2022/11/08 - 2022/11/08
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kojikojiさん
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この旅行記のスケジュール
2022/11/08
この旅行記スケジュールを元に
お昼前にホテルに戻り妻と合流してから一番最初に「遠野市立博物館」の見学に行きました。当初は郊外の「遠野ふるさと村」へ行くつもりでいましたが、前日にお昼を食べに行った後に村内を見学することが出来たので行く必要が無くなりました。そこで予定を変更して博物館に行くことにしたのですが、正直何でここを外した予定を立てたのだろうと思うほど素晴らしいものでした。ここでは最初に南部遠野家から始まる町の繁栄が紹介され、良く出来たジオラマが並んでいるのでリアルな市の情景を感じることも出来ました。市井の人々の暮らしから遠野の文化、宗教とテーマごとにコーナーが設けられ、前の日に見てきて分からなかったこともここで理解することが出来ました。本当であればツアーの最初に組み入れても良さそうな場所だと感じます。さらに上の階にはミニシアターがあり、水木しげるのアニメで描かれた「遠野物語」が2話と辻村寿三郎の様な人形を使ったアニメーションが8話上映されていました。見学者は我々2人だけなので好きなものを好きな順番で観ることが出来ました。この博物館の展示は長年仕事をしていた乃村工藝社という会社によるもので非常に良く出来ていると感じました。当初は30分もあれな十分と考えていましたが、気が付くと1時間以上かかってしまいました。おかげでこの後ランチ難民となって遠野の町中をさまよい歩くことになりました。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.5
- 交通
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- 観光バス タクシー 新幹線 JRローカル 徒歩
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- クラブツーリズム
PR
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妻と合流して遠野市内の観光を続けますが、行ったり来たりしないようにホテルの隣にある「遠野市立博物館」の見学を先にすることにしました。建物の半分は市立の図書館になっています。
遠野市立博物館 美術館・博物館
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遠野の町に置かれたモニュメントではこの鹿踊りの像が一番の出来だと思います。今から思えばお昼を先に食べてからここへ戻れば良かったのですが、この後ランチ難民になって町をさまよい歩くことになります。
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図書館は1階と2階が使わられ、裏側の3階から博物館に入ります。
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遠野と言えば俳優の原田龍二ですね。彼の座敷童子に対しての思い入れは面白いと思います。
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博物館の3階が展示スペースで4階がミニシアターになっていました。2話が水木しげるのキャラクターのアニメでした。ほとんどテレビのアニメのようでした。残りの8話は辻村寿三郎とまではいきませんが、人形を使ったアニメーションでした。
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まずは3階の展示室から見学して、最後に4階のシアターを見ることにします。
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「遠野物語」の初版本が置かれてありました。文庫本でしか読んだことが無い本ですが、こうやって初版本を見ると感慨深いものがあります。
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博物館の展示方法としても良く出来ていて、たぶん乃村工藝社か丹青社だと思って調べてみたら乃村工藝社でした。2010年に「ディスプレイデザイン賞」に入選していました。
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「深山幽谷懸廻猟師併縁起引導回向鳴巻物」は狩りの秘伝書です。3人の漁師が弘法大師の高野山開山に協力して、動物の霊の祟りを防ぐ呪文を授けられる物語です。当時の猟師の風俗画よく分かるイラスト付きです。
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昨日見てきた曲り家やデンデラ野の情景が頭に蘇ってきます。この博物館を見てから遠野の郊外を巡っても良いし、その後にここへ来ても良いと思えます。いずれにせよ「遠野物語」を深く考察するにしても、遠野の歴史を知るにしてもここは見学したほうが良いと思います。
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かっぱおじさん教えてくれた長者についての考察や、山口集落の孫左衛門の屋敷跡の野っ原を歩いたことが思い出されます。
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伝承の中だけの話しと思えた孫左衛門の屋敷跡の話しですが、この3体の仏像は孫左衛門の屋敷にあったと伝えられるものです。上段が福禄寿像で、中段が毘沙門天像で、下段が地蔵尊です。これが神棚に飾られていたとしたらすごい屋敷だったのだと思います。
