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かっぱ淵から同じ道を戻り、「伝承園」の見学に移ります。この中もかっぱおじさんが案内してくれます。入り口を入った右側には「佐々木喜善記念館」がありました。かっぱおじさんはここには一度も入ったことが無いと言っていました。その言葉には先ほどかっぱ淵で聞いた「昔話」と「民話」の違いのこだわりがあるのだと感じました。まずは「菊池家曲り家」に入り、建物の中を見学しました。南部の曲り家は昨年の夏に川崎の「日本民家園」でも見学して、日本各地の民家については改めて勉強していました。「日本民家園」にもある程度の調度品は置かれてはいましたが、ここでは囲炉裏にも火が入り、住んでいる人がいるのではないかと思うほどの生活感が感じられます。以前フランスのロワール渓谷の城館を十数か所巡ったことがありますが、どの城や館でも暖炉に火が入り、全ての部屋には花が飾られ、キッチンには本物の野菜が積まれてありました。その時感じたリアリティに近いものを感じました。この家の奥には「御蚕神堂(オシラ堂)」があり、かっぱおじさんの説明のほとんどがここでした。「遠野物語」では白い馬と娘の物語になっていますが、おじさんの話しでは実際は白い馬ではなくて、他家の次男や三男だったのではないかということでした。当時は長男が財産を総取りするのでそれ以外の息子たちは家を出なければならず、人並みの暮らしは出来なかったそうです。なるほどなと感心する話でした。堂内には約1000体のオシラサマが並び、それは壮観でした。中央に皮を剥いた木が1本立てられていましたが、それは白馬を吊るした桑の木だということでした。その木には天に昇る娘と白馬が彫刻されていました。ここでの見学が終わるとかっぱおじさんともお別れです。伝承園のスタッフの方と一緒にバスを見送ってくださいました。我々のバスは「遠野ふるさと村」に向かいます。

クラブツーリズム 民話のふるさと「遠野」とイーハトーブの街「花巻」 (4)かっぱおじさんと伝承園を訪ね、遠野物語のオシラサマについて学ぶ。

6いいね!

2022/11/07 - 2022/11/07

160位(同エリア236件中)

旅行記グループ 2022平泉・花巻・遠野の旅

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kojikoji

kojikojiさん

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2022/11/07

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かっぱ淵から同じ道を戻り、「伝承園」の見学に移ります。この中もかっぱおじさんが案内してくれます。入り口を入った右側には「佐々木喜善記念館」がありました。かっぱおじさんはここには一度も入ったことが無いと言っていました。その言葉には先ほどかっぱ淵で聞いた「昔話」と「民話」の違いのこだわりがあるのだと感じました。まずは「菊池家曲り家」に入り、建物の中を見学しました。南部の曲り家は昨年の夏に川崎の「日本民家園」でも見学して、日本各地の民家については改めて勉強していました。「日本民家園」にもある程度の調度品は置かれてはいましたが、ここでは囲炉裏にも火が入り、住んでいる人がいるのではないかと思うほどの生活感が感じられます。以前フランスのロワール渓谷の城館を十数か所巡ったことがありますが、どの城や館でも暖炉に火が入り、全ての部屋には花が飾られ、キッチンには本物の野菜が積まれてありました。その時感じたリアリティに近いものを感じました。この家の奥には「御蚕神堂(オシラ堂)」があり、かっぱおじさんの説明のほとんどがここでした。「遠野物語」では白い馬と娘の物語になっていますが、おじさんの話しでは実際は白い馬ではなくて、他家の次男や三男だったのではないかということでした。当時は長男が財産を総取りするのでそれ以外の息子たちは家を出なければならず、人並みの暮らしは出来なかったそうです。なるほどなと感心する話でした。堂内には約1000体のオシラサマが並び、それは壮観でした。中央に皮を剥いた木が1本立てられていましたが、それは白馬を吊るした桑の木だということでした。その木には天に昇る娘と白馬が彫刻されていました。ここでの見学が終わるとかっぱおじさんともお別れです。伝承園のスタッフの方と一緒にバスを見送ってくださいました。我々のバスは「遠野ふるさと村」に向かいます。

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
ホテル
4.5
グルメ
4.5
交通
4.5
同行者
カップル・夫婦(シニア)
一人あたり費用
5万円 - 10万円
交通手段
観光バス タクシー 新幹線 JRローカル 徒歩
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)
利用旅行会社
クラブツーリズム

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  • かっぱ淵の見学から「伝承園」に戻ってきました。表から眺めると絵に描いたような日本の秋の風景です。

