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2日目の朝は前の晩にしっかり寝たせいか午前6時には目が覚めてしまいました。部屋の外を見ると鍋倉城址は霧に包まれています。この日の出発は午前9時なのでかなり時間があるので、南部神社に参拝して鍋倉城址まで上がってみることにしました。ホテルを出るとそこは南部神社の鳥居があり、急な石段を上がりきると南部神社がありました。拝殿で参拝してさらに急な坂を登ります。朝霧に中から紅葉したモミジがどんどん現れては消えていくさまはまさに幽玄といった感じです。早朝ということもあって周囲には誰もいません。唯一黄色い「熊出没注意!」の看板だけが人工物のようです。本丸の方はなにも無さそうなので三の丸跡に向かいます。ここにはホテルの部屋からも見えた天守を模した「なべくら展望台」があるはずです。霧の中を手探りで進むとここでも見事なモミジの紅葉を見ることが出来ました。展望台は午前8時からと書かれてありましたが、鍵が外されて、扉が少し開いてあったので中を覗いてみました。残念ながら遠野の町や早池峰山や六角牛山の姿は見えませんでした。あまりゆっくりも出来ないので踵を返してホテルに戻り、大浴場でくつろいで朝ご飯に向かいます。朝食はビュッフェスタイルでしたが、近所の新里豆腐店の出来立ての卯の花煮や寄せ豆腐や豆腐プリンが並び、地元の生姜餅やひっつみ汁やなめこ蕎麦なども用意してあります。一番だったのは岩泉のヨーグルトが食べ放題ということでした。午前9時前にロビーに集合してバスに乗って1日の遠野観光が始まります。この日は街中ではなく、交通の便があまり良くない郊外を周るので車を運転しない我が家にとっては助かるツアーです。最初は「伝承園」まで霧の中を走り抜け、2代目かっパおじさんと一緒にホップ畑から「常堅寺」を参拝し、「かっぱ淵」に向かいます。おじさんの案内は非常に詳しく、特に「昔話」と「民話」の違いについての考察は面白く思えました。個人で歩いていたらあっという間の観光だったと思いますが、充実した良い時間を過ごせました。<br />

クラブツーリズム 民話のふるさと「遠野」とイーハトーブの街「花巻」 (3)朝霧の鍋倉城趾に登り、かっぱおじさんとかっぱ淵を訪ねる。

4いいね!

2022/11/07 - 2022/11/07

182位(同エリア236件中)

旅行記グループ 2022平泉・花巻・遠野の旅

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kojikoji

kojikojiさん

この旅行記スケジュールを元に

2日目の朝は前の晩にしっかり寝たせいか午前6時には目が覚めてしまいました。部屋の外を見ると鍋倉城址は霧に包まれています。この日の出発は午前9時なのでかなり時間があるので、南部神社に参拝して鍋倉城址まで上がってみることにしました。ホテルを出るとそこは南部神社の鳥居があり、急な石段を上がりきると南部神社がありました。拝殿で参拝してさらに急な坂を登ります。朝霧に中から紅葉したモミジがどんどん現れては消えていくさまはまさに幽玄といった感じです。早朝ということもあって周囲には誰もいません。唯一黄色い「熊出没注意!」の看板だけが人工物のようです。本丸の方はなにも無さそうなので三の丸跡に向かいます。ここにはホテルの部屋からも見えた天守を模した「なべくら展望台」があるはずです。霧の中を手探りで進むとここでも見事なモミジの紅葉を見ることが出来ました。展望台は午前8時からと書かれてありましたが、鍵が外されて、扉が少し開いてあったので中を覗いてみました。残念ながら遠野の町や早池峰山や六角牛山の姿は見えませんでした。あまりゆっくりも出来ないので踵を返してホテルに戻り、大浴場でくつろいで朝ご飯に向かいます。朝食はビュッフェスタイルでしたが、近所の新里豆腐店の出来立ての卯の花煮や寄せ豆腐や豆腐プリンが並び、地元の生姜餅やひっつみ汁やなめこ蕎麦なども用意してあります。一番だったのは岩泉のヨーグルトが食べ放題ということでした。午前9時前にロビーに集合してバスに乗って1日の遠野観光が始まります。この日は街中ではなく、交通の便があまり良くない郊外を周るので車を運転しない我が家にとっては助かるツアーです。最初は「伝承園」まで霧の中を走り抜け、2代目かっパおじさんと一緒にホップ畑から「常堅寺」を参拝し、「かっぱ淵」に向かいます。おじさんの案内は非常に詳しく、特に「昔話」と「民話」の違いについての考察は面白く思えました。個人で歩いていたらあっという間の観光だったと思いますが、充実した良い時間を過ごせました。

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
ホテル
4.5
グルメ
4.5
交通
4.5
同行者
カップル・夫婦(シニア)
一人あたり費用
5万円 - 10万円
交通手段
観光バス タクシー 新幹線 JRローカル 徒歩
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)
利用旅行会社
クラブツーリズム

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  • 前の晩にぐっすり寝たせいか午前6時には目が覚めてしまいました。2日目の出発は午前9時なのでかなりの時間を持て余してしまいます。