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慶長5年の1600年に家臣の反乱によって阿曽沼氏は遠野を追放されます。寛永4年の1627年には八戸にいた根城南部氏が所替えになり、遠野を納めるようになります。鍋倉城の周りの城下町が整備され、市日も開かれて遠野は繫栄していきます。
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所替えの大名行列の様子を描いた絵巻が面白いです。どこの誰が何をしたかが分かるように記録されています。現在のカメラがあればここまで記録することも無くなりますが、物を見る目は衰えると思います。最近の映画の「超高速!参勤交代」とかを思い出させます。
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古い甲冑の家紋は向鶴なので南部氏ゆかりのものだと分かります。立物(たてもの)が耳の長いうさぎというのも可愛らしいです。
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海のある大槌などと山間部の花巻を結ぶ街道の中間にある遠野は交易の中継地点として繁栄し、市の立つ日には馬千頭に人千人が集まったそうです。それが先ほど歩いた中央通りの辺りだというのですから驚きです。
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「遠野物語拾遺」98話の「万吉米店」の話に出て来る天狗が最後に残していった品々が展示してあります。これは先に酒屋の有る中央通りを先に見てきて良かったと思いました。万吉が天狗と最初に出会った鉛温泉には翌日の午後に行くことになっています。
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天狗の履いていた高下駄と相馬焼の茶碗、物入れが残されていて展示してあります。日本の歴史を見ると山伏は天狗と同一視されることが多く、「天狗山伏」という言葉も「太平記」以降の史書で見られるようになります。身に着けている山伏十二道具は不思議に思えたでしょう。
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三山伝説についても紹介されています。これも早池峰神社に参拝していなければ興味深く見ることは無かったかもしれません。
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「遠野古事記」は宝暦13年の1763年に宇夫方広隆によって書かれた3巻の書物です。上巻には史伝、中巻には風俗や伝説、下巻には寺社の沿革が記述されています。
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城下町としての遠野が紹介されているコーナーは興味深く見ることが出来たと同時に現在の寂れ方が悲しく思えます。遠野が寂れてしまったのは鉄道による輸送ではなく、町の北側にある遠野バイパスのせいだと思います。
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経済の中心地だった遠野は江戸時代には「六度市」と呼ばれる市が立ちました。この市は1カ月に6度の1と6が付く日に開かれ、数多くの商人が集まりました。大正時代の鍋倉城址から眺めた遠野の町は現在と大きく変わりませんでした。ただ、その賑わいは現在は感じられません。
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北上高地の中央部に位置する遠野は古くから内陸と海岸を結ぶ交通の要衝で、人と物資が集まり、大きな賑わいであったそうです。これが現在の中央通りだと思うとその大きな差に驚きます。
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このジオラマは大正8年の1919年から昭和31年の1956年まで東舘町に馬検場での馬市の様子を再現しています。馬の売り買いする馬喰(ばくろう)たちが全国から120人から150人も集まったそうです。
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馬の売り買いの場面も来ている法被のせいかお祭りのように見えてしまいます。
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実施に馬の売り買いが終わってしまえば一升瓶を囲んで酒盛りが始まっているようです。遠野の馬は農耕や駄賃付け、山仕事などの労働力になったばかりでなく、馬市掫(おせり)での貴重な現金収入源としても人々の暮らしを支えてきました。
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市の立つ日は周囲の山々から鳴り輪を付けた駄賃付の馬が峠を降りて、海からも陸からも物が集まり、再び海や山へと運ばれて行きました。
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海岸方面から運ばれる荷物は「五十集物(いさばもの)」と呼ばれ、長方形に編んだカマスに入れて、魚が傷まないように馬に積み込まれ、夜通し運搬したそうです。主に大槌や釜石、仙台領だった現在の陸前高田から塩や魚類、海藻、魚かすが取引されました。前の晩に「魚っこや」で食べた魚も大槌から運ばれたものでした。
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そんな街の情景が壁面一杯のイラストで表現され、その足元にはトロ箱が積まれ、海から届いた魚が並んでいます。トロ箱は底引き網漁の一種であるトロール漁で収穫した魚を入れる箱という意味なのでこの頃は違う名前で呼ばれたのかもしれません。臭いの移らない素材であるナラ、ブナ、トドマツ等を用いられました。
