2022/11/25 - 2022/11/26
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FUKUJIROさん
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この旅行記のスケジュール
2022/11/25
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電車での移動
東海道新幹線で新大阪駅へ移動
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徒歩での移動
梅田駅から歩いてホテル関西へ移動
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ホテル関西に荷物を預けて天王寺駅へ移動
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歩いて四天王寺へ移動
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金剛組
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徒歩での移動
歩いて四天王寺前夕陽ヶ丘駅へ移動
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仕事を終えてホテル関西へ移動
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この旅行記スケジュールを元に
急な出張で大阪に行ってきました。
仕事は金曜の夜、その後は土曜日曜と続くので、ノープランのままホテルに2連泊の予約を取り、今回も行き当たりばったりの旅を楽しみました。
新幹線の中でネット検索すると、聖徳太子が創建した四天王寺をお参りしたことがないのに気付きました。天王寺駅では何度も乗り換えていましたが、初めての参拝です。
ホテルに荷物を預けて出かけました。
1日目
東海道新幹線で新大阪駅へ移動、JR大阪駅・各線梅田駅から徒歩10分のホテル関西に宿泊。チェックインには早すぎるので、荷物を預けて四天王寺に参拝しました。
2日目
京都へ向かい、大覚寺と大沢池の紅葉を楽しみ、歩いて清涼寺から二尊院をお参りしました。
3日目
お初天神、難波神社、松尾芭蕉終焉の地、坐摩神社、南御堂を回り、帰京しました。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 4.0
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 3万円 - 5万円
- 交通手段
- 新幹線 私鉄 徒歩
-
東京駅で買った駅弁です。
荷物になるなぁと思いながらも、鉄男なら見たら買いたくなりますよね。
もちろん美味しくいただきました。 -
出発早々に荷物が増えてしまいました。
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予約した宿は、ホテル関西という立派な名前でした。JR大阪駅&各線梅田駅から徒歩10分、地下街「泉の広場」M14出口から徒歩3分とのこと。泉の広場に着きました。
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泉の広場です。
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泉の広場です。
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ホテル関西です。
駅の近くでは格安でした。ロケーションは完全に場末の雰囲気です。
私は好きですが、女性やファミリーにはお薦めし難いです。隣は、夜の街の案内所でした。良い子、良い大人は気をつけましょう。
ホテル関西では、チェックイン前の荷物預けは無料でしたが、チェックアウト後は有料(500円)と貼り紙がありました。 -
荷物をホテルに預けて、天王寺駅に移動しました。
天王寺区のマンホール蓋です。大阪城がデザインされています。 -
ぶらぶらと歩いていたら、道の反対側に大阪市立天王寺小学校がありました。
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国道25号は交通量が多いので、通学専用の地下道が作られていました。
私は通行できないので、さらに遠回りして横断歩道を渡りました。 -
遠回りしてしまいましたが、南大門とその先にある五重塔の上部が見えました。
中心伽藍が一直線に並んでいるのが実感できます。 -
四天王寺の南大門。
昭和60年11月に再建された門ですが、ネットで調べても詳細がまったくわからない建造物です。
四天王寺の正門とされますが、観光客の多くは西大門から入るみたいです。 -
南大門の内側。
手前に見えているのが、熊野権現礼拝石です。 -
熊野権現礼拝石(くまのごんげんらいはいせき)。
古来、熊野詣を目指すときには、この礼拝石の上に立ち熊野の聖地を遥拝し、道中の安全を祈願したと伝わります。
熊野への旅はとても過酷で、道中で力尽きた人もいたようです。 -
玉垣内に鎮座している熊野権現礼拝石。
