2023/06/17 - 2023/06/17
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ポポポさん
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大内氏配下の重臣の多くは大内館周辺の侍町に屋敷を構えていたが、陶晴賢の乱や毛利氏の侵攻によって多くは血脈が建たれて主家と共に滅亡した。
現在市内にその居住地が残っているのは陶氏と仁保氏である。グーグルの地図上にその所在が明記されている問田氏館などもあるが、その場所を訪れてみてもその所在はハッキリしない。
滅亡後460年余りを経過した現在館跡周辺を訪ねてもなんら痕跡が無い。せめて跡地の碑でもあれば想像力を掻き立てられると思うが、今回は確実に館の跡がハッキリしている2か所を訪ねてみた。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
山口市陶にある万松山正護寺を訪ねてみた。
正護寺は大内氏の分家(一族)である右田氏の庶流である。初代の弘賢が現在の山口市陶に住み、陶姓を名乗った。
陶氏は周南市富田に移るまでの期間、ここに居館を構え本拠地とした。正護寺は館内に息子の陶弘政が祈願所として建立した臨済宗の寺である。
本家大内氏の滅亡後は衰退していたものを毛利氏が再興したが大内輝弘の乱で焼失した。
その後江戸時代に陶出身の常栄寺大円恵満和尚によって再建された。
写真は正護寺の山門。小郡代官所最後の代官北川清助がここに移築したものである。
寺内には陶晴賢分骨塔があるほか、明治維新の志士富永有隣や小郡代官北川清助の菩提寺であったり脱退兵士駐留ところとして使われるなど明治維新ゆかりの寺院である。
大内輝弘の乱では伽藍が焼失したが仏像は寺僧たちによって守られた。 -
正護寺の説明板。
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正護寺本堂。本堂の奥の建物が庫裏。
かつての陶館は現在の寺の敷地の周囲と推測されている。 -
寺内の薬師如来坐像は平安時代初期の作、山口県下の日本で製作された仏像では最も古い仏像で県指定有形文化財である。
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明治維新の時山口県下で起こった脱退騒動では脱退兵の駐留所となった。
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脱退兵駐留所としての正護寺
脱退騒動の簡単な説明。
第二次長州征伐から函館戦争戊辰戦争末まで長州軍の主力戦闘部隊として主戦場を駆け巡った諸隊の士官や下士官たちの御親兵制度に対する陳情騒動である。
御親兵の選別に対して上官の不正が横行。上官の縁故採用が行われたため熟練兵や下士官が反発、武力を背景に県令に陳情を申し立てたが木戸孝允が陳情書を黙殺、握りつぶして反乱軍と一方的に認定し政府軍の武力で強制鎮圧を行った事件。
百戦錬磨の下士官や隊長、勇猛な兵士で構成された脱退兵は政府軍を圧倒、正攻法では勝てないと踏んだ木戸孝允は脱退軍の有能な士官や下士官を甘言をもって招集、だまし討ちで皆殺しにしたのである。
有能な下士官を失った反乱軍の統率は乱れ結局脱退(反乱)軍は敗れ去った。
反乱軍に加担した諸兵に対する処分は苛烈で一兵士に至るまで刑場で斬首された。
現在山口市内の柊刑場にその処刑場が残っている。
木戸の行いは秘密裏に行われた感があるが、政府軍内には旧知の軍人仲間が幾人もいたため木戸の陰謀は脱退騒動で処刑される家族に事の始終が事前に知らされ難を逃れた下士官もいる。
これら家族の怨嗟は収まることを知らず後の「萩の乱」の原因の一因となったとも言われている。 -
寺の境内にある正護寺歴代住職等の墓
この墓の中には陶晴賢の分骨塔、中ほどに当山開山傑山寂雄大和尚の墓、その隣に正護寺殿(正護寺を建立した陶氏二代目陶弘政)の墓、さらに中興の祖である恵満禅師の墓がある。 -
正護寺ゆかりの墓の説明板。
境内には歴代住職等の墓の他に「三界万霊」と刻まれた陶晴賢の供養塚やボウ虫墳と刻まれた虫の供養塔がある。 -
一番右端の宝篋印塔が陶晴賢の供養塔。