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一日市(ひといち)や六日市を中心に開かれた六度市には在方からの農民が集まり、野菜や山菜、わら細工や竹細工、木工品が露天売りされました。また得意先の店に卸すこともあったそうです。
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日詰(ひづめ)や花巻、仙台領の岩谷堂(奥州市)などの内陸からは穀物や雑貨類が馬によって運ばれて市で取引されました。扱われたのは障子紙、硫黄、蝋、漆、藍玉、雑貨、穀物、煙草、衣類、番傘、鍋、釜などであったそうです。
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これが現在の中央通りかと思うと、現在の閑散とした通りが寂しく感じてきます。このようなどぶ板は子供の頃にはまだ残っていた記憶があります。
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駄賃付への馬がカマスを背負っているので海から魚を運んで来たようです。気温の高い昼間を避けて夜通し峠を越えてきたわけです。
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花巻人形の花車と遠野の附馬牛人形の鯛かつぎなどの人形も人気があったようです。附馬牛人形は土と和紙が原料で焼かずに乾燥させただけなので、軽くて壊れにくい上に安価だったようです。
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米は内陸部から運ばれる主力商品で、明治23年の1890年に行われた調査では遠野には55軒の米穀商があり、駄賃付けを雇って大量の米俵を運びました。
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遠野南部22代直栄が寛永初年の1661年頃に遊芸師に命じて京都の「祇園ばやし」を参考に遠野郷の特色を入れて生み出した町立踊りの「南部ばやし」の様子です。
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現在も「遠野まつり」でその行列を見ることが出来るようです。
https://www.youtube.com/watch?v=dEnXw3FTXCg -
22代直栄は同じ寛永初年の1661年頃に八幡宮を松崎町宮代から八幡町の現在の地に遷宮し、領内の武士には流鏑馬、領民には神楽や山車や手踊りを奉納させました。これが現在も残る遠野の郷土芸能の奉納する習わしの始めだったそうです。
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3月にはお雛様を見て歩く「お雛見」、4月には「卯迦神社例大祭」5月には「南部神社例大祭」で鹿踊りが奉納されていたのですね。歩いてきた神社の風景が重なり、いつか鹿踊りを観たいと改めて思います。
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8月には「遠野七夕祭り」「遠野まつり」と祭りが続きます。七夕飾りは仙台の飾りに似ているようです。
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遠野に至る大槌からの道筋が双六になっていました。大槌から内陸に進むと小槌という地名があることは初めて知りました。そこから種戸峠、芳形、切石峠、和山峠、界木峠、土淵を越える大槌街道は遠野に至るまでいくつもの峠を越えたのだと分かります。
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盛岡へ至る遠野街道は綾織、小峠、上宮守、磔峠、達曽部、大迫、佐比内を越えて行きました。
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遠野の馬は農耕や駄賃付け、山仕事などの労働力になったばかりでなく、馬市掫(おせり)での貴重な現金収入源としても人々の暮らしを支えてきました。駄賃付けとは馬に荷物を背負わせて各地へ運ぶ仕事です。遠野は海岸と内陸とを結ぶ交通の要衝であり、各地の物資とともに情報や文化が、駄賃付けによって遠野に運ばれてきました。 馬市掫(おせり)は毎年秋に開かれる遠野で最大の年中行事でした。馬検場には陸軍省や農林省の購買官をはじめ全国から人々が集まりました。
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遠野を中心に広がる街道網はこの地図を見ると交通の要衝だったことがよく分かります。盛岡へ至る遠野街道、花巻へ行く花巻街道、岩谷堂街道は内陸へ向かい、大槌街道と小国街道と両石街道、気仙街道は海へ至ります。
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駄賃付への馬の模型まで飾られています。駄賃付けは農民の貴重な現金収入で、普通は1人で4頭から5頭の馬を引きました。明治から大正にかけての一般的な男性の手間賃は1日10銭程度でしたが、駄賃付けの手間賃は平均して2円という高収入だったようです。
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駄賃付けの道具として、荷物をつける「鞍」、馬の頭部に着ける「タテゴ」、馬が道草を食べないための「クツゴ」、夜道のオオカミ除けの「鳴輪」、鞍と背中の間に置く「タバサミ」、鞍に荷を付けるための「ハシリ」「シリゲ」、虻を避ける「ヤセガクシ」、蹄鉄が無い時代に馬に履かせた草鞋の様な「ウマグツ」がありました。