    前の晩にぐっすり寝たせいか午前6時には目が覚めてしまいました。2日目の出発は午前9時なのでかなりの時間を持て余してしまいます。

  • ホテルの廊下の窓から見た遠野の町は朝霧に覆われています。もう一度寝ようかとも思いましたが、着替えをして散歩に出掛けることにしました。

    ホテルの廊下の窓から見た遠野の町は朝霧に覆われています。もう一度寝ようかとも思いましたが、着替えをして散歩に出掛けることにしました。

  • 早朝のフロントは誰もいません。午前7時過ぎに戻ってきましたが、入り口の自動ドアは閉まっていて、中に入るには部屋のカードキーが必要でした。

    早朝のフロントは誰もいません。午前7時過ぎに戻ってきましたが、入り口の自動ドアは閉まっていて、中に入るには部屋のカードキーが必要でした。

    語り部の聴ける宿 あえりあ遠野 宿・ホテル

  • ホテルから遠野駅に繋がる駅前通りには車はおろか歩く人の姿もありません。信号機だけが無意味に切り替わっているだけです。

    ホテルから遠野駅に繋がる駅前通りには車はおろか歩く人の姿もありません。信号機だけが無意味に切り替わっているだけです。

  • 来内川も霧が立ち込めて幻想的な姿を見せてくれます。柳田国男が初めて遠野に滞在した明治42年の1909年にタイムスリップしたような気分になってきます。

    来内川も霧が立ち込めて幻想的な姿を見せてくれます。柳田国男が初めて遠野に滞在した明治42年の1909年にタイムスリップしたような気分になってきます。

  • マガモのオスが1羽だけ立ち尽くしていました。宮沢賢治の童話や詩にはたくさんの鳥が登場します。ヨタカ、フクロウ、カッコウ、トキなど、数えると70種以上になるそうですが、マガモが出て来たか思い出せません。

    マガモのオスが1羽だけ立ち尽くしていました。宮沢賢治の童話や詩にはたくさんの鳥が登場します。ヨタカ、フクロウ、カッコウ、トキなど、数えると70種以上になるそうですが、マガモが出て来たか思い出せません。

  • 遠野の街を歩いていて一番美しい日だったかもしれません。晴れた日も美しかったですが、「遠野物語」の舞台という土地柄なのか幻想的なものを求めてしまいます。

    遠野の街を歩いていて一番美しい日だったかもしれません。晴れた日も美しかったですが、「遠野物語」の舞台という土地柄なのか幻想的なものを求めてしまいます。

  • 町中は3日目の終日フリーの日に歩く予定なので、部屋から見えた鍋倉城址に上がってみることにします。

    町中は3日目の終日フリーの日に歩く予定なので、部屋から見えた鍋倉城址に上がってみることにします。

  • 明治9年の1876年に明治天皇が東北地方を巡幸した際に遠野南部家の事績をお聞きになり、遠野南部家の書物や宝物の保存料を賜ったことをきっかけに、遠野南部家4代から8代を祀る「鍋倉神社」を創立され、明治19年に社殿を建立されています。昭和19年に「南部神社」と名を改め、昭和34年には遠野南部家初代から3代までが合祀され、初代から8代までを祀る神社となりました。

    明治9年の1876年に明治天皇が東北地方を巡幸した際に遠野南部家の事績をお聞きになり、遠野南部家の書物や宝物の保存料を賜ったことをきっかけに、遠野南部家4代から8代を祀る「鍋倉神社」を創立され、明治19年に社殿を建立されています。昭和19年に「南部神社」と名を改め、昭和34年には遠野南部家初代から3代までが合祀され、初代から8代までを祀る神社となりました。

    南部神社 寺・神社・教会

  • 遠野南部氏については最終日の資料館で学びましたが、八戸根城の第22代城主の南部直義が盛岡藩初代城主の南部利直に遠野にある横田城への移封を命じられたことから始まります。直義は移封を辞退しましたが盛岡南部家の背後には徳川幕府があり、また八戸根城の命脈を守ろうとする第21代の清心尼の意向もあり、国替えの指示に従いました。

    遠野南部氏については最終日の資料館で学びましたが、八戸根城の第22代城主の南部直義が盛岡藩初代城主の南部利直に遠野にある横田城への移封を命じられたことから始まります。直義は移封を辞退しましたが盛岡南部家の背後には徳川幕府があり、また八戸根城の命脈を守ろうとする第21代の清心尼の意向もあり、国替えの指示に従いました。

  • 南部直義の国替えは寛永4年の1627年に根城を出発し、諸士や寺院や同心その他大工や木挽、畳刺等の職人までもが従い、遠野南部氏の新しい歴史が始まりました。横田城下は荒廃していましたが進営事業を行い、町内の輪郭も整えて国替えから100年後には町家数も倍以上となります。「一六市日」の六度市は「入荷千駄出 荷千駄」の賑わいを見せ、遠野の町は繁栄をきわめます。

    南部直義の国替えは寛永4年の1627年に根城を出発し、諸士や寺院や同心その他大工や木挽、畳刺等の職人までもが従い、遠野南部氏の新しい歴史が始まりました。横田城下は荒廃していましたが進営事業を行い、町内の輪郭も整えて国替えから100年後には町家数も倍以上となります。「一六市日」の六度市は「入荷千駄出 荷千駄」の賑わいを見せ、遠野の町は繁栄をきわめます。

  • 「遠野市立博物館」へは当初見学する予定はなかったのですが、フリータイムに行く予定にしていた「遠野ふるさと村」の見学がこの日の午後に出来てしまったので予定変更しました。大したことないだろうと思い込んでいた博物館でしたが、遠野の歴史や文化を知るには欠かせない場所でした。

    「遠野市立博物館」へは当初見学する予定はなかったのですが、フリータイムに行く予定にしていた「遠野ふるさと村」の見学がこの日の午後に出来てしまったので予定変更しました。大したことないだろうと思い込んでいた博物館でしたが、遠野の歴史や文化を知るには欠かせない場所でした。

  • 博物館の入り口には照井 栄の「獅子踊り」の像が置かれてありました。石を直彫りする人物像により北の風土を表す作風で知られた岩手県北上市出身の彫刻家です。2020年に亡くなられていますが、遠野の獅子踊りの前に垂れた幕を広げるように踊る様子が良く表現されていると思いました。

    博物館の入り口には照井 栄の「獅子踊り」の像が置かれてありました。石を直彫りする人物像により北の風土を表す作風で知られた岩手県北上市出身の彫刻家です。2020年に亡くなられていますが、遠野の獅子踊りの前に垂れた幕を広げるように踊る様子が良く表現されていると思いました。

