湯田中渋温泉郷・志賀高原旅行記(ブログ) 一覧に戻る
「岩松院」の参拝を終えるとドライバーさんの言う通りちょうど良い時間でした。ここからは「北斎館」の近くのバス停まで戻ります。結果的には2回しか乗りませんでしたが、「おぶせロマン号」というバスは便利でした。1日500円ですが、「岩松院」までタクシーで片道で1,200円くらいかかるということです。町中に戻って「栗の小路」に入ります。ここでその名前の意味が分かりました。栗の木の間伐材の小口出しのウッドブロックにして道路に敷いてあるのです。なるほど栗は水に強く、昔は縁側の板に使われていました。その小路の周囲もきれいに整備されていて気持ちよいです。町屋には「Welcome to My Garden」という板が掲げられ、オープンガーデンになっているので誰でも自由に見学することが出来ます。これはいくつも見ることが出来ましたし、店の中を通過できたり酒蔵の敷地を通り抜けることも出来ます。小布施の町が住民も含めて町おこしを成功した理由が分かった気がします。街中ではまず「高井鴻山記念館」の見学をします。元々邸宅だった建物が記念館になっていますが、初めて高井鴻山の作品や経歴について学びました。車では葛飾北斎を小布施に招いた人くらいの知識しかありませんでした。妻は勉強するとお腹が減るので、枡一酒造の経営する「蔵部」というおしゃれなレストランに入りました。もう午後1時になろうとしているのでお店は空いていました。テラス席が気持ち良さそうなので、そこに席を取りました。4月中旬とは言え信州の山の中でもポカポカの陽気で、25℃くらいにはなっていたと思います。ここでは地産の食材をふんだんに使った料理がいただけ、昨日の昼から今朝までのフラストレーションが全部吹き飛びました。お腹がいっぱいになった後は「北斎館」で小布施における葛飾北斎について学びました。豪華で見事な山車は見ごたえがありました。

トラピックス 高遠・松本城公園・上田城千本桜 春の信州桜の名所と名湯湯田中温泉3日間(4)美しい小布施で葛飾北斎と高井鴻山について学ぶ。

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2022/04/12 - 2022/04/12

647位(同エリア1028件中)

kojikoji

kojikojiさん

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「岩松院」の参拝を終えるとドライバーさんの言う通りちょうど良い時間でした。ここからは「北斎館」の近くのバス停まで戻ります。結果的には2回しか乗りませんでしたが、「おぶせロマン号」というバスは便利でした。1日500円ですが、「岩松院」までタクシーで片道で1,200円くらいかかるということです。町中に戻って「栗の小路」に入ります。ここでその名前の意味が分かりました。栗の木の間伐材の小口出しのウッドブロックにして道路に敷いてあるのです。なるほど栗は水に強く、昔は縁側の板に使われていました。その小路の周囲もきれいに整備されていて気持ちよいです。町屋には「Welcome to My Garden」という板が掲げられ、オープンガーデンになっているので誰でも自由に見学することが出来ます。これはいくつも見ることが出来ましたし、店の中を通過できたり酒蔵の敷地を通り抜けることも出来ます。小布施の町が住民も含めて町おこしを成功した理由が分かった気がします。街中ではまず「高井鴻山記念館」の見学をします。元々邸宅だった建物が記念館になっていますが、初めて高井鴻山の作品や経歴について学びました。車では葛飾北斎を小布施に招いた人くらいの知識しかありませんでした。妻は勉強するとお腹が減るので、枡一酒造の経営する「蔵部」というおしゃれなレストランに入りました。もう午後1時になろうとしているのでお店は空いていました。テラス席が気持ち良さそうなので、そこに席を取りました。4月中旬とは言え信州の山の中でもポカポカの陽気で、25℃くらいにはなっていたと思います。ここでは地産の食材をふんだんに使った料理がいただけ、昨日の昼から今朝までのフラストレーションが全部吹き飛びました。お腹がいっぱいになった後は「北斎館」で小布施における葛飾北斎について学びました。豪華で見事な山車は見ごたえがありました。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
グルメ
4.5
ショッピング
4.5
交通
5.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
一人あたり費用
3万円 - 5万円
交通手段
高速・路線バス 観光バス 新幹線 私鉄 徒歩
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行なし)
利用旅行会社
阪急交通社

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  • 岩松院からバスに乗って、「北斎館入り口」まで戻りました。地図には「栗の小路」とあったので栗の木が植えられているのかと思っていましたが、床に敷かれたブロックが栗の木でした。

    岩松院からバスに乗って、「北斎館入り口」まで戻りました。地図には「栗の小路」とあったので栗の木が植えられているのかと思っていましたが、床に敷かれたブロックが栗の木でした。

  • 思い出されるのは上高地の帝国ホテルのエントランスの床です。ここも栗の丸太が床に敷かれてあります。建物の中なので乾燥して割れないように営業中は毎朝ジョウロで水を撒いています。

    思い出されるのは上高地の帝国ホテルのエントランスの床です。ここも栗の丸太が床に敷かれてあります。建物の中なので乾燥して割れないように営業中は毎朝ジョウロで水を撒いています。

  • 小布施の町を歩いていてよく見かけたのがこの「Welcome to My Garden」の看板で、自宅の庭を観光客に開放しているものです。

    小布施の町を歩いていてよく見かけたのがこの「Welcome to My Garden」の看板で、自宅の庭を観光客に開放しているものです。

  • 「おぶせオープンガーデン」という取り組みで、平成12年の2000年に38軒でスタートしたそうですが、現在は軽く100を超えているようです。<br /><br />「おぶせオープンガーデン」:https://obuse-opengarden.com/about<br />

    「おぶせオープンガーデン」という取り組みで、平成12年の2000年に38軒でスタートしたそうですが、現在は軽く100を超えているようです。

    「おぶせオープンガーデン」:https://obuse-opengarden.com/about

  • まずは「高井鴻山記念館」の見学からスタートします。ここでは「北斎館」と「おぶせミュージアム」の3館共通入場券を購入します。「おぶせミュージアム」には行く予定は無いので、3館入城しないと割引の恩恵にはあずかれません。