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遠野の馬は大切にされ、繁殖と健やかに成長するように駒形神社に参拝し、絵馬が奉納されました。絵馬は生馬(いくま)を神馬(しんめ)として神に奉納したのが始まりとされます。馬産地遠野では良馬生産を願って奉納した絵馬が数多く見られ、馬に託した人々の願いがうかがわれます。
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昨日も「遠野ふるさと村」でも見た「馬っこつなぎのワラ馬」も展示してありました。北上山地周辺の農村に伝わる豊作を祈願する行事で、藁で作った馬を田んぼの水口、井戸、道の分かれ等に供え「馬の積んでも積みきれない程の穀物がたまりますように」「水の過不足がないように」と願います。お供えした藁馬に田の神様が乗り、作柄を見て回るといわれています。
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近世以降は国内の流通が活発化し、馬が移動や荷運びの手段として使われることが多くなります。これに伴い馬が急死した路傍や芝先(馬捨場)などに馬頭観音が多く祀られ、「馬頭観世音」の文字だけ彫られた石碑は、多くが愛馬への供養として祀られたものであると考えられます。
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オシラサマの神体の多くは桑の木で作った1尺(30センチメートル)程度の棒の先に男女の顔や馬の顔を書いたり彫ったりしたものに、布きれで作った衣を多数重ねて着せたものであります。木製の頭が表された貫頭衣のかたちをしたものと布を頭部からかぶせた包頭衣の2種類に分かれ、これは包頭衣タイプのものです。
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オシラサマは東北地方で信仰されている家の神であり、一般には蚕の神、農業の神、馬の神とされます。オシラサマの祭日を「命日(めいにち)」と言い、旧暦1月と3月と9月の16日に行われます。命日には神棚などからおしら様を出して神饌を供え、新しい衣を重ね着させ、これを「オセンダク」といいます。この日は本家の老婆が養蚕の由来を伝えるおしら祭文を唱えたり、少女がオシラサマの神体を背負って遊ばせたりするので、かつては同族的な系譜を背景とする女性集団によって祀られていたとも考えられます。
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「百万遍念仏」とは自身の往生、故人への追善、各種の祈祷を目的として念仏を百万回唱えることで、本来は個人が念仏を7日間もしくは10日間のうちに100万回唱えることで目的が成就されるとされています。ただし複数の人間が同時同音で念仏を唱えることによって互いの念仏の功徳を融通することが出来るとする考え方もあり、念仏の際に数取りのために大型の数珠をこすり合わせながら行います。
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寄贈されたであろうオシラサマの数の多さに、一般的な信仰だったことが分かります。
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興味深かったのは「供養絵額」というもので、個人を供養するために遺族や友人が寺院に奉納したもので、江戸時代から明治時代に多く制作されています。豪華な調度品に囲まれ、美しい着物で装った故人が家族だんらんを楽しんでいます。
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これらは死後の世界で楽しく暮らすことを願う気持ちが込められています。床の間などには必ず没年や戒名が記されているのが特徴のようです。
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遠野の農耕についての展示に移ります。遠野の農業は米作りを中心にしながらも雑穀を主とした畑作や山菜の恵みも活用したそうです。昔から「春は火事、夏はすずしく、秋出水、冬は飢饉とかねてしるべし」ということわざが伝わるように標高の高い遠野も例外による飢饉が少なくなかったようです。
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この人形は旧暦2月7日から9日までの3日間に、家族が全員揃った晩の夕食の前に「春風祭り」と言って家の前の門口に藁人形を作り、その人形に顔を書いて、1年中の悪霊退散と無病息災を祈る民間行事で作られるものです。
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1977年放送の「NHK特集 遠野物語を行く~柳田国男の風景」という番組のことが思い出されます。町中の家の形は多少変わって、人々の生活は多少便利になってもその生活は大きな変わりがないように思えました。
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「青笹しし踊り装束」が展示してありました。頭には鹿とモミジの飾りをつけた鹿頭を被り、たてがみに似せたカンナガラを付けます。輿には先端をヤマドリや生地の毛で飾った腰ざしを刺します。前幕には笹の家紋が染め抜かれています。
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後から見た姿はバリ舞踊に出て来る悪魔のランダのようにも見えます。表から見た姿も中国の貴州省の天龍屯堡古鎮で観た「地劇」の装束のようにも見えます。「地劇」は高倉健の映画「単騎、千里を走る。」で病気で入院した息子の代わりに父親が撮影に行く演劇でした。監督が張芸謀(チャン・イーモウ)だったので期待しましたが、携帯電話のCMのような映画でした。
