2019/11/10 - 2019/11/10
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しにあの旅人さん
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旅に出たならば、帰らねばなりません。
東征のあとの、ヤマトタケルの家路を辿ります。
まずグチ。
3月に予定していたイタリア旅行は、武漢コロナ野郎により中止。代わりの奈良旅行もダメ。モヤモヤ抗しきれず、代わりの代わりで足柄山に行ってきました。
日帰り強行ドライブなので、昼寝用の毛布を車に入れました。手指消毒用のアルコール。妻のお弁当ばっちり、おやつもどっさり。どこにも寄らない。人と口も聞かない。
熊にまたがった金太郎に会いました。金ちゃんと熊、両方ともN95マスクしていましたが、2メートル離れて挨拶だけ。
この旅行記グループは19年11月の旅行の記録です。ドライブは20年4月2日ですが、旅行記を順番に並べたいので、旅行日を7月10日とします。
本題。
東海道が箱根越えになったのは中世以降です。古代東海道は、足柄山を越えていました。奈良時代以前は前回の足柄山碓井峠、現宮城野城址越えであった可能性があります。古代官道である駅路東海道が整備された後は、現足柄峠越えがメインルートでありました。
今回は、そのメインルートの旅路を辿ります。ただ、ちょっと登場人物が変わります。
今回の発見
「更級日記」の作者は、足柄山中で金太郎に会った、か?
彼女が峠を越えたとき、足柄山はガスっていた。
2020-04-15 孝標娘と金時遭遇につき、By妻の新説追加しました。
今回の旅行記で引用、参照した資料は、
ヤマトタケルの家路1 足柄の坂
に列挙してあります。
今回はとくに、
「更級日記 現代語訳付き」原岡文子訳注・角川ソフィア文庫電子版
が大活躍です。お世話になりました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
東国からヤマトへ向かう駅路東海道の、足柄峠前の駅舎は坂本駅でありました。現南足柄市関本の、南足柄市総合グラウンドが駅舎跡地と言われております。峠の向こう、駿河国では横走(よこはしり)駅が現御殿場市にありました。
「日本古代の道と駅」によれば、横走駅は現御殿場市駒門(こまかど)にあったそうです。比定地は諸説あります。駒門風穴(こまかど・かざあな)の近くという説に従います。私が大好きな「更級日記」が根拠です。
その間、現在の道路で29キロです。足柄峠の標高744メートル、旅程の高低差約680メートルです。これを登って降りる。グーグルさんは6時間13分で歩けといっております。箱根駅伝5区6区の走者でないと歩けないかと。 -
県道78号線に面しております。短辺約100メートル、長辺約160メートルの長方形です。
坂本駅はその後関本宿となり、江戸時代も繁栄しました。現南足柄市の中心部、関本であります。 -
古代東海道の坂本駅は、足柄峠越えをひかえた、馬22匹を常備していた大きな駅でした。現在のグラウンドだけで約1.6ヘクタールあります。馬22匹を飼うにはこのくらいの面積が必要なのでしょう。
でも古事記は坂本駅について、なにも語ってくれません。
そこで、かわいい助っ人をよびました。菅原孝標のお嬢さんです。菅原孝標女「すがわら・たかすえの・むすめ」とよばれています。本名は分かりません。「更級日記」の作者です。寛弘5年(1008年)生まれ、上総介(上総国の次官)菅原孝標の任地上総の国府、現在の千葉県市原市近くで4年ほどすごし、数え13才の時、任期が終わった父、家族ともども3ヵ月かけて都に戻りました。「更級日記」に足柄峠を越える記録を残しています。
以降、Mademoiselle(マドムワゼル)略してMlle.菅原とよびます。 -
「更級日記」電子版より。現代語訳も同じ。
「麓に宿りたるに・・・」とあります。金時山。 -
矢倉岳。たしかに「麓」です。
Mlle.菅原一行はここに宿をとりました。
足柄峠はこの矢倉岳の左を登って行きます。
彼女は宿のある地名は書いていませんが、坂本駅ということです。
11世紀の初めには、古代律令制はもう崩壊し始め、駅路の駅舎も使われなくなっていたようです。でもこのあたりにそれに代わる宿泊施設があってもいいでしょう。