    まずは「高井鴻山記念館」の見学からスタートします。ここでは「北斎館」と「おぶせミュージアム」の3館共通入場券を購入します。「おぶせミュージアム」には行く予定は無いので、3館入城しないと割引の恩恵にはあずかれません。

    髙井鴻山記念館 美術館・博物館

  • ここへ来るまでは葛飾北斎を小布施に招いたくらいの知識しかありませんでした。高井鴻山は信濃国高井郡小布施村(幕府領・松代藩)の豪農商の高井家十代目の4男に生まれています。鴻山の祖父で8代目作左衛門が天明の大飢饉時に倉を開放して、その巨万の富を困窮者の救済に当てました。それが幕府に認められ、高井郡に由来する「高井」の苗字と帯刀を許可されます。商売は信州から江戸、京阪北陸から瀬戸内まで及びます。

    ここへ来るまでは葛飾北斎を小布施に招いたくらいの知識しかありませんでした。高井鴻山は信濃国高井郡小布施村(幕府領・松代藩)の豪農商の高井家十代目の4男に生まれています。鴻山の祖父で8代目作左衛門が天明の大飢饉時に倉を開放して、その巨万の富を困窮者の救済に当てました。それが幕府に認められ、高井郡に由来する「高井」の苗字と帯刀を許可されます。商売は信州から江戸、京阪北陸から瀬戸内まで及びます。

  • 天保11年の1840年に父の熊太郎が病死すると鴻山が当主となりましたが、経営や理財は全く不得意だったようです。天保13年の1842年の秋に北斎は初めて小布施の鴻山のもとを訪れました。鴻山37歳で北斎は83歳でした。このとき鴻山は北斎の卓越した画才を見抜き、自宅に「碧漪軒」というアトリエを建てて厚遇し、北斎に入門しました。北斎はこの時1年余りも鴻山邸に滞在したそうです。弘化5年の1848年に89歳の北斎は4度目の小布施来訪時に先ほど見てきた「岩松院」の天井絵を完成させます。

    天保11年の1840年に父の熊太郎が病死すると鴻山が当主となりましたが、経営や理財は全く不得意だったようです。天保13年の1842年の秋に北斎は初めて小布施の鴻山のもとを訪れました。鴻山37歳で北斎は83歳でした。このとき鴻山は北斎の卓越した画才を見抜き、自宅に「碧漪軒」というアトリエを建てて厚遇し、北斎に入門しました。北斎はこの時1年余りも鴻山邸に滞在したそうです。弘化5年の1848年に89歳の北斎は4度目の小布施来訪時に先ほど見てきた「岩松院」の天井絵を完成させます。

  • 「文庫蔵」は鴻山の収書が納められていましたが、明治11年の火災やその他の事情で一部を残して散逸しています。現在は鴻山の作品や文物の収蔵庫になっていました。残念ながら収蔵庫は撮影が出来ませんでした。作品集を買うまでではなかったので絵葉書を数枚買い求めました。

    「文庫蔵」は鴻山の収書が納められていましたが、明治11年の火災やその他の事情で一部を残して散逸しています。現在は鴻山の作品や文物の収蔵庫になっていました。残念ながら収蔵庫は撮影が出来ませんでした。作品集を買うまでではなかったので絵葉書を数枚買い求めました。

  • 鴻山自身も15歳だった文政3年の1820年から京都へ遊学し、以降16年にわたって書を貫名海屋に、絵画を岸派の岸駒と岸岱の親子と浮世絵師の横山上龍に、国学と和歌を本居宣長派の城戸千楯(きどちたて)に、儒学と漢詩は摩島松南に師事しています。

    鴻山自身も15歳だった文政3年の1820年から京都へ遊学し、以降16年にわたって書を貫名海屋に、絵画を岸派の岸駒と岸岱の親子と浮世絵師の横山上龍に、国学と和歌を本居宣長派の城戸千楯(きどちたて)に、儒学と漢詩は摩島松南に師事しています。

  • 「象と唐人図」は北斎の下絵をもとに鴻山が描き上げた傑作です。北斎が小布施滞在によって実現した作品の1つで、大きな四曲屏風を目の前にすると感慨深いものがありました。

    「象と唐人図」は北斎の下絵をもとに鴻山が描き上げた傑作です。北斎が小布施滞在によって実現した作品の1つで、大きな四曲屏風を目の前にすると感慨深いものがありました。

  • 「群舞妖怪図」妖怪が優雅に踊りながら天から舞い降りているようです。鴻山の描く妖怪は人を脅かすような不気味な者ではなく、酒を飲み交わし囲碁を打つなど、人と変わらない様子が描かれています。

    「群舞妖怪図」妖怪が優雅に踊りながら天から舞い降りているようです。鴻山の描く妖怪は人を脅かすような不気味な者ではなく、酒を飲み交わし囲碁を打つなど、人と変わらない様子が描かれています。

  • 若い頃から岸派や浮世絵の第一人者を師匠とし、数々の画を描き続けてきた鴻山が妖怪画に没頭したのはなぜかが気になります。残された漢詩などから、鴻山の心の中には政情や自らの境遇、そして志半ばで夭折した者たちへの深い思いなどが複雑に交錯していた様子が窺えるようです。それを乗り越えて、さらに宗教的な有霊感を加え“万物の魂”を描こうとしたのではないかと考えられているようです。

    若い頃から岸派や浮世絵の第一人者を師匠とし、数々の画を描き続けてきた鴻山が妖怪画に没頭したのはなぜかが気になります。残された漢詩などから、鴻山の心の中には政情や自らの境遇、そして志半ばで夭折した者たちへの深い思いなどが複雑に交錯していた様子が窺えるようです。それを乗り越えて、さらに宗教的な有霊感を加え“万物の魂”を描こうとしたのではないかと考えられているようです。

  • 鴻山は絵画については花鳥画や山水画や人物画を得意としていたようですが、特筆すべきは晩年の北斎の影響が大きい妖怪画の数々であるようです。北斎のアトリエと言われる離れの「碧漪軒(へきいけん)」は絵を描くには狭いような気がします。

    鴻山は絵画については花鳥画や山水画や人物画を得意としていたようですが、特筆すべきは晩年の北斎の影響が大きい妖怪画の数々であるようです。北斎のアトリエと言われる離れの「碧漪軒(へきいけん)」は絵を描くには狭いような気がします。

