2022/11/07 - 2022/11/07
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kojikojiさん
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「遠野ふるさと村」の見学の後はガイドさんも同乗して「早池峰神社」に向かいます。ふるさと村も町外れの少し山の中にありましたが「早池峰神社」はどんどん山の中に入っていきます。30分も走った神社の横の駐車場にバスは停まりました。横には遠野の地区で一番早く廃校になった遠野市立大出小学校と中学校の建物がありました。早池峰神社は早池峰山の山頂にある奥宮に対する里宮です。早池峰山への登山口は東西南北に存在し、四方の登山口それぞれに早池峰神社があるそうです。静かな境内には社務所のようなものは無く、神主も常駐していないようです。急な階段を登ると随神門があり、中には恐ろしい形相の神像が出迎えてくれます。杉木立の参道を進むと神楽を奉納する建物があり、その先に又階段があって本殿に至ります。厳かな雰囲気の神社でした。参拝した後はバスに乗ってきた道を戻りますが、途中には神遣神社(かみわかれじんじゃ)の前を通過しました。ここは母神が3人の娘に遠野の三山を与えた場所と言われます。次の目的地は山口集落で、バスを降りて水車小屋から孫左衛門屋敷の跡、佐々木喜善の生家を通り抜け、デンデラ野まで歩きました。紅葉の美しい田園の中を歩くのは気持ちよいことでした。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 4.5
- グルメ
- 4.5
- 交通
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- 観光バス タクシー 新幹線 JRローカル 徒歩
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- クラブツーリズム
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「遠野ふるさと村」の見学を終えたツアーバスはさらに山の中に進んでいきます。次の目的地は山中にある「早池峰神社」です。
遠野ふるさと村 名所・史跡
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周囲の紅葉もきれいですが、刈入れの終わった田んぼで藁を焼く風景も久しぶりに見た気がします。
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日本の原風景のような景色が続きますが、スマホの通信状態が悪くてLINEも使えません。最近スマホを落としてしまい、買い替えと同時にワイモバイルにキャリアを変えました。横に座っているドコモユーザーの妻はスマホが使えているのがちょっと悔しかったです。
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昔は茅葺屋根の農家だったのだと思いますが、トタン屋根でもその美しさは損なわれないと感じます。
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猿が石川に清流に沿って早池峰山に向かって山の中を走ります。
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通学路の看板の児童も遠野では座敷童子に見えてしまいます。
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「遠野ふるさと村」を出て30分ほどでは「早池峰神社」に到着しました。道路に面していきなり鳥居が建てられています。
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木製の時代を経た鳥居の先は神域といった雰囲気です。真っすぐに伸びる参道を進みます。
早池峰神社 寺・神社・教会
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神社の由来は大同元年の806年に来内村の猟師だった四角藤蔵が山中で十一面観音像に遭遇したことに始まります。感銘を受けた藤蔵は後に早池峰山山頂に奥宮を建立しました。藤蔵は普賢坊と名を変えて現在地に新山宮を建立しました。
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斎衡年中の854年から857年に慈覚大師がこの地に宮寺を建立し、山頂の霊池に因んで妙泉寺と名づけて新山宮を神宮とします。明治時代の神仏分離により、早池峰神社と改称して今日に至ります。
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随神門の左右は格子で覆われて中を窺うことは出来ません。そうなると余計に見たくなるのが人情です。
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この門は元々は仁王門で仁王像が安置されていたそうですが、現在はこのような随神像が置かれてあります。随神は随身(ずいじん)と呼ぶのが正式で、平安時代以降に貴族の外出時に警護のために随従した近衛府の官人のことを指します。神道においては神を守る者として安置される随身姿の像のことも「随身」といい、この場合は「随神」とも書かれます。こちらは左大臣と呼ばれるものです。
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矢大臣(やだいじん)は向かって左方の弓矢をもっている神像神社の門守(かどもり)の神です。 闕腋袍を着て巻纓の冠を被り、緌(おいかけ)をして剣を佩(は)き、弓箭(きゅうせん)を帯することから矢大臣と呼ばれます。この2体の神像は土淵町の仏師の田中円吉が彫刻したものです。