  • 朝霧に濡れた姿も風情がありました。獅子頭の角の間の九曜の紋は武田菱と向鶴と花菱と共に遠野南部家の家紋です。

    朝霧に濡れた姿も風情がありました。獅子頭の角の間の九曜の紋は武田菱と向鶴と花菱と共に遠野南部家の家紋です。

  • 「雨をりをり思ふことなき早苗哉」という松尾芭蕉の歌碑がありました。これは安政3年の1856年に遠野の俳人佐々木蘆川と杉岡一二の主唱により遠野俳壇「雨おりおり会」によって遠野市松崎町の白幡神社境内に建立されたものだそうです。

    「雨をりをり思ふことなき早苗哉」という松尾芭蕉の歌碑がありました。これは安政3年の1856年に遠野の俳人佐々木蘆川と杉岡一二の主唱により遠野俳壇「雨おりおり会」によって遠野市松崎町の白幡神社境内に建立されたものだそうです。

  • のんびり歌碑など眺めている場合ではなくなってきました。中腹にある南部神社の社殿に向かいます。

    のんびり歌碑など眺めている場合ではなくなってきました。中腹にある南部神社の社殿に向かいます。

  • 石段を登るにつれて美しいモミジの落ち葉が重なり、錦の様に見えてきます。

    石段を登るにつれて美しいモミジの落ち葉が重なり、錦の様に見えてきます。

  • 誰もいない神社に参拝します。御祭神は後醍醐天皇の南朝に忠節を尽くした遠野南部氏の祖である南部実長公から8代政光まで八柱の方々なので個人的なお祈りはしませんでした。

    誰もいない神社に参拝します。御祭神は後醍醐天皇の南朝に忠節を尽くした遠野南部氏の祖である南部実長公から8代政光まで八柱の方々なので個人的なお祈りはしませんでした。

  • 鍋倉城の麓にあったことから鍋倉神社とも呼ばれています。

    鍋倉城の麓にあったことから鍋倉神社とも呼ばれています。

  • 神社の境内を抜けると階段が続きますが、途中から霧の中に消えてしまうのでどれ程登ればよいのか分かりません。

    神社の境内を抜けると階段が続きますが、途中から霧の中に消えてしまうのでどれ程登ればよいのか分かりません。

  • 霧に中から現れる紅葉したモミジはしっとりとして美しかったです。風もなく何の音もしない山中を進みます。

    霧に中から現れる紅葉したモミジはしっとりとして美しかったです。風もなく何の音もしない山中を進みます。

  • この美しい紅葉を1人で楽しめる贅沢を感じます。

    この美しい紅葉を1人で楽しめる贅沢を感じます。

  • この看板を見てからは歌を唄いながら歩くことにしました。思いついたのはユーミンの「影になって」でした。<br />https://www.youtube.com/watch?v=YBm6bfV75CU

    この看板を見てからは歌を唄いながら歩くことにしました。思いついたのはユーミンの「影になって」でした。
    https://www.youtube.com/watch?v=YBm6bfV75CU

  • 「影になって」が頭に浮かんだのは同じアルバム「悲しいほどお天気」に「緑の町に舞い降りて」という曲があり、MORIOKA(盛岡)というその響きがロシア語みたいだったという歌詞が含まれていたからでした。ちなみにこの曲は1975年にユーミンが岩手を訪れたときに「いわて花巻空港」に降り立ったその時の様子をこの曲で描いたということです。「いわて花巻空港」のイメージソングにもなっています。

    「影になって」が頭に浮かんだのは同じアルバム「悲しいほどお天気」に「緑の町に舞い降りて」という曲があり、MORIOKA(盛岡)というその響きがロシア語みたいだったという歌詞が含まれていたからでした。ちなみにこの曲は1975年にユーミンが岩手を訪れたときに「いわて花巻空港」に降り立ったその時の様子をこの曲で描いたということです。「いわて花巻空港」のイメージソングにもなっています。

  • 「三の丸公園」まで登りましたが、遠野の町は完全に霧の中でした。鍋倉城は中世の豪族の阿曽沼(あそぬま)氏の居城で横田城とも新横田城とも呼ばれました。

    「三の丸公園」まで登りましたが、遠野の町は完全に霧の中でした。鍋倉城は中世の豪族の阿曽沼(あそぬま)氏の居城で横田城とも新横田城とも呼ばれました。

  • 豊臣秀吉の奥州仕置によって鎌倉時代以来400年にも及ぶ阿曽沼氏の支配は終わり、慶長6年の1601年に遠野は南部氏の治下に入ります。阿曽沼氏残党による治安の悪化や仙台藩との藩境である重要性を考え、南部27代利直は三戸南部と並ぶ有力な一族である八戸南部・直義にこの地を支配させることとし、寛永4年の1627年以後の約240年の遠野南部氏12,500石の時代が明治維新まで続きます。

    豊臣秀吉の奥州仕置によって鎌倉時代以来400年にも及ぶ阿曽沼氏の支配は終わり、慶長6年の1601年に遠野は南部氏の治下に入ります。阿曽沼氏残党による治安の悪化や仙台藩との藩境である重要性を考え、南部27代利直は三戸南部と並ぶ有力な一族である八戸南部・直義にこの地を支配させることとし、寛永4年の1627年以後の約240年の遠野南部氏12,500石の時代が明治維新まで続きます。

  • この公園には日清戦争と日露戦争で亡くなった遠野市出身者の「紹魂碑」が建っていました。元々は現在の「遠野市市立博物館」にあったものが移設されたようです。この姿を見てすぐに日露戦争に関わるものだと分かりました。