多くの人がこの礼拝石に乗ったことでしょう、表面は平らに擦り減っています。 -
四天王寺の中門(ちゅうもん)。
左右に金剛力士(仁王)像を安置することから仁王門と呼ばれます。
昭和38年(1963年)、大日本相撲協会(日本相撲協会)による寄進で再建しました。
屋根には鴟尾(しび)を乗せています。
仁王門の先には五重塔の相輪が見えています。さらに北側には金堂、講堂と続いています。 -
南大門の仁王像。
とても大きな仁王像で、高さ5.3m、重量1トン、奈良東大寺南大門の仁王像に次いで大きいとされます。 -
東側の那羅延金剛力士像。
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仁王像は仏師松久朋琳・宗琳両師の作です。
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西側の密迹金剛力士像。
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境内図がありました。
中心伽藍の配置は「四天王寺式伽藍配置」といわれ、南から北へ向かって中門、五重塔、金堂、講堂を一直線に並べ、それを回廊が囲む形式で、日本では最も古い建築様式の一つです。
総面積3万3千坪(約11万㎡)、甲子園球場の3倍(東京ドームの2.3倍)の広さです。 -
清浄水井戸屋形(手水舎)。
懐かしいガッチャンポンプの井戸です。 -
回廊に囲まれた中心伽藍、五重塔と金堂(屋根)が見えます。
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西重門。中心伽藍への入場口になっています。
拝観料は、大人(個人)300円とお安いです。 -
五重塔と金堂。
四天王寺はたび重なる戦火や災害に見舞われ、多くの堂宇が焼失し、その度に再建を繰り返してきました。また、明治維新の神仏分離令により、それまで四天王寺に所属していた神社が離され、厳しい状況に置かれました。
昭和9年(1934年)9月21日、近畿一円を襲った室戸台風によって五重塔が倒壊、金堂は傾斜破損、仁王門(中門)も壊滅するなど、境内全域が大きなな被害を被りました。
昭和15年(1940年)、五重塔は7度目の再建をされましたが、昭和20年(1945年)3月13日・14日に行われた第1回大阪大空襲で国宝だった東大門や中心伽藍は焼失しました。アメリカ軍の大阪大空襲は終戦までに8回も行われ、14,000名以上の市民が死亡(行方不明を含む)しました。 -
五重塔。
昭和34年(1959年)に鉄筋コンクリート造りで再建された8代目の五重塔です。壁面には山下摩起師筆の仏画があり、また、5重目まで螺旋階段で上がれるようになっています。
全高37.05mで、その内、相輪が12.3m、全高の三分の一を占めています。 -
五重塔の内部。金堂の側に入り口がありましたが、中には入れませんでした。中に入れるのは、毎月21日だけのようです。
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中門と五重塔の間に建つ八角塔。
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中心伽藍を囲む回廊。
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中心伽藍の回廊に吊られている永代万灯灯籠。
四面に四天王の梵字をあしらった豪華な吊灯籠で、彼岸やお盆には点灯して供養します。永代奉安料は30万円です。
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排水溝。昭和31年からの発掘調査で見つかったもので、1200年も昔、廃瓦を両側に積み重ね、平瓦で覆った構造でした。
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金堂。
昭和36年(1961年)3月に再建しました。
入母屋造りで屋根は上下二重、中門、講堂と同様に錣葺とし、鴟尾を乗せています。
外観は法隆寺金堂に似ていますが、裳階(もこし)を付さない点が異なっています。 -
金堂。
内部は中央に御本尊の救世観音菩薩(ぐぜかんのんぼさつ)像、向かって左に舎利塔、右に六重塔を安置し、仏壇周囲に四天王像が立ちます。
周囲の壁面には中村岳陵師筆の「仏伝図」の壁画があります。
内部の撮影は禁止です。 -
金堂の内部です。
御本尊は救世観音菩薩像です。聖徳太子は救世観音の生まれ変わりともいわれています。
中央の救世観音菩薩像は、彫刻家平櫛田中師の指導で造像されたもので、右手の掌を正面に向ける施無畏印を結び、左脚を踏み下げて座す半跏像です。
四隅に立つ四天王像は、中門の金剛力士像と同じく仏師松久朋琳・宗琳両師の作です。
なお、この写真は隠し撮りではなく、四天王寺前夕陽ヶ丘駅の壁面パネルを写したものです。 -
講堂(講法堂)。
入母屋造り単層。堂内西側を「夏堂」(げどう)、東側を「冬堂」(とうどう)と称し、それぞれ阿弥陀如来坐像(松久朋琳・宗琳両師の作)、十一面観音立像(佐川定慶師の作)を本尊とします。
周囲の壁面には郷倉千靭師筆の「仏教東漸」の壁画があります。
もちろん、撮影禁止でした。 -
講堂脇から見る金堂と五重塔。