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「遠野物語」には幾つかの山人に関する記述があり、この早池峰山にも山人がいたといいます。28話にはこのような話が書かれてあります。
始めて早池峰に山路をつけたるは、附馬牛村の何某といふ猟師にて、時は遠野の南部家入部の後のことなり。その頃までは土地の者一人としてこの山には入りたる者なかりしなり、この猟師半分ばかり道を開きて、山の半腹に仮小屋を作りてをりし頃、ある日炉の上に餅を並べ焼きながら食ひをりしに、小屋の外を通る者ありてしきりに中を窺ふさまなり。
よく見れば大なる坊主なり。 -
やがて小屋の中に入り来たり、さも珍しげに餅の焼くるのを見てありしが、つひにこらへかねて手をさし延べて取りて食ふ。猟師も恐ろしければ自らもまた取りて与へしに、嬉しげになほ食ひたり。餅皆になりたれば帰りぬ。
次の日もまた未るならんと思ひ、餅によく似たる白き石を二つ三つ、餅にまじへて炉の上に載せ置きしに焼けて火のやうになれり。案のごとくその坊主けふも来て、餅を取りて食ふこと昨日のごとし。餅尽きて後その白石をも同じやうに口に入れたりしが、大いに驚きて小屋を飛び出し姿見えずなれり。
後に谷底にてこの坊主の死してあるを見たりといへり。 -
「遠野物語」の2話にはもっとこの神社に関わるような話しが残されています。
神の始 遠野の町は南北の川の落合に在り。以前は七七十里とて、七つの渓谷各七十里の奥より売買の貨物を聚め、其市の日は馬千匹、人千人の賑はしさなりき。
四方の山々の中に最も秀でたるを早地峰と云ふ、北の方附馬牛の奥に在り。東の方には六角牛山立てり。石神と云ふ山は附馬牛と達曾部との間に在りて、その高さ前の二つよりも劣れり。 -
大昔に女神あり、三人の娘を伴ひて此高原に来り、今の来内村の伊豆権現の社ある処に宿りし夜、今夜よき夢を見たらん娘によき山を与ふべしと母の神の語りて寝たりしに、夜深く天より霊華降りて姉の姫の胸の上に止りしを、末の姫眼覚めて窃に之を取り、我胸の上に載せたりしかば、終に最も美しき早地峰の山を得、姉たちは六角牛と石神とを得たり。若き三人の女神各三の山に住し今も之を領したまふ故に、遠野の女どもは其妬を畏れて今も此山に遊ばずと云へり。
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この話の後半では母神が3人の娘と伊豆権現のある社に宿をとりました。3人の姉妹にそれぞれ「遠野三山」を与えようと話をします。遠野三山とは「早池峰山」(はやちねやま)、「石上山」(いしがみやま)、「六角牛山」(ろっこうしやま)のことを言います。母親の女神は夜になって夢の精霊が降り立った娘に、最も高貴な早池峰山を与えると約束しました。
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その夜に精霊は長女の女神の夢枕に降り立ちましたが、こっそり見ていた末の妹が精霊をつかみ、自分の胸の上に乗せてしまいます。朝になって精霊は自分の所に降りてきたと主張する末の娘を認め、母親は彼女に早池峰山を与えました。本当は早池峰山をもらえるはずだった長女には「六角牛山」を、次女には「石上山」をそれぞれ与えられます。
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その場所が現在の「神遣神社(かみわかれじんじゃ)」で、この「早池峰神社」へ来る途中に通り過ぎました。そんな「遠野物語」の中に身を置いている気分になってきます。
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民家の長屋門のような拝殿の中を通過します。この拝殿ではこの大出集落に伝わる「大出早池峰神楽」が奉納されるそうです。早池峰山を開山した猟師であり修験だった四角藤蔵の血を受け継ぐ者たちが始めたとされる神楽だそうです。
https://www.youtube.com/watch?v=Ax9kD53UeHo -
遠野の神楽は元々は男性だけが受け継ぎ、さらには長男だけに伝えられるものだったそうです。御多分に漏れず現在は後継者不足ということもあり、長男だけではなく、さらには女性の方も多いそうです。遠野には28の保存会の団体があるそうですが、その中にはまだ男性だけの団体もあるそうです。これは4日目の晩に見学した夜神楽で教えてもらったことです。
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早池峰山妙泉寺では馬のお守り札が摺られて配られたと言います。明徳3年の1392年に当地で東禅寺を草創した無盡和尚が早池峰登拝の時に龍ヶ馬場で神馬の霊瑞に会い、その姿を写したものといわれます。馬の産地に相応しい守札です。これは猿駒曳護符というもので猿と馬という組み合わせは日光東照宮の三猿の彫刻がある厩と同じです。これは孫悟空の展開での役職の弻馬温(ひっぱおん)、すなわち馬の世話係にもつながります。古代インドでは猿は馬を守るという伝承が中国に伝わったものがさらに日本にまで伝播されたわけです。護符の版木は「遠野市立博物館」に展示してありました。
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拝殿を越えた右手には夫婦イチイの雌の巨木がそびえています。置かれてある石像は不動明王のようです。早池峰山の前に聳える薬師岳から湧き出た聖なる湧き水がここまで流れてきています。
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こちらは夫婦イチイの雄の木です。