    かっぱ淵の見学から「伝承園」に戻ってきました。表から眺めると絵に描いたような日本の秋の風景です。

  • 早池峰山を信仰する人達は近郊の村々の人達だけでしたが、その内に岩手県北部から宮城県中央部までに及ぶようになったようです。当時のお参りは「講(こう)」と呼ばれる集団でのお参りが基本で、「講」とは地域毎に毎年代表者を選び、数十名単位でお参りを行う事です。	有名な「講」としては、富士山にお参りする「富士講」や、伊勢神宮にお参りする「伊勢講」等がありますが、「早池峰講」も盛んだったようです。「早池峰講」を行った地域では、その地域に「石碑」を建てることも流行りました。これは年寄りや女性、あるいは病気のために早池峰山に登ることができない人が、遠方からでも早池峰山を拝むことができるように建てた石碑です。早池峰山は明治までは「女人禁制」の山だったので、女性の場合はこの石碑を拝むしか信仰する方法が無かったのでしょう。

    早池峰山を信仰する人達は近郊の村々の人達だけでしたが、その内に岩手県北部から宮城県中央部までに及ぶようになったようです。当時のお参りは「講(こう)」と呼ばれる集団でのお参りが基本で、「講」とは地域毎に毎年代表者を選び、数十名単位でお参りを行う事です。 有名な「講」としては、富士山にお参りする「富士講」や、伊勢神宮にお参りする「伊勢講」等がありますが、「早池峰講」も盛んだったようです。「早池峰講」を行った地域では、その地域に「石碑」を建てることも流行りました。これは年寄りや女性、あるいは病気のために早池峰山に登ることができない人が、遠方からでも早池峰山を拝むことができるように建てた石碑です。早池峰山は明治までは「女人禁制」の山だったので、女性の場合はこの石碑を拝むしか信仰する方法が無かったのでしょう。

  • 「伝承園」の周囲も時間が止まったような景色が広がっています。住宅地の建物が新しくなったり茅葺屋根がトタン葺きに変わるのは仕方ないとしても、周囲の風景画これだけ残されているのは奇跡的だと思います。早地峰古参道には朽ちかけた鳥居も残されています。<br />

    「伝承園」の周囲も時間が止まったような景色が広がっています。住宅地の建物が新しくなったり茅葺屋根がトタン葺きに変わるのは仕方ないとしても、周囲の風景画これだけ残されているのは奇跡的だと思います。早地峰古参道には朽ちかけた鳥居も残されています。

  • 「…石塔の多きこと諸国其の比を知らず…」と「遠野物語」の序文が思い出されるような光景です。ここに並ぶ塔は他の場所にあって倒れていたりしたものを「伝承園」の整備に合わせて移設したようです。<br />

    「…石塔の多きこと諸国其の比を知らず…」と「遠野物語」の序文が思い出されるような光景です。ここに並ぶ塔は他の場所にあって倒れていたりしたものを「伝承園」の整備に合わせて移設したようです。

  • 西国順禮塔や庚申塔などもあります。この塔からも近世から明治初期の遠野地方の人々が西国順礼を行っていたことが分かります。そしてそのルートは伊勢から熊野那智へ、さらに三十三所観音順礼というものだったであろうと思われます。<br />

    西国順禮塔や庚申塔などもあります。この塔からも近世から明治初期の遠野地方の人々が西国順礼を行っていたことが分かります。そしてそのルートは伊勢から熊野那智へ、さらに三十三所観音順礼というものだったであろうと思われます。

  • 庚申塔は中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔です。人間の体内にいるという三尸虫(さんしちゅう)という虫が、庚申の日の夜に寝ている間に天帝にその人間の悪事を報告しに行くとされています。それを避けるために庚申の日の夜は夜通し眠らないで天帝や猿田彦や青面金剛を祀り、勤行をしたり宴会をする風習があります。<br />

    庚申塔は中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔です。人間の体内にいるという三尸虫(さんしちゅう)という虫が、庚申の日の夜に寝ている間に天帝にその人間の悪事を報告しに行くとされています。それを避けるために庚申の日の夜は夜通し眠らないで天帝や猿田彦や青面金剛を祀り、勤行をしたり宴会をする風習があります。

  • 「伝承園」の玄関口は乗込長屋です。1850年頃に建てられた農家の納屋を移築したもので、物置や作業場として使われた建物です。かつては玄関や門の役割も担っていたので長屋門と同じ役目があります。<br />

    「伝承園」の玄関口は乗込長屋です。1850年頃に建てられた農家の納屋を移築したもので、物置や作業場として使われた建物です。かつては玄関や門の役割も担っていたので長屋門と同じ役目があります。

    伝承園 名所・史跡

  • こういった施設には入場料が必要ですが、添乗員さんにお任せなので気楽なものです。<br />

    こういった施設には入場料が必要ですが、添乗員さんにお任せなので気楽なものです。

  • 入り口には餌のきゅうりが付いたかっぱ釣りの竿が置かれてありました。かっぱ淵で釣りをする場合は許可証が必要で、遠野駅前の「遠野市観光協会」で売られていました。<br />