    この公園には日清戦争と日露戦争で亡くなった遠野市出身者の「紹魂碑」が建っていました。元々は現在の「遠野市市立博物館」にあったものが移設されたようです。この姿を見てすぐに日露戦争に関わるものだと分かりました。

  • その理由は中国の旅順の白玉山にある日露戦争後に東郷平八郎と乃木希典の共同提案で造った「表忠塔」の姿を思い出したからです。

    その理由は中国の旅順の白玉山にある日露戦争後に東郷平八郎と乃木希典の共同提案で造った「表忠塔」の姿を思い出したからです。

  • 「紹魂碑」の横には天守を模した「なべくら展望台」がありました。

    「紹魂碑」の横には天守を模した「なべくら展望台」がありました。

    鍋倉城址 名所・史跡

  • 展望台は午前8時から解放のようでしたが、午前7時には鍵が開けられ、扉も少し開かれてありました。2階に登ってみましたが、遠野市内も早池峰山んも六角牛山の姿も見えませんでした。

    展望台は午前8時から解放のようでしたが、午前7時には鍵が開けられ、扉も少し開かれてありました。2階に登ってみましたが、遠野市内も早池峰山んも六角牛山の姿も見えませんでした。

  • すぐ下にあるモミジの木ですら霞んでいます。展望台の中には鍋倉城や風景の案内の放送がエンドレスに流れています。

    すぐ下にあるモミジの木ですら霞んでいます。展望台の中には鍋倉城や風景の案内の放送がエンドレスに流れています。

  • 帰りも熊に出会うと嫌なので、歌を唄いながらホテルに戻りました。午後に山口集落を歩いているときに町内放送で、どこどこで熊が出たから注意してくださと言っていたので本当にいるのだと思います。

    帰りも熊に出会うと嫌なので、歌を唄いながらホテルに戻りました。午後に山口集落を歩いているときに町内放送で、どこどこで熊が出たから注意してくださと言っていたので本当にいるのだと思います。

  • 冷えた体を大浴場で暖めましたが、湯船から紅葉したモミジを眺めながらの入浴もおつなものです。しかし滞在中に大浴場ではほとんど誰にも会いませんでした。

    冷えた体を大浴場で暖めましたが、湯船から紅葉したモミジを眺めながらの入浴もおつなものです。しかし滞在中に大浴場ではほとんど誰にも会いませんでした。

  • 朝食は1階の「銀杏」というレストランです。遅めにレストランに入ったのですでに空いていました。

    朝食は1階の「銀杏」というレストランです。遅めにレストランに入ったのですでに空いていました。

    語り部の聴ける宿 あえりあ遠野 宿・ホテル

  • メニューの半分はありきたりなソーセージやスクランブルエッグでしたが、素材は良いようで美味しかったです。それ以外にも地元の食材を使った料理が並んでいました。

    メニューの半分はありきたりなソーセージやスクランブルエッグでしたが、素材は良いようで美味しかったです。それ以外にも地元の食材を使った料理が並んでいました。

  • 日替わりの麺は熱々のお出汁で美味しかったです。この日はきのこ蕎麦でした。翌日はうどんだったり、その翌日は冷麺だったり。

    日替わりの麺は熱々のお出汁で美味しかったです。この日はきのこ蕎麦でした。翌日はうどんだったり、その翌日は冷麺だったり。

  • 岩手県では古くより根付いた餅文化があり、祝い餅の一品である生姜餅は毎日並んでいました。前の日に平泉で食べたもち料理を思い出します。

    岩手県では古くより根付いた餅文化があり、祝い餅の一品である生姜餅は毎日並んでいました。前の日に平泉で食べたもち料理を思い出します。

  • ホテルの近くにある「新里豆腐店」のおからを使った卯の花煮と寄せ豆腐も美味しかったです。午前6時過ぎには御店が開いていて、買いに来るお客さんの姿もありました。

    ホテルの近くにある「新里豆腐店」のおからを使った卯の花煮と寄せ豆腐も美味しかったです。午前6時過ぎには御店が開いていて、買いに来るお客さんの姿もありました。

  • そしてデザートのヨーグルトはモチモチの岩泉ヨーグルトです。これは春の三陸の旅で食べて感動したものです。ここでは大盛りで食べられて良かったです。

    そしてデザートのヨーグルトはモチモチの岩泉ヨーグルトです。これは春の三陸の旅で食べて感動したものです。ここでは大盛りで食べられて良かったです。

  • 部屋に戻って準備をして午前9時前にロビーに集合しました。ツアー2日目は遠野周辺の「遠野物語」に縁のある場所をバスで巡ります。個人で公共交通機関を使っての移動ではなかなか行きにくい場所になります。

    部屋に戻って準備をして午前9時前にロビーに集合しました。ツアー2日目は遠野周辺の「遠野物語」に縁のある場所をバスで巡ります。個人で公共交通機関を使っての移動ではなかなか行きにくい場所になります。

  • まずは「伝承園」に向かいますが、町外れも朝霧が低く垂れこめていました。柳田国男が遠野に来た時代とさほど変わらない景色が続いています。

    まずは「伝承園」に向かいますが、町外れも朝霧が低く垂れこめていました。柳田国男が遠野に来た時代とさほど変わらない景色が続いています。

  • 「伝承園」の駐車場に到着しました。2日目の観光が始まる前にイヤフォンガイドが配られました。2日目と4日目の観光では現地ガイドさんが同行するので必要になります。