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「嬰児籠(いじこ)」に入った子供が昭和を感じさせます。昭和40年の初めごろはこんな風景はざらに残っていたと思います。55年ほど前に横手に梵天祭りとかまくらを見に行ったことがありましたが、その時に泊めていただいた家の雰囲気を思い出しました。
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豪雪の横手では1階は完全に雪に埋まり、2階から出入りをしていました、その1階の廊下の寒かったことと、締め切られた雨戸による暗さは5歳の記憶として強く残っています。
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ポットやラジオなど子供の頃に使った覚えのあるものなので懐かしく思います。この当時の魔法瓶の中はガラスだったと思います。一度父の会社の保養所の雪道で転んでしまい、中を割ってしまったことがあるのでよく覚えています。
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例外や凶作が多かった遠野では日ごろから栃の実やシダラというナラの実を蓄えて飢饉に備えたそうです。ワラビの地下茎まで食べたとありますが、これはワラビ粉で現在は高価なものです。土地の実も食べるまでは灰汁を抜いたり手間がかかる食べ物です。
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遠野の家には大きな神棚があることが多く、人々が集まる常位(じょうい)に設けられました。さまざまな神仏が祀られたのは厳しい自然環境で生きねばならなかった人々が救いを求める切実な願いだったのでしょう。
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神棚には附馬牛人形の大黒天と恵比寿、菅原道真坐像、魔除けのオコウシンサマ、目の病を治すと信じられた太子二歳像、火伏の愛宕神像、商売繁盛と五穀豊穣の稲荷神像が祀られています。遠野では神仏取り混ぜて祀られるのが特色です。
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神棚の下に貼られた切り紙はキリコと呼ばれるもので、配られる神社などによってデザインも違います。これは日本全国で見られるもので、九州の高千穂のキリコはデザインも多岐に渡り、欲しいなと思えるものでした。
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おばあさんのホッカムリの手ぬぐいにはファミリーショップと印刷されているので昭和50年代の写真のようです。リアルな写真が展示してあるとその当時に感情移入しやすいです。
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農家の生活で使われた道具も丁寧に展示してあります。その多くは説明を読まなくても使い方が大体想像できます。
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この写真の女の子たちは自分よりも年下なのではないかと思えます。季節は分かりませんが、台所の土間の脇の板の間ですから冬は寒かったのだと思います。
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「年取りの膳」とあるのでお正月の豪華な食事だったのだと思います。ブリの煮魚に煮しめ、柿なます、黒豆にタラの白子の吸い物、白米のご飯に甘酒も添えてあります。
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春から夏の食事はワラビと凍み豆腐の煮物にたくあん、干しっ葉汁に米と稗と麦の入った三穀飯でといった質素なものです。
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農作業の小昼(こびる)には茹でた大豆に焼きもちを食べました。小麦粉の焼きもちは白く、そば粉だと灰色になります。中身は味噌やクルミや黒砂糖だったようです。
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遠野の衣類についての展示です。木綿布や絹布が普及する前の衣料の原料は植物の繊維を裂きながら作った糸や麻でした。麻は家の近くで栽培されたようです。タイのチェンマイ郊外の少数民族の村を訪ねた時に収穫された状態の麻の茎を見たことがあります。そして織りあがった反物まで買ってきましたが、そのまま使い道も定まらずに置いてあります。
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裂き織りの布も展示してあります。つい数か月前に青森の下北半島の仏が浦の遊覧船乗り場の建物の中に裂き織りを売っている店があり、買い求めてきましたが、今から思えば信じられない安さだったのでもっと買ってくれば良かったと後悔しています。
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遠野では養蚕も盛んだったようで、桑の葉が成長する5月から10月上旬まで蚕が育てられました。ハルコは5月下旬、ナツゴは6月から7月、アキコは7月から8月、さらに晩秋蚕は8月中にハキタテを済ませ、それぞれ収繭まで約40日かかりました。
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「祝い結び」