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イチイの木の脇には御神紋に描かれた剣が立てられています。早池峰神社の奥宮の山頂付近には、このような剣が大小多数立てられているそうです。これより地裁物は翌日の市内を散策していているときに宇迦神社でも見かけました。
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ようやく本殿に到着しました。こんな山の中にと思うほど立派な社殿です。同じツアーの皆さんの参拝を待って最後にお参りします。
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早池峰山は三陸の海岸からも見えるようで、ここへ参る習慣もあるそうです。
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本殿の中には奉納された大漁旗がありました。ここで大漁旗を見ることが出来たからか、この日の晩に食事に行った「魚っこや」にも同じような大漁旗が飾られてありました。この店のご主人は大槌町の出身だということでした。
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参道に生える真っすぐな杉木立も見事でしたが、朽ち果てた杉の株から1本だけ伸びた朴の木が不思議な感じがしました。たった1本だけですが1枚1枚の葉が大きいので一面に散らばっています。
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ツアーの方は誰も行きませんでしたが、ひとっ走りして駒形社も参拝しました。
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社の手前には注連縄をした山の神の碑がありました。遠野では多くの人が木挽きや炭焼き、鉄砲撃ちに金山稼ぎなど山仕事と深いかかわりを持っていました。山は暮らしを支える一方で山の神や山人、獣の住む異郷と考え、山の神を畏れ敬い、言い伝えられた縁起をかたくなに守ってきたそうです。
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山の神はお産を助ける神ともいわれ集落の女性たちで山の神講を組織する地域も多いそうです。山の神の姿は多様で、その数々は翌日に行った「遠野市立博物館」で見ることが出来ました。
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山の神は春になると山から下りて田の神になり、収穫が終わると山に帰るとされます。12月12日は山の神の年取りといって、自分の領分の木の数を数えるので山に入ってはいけなかったそうです。
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参道に戻るとすでにツアーの人の姿はありません。美しい参道の写真も撮っておきます。ずっと紅葉した木々を見てきたので杉木立が新鮮に見えます。
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最後に手を合わせて早池峰神社の参拝は終わりました。
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駐車場の脇にある廃校になった小学校と中学校の建物がそのまま残されています。遠野での一番最初に廃校になったそうです。
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紅葉ばかりではなく黄葉した木々も美しいです。東山魁夷の描く絵画のようにも見えます。
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ここまでバスで登ってきた道を猿が石川に沿って下ります。
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川沿いの道と分岐する辺りには古い鉄橋が見えました。錆びついた鉄橋ですら景色の中に溶け込んで調和しているようです。
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「神遣神社(かみわかれじんじゃ)」まで戻ってきました。
母が実が3人の娘を連れて高原にさしかかり、来内(らいない)村の伊豆権現社のあたりに泊まったとされるのがこの場所です。残念ながらバスはスピードを落とすことも無く走り去ってしまいます。 -
我が家は3人兄弟でしたが、長男から見ても三男はいつも調子よく立ち回っていたように思います。
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現在でも馬を飼っている家がありました。遠野を含めた上閉伊(かみへい)地方における馬産の歴史は極めて古く、平安時代以前より土着の蝦夷(えみし)が馬を育てていました。延暦20年の801年に坂上田村麻呂が陸奥国を制圧し、大和朝廷の統治下に入ると本格的な馬産が始まります。建久元年の1190年に遠野の地頭となった阿曽沼(あそぬま)氏が広大な山林や原野を利用した放牧を始め、南部藩に組み込まれた江戸時代においても南部氏により馬産が奨励されています。
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追い抜いたトラクターのおじさんが手を振ってくださいました。何となくデヴィット・リンチ監督の「ストレイト・ストーリー」という映画を思い出したのは弟たちのことを考えていたからかもしれません。難解な監督の映画としてはストレートに心に響く作品でした。
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アイオワ州ローレンスに住む73歳のアルヴィン・ストレイトのもとに76歳の兄が心臓発作で倒れたという知らせが入ります。10年来仲違いをしていた兄に会うため、アルヴィンは周囲の反対を押し切り、たったひとりで時速8キロのトラクターに乗って560キロの距離を会いに行くという実話の物語です。映画も良いのですが、アンジェロ・バダラメンティの音楽が素晴らしいです。