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中央にある(写真では左側の端の方)宝篋印塔が「開山塔」と「正護殿の墓」
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右が「開山塔」で左が「正護殿」の墓。
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「当山中興二世大円恵満禅師」の墓。
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陶晴賢の分骨塔。
墓は宝篋印塔だが、塔の先の形状がいびつであった。
他の宝篋印塔から塔の先の部分のみが取り除かれてここに据えられたのではなかろうか。 -
当山住職の墓の向かい側にあった陶晴賢の供養塚「三界万霊」、「ボウ虫墳」。
三界万霊の台座には「晴賢二百五十年忌に際し陶村民挙げて供養のため建立した」と記されている。
台座の上には地蔵菩薩が載っている。今から二百年以上も前に建てられた供養塚だが、陶村には晴賢を供養してくれる村民の方々がいたということが分かる。 -
「三界万霊」と呼ばれる陶晴賢の供養塚。
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こちらはボウ虫墳。
多くの虫の死を悼み建てられたもの。ここで不思議なのがボウと言う文字。虫偏に方と書かれているがこの漢字、漢和辞典にも載っていない。
なぜこのような字が彫られたのかは謎である。 -
正護寺の墓地には勤王の志士「富永有隣」の墓がある。
富永有隣は萩の野山獄に囚われていた時に吉田松陰と巡り合う。吉田松陰が松下村塾を主催するようになると松陰に請われて松陰と共に塾生を教え、幾多の俊才を育て上げた。 -
寺内にある富永有隣招魂之碑
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富永有隣と共に陶村が生んだ幕末の英傑が小郡代官北側清助である。
禁門の変で朝敵の汚名を課せられた長州藩、藩内では俗論党と呼ばれた保守派が台頭して尊攘派の粛清が吹き荒れる中、敢然と正義派(革新派、尊王討幕派)を支援。
現在の山口市南部地域の庄屋同盟結成に力を貸し、長州藩の天王山と言われる大田絵堂の戦いでは正義派を支援して金銭を貸与、膨大な兵糧米を供出して正義派の勝利に貢献した。
この戦いに勝利した正義派の高杉晋作らは藩論を尊王倒幕(当時は武備恭順と言った)に変更、長州藩は官民一体となって倒幕に突き進むことになる。
高杉晋作は回天義挙の兵を上げたが、萩本藩の正規軍に勝てる見込みは五分五分だった。
もし代官北側清助や山口市南部の庄屋同盟の各庄屋たちが金銭支援や軍事米等の経済支援をしていなかったら革新派は萩の正規軍に敗れ長州藩は維新の大業を無し得なかったと言われている。
それほど大きな歴史の流れの中で適格な選択をして維新の大業に貢献した人物である。 -
次は大内氏の重臣仁保氏館跡を訪ねてみた。
館跡は地元の人々が建てた石碑しかないが、仁保氏の菩提寺や仁保氏の始祖鎌倉の御家人である平子重経(たいらこし・しげつね)の墓は今も残されている。 -
仁保氏館跡の近くにあるのが平子重経の菩提寺源久寺。
源久寺は平子重経が正治元年(1199年)に源頼朝の霊碑安置所として建立した寺で源氏の繫昌長久の祈念道場として、また重経が亡くなってからは重経の菩提寺となった。
平子重経は相模の豪族三浦氏の一族で重経は石橋山の合戦などで戦功をあげた。その恩賞として周防国吉敷郡の一部仁保・深野・長野・吉田・恒富、佐波郡多々良の地頭職を賜り建久8年(1197年)に周防に下向して仁保荘に館を構えた。
その後仁保氏を称して大内氏の傘下に入り、大内氏の重臣となる。
大内氏滅亡後は毛利氏に帰順し、一族の子孫は三浦氏に復姓し三浦元忠と名乗って代々毛利に従い萩藩大組480石を領した。 -
源久寺には国指定重要文化財平子重経坐像の他に県指定文化財木造阿弥陀如来坐像、仁保弘有像がある。
仁保弘有は仁保氏14代当主、仁保氏の全盛期を築いた名将である。
仁保弘有は大内正弘公が応仁の乱に西軍として参戦した時に摂津に上陸、東軍の細川方の領地で縦横無尽に暴れまわり入京、京都の各地で活躍した。
しかし、東軍に組した大内道頓(大内正弘公の弟)が赤間関(現在の下関)で東軍として挙兵すると西軍の正弘方から戦線離脱し、道頓方に寝返った。