結びの呪術についての説明があります。離れているものを組み合わせてつなげる結びという行為には古くから呪術的な意味があると考えられました。 -
「コダン」と呼ばれる麻紐で織られた物入は4歳の頃に父がどこかで買ってきたお土産に酷似していました。どこで購入したか聞くことは出来ませんが、昭和40年頃はこのようなものが簡単に手に入ったのだと思います。そしてそれはいまだに手元に残しています。
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背中に掛けるケラは同じようなものを持っていました。冬の横手の旅で梵天を見る際に着せられていました。上に掛かった笠を見ていたら黒澤明の「夢/水車のある村」に出演していた笠智衆の衣装を思い出しました。ロケ地になった安曇野の大王わさび園の水車小屋には昨年の春に行くことが出来ました。
https://www.youtube.com/watch?v=X1SxP9lmnko -
「タテワラツマゴ」という名の藁製の雪靴のデザインも洒落ています。子供の頃に大叔母の農家の庭先で父に竹馬を作ってもらったのですが、その時に藁縄を編む父の姿を見て凄いなと思ったことがありました。
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ワラ打ち槌も父の生家の蔵の中で見たことがあります。
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現代人が素足で履いたら足が傷だらけになりそうですが、その完成度の高さと美しさに驚かされます。こういった本物が売っていたら買いたくなります。
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カンジキの形状は昔のアイヌの人が使っていたものによく似ています。東北に住んでいたアイヌの人がいつごろまで住んでいたのか分かりませんが、当時も交流があったのだと感じます。
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今回もいくつもの曲り家を見てきましたが、馬と一緒に住む生活はどんなだったのでしょうか。
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子供のようにかわいがっていたのではないかと写真を見てそう思いました。
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左から井戸端に立てた「水神藕石碑」、盛岡と仙台の方向をしめした「追分の碑」、手前が「庚申塔」、一番大きいのが念仏講中が建立した「念仏供養塔」、参詣を紀念した「金毘羅大神・西国三十三所」「山神尊石碑」「庚申塔」と遠野の石碑の多さには驚きました。
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東野の神楽は早池峰系神人神楽と里の山伏神楽の系統で伝承されています。神人派はゆるやかなテンポで優美さがあり、山伏派は早くて躍動感が感じられます。神楽の発生は神への鎮魂儀礼に発するといわれ、祭りに行うのは古代信仰の名残とされます。
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左から「山の神面」「宇受売(うずめ)面」「天照大神面」「注連切麺」「恵比寿面」です。
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「狂言面」「年寿面」「女面」天狗のような「猿田彦面」「女面」「手力男(たじからお)面」
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「機織面」「山の神面」「山の神面」です。神楽も今回の旅では翌日の晩に鑑賞することが出来ました。
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昨日山口集落で出会った方の後ろ姿に似ているように思えました。
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料理についての展示に移ります。遠野では狩りをする人のことを「鉄砲打ち」、古くは「山立」と呼んでいました。鉄砲打ちは冬に狩りを行い、普段は農業や山仕事をしていました。狩りは単独か少数で行い、熊が冬眠しているところを狙いました。
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鉄砲打ちは動物を単なる獲物ではなく人間と同じ霊魂のある存在と考えていました。動物を獲った時には「引導わたし」という儀式を行い、霊魂を慰め祟りを防ごうと考えました。鉄砲打ちに伝えられる狩りの秘伝書には儀式の呪文や狩りの方法が記されています。霊魂についての考え方などにはアイヌの考え方によく似ていると思いました。
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山仕事についての展示も興味深いものでした。木挽きや炭焼きについては想像していた通りですが、金山については全く初めて知ることになりました。よく考えれば平泉の中尊寺や奥州藤原氏の繁栄に金は欠かせないものでした。砂金だけではないことに気が付きました。
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佐渡の金山については現地でいろいろ学びましたが、同じようなことは東北でも行われていたと知りました。「金山稼ぎ」という言葉も初めて聞きました。
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遠野の山伏についての展示も興味深いものでした。午前中に見てきた「万屋万吉」についての「遠野物語」の山伏についての話しも面白かったです。4歳で初めて登った富士山でも「さーんげさんげ(懺悔懺悔)、ろっこんしょうじょう(六根清浄)」という掛け声を聴いたことがあります。