    入り口には餌のきゅうりが付いたかっぱ釣りの竿が置かれてありました。かっぱ淵で釣りをする場合は許可証が必要で、遠野駅前の「遠野市観光協会」で売られていました。

  • 「伝承園」の中のモミジも見事なほどの紅葉でした。苔生した茅葺屋根とよく似あいます。<br />

    「伝承園」の中のモミジも見事なほどの紅葉でした。苔生した茅葺屋根とよく似あいます。

  • ドウダンツツジもきれいに紅葉しています。漢字で書くと灯台躑躅ですが、これは枝分かれしている様子が夜間の明かりに用いた灯台(結び灯台)の脚部と似通っており、その「トウダイ」が由来になっています。<br />

    ドウダンツツジもきれいに紅葉しています。漢字で書くと灯台躑躅ですが、これは枝分かれしている様子が夜間の明かりに用いた灯台(結び灯台)の脚部と似通っており、その「トウダイ」が由来になっています。

  • 見事な枝振りの柿も植えてあり、絵に描いたように柿が生っています。1972年からフジテレビ系列で放映された市川崑監督、中村敦夫主演のテレビドラマ「木枯し紋次郎」の世界を彷彿させます。オープニングの上条恒彦の「だれかが風の中で」がカッコよかったです。<br />https://www.youtube.com/watch?v=n4Smc_9ay5s<br /><br />

    見事な枝振りの柿も植えてあり、絵に描いたように柿が生っています。1972年からフジテレビ系列で放映された市川崑監督、中村敦夫主演のテレビドラマ「木枯し紋次郎」の世界を彷彿させます。オープニングの上条恒彦の「だれかが風の中で」がカッコよかったです。
    https://www.youtube.com/watch?v=n4Smc_9ay5s

  • ここでの見学は「菊池家曲り家」とそれに続く「御蚕神堂(オシラ堂)」がメインで、残った時間は自由に見学が出来ました。

    ここでの見学は「菊池家曲り家」とそれに続く「御蚕神堂(オシラ堂)」がメインで、残った時間は自由に見学が出来ました。

  • 「菊池家曲り家」の大きな屋根の下には冬の備えの薪がうず高く積み上げられています。とてもひと冬では使いきれないほどの量です。実際は虫よけの意味もあるので一年中囲炉裏に火を入れるのだと思います。

    「菊池家曲り家」の大きな屋根の下には冬の備えの薪がうず高く積み上げられています。とてもひと冬では使いきれないほどの量です。実際は虫よけの意味もあるので一年中囲炉裏に火を入れるのだと思います。

  • 丸太を縄で組んだ小屋組みの上に茅が1メートル近く葺いてあります。この屋根を葺き替えるだけで数千万円の費用が掛かるそうです。そのために個人の家では吹き替えの必要のないトタン葺きに変わっているのだと思います。

    丸太を縄で組んだ小屋組みの上に茅が1メートル近く葺いてあります。この屋根を葺き替えるだけで数千万円の費用が掛かるそうです。そのために個人の家では吹き替えの必要のないトタン葺きに変わっているのだと思います。

  • よく見ると積み上げられた薪も乾燥するように井桁状に積み上げられています。1983年にイギリスで発売になったバランスゲームのジェンカを思い出して、下から1本抜いて上に積みたくなってしまいます。

    よく見ると積み上げられた薪も乾燥するように井桁状に積み上げられています。1983年にイギリスで発売になったバランスゲームのジェンカを思い出して、下から1本抜いて上に積みたくなってしまいます。

  • 軒下には使い古された草鞋が吊るされていました。米の穫れるこの辺りでは藁はたやすく手に入ったのだと思います。夏に行った北海道の鰊番屋では藁草履は高価だったと知りました。

    軒下には使い古された草鞋が吊るされていました。米の穫れるこの辺りでは藁はたやすく手に入ったのだと思います。夏に行った北海道の鰊番屋では藁草履は高価だったと知りました。

  • 茅葺屋根の曲り家とかっぱおじさんは絵になります。かっぱおじさんといいながら、かっぱを1度も見たことは無いそうです。

    茅葺屋根の曲り家とかっぱおじさんは絵になります。かっぱおじさんといいながら、かっぱを1度も見たことは無いそうです。

  • 周囲には冬の山で使う道具が展示されていました。その形は現在のものとあまり変わらないので何だか分かります。かんじきはアイヌが用いたものに形が似ています。この辺りも平安時代には蝦夷と呼ばれていたのだったと思い出しました。

    周囲には冬の山で使う道具が展示されていました。その形は現在のものとあまり変わらないので何だか分かります。かんじきはアイヌが用いたものに形が似ています。この辺りも平安時代には蝦夷と呼ばれていたのだったと思い出しました。

  • 延暦20年の801年に征夷大将軍坂上田村麻呂が遠征し勝利し、翌年に築いた胆沢城は現在の岩手県奥州市水沢のあたりでした。丸竹を筏状につないだスキーはさすがに使ったことはありませんが、昭和40年頃のストックはこれと同じようでした。これと同じようなソリにも乗ったことがあります。