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龍の井戸。
四天王寺の創建当初からある金堂基壇下の青龍池を水源とする井戸です。古来、この井戸は 天竺の無熱池に通じていると伝えられ、青龍が棲むといわれます。 -
井戸を覗いて水面に現れる龍に祈れば、たちまち厄災を除くと云われています。
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西重門から出て、回廊外からの五重塔。
広い境内を回ってみましょう。 -
阿弥陀堂。
昭和28年に四天王寺末寺の三重県国束寺(くずかじ)の本堂を移築したものです。 -
阿弥陀堂(念仏堂)。
平安時代には念仏三昧院、念仏堂と呼ばれる堂宇が存在し、元和3年(1617年)に鳥羽法皇が立てた御誓願のもと「短声堂」「引声堂」として再建されました。
法然上人二十五霊場の第6番札所となっています。 -
納骨堂。
阿弥陀堂の西側にあります。
納骨総祭塔に納骨されるお骨を仮安置する御堂です。
四天王寺では、宗派を問わず合同墓(合祀納骨)への合祀をすることができます。 -
法然上人像。
法然上人は承安5年(1175年)、43歳の時に比叡山を下りて浄土宗を開きました。かって延暦寺の寺領であった新黒谷で庵を結び、念仏の教えを広めました。
文治元年(1185年)、慈円僧正の招きで四天王寺に参詣され、日想観を修せられました。 -
法然上人様のお顔です。
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弘法。
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弘法大師修行像。
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お大師様の手から繋がっています。
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お大師様の手から繋がっています。
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弘法の隣には、八十八ヶ所参りがあります。
四国八十八か所霊場のお砂が納められています。 -
見真堂。
浄土真宗の祖である、親鸞聖人を顕彰し、建立されたお堂です。
御本尊は阿弥陀如来像、向かって右に聖徳太子像、左に六字名号の掛け軸が祀ってあります。 -
親鸞聖人像。
見真堂の前には、親鸞聖人像が建立されています。親鸞聖人は比叡山に登り、20年間修行しましたが、自力修行の限界を感じました。
聖徳太子を敬っていた聖人は、29歳の時、建仁元年(1201年)の春、太子建立の六角堂(京都市)へ百日参籠を行い、95日目の暁に、聖徳太子化身の救世観音菩薩から夢告を受けたとされています。
頂法寺六角堂を参拝したときの旅行記です。お時間がありましたらご覧ください。
https://4travel.jp/travelogue/11667377 -
その夢告に従い、百日にわたり法然上人(69歳)の元へ通い、そして法然上人の弟子となりました。建永2年(1207年)2月、後鳥羽上皇の怒りに触れて、専修念仏の停止を命じられ、法然ならびに親鸞を含む7名の弟子が流罪に処せられ、法然・親鸞らは僧籍を剥奪されました。
後に赦免されましたが、法然上人の入滅後は東国での布教を約20年間続けました。
帰京後は執筆に励み、弘長2年(1262年)11月28日、行年90歳(満89歳)で入滅しました。 -
四天王寺ではたくさんの御朱印を受けることができます。
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さらに北へ、小さなお堂がありました。
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お堂の隣に釈迦如来像が鎮座しています。
丸池の東岸側に遥拝所があり、対岸に祀られているこちらの釈迦如来像を拝み極楽浄土を観想するという慣わしがあるといいます。 -
釈迦如来像の前には仏足石がありました。
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丸池。対岸に北鐘堂。
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丸池の北側から南方を見ると五重塔。
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丸池の北側から南方を見ると、あべのハルカスも見えました。
対岸の建物は和労堂、参詣者の休憩所です。 -
北鐘堂(黄鐘楼)。丸池の東側にあります。
別名は北の引導鐘とも。昭和24年(1949年)に建立。
鐘の音は遠く極楽までも響くといわれ、春秋の彼岸には先祖供養のための鐘の音が絶えません。 -
亀の池。
古くは大寺池、あるいは蓮池と言われたようですが、近くにある亀井堂に因んで池に亀を放すようになったことから亀の池と呼ばれるようになりました。 -
亀がたくさんいるのですが、皆同じ位の大きさです。成長したら捕獲するのでしょうか。