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さらに昭和50年に登った大峰山から弥山への登山では山伏の方と一緒に宿坊に泊まったり、西の覗きでは断崖絶壁に逆さ吊りされて「お父さんのいうこと聞くか!」なんて山伏修業をしたことがありました。
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山伏の服装は角張った頭襟(ときん)を被り、麻で出来た法衣(袈裟、鈴懸)を纏い、錫杖や最多角念珠(いらたかねんじゅ)、ほら貝を持つスタイルです。金剛杖や脚絆、火扇など全部で16の道具を持ちますが、これらは皆不動明王や十界、母胎を表す物です。
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笈(おい)は修行するときに仏像をはじめとして、お香やお供物や経文や御札など修行に必要なものを納め背負う箱で、修験にはかかせない法具です。
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山伏と言えばほら貝がイメージされます。遠野の山伏と神楽は強い関係があります。守護仏や安宅(あんたく)と呼ばれる家屋安全の御札など多岐に渡る物を持って移動していたと分かります。
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山岳信仰の対象となる山岳のほとんどは、一般の人々の日常生活からはかけ離れた「他界」に属するものであり、山伏たちは山岳という他界に住んで山の霊力を体に吸収し、他界や現界をつなぐ者としての自己を引き上げて、それらの霊力を人々に授ける存在とされていました。山伏が各地の山を修行して回る場合は宿所や食料は里人や寺院の接待に頼りました。関所の関銭や渡し舟の運賃は免除されるのが慣例で、諸方の交通に明るく、「山臥の道」といった抜け道もよく心得ていました。
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修験道の祖である役小角の像で奈良時代の人物です。鬼神の前鬼と後鬼を従え、神なる存在の一言主を呪法によって束縛したなどの武勇伝を持ちます。
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昨日行った早池峰神社の大出早池峰神楽の写真です。開山した始閣藤蔵の子孫が伝えた神人神楽の優雅な所作が特徴だそうです。
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早池峰山妙泉寺で馬のお守り札をするために版木で、裏側には慶長10年の1605年に僧の真乗が作った銘があるそうです。
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「陸中早池峰全図版木」は明治16年の1883年に早池峰神社で造った境内の図です。
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「山の神像」は西和賀町沢内大野地区で古くから信仰されたご神体です。当地のマタギたちはこの像を拝んでから猟に出ました。山の神は山に宿る神霊の総称で、サンジン、ジュウニヤマノカミなどとも呼ばれます。
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「山の神像」右手に斧を持つ男神像です。山の神の姿は多彩で、斧やのこぎりを持つ男神像、男女一対の図、女神像など様々なものが存在します。
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「山の神像」髷を結った姿の男神像です。映画「死亡遊戯」でブルースリーが着用していたジャージに見えてしまいました。
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「山の神面」山の神楽で使用される面です。山の神楽では神の由来を語り、豊作を祈って四方鎮めを行い、太刀を採って悪魔祓いを行います。
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「サンスケ」津軽のマタギたちは狩りに行くときに12人で行くことを忌みます。その場合はサンスケと呼ぶ鉈作りの人形を作り、これを1人に数えて持参します。昔12人のマタギが山に入ると11人が澤に落ちて死んだそうです。12は山の神の神聖な数で、このことからこの風習が出来たそうです。
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「オコゼ」は漁師がお守りとして持参したものです。山の神にオコゼを見せると獲物を与えてくれるとされます。
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「山の神像」山神社に奉納された男女一対の像ですが、立ち雛のように見えてしまいます。
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簡単な山の神像は十字架のように見えてしまいます。そういえば東北にはキリストの伝説があったことを思い出しました。イエス・キリストは21歳の時に来日し、神学修行を重ね、33歳の時にユダヤに戻って伝道を行ったが受け入れられず、十字架刑に処されそうになります。だが、弟のイスキリが身代わりとなって死に、キリスト本人はシベリア経由で日本に戻り、現在は新郷村の一部となっている戸来(へらい)村で106歳まで生きたとするものです。