ヤマトタケルの時代には、駅路は機能していました。この厩に隣接して駅舎はありました。タケルが見た風景は、おそらく13才の少女が見ていた景色と変わらなかったでしょう。
1008年生まれ、誕生日は不明。数え13、満12、Mlle.菅原は1020年旧暦9月3日に旅立ちをしています。新暦9月下旬から11月上旬です。暑さ寒さについては記述がなく、紅葉にも触れていない。新暦10月くらいのちょうどいい季節に足柄峠を越えたのではないでしょうか -
4月に来てほしかった。
-
美意識のするどい娘だったようです。古代は花といえば梅ですが、平安時代は今と同じ桜でした。
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桜の花びらの絨毯を歩いたら、なんと言ったか。
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桜という花はやっぱり特別です。昨春イタリアへ言ったとき見た花はたぶん花蘇芳でした。すこし青みがかった濃いピンクの花がどこにいっても咲いていました。こってりと豪華でした。この季節で思い出すのは、パリのアヴェニュー・カルノの桐の花の並木です。4月から5月、それは夢のように美しい眺めでした。フランス語では桐を、ポローニャ(Paulownia)といいます。ロマノフ王朝のお姫様の名前です。
紫式部が、物語の最初に主人公光源氏の人生の大もとに位置する女性を、桐壺としたのも当然の高貴な美しさでした。
ヨーロッパには梨の花もあります。リンゴの花もかわいらしい。
けれど桜ほどの花が他にありましょうや。一本で佳し、2,3本で佳し、群れてももちろん美しい。つぼみも、咲き始めた風情も可憐。満開の豪華さ、散るときの華やかさ、寂しい美しさ。どこをどうしても美しく、また朝ぼらけと共に奥ゆかしく、昼は言うまでもなく、夕べはたまた灯りに照らされての風情。いついかなる時も美しい。嬉しいにつけ悲しいにつけ、日本人の心を打つ花です。
西行でなくとも、「願わくば花のもとにて」春、散る花びらに包まれて死ねたらと、日本人なら思いますよね。
By妻 -
もしも桜を見たならば、日記になにか書き残したでしょう。
ヤマトタケルはどうでしょう。花より団子という雰囲気ですが。 -
「足柄山といふは 、四五日かねておそろしげに暗がりわたれり。やうやう入り立つ麓のほどだに 、空の気色 、はかばかしくも見えず 、えも言はず茂りわたりて 、いとおそろしげなり」
「足柄山という所は、4,5日も前からいかにも恐ろしそうに一面に木々が鬱蒼と暗く茂っていた。だんだんと入り込んだ麓の辺りでさえ、木々に覆われて空の様子も、はっきりとは見えず、言いようもなく鬱蒼と木々が生い茂っており、とても不気味な感じである」
「更級日記」は老年期を迎えてからの回想記だそうです。多分メモはとってあったでしょうが、記憶ちがいか、ところどころおかしなことを書いています。
「四五日かねておそろしげに暗がりわたれり」
「4,5日も前からいかにも恐ろしそうに一面に木々が鬱蒼と暗く茂っていた」
4,5日前というのが分からない。このあと「麓に宿りたるに」とあるので、4,5日前から鬱蒼たる原生林を歩いたということでしょうか。ゆっくり、ゆっくり1日15キロ進むと60キロ~75キロです。古代東海道は湘南の海沿いを通ります。国府津まではほぼ箱根駅伝のコースです。駅伝で有名な権太坂-関本が約60キロです。いくら古代でもこの間が全部鬱蒼たる原生林とは思えません。
「更級日記」電子版の注釈によれば、これは写本のときの、4,5里の誤記であるという説もあるそうです。「日」と「里」、ありえなくはない。当時の1里は約533メートルですから、2,132~2,665メートル。
写真は足柄神社から矢倉沢関所にむかう、いわゆる足柄古道です。こんな感じの路が麓に「2キロ、3キロ前からいかにも恐ろしそうに一面に木々が鬱蒼と暗く茂っていた」の方が意味が通る。植林された杉ではなく、ブナやナラの原生林でしょう。真っ暗ですね。
「まだ暁より足柄を越ゆ 。まいて山の中のおそろしげなること言はむかたなし」
「翌朝はまだ夜明け前から足柄山を越える。麓でさえ不気味だったのだから、まして山中の恐ろしさは言いようもない」
これに対応するのでしょう。 -
足柄山と言えば、金太郎。Mlle.菅原と金太郎は大体同じような時代、11世紀初めに生きていた。ひょっとすると、2人は山中で遭遇した可能性はないか!