  • 先日中野区にある「哲学堂」で井上円了の哲学世界を学ぶ中で「妖怪学」「妖怪学講義」などでそれぞれの妖怪について知る機会がありました。円了は当時の科学では解明できない妖怪を「真怪」、自然現象によって実際に発生する妖怪を「仮怪」、誤認や恐怖感など心理的要因によって生まれてくる妖怪を「誤怪」、人が人為的に引き起こした妖怪を「偽怪」と分類しました。そんなことを思い出しながら見学を続けます。

    先日中野区にある「哲学堂」で井上円了の哲学世界を学ぶ中で「妖怪学」「妖怪学講義」などでそれぞれの妖怪について知る機会がありました。円了は当時の科学では解明できない妖怪を「真怪」、自然現象によって実際に発生する妖怪を「仮怪」、誤認や恐怖感など心理的要因によって生まれてくる妖怪を「誤怪」、人が人為的に引き起こした妖怪を「偽怪」と分類しました。そんなことを思い出しながら見学を続けます。

  • 「文庫蔵」に続く「悠然楼」に移ります。この建物は鴻山の祖父の時代に建てられたものと伝えられ鴻山は「悠然楼」と名付けて書斎として使用しました。「悠然」とは「物事にとらわれず思いのままに進退する」という意味で、中国の明時代の文人である陳文燭の書斎「悠然亭」にあやかったようです。

    「文庫蔵」に続く「悠然楼」に移ります。この建物は鴻山の祖父の時代に建てられたものと伝えられ鴻山は「悠然楼」と名付けて書斎として使用しました。「悠然」とは「物事にとらわれず思いのままに進退する」という意味で、中国の明時代の文人である陳文燭の書斎「悠然亭」にあやかったようです。

  • 板戸の奥には2階へ上がる箱階段がありました。実際に2階に上がることが出来るのが嬉しいです。

    板戸の奥には2階へ上がる箱階段がありました。実際に2階に上がることが出来るのが嬉しいです。

  • 2階には2間続く8畳間があります。華美ではありませんが、幕府領の中での豪商の屋敷らしい京風建築の趣を感じました。

    2階には2間続く8畳間があります。華美ではありませんが、幕府領の中での豪商の屋敷らしい京風建築の趣を感じました。

  • 奥座敷には鴻山が愛用した火鉢が置かれてありました。この「悠然楼」には幕末から真にかけて多くの志士が訪れたようです。佐久間象山は月に何度も訪ねたようで、火鉢を挟んで対座して激論を交わしたそうです。熱すると相寄り相接して火鉢を押したために畳が擦り切れたそうです。

    奥座敷には鴻山が愛用した火鉢が置かれてありました。この「悠然楼」には幕末から真にかけて多くの志士が訪れたようです。佐久間象山は月に何度も訪ねたようで、火鉢を挟んで対座して激論を交わしたそうです。熱すると相寄り相接して火鉢を押したために畳が擦り切れたそうです。

  • 湯島の昌平黌の佐藤一斎に朱子学を学び、佐藤一斎門下の佐久間象山や大塩平八郎らとも交流を持ち、鴻山も攘夷論や公武合体論を説いたようです。それだけの人物でありながら歴史に埋もれた人物のように思えました。

    湯島の昌平黌の佐藤一斎に朱子学を学び、佐藤一斎門下の佐久間象山や大塩平八郎らとも交流を持ち、鴻山も攘夷論や公武合体論を説いたようです。それだけの人物でありながら歴史に埋もれた人物のように思えました。

  • 額には鴻山直筆の書「悠然楼」の文字が読み取れます。

    額には鴻山直筆の書「悠然楼」の文字が読み取れます。

  • 座敷の畳は京間の大きなものですが、それに対して外廊下の幅が狭いように感じます。解放された明るい雨戸開口の先の暗さを見ると谷崎潤一郎の説く「陰影礼賛」という言葉とともに、子供の頃に母の実家である京都の古い家の廊下の奥の暗さに感じた何かを思い出しました。

    座敷の畳は京間の大きなものですが、それに対して外廊下の幅が狭いように感じます。解放された明るい雨戸開口の先の暗さを見ると谷崎潤一郎の説く「陰影礼賛」という言葉とともに、子供の頃に母の実家である京都の古い家の廊下の奥の暗さに感じた何かを思い出しました。

  • 村南の祥雲寺、蕭条(しょうじょう)として市の喧しき絶え、年を経て堂宇古り、柯を交えて喬木繁る、寺の後ろに墳塋(ふんけい)列なり、累累として古きに新しきを間る、萬籟の響わずかに絶え、悲鳴して野禽翻る、嘆息す周年の間、子を失い又孫を失う、水を汲み香花を供え、老眼涙潜然たり、知らず今より後、幾年にわが身を埋むる、人生は幻夢のみ、誰か能く永存を期せん<br />七月十五日祥雲寺に詣で展墓するに感有<br />鴻山

    村南の祥雲寺、蕭条(しょうじょう)として市の喧しき絶え、年を経て堂宇古り、柯を交えて喬木繁る、寺の後ろに墳塋(ふんけい)列なり、累累として古きに新しきを間る、萬籟の響わずかに絶え、悲鳴して野禽翻る、嘆息す周年の間、子を失い又孫を失う、水を汲み香花を供え、老眼涙潜然たり、知らず今より後、幾年にわが身を埋むる、人生は幻夢のみ、誰か能く永存を期せん
    七月十五日祥雲寺に詣で展墓するに感有
    鴻山

  • 祥雲寺には高井鴻山の墓があると聞いています。祥雲寺の情景や先祖累々の墓の前で老いた自分の心情を読んだのだと思われますが、自分の心情に重なることもあり身につまされる気がしました。

    祥雲寺には高井鴻山の墓があると聞いています。祥雲寺の情景や先祖累々の墓の前で老いた自分の心情を読んだのだと思われますが、自分の心情に重なることもあり身につまされる気がしました。

  • 床の間の漆喰の下には鴻山の描いた反故紙(ほごし)が残っているようです。現在でも「約束を反故にする」などと使われますが、不要になった古い紙のことです。昔は紙などを捨てることは無く、こうやって建物の下地に使ったり、襖や屏風などの下貼りに使われました。