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石舞台(国指定重要文化財)と六時堂(国指定重要文化財)。
石舞台は亀の池の中央にあります。
聖徳太子の命日である毎年4月22日の聖霊会の日に雅楽が奉納されます。 -
現在の石舞台は、文化5年(1808年)に再建されたもので、幅10m×奥行20mで面積約200m2、バレーボールコートの約1.25倍の大きさです。
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六時堂は、昼夜6回にわたって諸礼讃をするところから六時礼讃堂の名があります。
薬師如来・四天王等をお祀りしており、回向(供養)、納骨等を行う四天王寺の中心道場です。また、入口には賓頭盧尊者像やおもかる地蔵が祀られています。入母屋造り、瓦葺き。 -
左方楽舎、御供所、右方楽舎。
石舞台の南側に建っています。
楽舎は舞楽が舞われるときに楽を奏する場所で、御供所は供物を安置する場所として使われます。聖霊会(しょうりょうえ)を催すときには、左右の楽舎と御供所が重要な役割を果たします。 -
太鼓楼。
かつては太鼓が置かれていましたが、再建の際に鐘に変えられたそうです。 -
亀井堂。
昭和30年(1955年)に再建されました。亀井堂の霊水は金堂の地下から湧き出しているとされ、回向(供養)を済ませた経木を流せば極楽往生が叶うといわれています。左右に馬頭観音と地蔵菩薩があります。中央には、その昔聖徳太子が井戸にお姿を映され、楊枝で自画像を描かれたという楊枝の御影が安置されています。 -
亀井不動尊。
御本尊は水掛け不動尊で、左に子育地蔵尊、右に延命地蔵尊を祀っています。
近畿36不動尊の第一番霊場となっています。
昭和30年に再建しました。 -
御本尊の水掛け不動尊、左に子育地蔵尊、右に延命地蔵尊を祀っています。
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前方に東大門が見えています。
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あべのハルカスと五重塔。
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中心伽藍の東側です。
石神堂(牛王尊)。四天王寺が建立される時、建築資材である石や材木を運搬した牛が、伽藍が完成するや否や化して石となったと伝えられ、堂内には牛王尊(ごおうそん)の巨石が安置されています。 -
この石碑は何かわかりませんでした。
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四天王寺の石槽。
花崗岩をくり抜き、丁寧に磨き上げられた石槽です。四天王寺の西大門で手水鉢としてつかわれていたもので、鎌倉時代に制作されたと推測されています。 -
花塚。
昭和9年5月8日に大阪花商組合が主唱し、業界の繁栄と家内安全を祈願して永代供養のため建立されました。
毎年4月に一年の感謝を込めて草木慰霊祭が行われます。 -
宝物館。
拝観料は、大人(個人)500円です。 -
番匠堂。
聖徳太子は、朝鮮半島の百済国より番匠と称される数多くの名工を招請され、高度な建築技術を導入しました。
建築に携わる人たちの間で、大工・建築技術の向上や工事の無事安全を願い、聖徳太子をお祀りするようになりました。お厨子の中には曲尺を手に持った曲尺太子が祀られています。毎月22日にご開帳されます。 -
太子殿猫の門。
鼠から経典を守るため、蟇股に猫の彫り物があり、初代の木彫りの猫は左甚五郎作とされていました。あまりにも見事な猫だったため、大晦日から元旦にかけて、日光東照宮の眠り猫と鳴きあったと伝っています。
そのため、逃げ出さないように金網が張られていました。
昭和54年(1979年)に再建された時、猫の彫刻も施されました。 -
一乗院。
令和2年(2020年)3月6日に聖徳太子の千四百年御聖忌(2022年厳修)記念事業の一環で、建立されました。 -
四天王寺はかつて天台宗の寺院となっており、この場所には伝教大師像が祀られていましたが、大東亜戦争の金属類回収令により、供出されました。
四天王寺は、昭和21年に天台宗から独立して和宗を創設したため、伝教大師像はありませんでしたが、この度、御像を造立されて安置しました。 -
普賢菩薩のお堂。
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普(あまね)く世界に現れ、仏の慈悲と理智を顕して人々を救う賢者という意味を持つ菩薩様です。
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野沢菜原種 旅の起点碑。
野沢菜は、宝暦6 年(1756年)に長野県野沢温泉村の健命寺の住職が、修行先の大阪から天王寺蕪の種を持ち帰ったことが起源とされています。
平成28年(2016年)11月10日、碑の除幕式が開かれました。 -
なにわの伝統野菜にも指定されている天王寺蕪は天王寺が発祥とされ、江戸時代は多くの畑があったと伝えられています。雪国の野沢温泉村は高冷地のため、カブの部分が大きくならず葉だけが育ったと謂れています。
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南鐘堂(鯨鐘楼)。