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やってきました。
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こういうのがありました。
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金太郎は山姥(やまんば)の子という説もあります。山姥が説明板を読んでおります。
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長者の息子という話ですが、家跡はかなりちっこい。
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残っているのは、玄関だけかねえ。
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金太郎の遊び石というのがこれです。たいこ石。
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かぶと石。
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南足柄市ホームページによる金太郎伝説はこうなっております。
https://www.city.minamiashigara.kanagawa.jp/kankou/kintaro/kintarodensetu.html
「地蔵堂に四万長者がおり、その名前を足柄兵太夫と言います。
この長者に八重桐という一人の娘がいました。
八重桐は縁あって酒田氏に嫁ぎましたが、酒田一族の争いから逃れるため、地蔵堂の屋敷へもどり金太郎を産みました。
金太郎が産まれた時に、屋敷近くにある夕日の滝の水を産湯に使いました。
こうして足柄山に金太郎が誕生し、やがて金太郎は人一倍元気に育ち、長者屋敷の庭石である「かぶと石」や「たいこ石」に登って遊んだり、「金時山」へ出かけたりして足柄山を自分の庭のように遊びまわり、山の動物たちもいつしか金太郎の遊び相手になったのでした。
やがて金太郎は、足柄山の怪童と人々から、うわさされるほどのたくましい青年に成長し、ある日、足柄山中にて源頼光と運命的な出あいをしました」
「源頼光と運命的な出会あい」は勝手に地蔵堂としました。桜が満開でありました。
伝説の続き。
「そして、頼光の家来として取りたてられ坂田金時と改名し、京の都へ上り渡辺綱・碓井貞光・卜部季武らとともに、源頼光の四天王の一人として大江山の酒呑童子退治をしたりして、その名前を天下にとどろかせました。
その後、源頼光が亡くなると三ヶ月間、日夜、頼光のお墓参りをした後、都を去り、ふるさとの足柄山へもどり、その行方をくらましてしまったのでした」
なお学者の間では坂田金時は実在の人物ではないというのが通説のようです。しかしそういう、ロマンのかけらもない、おもしろくもない、不愉快な、まじめ腐った俗説はこのさい断固排除します。 -
源頼光の生年948年、没は1021年旧暦8月29日。
Mlle.菅原の足柄峠越えは1020年9月後半です。
この伝説によれば、金時が帰郷したのは頼光死後3ヵ月、21年11月となります。
残念、2人の遭遇の可能性はありません。
もし父の離任があと1年半ほど後だったら、Mlle.菅原と功成り名遂げた金時が、春爛漫の桜の下で邂逅した、かもしれない。それが「更級日記」に書いてあったら、日本文学史上の一大スクープなのに、残念無念!