    床の間の漆喰の下には鴻山の描いた反故紙(ほごし)が残っているようです。現在でも「約束を反故にする」などと使われますが、不要になった古い紙のことです。昔は紙などを捨てることは無く、こうやって建物の下地に使ったり、襖や屏風などの下貼りに使われました。

  • 一見価値のない古い襖や屏風にも価値が生まれることがあるわけです。骨董品を買い求めても箱の中の梱包に使われている古い紙や新聞紙でも捨ててはいけないと教わったことがあります。

    一見価値のない古い襖や屏風にも価値が生まれることがあるわけです。骨董品を買い求めても箱の中の梱包に使われている古い紙や新聞紙でも捨ててはいけないと教わったことがあります。

  • フランスの版画家であるフェリックス・ブラックモンが、陶磁器の緩衝材として用いられていた「北斎漫画」をたまたま発見し、浮世絵の魅力を仲間たちに伝えたことをきっかけとして、「ジャポニスム」と呼ばれる日本美術ブームがヨーロッパで始まった話しを思い出しました。この話を北斎にゆかりのある小布施で思い出すとは思いませんでした。

    フランスの版画家であるフェリックス・ブラックモンが、陶磁器の緩衝材として用いられていた「北斎漫画」をたまたま発見し、浮世絵の魅力を仲間たちに伝えたことをきっかけとして、「ジャポニスム」と呼ばれる日本美術ブームがヨーロッパで始まった話しを思い出しました。この話を北斎にゆかりのある小布施で思い出すとは思いませんでした。

  • 大人の休日~長野県小布施町 千曲川「桜堤」のポスターが貼ってありました。このポスターは小布施近くの千曲川堤防上の全長4キロにわたる600本の八重桜「一葉」です。この品種の八重桜は遅咲きで、毎年ゴールデンウィーク頃に見頃を迎えるそうです。前日の小布施パーキングエリアの休憩時に千曲川を眺めましたが、桜は全く咲いていなかったので諦めていました。

    大人の休日~長野県小布施町 千曲川「桜堤」のポスターが貼ってありました。このポスターは小布施近くの千曲川堤防上の全長4キロにわたる600本の八重桜「一葉」です。この品種の八重桜は遅咲きで、毎年ゴールデンウィーク頃に見頃を迎えるそうです。前日の小布施パーキングエリアの休憩時に千曲川を眺めましたが、桜は全く咲いていなかったので諦めていました。

  • 「穀蔵」と「屋台蔵」は展示室になっていましたが、ここも撮影は出来ませんでした。この後に「北斎館」で見る北斎の波濤図の天井画で有名な祭り屋台はここに納められていたそうです。<br />栗の小路に戻って「北斎館」に向かって歩きます。

    「穀蔵」と「屋台蔵」は展示室になっていましたが、ここも撮影は出来ませんでした。この後に「北斎館」で見る北斎の波濤図の天井画で有名な祭り屋台はここに納められていたそうです。
    栗の小路に戻って「北斎館」に向かって歩きます。

  • 長野県で一番面積の小さな市町村である小布施町は、県の北東に位置する人口およそ1万1000人で、かつて一次産業中心の過疎化に悩むよくある町のひとつにすぎなかったそうです。それが年間110万人を超える観光客が訪れる観光地として脚光を浴びている理由が分かった気がします。

    長野県で一番面積の小さな市町村である小布施町は、県の北東に位置する人口およそ1万1000人で、かつて一次産業中心の過疎化に悩むよくある町のひとつにすぎなかったそうです。それが年間110万人を超える観光客が訪れる観光地として脚光を浴びている理由が分かった気がします。

  • こんな山の中ですがシャクナゲが満開に咲いていました。奈良の室生寺でも4月中旬から5月にかけてなので、同じような気候なのでしょうか。こちらの方が断然寒い地域だと思うのですが。

    こんな山の中ですがシャクナゲが満開に咲いていました。奈良の室生寺でも4月中旬から5月にかけてなので、同じような気候なのでしょうか。こちらの方が断然寒い地域だと思うのですが。

  • 栗の小路を抜けると急に広い広場に出ました。遠くには北信五岳も望めます。「北斎館」に行こうとしますが、妻に呼び止められます。

    栗の小路を抜けると急に広い広場に出ました。遠くには北信五岳も望めます。「北斎館」に行こうとしますが、妻に呼び止められます。

  • 妻の目的はどちらかというと美味しいものを食べる事なのでお昼にすることにします。すでに午後1時前になっていました。

    妻の目的はどちらかというと美味しいものを食べる事なのでお昼にすることにします。すでに午後1時前になっていました。

    小布施 寄り付き料理 蔵部 グルメ・レストラン

    長野県産の食材をふんだんに使った美味しい料理が食べられます。 by kojikojiさん
  • 事前に調べてあった「寄り付き料理 蔵部」というレストランに入ります。席に案内される前にセンスの良さに感心します。並んだ阪瓶のラベルは一目で枡一を意味するのだろうと思いました。江戸時代から酒蔵で働く蔵人たちが寄り合い、冬の期間に寝泊まりをしながら酒を造り、休息し食事をする「寄り付き場」であったことからこの店名になったそうです。

    事前に調べてあった「寄り付き料理 蔵部」というレストランに入ります。席に案内される前にセンスの良さに感心します。並んだ阪瓶のラベルは一目で枡一を意味するのだろうと思いました。江戸時代から酒蔵で働く蔵人たちが寄り合い、冬の期間に寝泊まりをしながら酒を造り、休息し食事をする「寄り付き場」であったことからこの店名になったそうです。

  • 店内はお昼のピークを過ぎてガラガラでしたが、天気も良くポカポカ陽気なので表のテラス席にしていただきました。

    店内はお昼のピークを過ぎてガラガラでしたが、天気も良くポカポカ陽気なので表のテラス席にしていただきました。

  • まずは喉が渇いたので生ビールと粗しぼりレモンサワーをお願いしました。昨日は松本で信じられないような不味いものを食べてしまったのでこの日のお昼は期待していました。ここで美味しいものを食べられないと残念な旅になってしまいそうな気がします。