御本尊は阿弥陀如来で、八角屋根に円形の堂、太子引導鐘堂ともいい、昭和30年に建立しました。
天井裏に鐘があり、参拝者が綱を引いて鐘を撞くことができます。コロナ禍で中止でした。 -
聖霊院太子殿の門。
聖徳太子をお祀りしているお堂、聖霊院(しょうりょういん)への入り口です。 -
四天王寺聖霊院唐門。
境内の南東部にあり、南面して建つ四脚門です。徳川家康公を合祀した用明殿の正門として建築、本坊御成門を経て、現在地に建てられています。文化5年(1808年)に建立、登録有形文化財。 -
西大門。内側から、石鳥居を見ています。
取り急ぎ境内を一周して、仕事に向かうため、西大門から出ることにしました。
西大門は、昭和37年(1962年)に松下幸之助氏の寄贈により再建されました。
この門は極楽に通ずるとの意味から極楽門とも呼ばれています。 -
勢至菩薩の絵。
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観音菩薩の絵。
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西の参道。夕暮れです。
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西大門。
四天王寺が創建された頃、この地は入り江に近く、夕日が美しい場所でした。
平安時代後期、浄土教の西方極楽浄土信仰と重なり、四天王寺の西門は「日想観」の聖地となり、極楽門としてより荘厳な門となっていきました。 -
布袋堂。
俗に、乳のおんばさんのお堂と呼ばれ、子どもが健康に育つように、お乳がよく出ますようにとの願いを持つ女性がお参りします。入口には「お乳が出ますよう 」 との願いを書いた絵馬が多く吊り下げられています。 -
四天王寺学園(中学・高校)。
建学の祖である聖徳太子の精神に則っとり、教育を行っています。この聖徳太子の精神とは、すべての衆生を救わんとする大乗仏教の精神であります。公式HPより。
関西の女子校としては、神戸女学院と並んで最難関とされます。またスポーツ選手を多く輩出する文武両道の学校です。 -
四天王寺高校の門前に、西国巡礼三十三度行者満願供養塔(府指定文化財)があります。
この供養塔は、住吉大社近くの西の坊という寺院が組織した「住吉組」の行者が、無事に巡礼を終えたことを記念して文久2年(1862年)に建立しました。 -
石鳥居(国指定重要文化財)。
内側から、西の空に夕焼けが見えます。
かつては、西の海に沈む夕陽を拝む場所であり、春秋の彼岸の中日(春分の日と秋分の日)には石鳥居の中心、遥かに六甲山と淡路島の間に沈む太陽が見えました。
彼岸の中日には、西大門から鳥居に沈む太陽を拝む「日想観」法要が現在も続けられています。 -
石鳥居。鎌倉時代の永仁2年(1294年)に建立。
中心伽藍の西側、西大門のさらに外に建っています。四天王寺で現存する建物では最も古く、高さ9mです。
古来、大陸から船に乗って難波津に来ると、四天王寺の石鳥居、西大門、そして五重塔、金堂、講堂と並ぶ中心伽藍を見て、その荘厳な様に目を見張ったと伝わっています。 -
鳥居に掲げられている扁額は、高さ1.5m、横幅1.1mあり、「釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心」と記されています。その意味は「釈迦如来が仏法を説いている場所で、極楽の入口である」とのこと。
弘法大師または小野道風の筆によるとされ、嘉暦元年(1326年)の銘があります。 -
金剛組、本社です。
世界一歴史の長い企業として知られる株式会社金剛組(こんごうぐみ)は、聖徳太子が百済より招聘した宮大工が、敏達天皇7年 (578年)に創業した企業です。 -
四天王寺建立のため聖徳太子によって百済より招かれた3人の宮大工(金剛、早水、永路)のうちの1人である金剛重光が創業しました。
四天王寺を築いた工法は、今も金剛組「組み上げ工法」に残っています。 -
四天王寺前夕陽ヶ丘駅(してんのうじまえゆうひがおかえき)は、四天王寺の最寄り駅です。
大阪市天王寺区にある大阪メトロ谷町線の駅で、昭和43年(1968年)12月17日に開業しました。 -
仕事を終えて、梅田駅から歩いていると、ホテル関西の周辺は繁華街(歓楽街)です。
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飲食店も多いので、出張慣れしている人に向いています。
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ホテル関西の室内。
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ホテル関西の室内。
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バスルーム。
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ホテル関西の朝食。
おかずの種類は適度にありますが、朝カレーをいただきました。
ここまでお読みいただきましてありがとうございました。
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