    延暦20年の801年に征夷大将軍坂上田村麻呂が遠征し勝利し、翌年に築いた胆沢城は現在の岩手県奥州市水沢のあたりでした。丸竹を筏状につないだスキーはさすがに使ったことはありませんが、昭和40年頃のストックはこれと同じようでした。これと同じようなソリにも乗ったことがあります。

  • 家の中に入ると見事な梁組の屋根裏が見えます。梁は煤で燻されて黒光りしています。そして強い煙の臭いが鼻腔を刺激します。以前妻と2人で旅した中国南部の雲南省や貴州省の記憶が煙の臭いから思い出されます。一時期は何年にも渡り中国から東南アジアの少数民族の村々を訪ねました。

    家の中に入ると見事な梁組の屋根裏が見えます。梁は煤で燻されて黒光りしています。そして強い煙の臭いが鼻腔を刺激します。以前妻と2人で旅した中国南部の雲南省や貴州省の記憶が煙の臭いから思い出されます。一時期は何年にも渡り中国から東南アジアの少数民族の村々を訪ねました。

  • 曲り家というとオシラサマの話しが思い出されます。土間には古い写真が何枚も飾られていました。

    曲り家というとオシラサマの話しが思い出されます。土間には古い写真が何枚も飾られていました。

  • 菊池家は遠野市小友町にあった曲り家形式の民家で18世紀中期の建築とみられています。昭和51年に重要文化財の指定を受けています。形の通り馬を育てる厩が母屋に直角に付けられた家を曲り家と言います。馬を育てるには最適と考えられ、この地方に多く見られる民家です。馬は家の中で糞も尿もしますが、人間がすることは許されず、風呂もトイレも家の外に離されて造られています。

    菊池家は遠野市小友町にあった曲り家形式の民家で18世紀中期の建築とみられています。昭和51年に重要文化財の指定を受けています。形の通り馬を育てる厩が母屋に直角に付けられた家を曲り家と言います。馬を育てるには最適と考えられ、この地方に多く見られる民家です。馬は家の中で糞も尿もしますが、人間がすることは許されず、風呂もトイレも家の外に離されて造られています。

  • 土間には農機具が置かれています。その中には父の実家の蔵で見たことがあるものもあります。右側のウリハダカエデで造られた蓑はこの地方では「アオッコケラ」と呼ばれ、その横の背当ては「ネコゲラ」と呼ぶそうです。これは翌日行った「遠野市立博物館」で学びました。

    土間には農機具が置かれています。その中には父の実家の蔵で見たことがあるものもあります。右側のウリハダカエデで造られた蓑はこの地方では「アオッコケラ」と呼ばれ、その横の背当ては「ネコゲラ」と呼ぶそうです。これは翌日行った「遠野市立博物館」で学びました。

  • 子供の頃に横手の梵天とかまくらを見に行った際に蓑(みの)を買ってもらいました。その蓑は長いこと家の玄関に飾られていました。父は何のために蓑を買ったのかもう尋ねることは出来ません。昭和の冬は寒かったのですが、確かに蓑は温かかったと思います。

    子供の頃に横手の梵天とかまくらを見に行った際に蓑(みの)を買ってもらいました。その蓑は長いこと家の玄関に飾られていました。父は何のために蓑を買ったのかもう尋ねることは出来ません。昭和の冬は寒かったのですが、確かに蓑は温かかったと思います。

  • 蓑だけではなくこんな格好をさせられて街を歩かされました。かまくらと梵天の写真を撮りに来たカメラマンのいい餌食になったことを覚えています。

    蓑だけではなくこんな格好をさせられて街を歩かされました。かまくらと梵天の写真を撮りに来たカメラマンのいい餌食になったことを覚えています。

  • 「筵機(むしろばた)織り機」まで置いてありました。これを見るのは初めてです。

    「筵機(むしろばた)織り機」まで置いてありました。これを見るのは初めてです。

  • 「伝承園」では予約しておくと馬っ子を作ることが出来るようです。子供の頃に父が藁縄を撚ったり、簡単に竹馬を作ったりするのを見て凄いなと思ったことがあります。

    「伝承園」では予約しておくと馬っ子を作ることが出来るようです。子供の頃に父が藁縄を撚ったり、簡単に竹馬を作ったりするのを見て凄いなと思ったことがあります。

  • 土間には土を盛り固めた大きな竈がありました。ここで生じる煙は屋根裏に伝わり、防虫の役割があります。ここで湯を沸かすことにより厩の藁が温まったり柔らかくなるという効果もあったそうです。この竈は馬釜(馬の飼料を作るための釜)と呼ばれます。