    まずは喉が渇いたので生ビールと粗しぼりレモンサワーをお願いしました。昨日は松本で信じられないような不味いものを食べてしまったのでこの日のお昼は期待していました。ここで美味しいものを食べられないと残念な旅になってしまいそうな気がします。

  • こちらは「特製とろろご飯 前菜3種盛り」です。お酒を注文したので前菜を先に出してご飯は後にしてくださいました。そんな心遣いだけでも前日の嫌な思い出が消えていくようです。こちらは左から上州鶏の真田丸のサラダ、ジャガイモの黒胡麻和えと信州の高野豆腐と蕪の含ませ煮です。

    こちらは「特製とろろご飯 前菜3種盛り」です。お酒を注文したので前菜を先に出してご飯は後にしてくださいました。そんな心遣いだけでも前日の嫌な思い出が消えていくようです。こちらは左から上州鶏の真田丸のサラダ、ジャガイモの黒胡麻和えと信州の高野豆腐と蕪の含ませ煮です。

  • 妻は「前菜8種盛り 羽釜イワナとキノコの炊き込みご飯」のセットです。料理は左上から信州の高野豆腐と蕪の含ませ煮で、一度素揚げしています。右に行って里芋のから揚げ、生野菜はコウシュウ大根と蕪とトマト、中段はインゲン豆の黒胡麻あえ、鰊の甘露煮と茄子の煮びたし、下段が緑大豆の豆腐と醬油豆、上州鶏の真田丸のタタキと信州産の紅ハルカ。どれもこだわりがあって美味しいです。

    妻は「前菜8種盛り 羽釜イワナとキノコの炊き込みご飯」のセットです。料理は左上から信州の高野豆腐と蕪の含ませ煮で、一度素揚げしています。右に行って里芋のから揚げ、生野菜はコウシュウ大根と蕪とトマト、中段はインゲン豆の黒胡麻あえ、鰊の甘露煮と茄子の煮びたし、下段が緑大豆の豆腐と醬油豆、上州鶏の真田丸のタタキと信州産の紅ハルカ。どれもこだわりがあって美味しいです。

  • 特製とろろご飯のとろろも粘りがあって、お出汁も効いていて美味しかったです。白ご飯も羽釜で炊かれていて、こちらはおかわりも出来ます。この具だくさんの味噌汁も美味しかったです。

    特製とろろご飯のとろろも粘りがあって、お出汁も効いていて美味しかったです。白ご飯も羽釜で炊かれていて、こちらはおかわりも出来ます。この具だくさんの味噌汁も美味しかったです。

  • 「信州大王イワナ」は刺し身でも食べられるイワナで、白く透き通りクセがなく、優しい味わいが特徴だそうです。この店で使用している「大王イワナ」は佐久穂町の清流で育まれたものが毎朝直送されるそうです。

    「信州大王イワナ」は刺し身でも食べられるイワナで、白く透き通りクセがなく、優しい味わいが特徴だそうです。この店で使用している「大王イワナ」は佐久穂町の清流で育まれたものが毎朝直送されるそうです。

  • 自慢のイワナの炊き込みごはんはイワナの骨で出汁をとり、薪による強い火力で出汁とともに羽釜で炊き上げるそうです。オープンキッチンでは白ご飯も羽釜で炊かれていました。

    自慢のイワナの炊き込みごはんはイワナの骨で出汁をとり、薪による強い火力で出汁とともに羽釜で炊き上げるそうです。オープンキッチンでは白ご飯も羽釜で炊かれていました。

  • 店内の席も雰囲気が良かったです。平日の午後2時では我々以外にはほとんどお客さんはいませんでした。

    店内の席も雰囲気が良かったです。平日の午後2時では我々以外にはほとんどお客さんはいませんでした。

  • オープンキッチンにはしめ飾りがありました。かまど神や水神などの神様を祀っているのだと分かります。経営されている酒蔵の「枡一」に倣ったのではないかと感じました。

    オープンキッチンにはしめ飾りがありました。かまど神や水神などの神様を祀っているのだと分かります。経営されている酒蔵の「枡一」に倣ったのではないかと感じました。

  • ようやく「北斎館」の見学が出来ます。葛飾北斎は武蔵国葛飾郡本所割下水(現在の東京都墨田区の一角)に生まれていますが、生涯に93回に上るとされる転居の多さで有名です。1日に3回引っ越したこともあり、75歳の時には既に56回に達していたそうです。当時の人名録「広益諸家人名録」の付録では「居所不定」と記されていたそうです。北斎が転居を繰り返したのは、彼自身と離縁して父のもとに出戻った娘のお栄(葛飾応為)とが、絵を描くことのみに集中し、部屋が荒れたり汚れたりするたびに引っ越していたからだそうです。そう考えると先ほど見た「碧漪軒」はきれいに片付いていました。

    ようやく「北斎館」の見学が出来ます。葛飾北斎は武蔵国葛飾郡本所割下水(現在の東京都墨田区の一角)に生まれていますが、生涯に93回に上るとされる転居の多さで有名です。1日に3回引っ越したこともあり、75歳の時には既に56回に達していたそうです。当時の人名録「広益諸家人名録」の付録では「居所不定」と記されていたそうです。北斎が転居を繰り返したのは、彼自身と離縁して父のもとに出戻った娘のお栄(葛飾応為)とが、絵を描くことのみに集中し、部屋が荒れたり汚れたりするたびに引っ越していたからだそうです。そう考えると先ほど見た「碧漪軒」はきれいに片付いていました。

    北斎館 美術館・博物館

  • また北斎は生涯に30回と頻繁に改号していました。使用した号は「勝川春朗」「群馬亭」「北斎」「俵屋宗理」「可侯」「辰斎」「辰政(ときまさ)」「百琳」「雷斗」「戴斗」「不染居」「錦袋舎」「為一」「画狂人」「九々蜃」「雷辰」「画狂老人」「天狗堂熱鉄」「鏡裏庵梅年」「月痴老人」「卍」「是和斎」「三浦屋八右衛門」「百姓八右衛門」「土持仁三郎」「魚仏」「穿山甲」などと、それらの組み合わせです。北斎研究家によると「春朗」「宗理」「北斎」「戴斗」「為一」「卍」が主たる号であり、それ以外の「画狂人」などは副次的な号とされるようです。