https://www.youtube.com/watch?v=miSBpNeefzA&t=197s -
「早池峰神社」の次は山口集落に向かいます。この辺りでもホップの生産が行われているそうです。ホップ農家も高齢化が進んでいて、離農する方が増えているというのは最終日に行ったTAPROOMという地ビールの醸造所で聞いた話です。
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日本ではない風景に見えるのはマンサード屋根のせいかもしれません。
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何気ない風景もこの季節の黄葉の美しさだけで輝いて見えます。
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バスの中ではお昼寝する方も多いですが、こんな景色はもったいなくて寝てはいられません。
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ここは大槌街道と小国街道の分岐点で、周囲に散らばっていたであろう石碑がまとめられていました。この近くには元山伏だった北川家の家があり、8体のオシラサマが飾ってあるそうです。
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神社を出て30分ほどで山口集落に到着しました。水車小屋の上の駐車場でバスを降り、「遠野ふるさと村」で分けた2チームで散策します。観光客は勝手にやってきますが、ここは住んでいる方もいるので大勢でガヤガヤ歩くことは出来ません。
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少し坂を下って「山口の水車小屋」に到着しました。
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昔のままの水車小屋が残っていました。これは2016年に修復されたものですが、出来たばかりの頃は壁の赤松の板張りも真新しくて、周囲の景色から浮いていたそうです。現在は溶け込んで100年も前からあったみたいに馴染んでいます。
山口集落の水車 名所・史跡
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この辺りは高度が高いのか銀杏もきれいに色づいて、モミジの赤と柿のオレンジとが組み合わさってとてもきれいです。
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どこの柿の木もたわわに実っていますが、誰も取らないのでしょうか。ふるさと村や伝承園で人の気配がしないのは当たり前ですが、表に出ても同じように人の気配はあまり感じられません。
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道の先にある小さな小屋は流れる水で物を洗う集落で共同管理している水場でした。
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かつて集落に複数あった水車小屋も現在はここだけのようです。ふるさと村の水車は回っていませんでしたが、ここでは元気よく回転しています。
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何となくふらふらと先に進んでみたくなる小路です。銀杏の黄色い葉が敷き詰められた先は別の世界に繋がっていそうです。
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水車小屋の扉は開けることが出来、内部を見ることが出来ました。残念ながら何も突いていないので水車は空回りしているだけでした。
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どうりで水車の回転が速いと思いましたし、杵が落ちる音も聞こえませんでした。
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干し柿づくりの名人と柿は良く似合います。母が亡くなってしまったのでもう造ることは無さそうですが、地元の友人たちからは「美味しかったのに。」と暗にねだられています。
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こんな感じで2チームに分かれて集落を見学しました。今回は24名ですが、それ以前のツアーは10人にも満たない時が多かったそうです。
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水車小屋を後にして集落の中を下っていきます。
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大きな家からご主人が出てきて、挨拶してくださいました。ガイドさんが顔見知りらしく、一言二言話しをしています。
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長靴を履いて「ちょっと薬師堂まで散歩してくる。」とさっそうと去って行かれました。ガイドさんが薬師堂はかなり離れていて、山を登ったところにあるのですが…。と呟きます。
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水車小屋もこれが見納めです。
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少し下った先には「遠野物語」の18話に出て来る孫左衛門の屋敷があったところです。