    土間には土を盛り固めた大きな竈がありました。ここで生じる煙は屋根裏に伝わり、防虫の役割があります。ここで湯を沸かすことにより厩の藁が温まったり柔らかくなるという効果もあったそうです。この竈は馬釜(馬の飼料を作るための釜)と呼ばれます。

  • 木製の臼と杵も置かれてありました。真新しいものもあるのは実演や体験が出来るのだと思います。やはり子供の頃に埼玉県の武里にあった大叔母の家のことを思い出します。大きな農家だったので同じような土間があり、そこらへんに生えている蓬を摘んできて、父と餅つきをしたことを思い出します。

    木製の臼と杵も置かれてありました。真新しいものもあるのは実演や体験が出来るのだと思います。やはり子供の頃に埼玉県の武里にあった大叔母の家のことを思い出します。大きな農家だったので同じような土間があり、そこらへんに生えている蓬を摘んできて、父と餅つきをしたことを思い出します。

  • 靴を脱いで座敷に上がると囲炉裏が切ってあって湯が沸かされています。さすが地元だけあって南部鉄器の鉄瓶です。

    靴を脱いで座敷に上がると囲炉裏が切ってあって湯が沸かされています。さすが地元だけあって南部鉄器の鉄瓶です。

  • ここでも遠野の生活についてかっぱおじさんから説明がありました。

    ここでも遠野の生活についてかっぱおじさんから説明がありました。

  • 神棚は家族が集まる常位(じょうい)に設けられ、家によって貼られるお札は違ったそうです。神仏が一緒に飾られて賑やかなのが遠野の特徴です。ここでは右から「山上様」「大国主神」「御年神」「事代主神(恵比寿)」「五穀豊穣」の5枚です。五穀豊穣のお札は町中にある宇迦神社のもののようでした。

    神棚は家族が集まる常位(じょうい)に設けられ、家によって貼られるお札は違ったそうです。神仏が一緒に飾られて賑やかなのが遠野の特徴です。ここでは右から「山上様」「大国主神」「御年神」「事代主神(恵比寿)」「五穀豊穣」の5枚です。五穀豊穣のお札は町中にある宇迦神社のもののようでした。

  • 「嬰児籠(いじこ)」が置かれてありました。昔は子供が囲炉裏に落ちたりしないようにこの籠に入れていました。

    「嬰児籠(いじこ)」が置かれてありました。昔は子供が囲炉裏に落ちたりしないようにこの籠に入れていました。

  • 「お作立て」とは遠野に伝わる小正月の伝統行事で、繭玉を付けたミズキの木を中心とした様々な作物の豊作を祈る予祝の行事です。遠野では「みずきだんご」「繭玉」といわれています。吊るされているお菓子は最中です。その他に笹に餅を付けたのは「あわ穂」、藁に餅を付けたのは「ひえ穂」、藁にたくさん餅を付けたのは「稲バセ」、萩やウツギに餅を付けたのは「まめ穂」と呼ばれます。

    「お作立て」とは遠野に伝わる小正月の伝統行事で、繭玉を付けたミズキの木を中心とした様々な作物の豊作を祈る予祝の行事です。遠野では「みずきだんご」「繭玉」といわれています。吊るされているお菓子は最中です。その他に笹に餅を付けたのは「あわ穂」、藁に餅を付けたのは「ひえ穂」、藁にたくさん餅を付けたのは「稲バセ」、萩やウツギに餅を付けたのは「まめ穂」と呼ばれます。

  • ちょうど1年前の11月にNHKのBSプレミアムで1977年に放送された「NHK特集 遠野物語を行く~柳田国男の風景」が再放送されていました。その中でこの「お作立て」を作るために雪山に入ってミズキの木を伐りに行くおじいさん、雪に埋まった田んぼに松葉を苗のように植える行事などが思い出されました。<br />

    ちょうど1年前の11月にNHKのBSプレミアムで1977年に放送された「NHK特集 遠野物語を行く~柳田国男の風景」が再放送されていました。その中でこの「お作立て」を作るために雪山に入ってミズキの木を伐りに行くおじいさん、雪に埋まった田んぼに松葉を苗のように植える行事などが思い出されました。

  • オシラサマは養蚕の神様でもあるためか、繭玉から糸を取る糸車が置かれてありました。父の実家では養蚕も行っていたので、このような道具を子供の頃に見たことがあります。家族で旅した中山道の藤村記念館の近くの農家でおかいこを貰ったことがありました。兄弟3人で1匹づつ貰って、家に持ち帰って繭玉から蛾になるまで育てたのはもう50年以上前のことです。

    オシラサマは養蚕の神様でもあるためか、繭玉から糸を取る糸車が置かれてありました。父の実家では養蚕も行っていたので、このような道具を子供の頃に見たことがあります。家族で旅した中山道の藤村記念館の近くの農家でおかいこを貰ったことがありました。兄弟3人で1匹づつ貰って、家に持ち帰って繭玉から蛾になるまで育てたのはもう50年以上前のことです。