    また北斎は生涯に30回と頻繁に改号していました。使用した号は「勝川春朗」「群馬亭」「北斎」「俵屋宗理」「可侯」「辰斎」「辰政(ときまさ)」「百琳」「雷斗」「戴斗」「不染居」「錦袋舎」「為一」「画狂人」「九々蜃」「雷辰」「画狂老人」「天狗堂熱鉄」「鏡裏庵梅年」「月痴老人」「卍」「是和斎」「三浦屋八右衛門」「百姓八右衛門」「土持仁三郎」「魚仏」「穿山甲」などと、それらの組み合わせです。北斎研究家によると「春朗」「宗理」「北斎」「戴斗」「為一」「卍」が主たる号であり、それ以外の「画狂人」などは副次的な号とされるようです。

  • 浮世絵以外にも挿絵画家としても活躍しました。数多くの戯作の挿絵を手がけましたが、作者の提示した下絵の通りに絵を描かなかったために作者と衝突を繰り返していたそうです。数ある号の1つ「葛飾北斎」を名乗っていたのは戯作者の曲亭馬琴とコンビを組んだ一時期で、その間に「新編水滸画伝」「近世怪談霜夜之星」「椿説弓張月」などの作品を発表し、馬琴とともにその名を一躍不動のものとしました。読み物のおまけ程度の扱いだった挿絵の評価を引き上げた人物と言われます。

    浮世絵以外にも挿絵画家としても活躍しました。数多くの戯作の挿絵を手がけましたが、作者の提示した下絵の通りに絵を描かなかったために作者と衝突を繰り返していたそうです。数ある号の1つ「葛飾北斎」を名乗っていたのは戯作者の曲亭馬琴とコンビを組んだ一時期で、その間に「新編水滸画伝」「近世怪談霜夜之星」「椿説弓張月」などの作品を発表し、馬琴とともにその名を一躍不動のものとしました。読み物のおまけ程度の扱いだった挿絵の評価を引き上げた人物と言われます。

  • 小学生の頃に「神奈川沖浪裏」をどうしても完全に模写したくて考えました。トレーシングペーパーに1センチのグリッドを書いて、それを重ねてほぼ完全に写し取りました。家でその作業をしているときに図工の授業で全く同じ課題が出ました。先生にお願いしてそのまま作業を続けて提出しました。我ながら良い出来栄えで、長年小学校の校長室に飾ってあったと母から聞いたことがあります。北斎へのリスペクトとして舟に乗る人物を1名少なく描きました。

    小学生の頃に「神奈川沖浪裏」をどうしても完全に模写したくて考えました。トレーシングペーパーに1センチのグリッドを書いて、それを重ねてほぼ完全に写し取りました。家でその作業をしているときに図工の授業で全く同じ課題が出ました。先生にお願いしてそのまま作業を続けて提出しました。我ながら良い出来栄えで、長年小学校の校長室に飾ってあったと母から聞いたことがあります。北斎へのリスペクトとして舟に乗る人物を1名少なく描きました。

  • 「和州吉野義経馬洗滝」<br />馬洗滝は吉野(奈良県吉野町)の高滝とする見解もあるようですが名瀑としては利かない名前です。北斎は源義経が馬を洗ったという伝説にちなんで、画中に馬を洗う2人の男を描き入れているのでしょう。

    「和州吉野義経馬洗滝」
    馬洗滝は吉野(奈良県吉野町)の高滝とする見解もあるようですが名瀑としては利かない名前です。北斎は源義経が馬を洗ったという伝説にちなんで、画中に馬を洗う2人の男を描き入れているのでしょう。

  • ほんの数日前に吉野へ花見に行ったことと、源義経と吉野山についての物語を久し振りに思い出したからです。「壇ノ浦の戦い」(1185年)で平氏を滅ぼした源義経は最大の功労者となるはずでしたが兄の頼朝と不和になり、京都から追われる身になります。大物浦から海に出て西国へ逃れようとしますが、暴風雨で吹き戻され、天王寺を経由してたどり着いたのが吉野山でした。「吉水神社」は義経一行を5日間かくまったといわれ、「勝手神社」の境内では静御前が舞ったと伝えられます。

    ほんの数日前に吉野へ花見に行ったことと、源義経と吉野山についての物語を久し振りに思い出したからです。「壇ノ浦の戦い」(1185年)で平氏を滅ぼした源義経は最大の功労者となるはずでしたが兄の頼朝と不和になり、京都から追われる身になります。大物浦から海に出て西国へ逃れようとしますが、暴風雨で吹き戻され、天王寺を経由してたどり着いたのが吉野山でした。「吉水神社」は義経一行を5日間かくまったといわれ、「勝手神社」の境内では静御前が舞ったと伝えられます。

  • 「神奈川沖浪裏」の製作順序が1版ごとに11版の工程が展示されていました。これも興味深く見ることが出来ました。

    「神奈川沖浪裏」の製作順序が1版ごとに11版の工程が展示されていました。これも興味深く見ることが出来ました。

  • 「富嶽と徐福」藤原裕則筆<br />紀元前3世紀半ばに秦の始皇帝の命を受け、徐福が蓬莱の島である日本へ不老長寿の薬を求めて来たという故事に基づいた作品です。徐福が富士山を見て驚愕する様子が描かれています。

    「富嶽と徐福」藤原裕則筆
    紀元前3世紀半ばに秦の始皇帝の命を受け、徐福が蓬莱の島である日本へ不老長寿の薬を求めて来たという故事に基づいた作品です。徐福が富士山を見て驚愕する様子が描かれています。

  • 「寿老人」不染居北斎老人画<br />長寿と幸福をもたらすとされている寿老人を神仙思想を表すにふさわしい色使いで描いています。

    「寿老人」不染居北斎老人画
    長寿と幸福をもたらすとされている寿老人を神仙思想を表すにふさわしい色使いで描いています。

  • 「金札と面」画狂人北斎筆<br />金札と書かれた札とお面は能の演目「金札」から題材を得ています。物語の内容は桓武天皇が平安京造営の頃にさかのぼります。京都の伏見に住む天太玉命(あめのふとだまのみこと)が長く国を護るという伝説に基づいています。

