
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