  • 一昨年は妻と一緒に干し柿を作りましたが、今年は止めてしまいました。母が秋に入院した際に、伯母から送られていた柿を気にしていました。代わりに2人で干し柿を作りましたが、母はその後すぐ亡くなってしまいました。母は姉のために干し柿を作っていたと思っていたので、京都に住む伯母に出来上がったと連絡すると「うちは食べへんよ。」

    一昨年は妻と一緒に干し柿を作りましたが、今年は止めてしまいました。母が秋に入院した際に、伯母から送られていた柿を気にしていました。代わりに2人で干し柿を作りましたが、母はその後すぐ亡くなってしまいました。母は姉のために干し柿を作っていたと思っていたので、京都に住む伯母に出来上がったと連絡すると「うちは食べへんよ。」

  • 母の替わりに伯母に干し柿を作ったという親孝行の美談のつもりだったのですが、出来上がった200個ほどの干し柿が手元に残り途方にくれました。

    母の替わりに伯母に干し柿を作ったという親孝行の美談のつもりだったのですが、出来上がった200個ほどの干し柿が手元に残り途方にくれました。

  • 廊下でつながった「御蚕神堂(オシラ堂)」に向かいます。頭上には「折藁蔟(おりわらまぶし)」が吊るされていることからもオシラサマと養蚕が関係していると感じます。

    廊下でつながった「御蚕神堂(オシラ堂)」に向かいます。頭上には「折藁蔟(おりわらまぶし)」が吊るされていることからもオシラサマと養蚕が関係していると感じます。

  • 廊下の突き当りにある六畳程の小さなお堂の中には娘と馬の恋物語で知られるオシラサマが千体展示してありました。その数と原色の着物の色に圧倒されます。オシラサマには包頭衣(ほうとうい)と呼ばれる頭から布をすっぽりかぶっているものと貫頭衣(かんとうい)と呼ばれる首を出しているものの2種類のオシラサマがあります。寒いからと私のジャンパーを?ぎ取って着ている妻は貫頭衣形というわけです。

    廊下の突き当りにある六畳程の小さなお堂の中には娘と馬の恋物語で知られるオシラサマが千体展示してありました。その数と原色の着物の色に圧倒されます。オシラサマには包頭衣(ほうとうい)と呼ばれる頭から布をすっぽりかぶっているものと貫頭衣(かんとうい)と呼ばれる首を出しているものの2種類のオシラサマがあります。寒いからと私のジャンパーを?ぎ取って着ている妻は貫頭衣形というわけです。

  • 「御蚕神堂」のオシラサマは蚕の神さま、農業の神さま、馬の神さま、そして「お知らせ」の神さまとも言われています。オシラサマの始まりに関する伝説は何種類かありますが、最も有名なものは「遠野物語」の69話に収められたものだと思います。

    「御蚕神堂」のオシラサマは蚕の神さま、農業の神さま、馬の神さま、そして「お知らせ」の神さまとも言われています。オシラサマの始まりに関する伝説は何種類かありますが、最も有名なものは「遠野物語」の69話に収められたものだと思います。

  • ある時、父と娘の2人暮らしの農家がありました。その家では牡馬を1頭飼っていましたが、娘と馬は仲が良く、娘が馬小屋で馬と一緒に寝ることもよくありました。そのうち娘と馬は相思相愛の関係となり、夫婦の契りを交わすまでとなります。そのことを知った父親は怒りに任せて馬を桑の木に吊り下げて殺してしまいました。

    ある時、父と娘の2人暮らしの農家がありました。その家では牡馬を1頭飼っていましたが、娘と馬は仲が良く、娘が馬小屋で馬と一緒に寝ることもよくありました。そのうち娘と馬は相思相愛の関係となり、夫婦の契りを交わすまでとなります。そのことを知った父親は怒りに任せて馬を桑の木に吊り下げて殺してしまいました。

  • 事の次第を知った娘は吊り下げられた馬の首に取りすがって泣き叫びました。それを見てさらに憎悪を募らせた父は、斧で馬の首を斬り落としてしまいます。すると馬の首は天へと飛んでいき、娘もそれに取りすがったまま彼方へと消え去っていきました。<br />

    事の次第を知った娘は吊り下げられた馬の首に取りすがって泣き叫びました。それを見てさらに憎悪を募らせた父は、斧で馬の首を斬り落としてしまいます。すると馬の首は天へと飛んでいき、娘もそれに取りすがったまま彼方へと消え去っていきました。

  • このお堂の中央に立つのは桑の木で、皮を剥かれた木肌には馬と娘の姿が彫られてあります。さらに「遠野物語拾遺」の77話には次のような話も残されています。馬の首と共に消え去る直前に、娘は父親に「3月16日の朝、夜明けに庭の臼の中を見たら、父を養うものがある」と告げます。その日になって父が臼の中を見ると、馬のような頭を持った白い虫がいっぱい湧いていました。それに桑の葉を与えて養てたのが蚕でした。