    「金札と面」画狂人北斎筆
    金札と書かれた札とお面は能の演目「金札」から題材を得ています。物語の内容は桓武天皇が平安京造営の頃にさかのぼります。京都の伏見に住む天太玉命(あめのふとだまのみこと)が長く国を護るという伝説に基づいています。

  • 「八朔大夫(はっさくだゆうう)」葛飾北斎<br />吉原の遊郭では旧暦の8月1日(八朔の日)に白無垢を着た花魁が練り歩く行事が行われていました。真っ白な着物に真っ赤な鶴丸の帯を締め、堂々と佇む美女が描かれています。

    「八朔大夫(はっさくだゆうう)」葛飾北斎
    吉原の遊郭では旧暦の8月1日(八朔の日)に白無垢を着た花魁が練り歩く行事が行われていました。真っ白な着物に真っ赤な鶴丸の帯を締め、堂々と佇む美女が描かれています。

  • 「二美人」画狂人北斎画<br />豪華な着物に身を包んだ美しい遊女の1人はかんざしを直し、もう1人は髪を結わずにリラックスした姿で座っています。店に出る前の寛いだ時間を描いたものでしょう。2人の着物には桜や雲に鶴、松の鶴といった縁起の良い柄が描かれ、すらりと伸びる袖や打掛の表現から生地の柔らかさも伝わってきます。

    「二美人」画狂人北斎画
    豪華な着物に身を包んだ美しい遊女の1人はかんざしを直し、もう1人は髪を結わずにリラックスした姿で座っています。店に出る前の寛いだ時間を描いたものでしょう。2人の着物には桜や雲に鶴、松の鶴といった縁起の良い柄が描かれ、すらりと伸びる袖や打掛の表現から生地の柔らかさも伝わってきます。

  • 「桜下太夫立姿」蹄斎北馬<br />蹄斎北馬は北斎の弟子で、美人画や風俗画などを多く描きました。この作品は桜の木の下で移ろう太夫を描いています。帯の鯉や裾の立ち雛の表現も美しいです。<br />

    「桜下太夫立姿」蹄斎北馬
    蹄斎北馬は北斎の弟子で、美人画や風俗画などを多く描きました。この作品は桜の木の下で移ろう太夫を描いています。帯の鯉や裾の立ち雛の表現も美しいです。

  • 「月下美人図」蹄斎北馬<br />黒い屏風を背景にして上品な着物を着た美人が胸を押さえた姿で描かれています。表情はどこか不安げなようにも感じ取れます。

    「月下美人図」蹄斎北馬
    黒い屏風を背景にして上品な着物を着た美人が胸を押さえた姿で描かれています。表情はどこか不安げなようにも感じ取れます。

  • 「梅下の鶴」宗理筆<br />5羽の鶴が梅の木の下で以降姿を描いています。初代俵屋宗理の作品で、彼は尾形光琳らによって確立された「琳派」の様式に触発された絵師です。その初代宗理を継いだ2台目宗理が若かったころの北斎です。鶴を2羽で描くときは右側の鶴の口は開いていて左側の鶴は口を閉じた姿で描きます。阿(あ)と吽(うん)で描かれ、阿は生命の誕生を、吽は死ぬ時を表しているともいわれます。

    「梅下の鶴」宗理筆
    5羽の鶴が梅の木の下で以降姿を描いています。初代俵屋宗理の作品で、彼は尾形光琳らによって確立された「琳派」の様式に触発された絵師です。その初代宗理を継いだ2台目宗理が若かったころの北斎です。鶴を2羽で描くときは右側の鶴の口は開いていて左側の鶴は口を閉じた姿で描きます。阿(あ)と吽(うん)で描かれ、阿は生命の誕生を、吽は死ぬ時を表しているともいわれます。

  • 「巌上の大鷲」画狂老人卍筆<br />険しい岩の上に立つ大鷲は鋭い嘴に大きな翼、たくましい脚、鋭い爪を持ち、堂々とした体格で大空を睨んでいます。

    「巌上の大鷲」画狂老人卍筆
    険しい岩の上に立つ大鷲は鋭い嘴に大きな翼、たくましい脚、鋭い爪を持ち、堂々とした体格で大空を睨んでいます。

  • 天保五年の1834年に75歳となった北斎は「富嶽百景」初編にて、最後の画号となる「画狂老人卍」を用いました。北斎は本書巻末に「長寿を得て百数十歳に至れば一点一格が生きるがごとき絵を描けることだろう」と記しています。

    天保五年の1834年に75歳となった北斎は「富嶽百景」初編にて、最後の画号となる「画狂老人卍」を用いました。北斎は本書巻末に「長寿を得て百数十歳に至れば一点一格が生きるがごとき絵を描けることだろう」と記しています。

  • 「偉大なる軍鶏」無銘(葛飾北斎)<br />闘鶏の軍鶏を描いた作品です。睨みつけるような視線が軍鶏の闘争心の強さを感じさせます。まっすぐに伸びた脚や鋭くとがった爪からも力強さが伝わってきます。足元には対照的にタンポポが描かれています。総苞片(そうほうへん)が閉じているので日本タンポポだと分かります。

    「偉大なる軍鶏」無銘(葛飾北斎)
    闘鶏の軍鶏を描いた作品です。睨みつけるような視線が軍鶏の闘争心の強さを感じさせます。まっすぐに伸びた脚や鋭くとがった爪からも力強さが伝わってきます。足元には対照的にタンポポが描かれています。総苞片(そうほうへん)が閉じているので日本タンポポだと分かります。

  • 「富士越龍(複製)」九十老人卍筆<br />富士山に立ちのぼる黒雲の中から龍が姿を表し、天を目指して昇っていく様子が描かれています。落款から90歳で没した北斎の絶筆といえます。

    「富士越龍(複製)」九十老人卍筆
    富士山に立ちのぼる黒雲の中から龍が姿を表し、天を目指して昇っていく様子が描かれています。落款から90歳で没した北斎の絶筆といえます。