仁保方の大部分が正弘公に反旗を翻したが、周防の留守部隊長門守護代である陶弘護と石見の益田氏が正弘方に寝返り、正弘公の実母が分裂した家中を統率するにおいて道頓方を圧倒。
道頓方に味方した仁保弘有も陶方に敗れ一族滅亡の危機に瀕した。しかし仁保氏は一族挙って正弘公に反旗を翻した訳ではなく、弘有の子の一人が京都に従軍、正弘公に忠節を尽くしていたため一族滅亡は免れた。 -
源久寺の仁王像。向かって左は吽形。
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仁王像、向かって右は阿形。
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源久寺の池の鯉。
池の水は割と澄んでいて鯉の色がはっきり識別できた。 -
源久寺の鐘楼。
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源久寺本堂。
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源久寺の入り口には大きな蓮池があるが、これは大賀蓮と命名されている。
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大賀蓮の説明板。
大賀蓮は1948年檢見川遺跡の発掘調査で発見された2000年前の古代蓮で、考古学者の大賀一郎博士が発芽させたので「大賀蓮」と命名された。
その蓮を1984年に3株譲り受けて植えたものが翌年田圃一面に広がり、現在では水田2か所に花を咲かせているそうである。 -
こちらが寺側の蓮池。この右隣にもう一面水田があり、そちらも蓮池になっていた。
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私が訪れた時は近郊の住民の方がボランティアで水田内の草取り作業中であった。
蓮の開花は7月上旬から9月下旬までとのことなので、その前の暑い時期の大変な作業のようだった。 -
2つの蓮池に挟まれるように立っていたのが「平子重経」の墓と伝えられる宝篋印塔である。
鎌倉時代の特徴が良く出ている塔として県の有形文化財に指定されている。 -
源久寺宝篋印塔の説明書き。
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蓮池の草取り作業中のボランティアの皆さん。
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次は市内大内矢田にある浄土真宗光円寺。
この寺には大内氏21代大内弘家の墓(供養塔)がある -
大内弘家(矢田太郎弘家)の供養塔の説明書
この説明書は大内氏の歴史が簡潔にまとめられていて非常に分かり易い。 -
大内弘家(矢田弘家)の供養塔。
墓は宝篋印塔では無く五輪塔だった。 -
光円寺境内の様子。
この場所は元大内弘家の館跡で良君城(らくうんじょう)と呼ばれていた場所。
寺の敷地が弘家の館跡と言う由縁で境内に弘家の墓がある。
寺の開基は小川新右衛門道常。道常は毛利元就の家臣で長門国豊田郡に領地があった。
息子の道長は朝鮮出兵に参軍し戦功をあげたが蔚山で戦死した。道常と孫の道春は道長の菩提を弔うために出家したのである。
孫の道春は慶乗と名乗り毛利輝元の妻の勧めで天台宗の氷上山から浄土真宗に改宗し寺院を建立して光円寺の開山となった。 -
光円寺の本堂。
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次は市内古熊にある大内氏23代当主大内弘幸公の墓所を訪ねることにした。
大内弘幸公は山口を開府した大内弘世公の父である。
弘幸公の菩提寺は古熊にあった大雄山永興寺、この寺には明国からの使者趙秩が逗留した西庁日清軒があった。
明国使節趙秩は山口十境詩で有名な人物であり、古熊には「猿林暁月」という詩が残されている。
大雄山永興寺は景色の良い場所にあったというが、現在では付近に民家が建て込んでいるものの、確かに墓所付近からは山口の町が見渡せる。
しかし、永興寺の跡は付近には全く残っていない。
今では弘幸公の墓所が残されているだけだった。 -
永興寺の跡と思える場所から眺めた山口市の景色。
正面に見える山は鴻の峰。
山頂には日本100名城に選ばれている山城「高嶺城址」がある。