    このお堂の中央に立つのは桑の木で、皮を剥かれた木肌には馬と娘の姿が彫られてあります。さらに「遠野物語拾遺」の77話には次のような話も残されています。馬の首と共に消え去る直前に、娘は父親に「3月16日の朝、夜明けに庭の臼の中を見たら、父を養うものがある」と告げます。その日になって父が臼の中を見ると、馬のような頭を持った白い虫がいっぱい湧いていました。それに桑の葉を与えて養てたのが蚕でした。

  • オシラサマの伝説は中国の「馬娘婚姻譚」を踏襲し、養蚕の起こりを伝えたものであると考えられていますが、遠野という土地柄を考えるとかっぱおじさんの話してくれた馬ではなくて、他家の次男や三男だったのではないかという考察もあり得ないことではないなと感じました。

    オシラサマの伝説は中国の「馬娘婚姻譚」を踏襲し、養蚕の起こりを伝えたものであると考えられていますが、遠野という土地柄を考えるとかっぱおじさんの話してくれた馬ではなくて、他家の次男や三男だったのではないかという考察もあり得ないことではないなと感じました。

  • 遠野の曲り家の土間の竈の近くには必ず「かまど神」の面が飾られていました。この後は15分ほどの自由時間があり、園内を自由に散策出来ました。

    遠野の曲り家の土間の竈の近くには必ず「かまど神」の面が飾られていました。この後は15分ほどの自由時間があり、園内を自由に散策出来ました。

  • オシラ堂の奥には「金勢様」の社がありました。農作物の豊穣をはじめ幸いをもたらす神として信仰され、とくにも縁結び、子授け、出産などの祈願には霊験あらたかとされています。

    オシラ堂の奥には「金勢様」の社がありました。農作物の豊穣をはじめ幸いをもたらす神として信仰され、とくにも縁結び、子授け、出産などの祈願には霊験あらたかとされています。

  • 金勢様(こんせいさま)は金精大明神(こんせいだいみょうじん)、金精様(こんせいさま)などとも呼ばれ、男根の形をした御神体を祀った神の一柱です。石で出来た金精神の横には女陰のような形をした丸太も祀られています。

    金勢様(こんせいさま)は金精大明神(こんせいだいみょうじん)、金精様(こんせいさま)などとも呼ばれ、男根の形をした御神体を祀った神の一柱です。石で出来た金精神の横には女陰のような形をした丸太も祀られています。

  • 「御蚕神堂(オシラ堂)」は表から見ると土蔵の様な姿でした。この中にあのような世界があるとは思えないシンプルな建物です。

    「御蚕神堂(オシラ堂)」は表から見ると土蔵の様な姿でした。この中にあのような世界があるとは思えないシンプルな建物です。

  • 我々のツアーのメンバーが引いてしまうと他に観光客の姿が無いことに気が付きます。それくらい遠野も花巻も観光客が少なかったです。

    我々のツアーのメンバーが引いてしまうと他に観光客の姿が無いことに気が付きます。それくらい遠野も花巻も観光客が少なかったです。

  • ♪ちちいぱっぱ ちぃぱっぱ 雀の学校の先生は 鞭をふりふり ちいぱっぱ♪をよくよく歌詞を読み返してみると体罰なんて当たり前の時代に育ったのだなと考えてしまいます。

    ♪ちちいぱっぱ ちぃぱっぱ 雀の学校の先生は 鞭をふりふり ちいぱっぱ♪をよくよく歌詞を読み返してみると体罰なんて当たり前の時代に育ったのだなと考えてしまいます。

  • 最後にもう一度土間の暗さを体感しておきます。裸電球だけの照明なんて最近は見なくなりました。この家はもともと菊池家の住宅でしたが、遠野では菊池という名字がとても多いので、フルネームで言わないとどこのだれか分からないとホテルの語り部の菊池さんがおっしゃっていました。同じように佐々木という名字も多いそうです。

    最後にもう一度土間の暗さを体感しておきます。裸電球だけの照明なんて最近は見なくなりました。この家はもともと菊池家の住宅でしたが、遠野では菊池という名字がとても多いので、フルネームで言わないとどこのだれか分からないとホテルの語り部の菊池さんがおっしゃっていました。同じように佐々木という名字も多いそうです。

  • 軒先には干し柿が吊るしてあったので、この柿もどなたかが取って干し柿を作るのでしょう。昔は竹の物干し棒を上手に使って柿を取ったものです。取るのは好きでしたが、食べるのは今に至っても好きではありません。

    軒先には干し柿が吊るしてあったので、この柿もどなたかが取って干し柿を作るのでしょう。昔は竹の物干し棒を上手に使って柿を取ったものです。取るのは好きでしたが、食べるのは今に至っても好きではありません。