  • 今年は足立美術館で横山大観の富士も数多く観ることが出来ましたし、正月の富士宮から岡山や徳島への飛行機の中からも数多くの富士山を見ることが出来ました。

    今年は足立美術館で横山大観の富士も数多く観ることが出来ましたし、正月の富士宮から岡山や徳島への飛行機の中からも数多くの富士山を見ることが出来ました。

  • 「東海道旅行」前北斎為一筆<br />東海道の渡し場の風景を描いています。画面の中央には渡し舟が見え、それに乗って川を渡っている旅人たちの様子がよく分かります。「ゑどや」と書かれた茶屋で休む人や馬や天秤棒で荷物を運ぶ人などが情緒豊かに描かれています。

    「東海道旅行」前北斎為一筆
    東海道の渡し場の風景を描いています。画面の中央には渡し舟が見え、それに乗って川を渡っている旅人たちの様子がよく分かります。「ゑどや」と書かれた茶屋で休む人や馬や天秤棒で荷物を運ぶ人などが情緒豊かに描かれています。

  • 第4展示室では北斎筆の天井絵が描かれた2基の祭り屋台が収蔵展示されています。東町祭屋台の「龍」「鳳凰」は天保15年の1844年の北斎85歳の作品で、上町祭屋台の「男浪」「女浪」の「怒涛図」は弘化2年の1845年の北斎86歳の作品です。

    第4展示室では北斎筆の天井絵が描かれた2基の祭り屋台が収蔵展示されています。東町祭屋台の「龍」「鳳凰」は天保15年の1844年の北斎85歳の作品で、上町祭屋台の「男浪」「女浪」の「怒涛図」は弘化2年の1845年の北斎86歳の作品です。

  • この屋台は文化2年の1805年に再建されたもので、小布施に現存する7基の祭り屋台の中で最も古い歴史を持ちます。

    この屋台は文化2年の1805年に再建されたもので、小布施に現存する7基の祭り屋台の中で最も古い歴史を持ちます。

  • 当時の小布施村の村民の威光を受けた高井鴻山の依頼で造られ、天井の一部を改造して「龍」と「鳳凰」の2図が納められています。欄間飾りの題材は「布袋唐子図」のようです。

    当時の小布施村の村民の威光を受けた高井鴻山の依頼で造られ、天井の一部を改造して「龍」と「鳳凰」の2図が納められています。欄間飾りの題材は「布袋唐子図」のようです。

  • 天保15年の1844年に小布施に来遊の際に約半年をかけて東町祭屋台の天井画「龍」を描いています。燃えるような紅の地に龍図を描いています。

    天保15年の1844年に小布施に来遊の際に約半年をかけて東町祭屋台の天井画「龍」を描いています。燃えるような紅の地に龍図を描いています。

  • 暗い藍色の地に描いた「鳳凰」は対極をなし、中国の陰陽思想に基づいた明暗が装飾効果を高めています。

    暗い藍色の地に描いた「鳳凰」は対極をなし、中国の陰陽思想に基づいた明暗が装飾効果を高めています。

  • 午前中に「岩松院」で見てきた鳳凰を思い出させます。

    午前中に「岩松院」で見てきた鳳凰を思い出させます。

  • 紙町祭屋台は鴻山が資材を投じて作り上げたものです。

    紙町祭屋台は鴻山が資材を投じて作り上げたものです。

  • 前部の欄間は「仙人と龍」が描かれています。飾り舞台には中国宋時代の「水滸伝」に登場する軍師の皇孫勝(こうそんしょう)と天空を舞う龍の彫刻が置かれてあります。

    前部の欄間は「仙人と龍」が描かれています。飾り舞台には中国宋時代の「水滸伝」に登場する軍師の皇孫勝(こうそんしょう)と天空を舞う龍の彫刻が置かれてあります。

  • 体をくねらせ翼をいっぱいに広げて左に旋回しようとする「応龍」の姿を見事に表現しています。頭部は黄金色で体躯は尾っぽまで濃い緑と金の鱗と棘で覆われ、蝙蝠のような翼を広げます。中国神話で「応龍」は帝王である黄帝に直属していた竜とされ、4本足で蝙蝠のような翼があり、足には3本の指があります。天地を行き来することができ、水を蓄えて雨を降らせる能力がありました。黄帝と蚩尤が争った時は嵐を起こして黄帝の軍の応援をしましたが、蚩尤との争いで殺生を行ったため邪気を帯び、神々の住む天へ登ることができなくなり、以降は中国南方の地に棲んだといわれます。

    体をくねらせ翼をいっぱいに広げて左に旋回しようとする「応龍」の姿を見事に表現しています。頭部は黄金色で体躯は尾っぽまで濃い緑と金の鱗と棘で覆われ、蝙蝠のような翼を広げます。中国神話で「応龍」は帝王である黄帝に直属していた竜とされ、4本足で蝙蝠のような翼があり、足には3本の指があります。天地を行き来することができ、水を蓄えて雨を降らせる能力がありました。黄帝と蚩尤が争った時は嵐を起こして黄帝の軍の応援をしましたが、蚩尤との争いで殺生を行ったため邪気を帯び、神々の住む天へ登ることができなくなり、以降は中国南方の地に棲んだといわれます。

  • 上町祭屋台の「波濤図」は弘化2年の1845年から翌3年にかけて北斎によって製作されました。「波濤図」の縁絵は北斎の下絵を基に鴻山が彩色しています。

    上町祭屋台の「波濤図」は弘化2年の1845年から翌3年にかけて北斎によって製作されました。「波濤図」の縁絵は北斎の下絵を基に鴻山が彩色しています。

  • 男浪は女波に比べるとますます荒々しく大きく渦を巻いて描かれており、女波の縁絵は花がメインの華やかな構図なのに対し、男波の縁絵は動物がメインになっており、力強い生命力を感じさせます。

    男浪は女波に比べるとますます荒々しく大きく渦を巻いて描かれており、女波の縁絵は花がメインの華やかな構図なのに対し、男波の縁絵は動物がメインになっており、力強い生命力を感じさせます。

  • 「岩松院」と「高井鴻山記念館」とこの「北斎館」だけで小布施に来た甲斐がありました。

    「岩松院」と「高井鴻山記念館」とこの「北斎館」だけで小布施に来た甲斐がありました。

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