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ザシキワラシまた女の児なることあり。同じ山口なる旧家にて山口孫左衛門という家には、童女の神二人いませりといふことを久しく言ひ伝へたりしが、ある年同じ村の何某といふ男、町より帰るとて留場の橋のほとりにて見馴れざる二人のよき娘に逢へり。物思はしき様子にてこちらへ来る。お前たちはどこから来たと問へば、おら山口の孫左衛門が処から来たと答ふ。
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どこへ行くのかと聞けば、それの村の何某が家にと答ふ。その何某はやや離れたる村にて、今も立派に暮らせる豪農なり。さては孫左衛門が世も末だなと思ひしが、それより久しからずして、この家の主従二十幾人、茸の毒にあたりて一日のうちに死に絶え、七歳の女の子一人を残せしが、その女もまた年老いて子なく、近き頃病みて失せたり。
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物語のストーリーを覚えておくと臨場感を強く感じることが出来ます。ガイドさんから「1本だけ生えた木の辺りに井戸があったとされます。」と説明がありました。その根元には石が積まれた跡がありました。
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さらに敷地の奥には草が生えた一角があり、ここには孫左衛門の一族の墓があると言われました。
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確かに墓石のようなものを見ることが出来ました。今回の旅の前に「遠野物語」を読み返そうと思いましたが、年齢のせいか億劫になり、「水木しげるの遠野物語」という漫画を買いました。妻は初めてでしたし、漫画を読むことで忘れていた記憶が蘇ってきました。
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この物語の主人公である山口孫左衛門はかつてこの地にあった館の主「山口修理」の子孫にあたる集落草分けの長者だったといいます。そんな悲劇の場所が現在でも特定できるのですから遠野は凄いと思います。やはり本を読んだのであれば1度は来るべきところだと感じます。
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道端に鳥居が立ち、1本の細い道が続いています。この道を進めば薬師堂があるようです。薬師堂は山口館主の山口修理が勧請したと伝えられ、例祭は旧4月8日、前日の宵宮が盛大だそうです。貞享二年の1685年の銘の鰐口が奉納されていて、堂内には薬師如来坐像と十二神将像が祀られています。十二神将像のそれぞれ頭部には十二支の意匠が施されているそうです。十二神将は薬師如来の護衛の役割を担います。
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こんな田園を散歩できたらいいなとは思いますが、冬の厳しさのことを考えたら軟弱な都会育ちには無理だと考えなおします。
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ガイドさんが「薬師堂はあそこです。」と教えてくれたのは山の中腹辺りでした。
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佐々木喜善の生家の前も通過しました。現在も子孫の方が住まわれています。雑誌「男の隠れ家」に掲載されていた”曾祖母がかっぱを見たという胡桃の木がどれかは分かりませんでした。
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集落ではいわて遠野牛の飼育も盛んなようです。黒毛和種の牛のようです。
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遠野はジンギスカンでも有名なので羊も飼っているのかと思いましたが、ヒツジの飼育はしていないようです。翌日の夜に行った「安部」さんで聞いたところではオーストラリアのラムだそうです。
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後からやってきたトラクターが我々を追い抜いていきます。こんなところであれば運転してみたい気になります。免許はありませんが。
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そのまま畑の中に入り耕し始めたのにはびっくりしました。
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今年は北海道に何度も行きましたが、東北も青森と岩手を3回ほど旅することが出来ました。岩手県だけでもこれで3回目です。一生のうちでこれほど岩手県に来るとは思いませんでした。小学生の時にクラス全員で班分けをしてそれぞれ1つの県を担当して調べたことがありました。その時担当したのが岩手県だったなぁと道を歩きながら思い出しました。
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山間部は陽が落ちるのも早く肌寒くなってきましたが、妻がジャンパーを返してくれる気配は全くありません。
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このマンサード型の屋根を持った農家は岩手県に数多く残っていて、春に行った三陸の北山崎から盛岡へ戻る車窓からもたくさん見ることが出来ました。その多くは朽ち果てた廃墟でしたが、花巻から遠野周辺では現役でした。