  • 最後に数分時間があったので「佐々木喜善記念館」も覗いてみることにします。「遠野物語」の語り手であった佐々木喜善に関する資料や同氏を取り巻く人々との交流の資料を展示しています。

    最後に数分時間があったので「佐々木喜善記念館」も覗いてみることにします。「遠野物語」の語り手であった佐々木喜善に関する資料や同氏を取り巻く人々との交流の資料を展示しています。

  • 「遠野物語」は若き日の佐々木喜善が柳田國男に語った遠野の話が素になっています。喜善はオシラサマやザシキワラシなどの研究と400編以上にのぼる昔話を収集し日本民俗学と口承文芸研究の大きな功績を残したことにより「日本のグリム」と呼ばれています。<br />

    「遠野物語」は若き日の佐々木喜善が柳田國男に語った遠野の話が素になっています。喜善はオシラサマやザシキワラシなどの研究と400編以上にのぼる昔話を収集し日本民俗学と口承文芸研究の大きな功績を残したことにより「日本のグリム」と呼ばれています。

  • 入り口には柳田国男に物語を語る佐々木喜善の姿がありました。火鉢を灰皿代わりにタバコを吸う姿が時代を感じさせます。

    入り口には柳田国男に物語を語る佐々木喜善の姿がありました。火鉢を灰皿代わりにタバコを吸う姿が時代を感じさせます。

  • 今回の旅で佐々木喜善について多くを学びましたが、その才能を考えると柳田国男がいなくても同じような物語が書けたのではないかと思ってしまいます。

    今回の旅で佐々木喜善について多くを学びましたが、その才能を考えると柳田国男がいなくても同じような物語が書けたのではないかと思ってしまいます。

  • 主な著書である昔話集「聴耳草紙(ちょうじぞうし)」「老媼夜譚(ろうおうやたん)」などが展示されています。手前には「ひょっとこの話」の元興が展示されています。

    主な著書である昔話集「聴耳草紙(ちょうじぞうし)」「老媼夜譚(ろうおうやたん)」などが展示されています。手前には「ひょっとこの話」の元興が展示されています。

  • この話は爺さんが柴刈りの最中に穴を見つけ、穴は災いをもたらすので塞いでしまおうと、大量の柴を押し込んでいると中から呼び声がして、立派な御殿のある世界に連れられます。呼んでいたのは美女で、さらに白髪の翁から褒美としてヘソから金(きん)を生む、奇妙な顔の子供を譲り受けます。爺さんは子供を気に入って育てましたが、欲張りな婆さんはより大きな金を欲しがり、ヘソを火箸で無理やり突いたため、子供は死んでしまいました。悲しむ爺さんに自分に似せた面を竈の前に架けておけば、家が富み栄えると夢枕に立ったという話です。<br />その子の名前が「ひょうとく」であったことから、「ひょっとこ」という名称が生まれたとされています。この話は「江刺郡昔話」に収録されています。

    この話は爺さんが柴刈りの最中に穴を見つけ、穴は災いをもたらすので塞いでしまおうと、大量の柴を押し込んでいると中から呼び声がして、立派な御殿のある世界に連れられます。呼んでいたのは美女で、さらに白髪の翁から褒美としてヘソから金(きん)を生む、奇妙な顔の子供を譲り受けます。爺さんは子供を気に入って育てましたが、欲張りな婆さんはより大きな金を欲しがり、ヘソを火箸で無理やり突いたため、子供は死んでしまいました。悲しむ爺さんに自分に似せた面を竈の前に架けておけば、家が富み栄えると夢枕に立ったという話です。
    その子の名前が「ひょうとく」であったことから、「ひょっとこ」という名称が生まれたとされています。この話は「江刺郡昔話」に収録されています。

  • 遠野の赤いかっぱの姿が、前の日に小雨の中で頭にハンドタオルを乗せた歩いていた妻の姿と重なってしまいます。今回で会うことは無くて買い求められませんでしたが、「附馬牛人形」の工房にも行ってみたかったです。

    遠野の赤いかっぱの姿が、前の日に小雨の中で頭にハンドタオルを乗せた歩いていた妻の姿と重なってしまいます。今回で会うことは無くて買い求められませんでしたが、「附馬牛人形」の工房にも行ってみたかったです。

  • 時間になって駐車場に向かいます。短い時間でしたがかっぱおじさんの考察による説明は非常に勉強になりました。

    時間になって駐車場に向かいます。短い時間でしたがかっぱおじさんの考察による説明は非常に勉強になりました。

  • 「伝承園」のスタッフの方々とかっぱおじさんに見送られながら「遠野ふるさと村」に向かいます。

    「伝承園」のスタッフの方々とかっぱおじさんに見送られながら「遠野ふるさと村」に向かいます。

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2022平泉・花巻・遠野の旅

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