写真で見える道路は永興寺の境内跡地を切り崩して造られたと思われるので、この道路上から左側一帯にかけて寺があったのではないだろうか。 -
墓所の近くに建てられていた山口十境詩「猿林暁月」の詩。
墓所は矢印の方向に歩くとすぐに見つかった。 -
寺の境内の敷地を切り崩して造られたであろう道路と右には住宅地。
左山の斜面の上に大内弘幸公の墓所がある。 -
大内弘幸公の墓所。
神仏習合を今に伝える鳥居がそのまま残されているのは珍しい。 -
鳥居の奥に見えるのが大内弘幸公の墓。
-
3つに分離した宝篋印塔が大内弘幸公の墓である。
大内弘幸公は大内氏23代当主で総領家であるが元弘の乱では幕府の執権北条高時に味方したため建武の新政では兼務政権から疎外され、南朝方に味方した分家の叔父鷲頭長弘が周防守護職に任じられた。これ以後分家の鷲頭長弘は大内豊前守と称し総領として君臨した。
大内弘幸公は足利尊氏とよしみを結び周防守護代となる。足利幕府成立後は鷲頭長弘も足利尊氏に取り入って北朝方となるも鷲頭と大内の対立は続いた。
弘幸と息子の弘世は南朝方に帰順して南朝から息子の弘世が周防守護職に任じられた。
弘幸存命中には鷲頭討伐はできなかったが、死後息子の弘世が鷲頭長弘を打ち破り鷲頭家は滅亡。さらに北朝方であった長門守護職の厚東氏を霜降山の戦いで滅ぼし防長二州の統一を成し遂げた。 -
弘幸公の墓(宝篋印塔)のアップ。
宝篋印塔の上部、中部、基壇部分と別れている。大内滅亡後は荒れるに任せていてこのように荒れ果てた姿になったのだろう。 -
墓所入口の鳥居。
鳥居に前にある階段の下、左側は切り立った崖のようになっていて、その部分から旧永興寺の境内が切り崩されており、現在は道路と住宅地になっていた。
寺の基礎石や石垣、建物の存在を想像させるようなものは一切残っていない。
文献を調べてもいつ廃寺になったのか全く記述が無く分からなかった。 -
最後に紹介したいのが山口旧市内入口にあった袖解橋。
以前はその橋の袂に写真の碑があったのだが、市道の拡幅工事のため橋は解体され現在は見れなくなった。
道路拡幅前の旧石州街道(旧R9号線で以前は市営バスが走っていた)と秋穂街道を繋ぐ橋が袖解橋で、大内時代の西の都山口への入り口であった。
各地を転戦した大内家の武士団はここでは戦支度や旅装を解き、衣服を改めて山口に入場した。
大内の御屋形様はここで武具甲冑を脱ぎ、馬の鞍や馬具も煌びやかものに変え、装束を整えて凱旋したと言われている。
山口から出立した大内の武士団に負け戦はほとんど無かったので、この橋や道は古代ローマ時代のヴィア・サクラ(聖なる道)と同じような通りだったようだ。 -
袖解橋のいわれの説明。この碑と説明板は元あった袖解橋の反対側に移転されて設置されている。
そのため、本当の場所を知らない人は、この碑の場所が袖解橋と勘違いしてしまうだろう。
橋そのものもとても短い橋だったから・・・。 -
写真左に白い自動車が停車しているが、その前の横断歩道を渡ったすぐ先に橋があった。
以前はここには横断歩道はあったのかな?無かったような気がする。橋が架けられていた川は写真中央に小さく見える。
川沿いの道を拡幅しているので川幅が狭くなっており、以前のような川という印象は無い。以前は白い車の先に袖解橋の碑が立っていた。
白い車が停車している所は以前は交差点、写真中央の道路が拡幅されて昔の橋は無くなり、川幅は狭くなって往時の様子がすっかり変わってしまった。
交通の便が良くなるのはいいとしても、歴史的景観がすっかり変えられてしまうのはいかがなものかと思う。
私と同年代の者は袖解橋がどのようないわれの物か本当はどこにあったのか知っているが、今の若い者は親が教えてやらない限り知りはしないと思う。
開発を急ぐあまりに間違った歴史を刻むようになってはいけないと最近つくづく思う。
これで西国の覇者大内氏の歴史探訪は終わります。
次は幕末の山口の歴史探訪を御描きたいと思っていますが、海外旅行の旅行記が全く進まないので、区切りがついて手を付けたいと思っています。
長い旅行記になりましたが、一人でも多くの方が西国に君臨した守護大名大内氏のことに興味を持っていただければ嬉しいと思います。
訪問下さりありがとうございました。
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