    「伝承園」の駐車場に到着しました。2日目の観光が始まる前にイヤフォンガイドが配られました。2日目と4日目の観光では現地ガイドさんが同行するので必要になります。

  • 駐車場に午前中の案内をしてくださる2代目かっぱおじさんが待っていてくれました。残念ながらおじさんはマイクを使わないということでした。

    駐車場に午前中の案内をしてくださる2代目かっぱおじさんが待っていてくれました。残念ながらおじさんはマイクを使わないということでした。

    伝承園 名所・史跡

  • 「伝承園」の茅葺の曲り家も気になりますが、まずは「かっぱ淵」に向かいます。

    「伝承園」の茅葺の曲り家も気になりますが、まずは「かっぱ淵」に向かいます。

  • 移築保存された建物ではありますが、明治の頃の遠野の姿を知るには十分です。

    移築保存された建物ではありますが、明治の頃の遠野の姿を知るには十分です。

  • こんな風景の中をのんびりと散歩します。自分の知る限りの昭和40年代に家族と旅したころを思い出します。

    こんな風景の中をのんびりと散歩します。自分の知る限りの昭和40年代に家族と旅したころを思い出します。

  • 枯れてはいますが一目でホップだと分かりました。遠野は北海道の富良野や秋田県の横手と並んでホップの一大生産地です。

    枯れてはいますが一目でホップだと分かりました。遠野は北海道の富良野や秋田県の横手と並んでホップの一大生産地です。

  • 何年か前にミュンヘンをベースに巡った南ドイツのクリスマスマーケットの旅では車窓からホップ畑が延々と見えました。12月だというのにホップ畑の足元にはからし菜が黄色い花を付けていました。

    何年か前にミュンヘンをベースに巡った南ドイツのクリスマスマーケットの旅では車窓からホップ畑が延々と見えました。12月だというのにホップ畑の足元にはからし菜が黄色い花を付けていました。

  • 遠野のホップの多くはキリンビールの仙台工場に運ばれ、前の晩に飲んだ「一番搾りとれたてホップ」となって11月1日から販売されます。収穫したばかりの遠野産ホップを生のまま24時間以内に急速凍結し、細かく砕いて使用する特許技術によって、フレッシュなホップの香りを感じることができるビールです。

    遠野のホップの多くはキリンビールの仙台工場に運ばれ、前の晩に飲んだ「一番搾りとれたてホップ」となって11月1日から販売されます。収穫したばかりの遠野産ホップを生のまま24時間以内に急速凍結し、細かく砕いて使用する特許技術によって、フレッシュなホップの香りを感じることができるビールです。

    キリンのホップ畑 名所・史跡

  • 常のホップはペレット状で乾燥したハーブや草木を思わせる香りであるのに対し、生のまま凍結したホップは青草や果実のような新鮮な香り成分がたくさん含まれており、フローラルな香りが際立ちます。日本でも良質なホップが栽培されているからこそ可能なホップの使い方です。遠野のビールについては最終日に地ビール工場の見学でいろいろ学びました。

    常のホップはペレット状で乾燥したハーブや草木を思わせる香りであるのに対し、生のまま凍結したホップは青草や果実のような新鮮な香り成分がたくさん含まれており、フローラルな香りが際立ちます。日本でも良質なホップが栽培されているからこそ可能なホップの使い方です。遠野のビールについては最終日に地ビール工場の見学でいろいろ学びました。

  • かっぱおじさんのホップの次の説明は「かっぱの厠」でした。ここは人間用ではないのでよほどのことが無い限り使わないで下さいということでした。

    かっぱおじさんのホップの次の説明は「かっぱの厠」でした。ここは人間用ではないのでよほどのことが無い限り使わないで下さいということでした。

  • 「常堅寺」の前まで来ました。かっぱおじさんの説明が始まりますが、ツアーの1人参加のおじさんがちょろちょろと先を歩きます。それくらいならよいのですが、皆さんが列を守って並んでいても、横から割り込んだり困った人でした。1人参加の年配の方はルールを守らない方が多いです。そして女性の1人参加の方はすぐに仲良しになって周りの迷惑を考えない大声になります。

    「常堅寺」の前まで来ました。かっぱおじさんの説明が始まりますが、ツアーの1人参加のおじさんがちょろちょろと先を歩きます。それくらいならよいのですが、皆さんが列を守って並んでいても、横から割り込んだり困った人でした。1人参加の年配の方はルールを守らない方が多いです。そして女性の1人参加の方はすぐに仲良しになって周りの迷惑を考えない大声になります。

    常堅寺 寺・神社・教会

  • 「常堅寺」は室町時代の延徳2年の1490年に大聞秀宗禅師により開山された寺で本尊は釈迦如来です。遠野郷の曹洞宗十二ヶ寺の筆頭でもある寺院であると遠野物語の88話に書かれてあります。ここの境内もモミジの紅葉が素晴らしかったです。

    「常堅寺」は室町時代の延徳2年の1490年に大聞秀宗禅師により開山された寺で本尊は釈迦如来です。遠野郷の曹洞宗十二ヶ寺の筆頭でもある寺院であると遠野物語の88話に書かれてあります。ここの境内もモミジの紅葉が素晴らしかったです。

  • 普通の季節であれば見逃してしまうような小さな御堂ですが、モミジの錦を纏って美しく見えます。夜中のうちに雨が降ったのかしっとり濡れた落ち葉もいいものです。

    普通の季節であれば見逃してしまうような小さな御堂ですが、モミジの錦を纏って美しく見えます。夜中のうちに雨が降ったのかしっとり濡れた落ち葉もいいものです。

  • 一説にはこの寺は元々安倍家の菩提寺といわれ、大原弾正勝行(大原城主)がこの地に来て土淵村を拝領した際に寺禄20石を与え、さらに6世の時代には南部家の守り本尊姿勢観音像と寺領12石4斗を拝領しています。

    一説にはこの寺は元々安倍家の菩提寺といわれ、大原弾正勝行(大原城主)がこの地に来て土淵村を拝領した際に寺禄20石を与え、さらに6世の時代には南部家の守り本尊姿勢観音像と寺領12石4斗を拝領しています。