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マンサード屋根は17世紀のフランスの建築家フランソワ・マンサールが考案したとされるもので、本来は寄棟屋根の外側の4方向に向けて2段階に勾配がきつくなる外側四面寄棟二段勾配屋根です。日本にはスイスから入ったようで、切妻型の屋根が多いようです。天井高を大きくとったり、屋根裏部屋を設置したりするのに適しています。これは建てられた当時の税制の関係もあったようで、屋根裏部屋は延べ床面積に含まれなかったそうです。
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刈り取った稲を掛けるハゼ棒が保管されていました。最近はコンバインを使って収穫すると藁は粉砕されてしまいますが、遠野ではまだハゼ掛けの作業が残っているのでしょうか。
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同じような風景でも遠野の狭いエリアでも酪農が中心だったり稲作が中心だったり違いは大きいようです。
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ここで言う子供とは座敷童子のことなのでしょうね。座敷童子が出て行ってしまうとその家は滅びてしまうので、住人の方々も必死なのでしょう。
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最後はデンデラ野までやってきました。この高宝橋のたもとで妻を背負ってデンデラ野まで運ぼうとしましたが、重たくて背負えずにいたら涙が出てきました。若いお嬢さんのガイドは「当時は60歳を過ぎたら自らデンデラ野に上がったそうです。」と」説明してくれましたが、今回のツアーでは61歳の私が最年少のようでしたから、全員がデンデラ野送りというわけです。
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「遠野物語」の111話にはデンデラ野についてこのような物語があります。
山口、飯豊、附馬牛の字荒川東禅寺及火渡、青笹の字中沢並に土渕村の字土淵に、ともにダンノハナと云ふ地名あり。その近傍に之と相対して必ず連台野と云ふ地あり。昔は六十を超えたる老人はすべて此連台野へ追ひ遣るの習ありき。老人は徒に死んで了ふこともならぬ故に、日中は里へ下り農作して口を糊したり。その為に今も山口土淵辺いては朝に野らに出づるをハカダチと云ひ、夕方野らより帰ることをハカアガリと云ふと云へり。デンデラ野 名所・史跡
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「楢山節考」の”齢70を迎えた老人は”楢山参り”に出なければならない”という姥捨ての世界は遠野には無く、60歳を過ぎた老人は自らがこのデンデラ野にある”あがりの家”に住んで、自分の食べるものは子供や孫たちに与えようとしたそうです。東北は四大飢饉ともいわれ、それ以外の僅かな飢饉も含めば、遠野の歴史は飢饉の歴史となるほど生きていくには厳しい土地だったようです。
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デンデラ野に送られた人々はすぐに亡くなることはなく、昼間は里へおりて農作業などをして暮らしをたてていました。そのために今でも山口や土淵のあたりでは、朝に田畑に出ることをハカダチといい、夕方に野良仕事から帰ることをハカアガリと言うそうです。現代では軽トラでデンデラ野からハカダチに出掛けるようです。
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デンデラの辺りの紅葉が今回の旅で1番美しかったように思えました。
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ガイドさんの説明は橋の辺りで終わり、バスに戻りかけたので少し走って「あがりの家」に行ってみました。藁葺の小屋は質素ではありますが、アイヌの家屋であるチセを連想させます。だいぶ屋根がくたびれていますが、出来たばかりだと、もっと段々になっているのを写真で見たことがあります。
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漫画家の水木しげるも家族を伴って遠野を訪ね、このあがり家にも来ています。
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ツアーの方はすでにバスに戻っています。ここで妻にデンデラ野に置いて行かれては洒落になりません。全国旅行支援の割引もまだ受け取っていませんから。急いでバスに戻ります。
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車窓から刈り取った稲を干すハゼ掛けが残っているのが確認できて良かったです。コンバインで刈り取った場合は田んぼ中が裁断された藁だらけになります。
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西洋から導入されたマンサード屋根も100年以上も経つと日本になじんで、蔵のように屋号が取り付けられています。
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遠野市街の北側を横断するバイパスまで戻ってきました。このバイパスが出来てからは中心部の商店は商売が成り立たなくなり、シャッター商店街のようになっているのだと思います。往時は交通の要衝で栄えた遠野も時代が変わってきています。この後は「卯子酉神社」から「とおの物語の館」と観光は続きます。
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