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「山の神像」昭和31年の1956年に山神社に奉納されたもの。
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真室川町では朴木を彫刻して山の神様を作ります。山形県の最上地方では子供を中心とした「山の神の勧進」と呼ばれる行事があり、旧暦の3月3日の夜に子供たちは自分の家で作った山神像を持って集落の家を訪問したのちに山神社に奉納したそうです。
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「山の神像」の姿はどんどん簡略されているのか彫った人の技術なのか、その違いを見ているだけで楽しいです。
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いったいどれだけの願いが込められたのか。
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このタイプの「山の神像」の風合いが一番気に入りました。
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「山の神像」は正装した武士の様な姿もありました。これほどバラエティに富んだ神の姿も無いと思います。
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オシラサマは狩りの神としても一面もありました。土淵村の菊池という狩人の家に八尾説に保管している巻物には金の丸と銀の丸、オコゼにオシラサマ、三途縄に五月節句の蓬菖蒲、女性の髪の9つの狩人の秘密の道具と記されてあり、「狩りの門出にはオシラサマを手に持ちて拝むべし。その向きたる方角必ず獲物あり。口伝」とあるそうです。
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「遠野物語」108話に山の神の乗り移りたりとて占を為す人は所々に在り。附馬牛村にも在り。本業は木挽なり。柏崎の孫太郎もこれなり。以前は発狂して喪心したりしに、ある日山に入りて山の神より其術を得たりし後は、不思議に人の心中を読むこと驚くばかりなり。その占ひの法は世間の者とは全く異なり。何の書物も見ず、頼みに来たる人と世間話を為し、その中にふと立ちて常居の中をあちこちとあるき出すと思ふ程に、其人の顔は少しも見ずして心に浮かびたることを云ふなり。当たらずと云ふこと無し。例へばお前のウチの板敷を取り離し、土を掘りて見よ。古き鏡又は刀の折れあるべし。それを取り出さねば近き中に死人ありとか家が焼くるとか言ふなり。帰りて掘りて見るに必ずあり。かゝる例は指を屈するに勝へず。
山の神と占いについて書かれています。この木像は熊猟のお守りとして携行されました。 -
「遠野物語」2話には遠野の町は南北の川の落合に在り。以前は七七十里とて、七つの渓谷各七十里の奥より売買の貨物を聚め、其市の日は馬千匹、人千人の賑はしさなりき。四方の山々の中に最も秀でたるを早池峯と云ふ。北の附馬牛の奥に在り。東の方には六角牛山立てり。石神と云ふ山は附馬牛と達曾部との間に在りて、その高さ前の二つよりも劣れり。
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大昔に女神あり、三人の娘を伴ひて此高原に来り、今の来内村の伊豆権現の社にある処に宿りし夜、今夜よき夢を見たらん娘によき山を与ふべしと母の神の語りて寝たりしに、夜深く天より霊華降りて姉の姫の胸の上に止まりしを、末の姫目覚めて窃かに之を取り、我胸の上に載せたりしかば、終に最も美しき早池峯の山を得、姉たちは六角牛と石神とを得たり。若き三人の女神各三の山に住し今も之を領したまふ故に、遠野の女どもは其妬を畏れて今も此山には遊ばずと云へり。
3山の女神の姿を絵で見たのはこれが最初でした。 -
このような立派な姿の「山の神」もありました。山仕事に携わる人は山の神を畏れ敬い、言い伝えられてきた縁起をかたくなに守ることによって無事に仕事が出来たと信じていました。
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山の神は出産を助ける神ともいわれ、お産女将としても信仰されました。集落の女性たちで山の神講を組織する地域も多いそうです。山の神の姿は多彩で、斧やのこぎりを持つ姿もあったそうです。山の神は春になると山を下りて田の神になり、秋の収穫が終わると山に帰るとされました。
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山の神とお産の信仰についてで3階のフロアを見学し終わりました。最後に4階のシアターで「遠野物語」の物語を再確認して時計を見ると博物館に着いて1時間以上が経っていました。
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このような厨子に入れた山の神は山の神講中の家を毎年交代で持ち回りしました。かつては24軒あった講も現在では7軒にまで減ったそうです。
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「山神掛軸」は小牛田山神社から授かった「山神御詠歌」の記されたものです。
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「小牛田の山の神御詠歌」
一、アリガタヤ コゴタノカミノ スクイコン ウムタビゴトニ ココロ ヤスケレ
二、ヒトスジニ ネガイオカクル ヤマノカミ ウムコエンメイ フウキハンジョウ
三、アンザイオ モラサデスクウ ガンナレバ マイルトモガラ タノモシキカナ
読んでいくと意味が分かってきます。
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