  • 山門にある慈覚大師の作と伝わる白木の仁王像2体は、早池峰山妙泉寺にあったものを明治維新の頃に妙泉寺が廃寺になった際に移したものです。<br /><br />

    山門にある慈覚大師の作と伝わる白木の仁王像2体は、早池峰山妙泉寺にあったものを明治維新の頃に妙泉寺が廃寺になった際に移したものです。

  • 素朴な仁王像ですが、かなり目の細かい金網で覆われているので、檻に閉じ込められているようです。<br />

    素朴な仁王像ですが、かなり目の細かい金網で覆われているので、檻に閉じ込められているようです。

  • 山門の三手先(手先の組物)は近年に修復されたもののようですが、丸柱に組み込まれた獅子の彫刻は見事でした。風雨に晒された雰囲気は遠野の物の怪のようにも見えてきます。

    山門の三手先(手先の組物)は近年に修復されたもののようですが、丸柱に組み込まれた獅子の彫刻は見事でした。風雨に晒された雰囲気は遠野の物の怪のようにも見えてきます。

  • 常堅寺のケヤキとして有名な神木には注連縄が巻かれています。樹高は24メートルですが、もっと高く感じます。樹齢は300年を超えるのですから柳田国男もこの木を見たのかもしれません。 

    常堅寺のケヤキとして有名な神木には注連縄が巻かれています。樹高は24メートルですが、もっと高く感じます。樹齢は300年を超えるのですから柳田国男もこの木を見たのかもしれません。 

  • ケヤキの木の脇には「十王堂」がありました。死後の世界をつかさどる10人の王を祀ったお堂で、一般的には閻魔大王が有名です。

    ケヤキの木の脇には「十王堂」がありました。死後の世界をつかさどる10人の王を祀ったお堂で、一般的には閻魔大王が有名です。

  • 初七日を司る泰広王(不動明王)、二七日を司る初江王(釈迦如来)、三七日を司る宗帝王(文殊菩薩)、四七日を司る五官王(普賢菩薩)、五七日を司る閻魔王(地蔵菩薩) 、六七日を司る変成王(弥勒菩薩)、七七日を司る太山王(薬師如来)、百ヶ日を司る平等王(観音菩薩)、一周忌を司る都市王(勢至菩薩)三回忌を司る五道転輪王(阿弥陀如来)の十王は人間が亡者になって仏様の世界に入って行く時、 生前の罪業の軽重を裁判し次に生まれて来る世界を決定する冥土の10人の裁判官です。

    初七日を司る泰広王(不動明王)、二七日を司る初江王(釈迦如来)、三七日を司る宗帝王(文殊菩薩)、四七日を司る五官王(普賢菩薩)、五七日を司る閻魔王(地蔵菩薩) 、六七日を司る変成王(弥勒菩薩)、七七日を司る太山王(薬師如来)、百ヶ日を司る平等王(観音菩薩)、一周忌を司る都市王(勢至菩薩)三回忌を司る五道転輪王(阿弥陀如来)の十王は人間が亡者になって仏様の世界に入って行く時、 生前の罪業の軽重を裁判し次に生まれて来る世界を決定する冥土の10人の裁判官です。

  • 亡者は供養によってこれらの仏様に救われて仏界に送られます。生前の罪業の軽重を計るための天秤ばかりも置かれてありました。十王の思想は中国で作られた経典(偽経)の十王経(仏説地蔵菩薩発心因縁十王経)が出典のようで、地獄のことが詳しく描かれています。  日本へは仏教伝来時に伝えられ、鎌倉時代には大流行しています。

    亡者は供養によってこれらの仏様に救われて仏界に送られます。生前の罪業の軽重を計るための天秤ばかりも置かれてありました。十王の思想は中国で作られた経典(偽経)の十王経(仏説地蔵菩薩発心因縁十王経)が出典のようで、地獄のことが詳しく描かれています。 日本へは仏教伝来時に伝えられ、鎌倉時代には大流行しています。

  • 十王とは別に奪衣婆(だつえば)という三途の川のほとりで冥界に至る亡者の衣を剥ぎ取る老婆も置かれてありました。その衣を木の枝に懸け、罪の軽重をはかる懸衣翁(けんえおう)の姿は無かったように思います。ちょうど母の三回忌が終わった所なので、無事に司令(しみょう)司録府君典官から判決文を貰えたかと思いました。長年保護司を務めていたので、人間界の法務省につてはあっても、冥界までは…。

    十王とは別に奪衣婆(だつえば)という三途の川のほとりで冥界に至る亡者の衣を剥ぎ取る老婆も置かれてありました。その衣を木の枝に懸け、罪の軽重をはかる懸衣翁(けんえおう)の姿は無かったように思います。ちょうど母の三回忌が終わった所なので、無事に司令(しみょう)司録府君典官から判決文を貰えたかと思いました。長年保護司を務めていたので、人間界の法務省につてはあっても、冥界までは…。

  • 境内に置かれた狛犬の頭部にある円形のくぼみに水が溜まるとかっぱの皿のようになることから「かっぱ狛犬」と呼ばれています。寺の裏を流れるかっぱ淵に住むかっぱが災難の折りに常堅寺に難の避け、そのお礼に狛犬になったと言われています。

    境内に置かれた狛犬の頭部にある円形のくぼみに水が溜まるとかっぱの皿のようになることから「かっぱ狛犬」と呼ばれています。寺の裏を流れるかっぱ淵に住むかっぱが災難の折りに常堅寺に難の避け、そのお礼に狛犬になったと言われています。

  • 本堂には体の悪い部分をなでると痛みが取りのぞかれるという木像のオビンズルサマが安置されているそうですが、堂内に入る時間の余裕はありません。

    本堂には体の悪い部分をなでると痛みが取りのぞかれるという木像のオビンズルサマが安置されているそうですが、堂内に入る時間の余裕はありません。

  • 遠野の町でよく見かける木彫り「夫婦河童」の木像が安置されていました。これについてもかっぱおじさんの説明があります。

    遠野の町でよく見かける木彫り「夫婦河童」の木像が安置されていました。これについてもかっぱおじさんの説明があります。

  • 足を抱えた少し大きいのが雌のかっぱだそうです。

    足を抱えた少し大きいのが雌のかっぱだそうです。

  • オスのかっぱは胡坐をかいて、腕を組んで偉そうに座っています。この木像はのデザインは完成されていますが、「木ばくり」という工房で造られたのが始まりのようです。

    オスのかっぱは胡坐をかいて、腕を組んで偉そうに座っています。この木像はのデザインは完成されていますが、「木ばくり」という工房で造られたのが始まりのようです。

  • 本堂の脇まで来ましたが、なかなか「かっぱ淵」にたどり着けません。常堅寺には水子を祀る像もあり、かつては真っ暗な堂内に置かれていたそうです。現在は渡り廊下と繋がった堂内に祀られています。かっぱ縁での説明を聞くと単純に水子を祀っただけのものではないような印象も受けました。

    本堂の脇まで来ましたが、なかなか「かっぱ淵」にたどり着けません。常堅寺には水子を祀る像もあり、かつては真っ暗な堂内に置かれていたそうです。現在は渡り廊下と繋がった堂内に祀られています。かっぱ縁での説明を聞くと単純に水子を祀っただけのものではないような印象も受けました。

  • 境内には秋らしい風景が広がっています。

    境内には秋らしい風景が広がっています。

  • 昨年は京都の紅葉にどっぷりつかりましたが、今年は東北の秋を楽しんでいます。

    昨年は京都の紅葉にどっぷりつかりましたが、今年は東北の秋を楽しんでいます。

  • 2代目カッパおじさんとして知られる運萬治男(うんまんはるお)さんの話しはよく聞く「昔話」ではなく、民の話しである「民話」だと仰っていました。

    2代目カッパおじさんとして知られる運萬治男(うんまんはるお)さんの話しはよく聞く「昔話」ではなく、民の話しである「民話」だと仰っていました。

  • ようやく「かっぱ淵」に向かいます。常堅寺の脇には農家があり、箒草が刈り取られていました。和名は乾燥した茎を箒に使うので、「ホウキギ」の名がついていますが、園芸(鑑賞)種は「コキア」と呼ばれます。この草の実が”とんぶり”です。<br />

    ようやく「かっぱ淵」に向かいます。常堅寺の脇には農家があり、箒草が刈り取られていました。和名は乾燥した茎を箒に使うので、「ホウキギ」の名がついていますが、園芸(鑑賞)種は「コキア」と呼ばれます。この草の実が”とんぶり”です。

  • 小さな「かっぱぶちばし」と書かれた橋を渡ります。浅瀬に浮かんだ白菜が1つ。これだけでここにはかっぱが住んでいると思ってしまいます。夏場はきゅうりが良いですが、冬は白菜で鍋でもするのでしょうか。

    小さな「かっぱぶちばし」と書かれた橋を渡ります。浅瀬に浮かんだ白菜が1つ。これだけでここにはかっぱが住んでいると思ってしまいます。夏場はきゅうりが良いですが、冬は白菜で鍋でもするのでしょうか。

  • 先に進んでいたかっぱおじさんは淵に座ってかっぱを釣り始めました。

    先に進んでいたかっぱおじさんは淵に座ってかっぱを釣り始めました。

    カッパ淵 自然・景勝地

  • 川の底は砂が堆積していてとても浅そうです。その水は清く澄んでいて、夏場であれば水遊びしたくなりそうです。

    川の底は砂が堆積していてとても浅そうです。その水は清く澄んでいて、夏場であれば水遊びしたくなりそうです。

  • かっぱ淵には足を冷やしていた馬を川に引き込もうと、いたずらを働いたかっぱの言い伝えがあります。昔は「かっぱにさらわれるから川に近づくな」と言いわれたそうです。子どもたちに水の怖さを教えていたのだと思います。

    かっぱ淵には足を冷やしていた馬を川に引き込もうと、いたずらを働いたかっぱの言い伝えがあります。昔は「かっぱにさらわれるから川に近づくな」と言いわれたそうです。子どもたちに水の怖さを教えていたのだと思います。

  • かっぱの起源は地域を襲った貧困の歴史にあると説明がありました。かつて冷害による凶作や飢饉に見舞われ、ひどいときは人口の4分の1が失われた遠野だったそうです。一家8人のうちで生き残ったのが2人や3人というのはあたりまえで、食糧難のための「口減らし」として犠牲になったのが障害のある子どもたちだったそうです。

    かっぱの起源は地域を襲った貧困の歴史にあると説明がありました。かつて冷害による凶作や飢饉に見舞われ、ひどいときは人口の4分の1が失われた遠野だったそうです。一家8人のうちで生き残ったのが2人や3人というのはあたりまえで、食糧難のための「口減らし」として犠牲になったのが障害のある子どもたちだったそうです。

  • 「かっぱの子」とみなされて五体満足で生まれ変わることを願い、かっぱの神様に返された。かっぱは捨てられた子どもの生き残りと伝わり、三つ指は不自由な体を象徴するそうです。常堅寺に立てられていた看板にも三本指のイラストが描かれてありました。

    「かっぱの子」とみなされて五体満足で生まれ変わることを願い、かっぱの神様に返された。かっぱは捨てられた子どもの生き残りと伝わり、三つ指は不自由な体を象徴するそうです。常堅寺に立てられていた看板にも三本指のイラストが描かれてありました。

  • かっぱ淵の脇にある小さな御堂には初代のかっぱおじさんの写真が飾られていました。そして赤いお手玉のような乳神様が祀られていました。

    かっぱ淵の脇にある小さな御堂には初代のかっぱおじさんの写真が飾られていました。そして赤いお手玉のような乳神様が祀られていました。

  • 乳神様はお乳が出なかったりする女性が、子宝やお乳がた くさん出るよう祈願したものですが、遠野ではそんな単純な話ではなかったということです。お乳が出ないのは飢饉も原因で、このかっぱ淵の脇に住む長者だった安倍家の人が中に米などの穀物や豆を入れておいたそうです。それを食べることによってお乳が出るようになったという悲しい話も聞くことが出来ました。

    乳神様はお乳が出なかったりする女性が、子宝やお乳がた くさん出るよう祈願したものですが、遠野ではそんな単純な話ではなかったということです。お乳が出ないのは飢饉も原因で、このかっぱ淵の脇に住む長者だった安倍家の人が中に米などの穀物や豆を入れておいたそうです。それを食べることによってお乳が出るようになったという悲しい話も聞くことが出来ました。

  • この淵も元々は何もないところへ水を引いてきたそうです。その工事を手伝うことでその日1日の食べ物が得られたそうです。おじさんによると「長い者には巻かれろ。という言葉があるが、長い者とは長者のことです。」貧しい人は逆らうことが出来なかったという言葉は重たかったです。

    この淵も元々は何もないところへ水を引いてきたそうです。その工事を手伝うことでその日1日の食べ物が得られたそうです。おじさんによると「長い者には巻かれろ。という言葉があるが、長い者とは長者のことです。」貧しい人は逆らうことが出来なかったという言葉は重たかったです。

  • 遠野の安倍屋敷(阿部屋敷)は土淵町土淵にある平城(館)で、別名は屯館(とんだて)とも言いました。「遠野物語」第68話にも「安倍氏という家ありて貞任の末なりと云う」と言うくだりで登場しています。天喜、康平年間の1050年頃から構えていた屋敷で、豪壮な直屋の母屋には数十名の家族が住み、土塁と塀に囲まれていました。八幡座舘の八幡太郎の軍と小烏瀬川を挟んで矢を撃ち合ったと伝えられる的場跡もあります。現在はごらんの通りの空き地のままでした。<br /><br />陸奥六郡に威勢を誇った奥州安倍氏の一族の屋敷とされます。

    遠野の安倍屋敷(阿部屋敷)は土淵町土淵にある平城(館)で、別名は屯館(とんだて)とも言いました。「遠野物語」第68話にも「安倍氏という家ありて貞任の末なりと云う」と言うくだりで登場しています。天喜、康平年間の1050年頃から構えていた屋敷で、豪壮な直屋の母屋には数十名の家族が住み、土塁と塀に囲まれていました。八幡座舘の八幡太郎の軍と小烏瀬川を挟んで矢を撃ち合ったと伝えられる的場跡もあります。現在はごらんの通りの空き地のままでした。

    陸奥六郡に威勢を誇った奥州安倍氏の一族の屋敷とされます。

    安倍屋敷跡 名所・史跡

  • かっぱおじさんは「語り部の語る物語は飢える事の無かった人たちの「昔話」で、自分の話しは飢えていた民(たみ)の「民話」で、内容は似ていても同じものではない。」という言葉を聞くと、改めて遠野まで来て良かったなと感じました。

    かっぱおじさんは「語り部の語る物語は飢える事の無かった人たちの「昔話」で、自分の話しは飢えていた民(たみ)の「民話」で、内容は似ていても同じものではない。」という言葉を聞くと、改めて遠野まで来て良かったなと感じました。

  • 岩手県の山間部にはマンサードと呼ばれる屋根の農家がたくさん見られます。元々はスイスに起源のある建築様式ですが、遠野の気候にも合致したのだと分かります。実際は税法上の優遇もあったのですが。

    岩手県の山間部にはマンサードと呼ばれる屋根の農家がたくさん見られます。元々はスイスに起源のある建築様式ですが、遠野の気候にも合致したのだと分かります。実際は税法上の優遇もあったのですが。

  • 分かりにくいですが妻は自分のコートの上に私のジャンパーを重ね着しています。その姿はちょっと太めのオシラサマのように見えます。

    分かりにくいですが妻は自分のコートの上に私のジャンパーを重ね着しています。その姿はちょっと太めのオシラサマのように見えます。

  • しかし11月上旬の遠野は紅葉が素晴らしかったです。

    しかし11月上旬の遠野は紅葉が素晴らしかったです。

  • 8月に予約した時は全く何も考えずにいましたが、もくろんでもここまでタイミングは合わないと思います。今年の旅は全て天気と景色に恵まれた旅だと思います。

    8月に予約した時は全く何も考えずにいましたが、もくろんでもここまでタイミングは合わないと思います。今年の旅は全て天気と景色に恵まれた旅だと思います。

  • がっぱ淵の散策の後は「伝承園」に戻ります。朝霧はだいぶ消えてきましたが、遠野にはこんな天気が似合っているようにも思えます。

    がっぱ淵の散策の後は「伝承園」に戻ります。朝霧はだいぶ消えてきましたが、遠野にはこんな天気が似合っているようにも思えます。

  • 今度はホップの収穫前の季節にも来てみたいですが、やっぱりビールの出来上がる11月1日以降の方が良いかもしれません。

    今度はホップの収穫前の季節にも来てみたいですが、やっぱりビールの出来上がる11月1日以降の方が良いかもしれません。

  • ツアーはまだ始まったばかりですが、こういった歴史や文化を実感できるツアーはクラブツーリズムがスケジュールを作るのは上手だと思います。かっぱおじさんの案内で「伝承園」の見学に移ります。

    ツアーはまだ始まったばかりですが、こういった歴史や文化を実感できるツアーはクラブツーリズムがスケジュールを作るのは上手だと思います。かっぱおじさんの案内で「伝承園」の見学に移ります。

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2022平泉・花巻・遠野の旅

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