酒呑童子退治は1018年のことです。
Mlle.菅原が金太郎の生家に立ち寄り、「まあ、これが大江山の酒呑童子退治で有名な金時様のおうちなのね、ステキ!」と言った可能性は絶対にないわけではない。
生家は、彼女が歩んだ足柄古道に面していました。
「この子はステキなんて言わないわよ」妻の意見です。
源氏物語を熟読した娘です。理想の男性は、たおやかな光源氏。金時のようなムキムキマンは好みじゃない。家の前を通り過ぎても興味を示さないはず。
この解釈のほうが、彼女の性格からいってつじつまがあいます。
したがって、もし2人の邂逅が実現したとしても、次のようになります。
家の前で金時が、昔なじみの熊を相手に日課の武術の稽古。
Mlle.菅原:無言でチラっと見て。「このおじいさん、いいトシしてトレーニングなんかして、ださっ」
金時:「なんじゃ、この生意気な娘は・・・」と呟く。
歴史的な邂逅は、結局なかったかもしれません。
姉と継母がミーハーならば、扇をもって金時に群がった可能性はある。
しかし、平安時代、扇にサインしてもらう習慣は、多分、ない。
☆☆☆
童謡や五月人形で有名な金太郎さんですが、何をした人か分からなくて、「熊にまたがりお馬のけいこ♪♪」ってことで、怪力無双の幼児だったこと、としか知識がありませんでした。「わずか三つで熊退治~」その名を西部に轟かせたディビー・クロケットとどっちが強かったのか?!なんて思いながらやって来ました。足柄山。
金太郎の生家跡やら遊んだ岩やらありまして、野口英世生家みたいに現実の人物ぽいです。遊んだ岩というのも二つありましたから、怪童金太郎がこの岩でお手玉をしたのかと思ったら、よじ登って遊んだそう。あら、それだけ? それならウチの息子だってやったわ。幼稚園児なら皆やるわねえ。それにお母さんだって八重桐さんで山姥じゃあないみたい。
それでグーグルさんに聞いてみました。そしたらおもしろいことを発見しました。
私はこの日のお弁当に、にんじん、れんこん、ごぼうetcの煮物をおかずにしましたが、ごぼうはキンピラにしてもおいしいですよね-。キンピラは正しくは金平と書くそうで、なんと金太郎さんの息子さんだそう。親のDNAか、この息子がムチャクチャ強くて、だからキンピラはこの人の名前をとったそう。ごぼうは固いでしょう。力を入れて噛まないと食べられない。そして唐辛子が入ってピリリだからだそうです。今だったらリーチでも白鵬でもよかったのかしら?ごぼうの白鵬?
ということで、坂田商会は金太郎アメ、金時アメ、金時豆、宇治金時からハラガケ、挙げ句にお総菜まで扱う総合商社となりました。メデタシ、メデタシ。
生家跡を見ました。なるほど五月人形で鯉に抱きついている裸の男の子金太郎は、山奥に住む庶民の強力無双の少年がスカウトされて、花の都で大出世をしたってことだったのか。だから出世魚の鯉なのね-。
頼光四天王は渡辺綱、卜部秀武、坂田金時、碓井貞光ですが、碓井貞光も碓井峠で頼光さんにスカウトされたらしいです。碓井貞光がまず頼光の家来となり、この人が金太郎を見つけたことになっています。碓井峠がどこの碓井峠か分かりませんが、いずれにしても東国の男は強かったのですね。四天王は大江山の酒呑童子を退治していますが、1人1人でもそれぞれ鬼やら大蛇やらをやっつけています。頼光とこの4人で戦った酒呑童子というのは相当強かったということで、もしも熊相手に遊んでいた幼児が野放しで育ったなら・・・
「金太郎、悪く育つと鬼になり」江戸時代の川柳です。
頼光さんのおかげで金太郎ちゃんも悪の道にそれずにすみました。
By妻
ここから足柄峠の登りがきつくなります。 -
私たちが峠の頂上に着いたとき、東にはこうした景観がひろがっていました。相模湾です。
「雲は足の下に踏まる」とMlle.菅原は書いています。
雲があれば雲を踏むことになります。
あっ、大発見!! だから峠を越えたときに、相模湾を見渡せたのに、何も書いていない。 -
だから峠からの富士山にも言及なし。雲が下界を覆っていたのではなく、山全体がガスっていたのです。
-
峠から御殿場方面に下りて行けば、必ず正面に富士山はあった。それなのになにも書いていないのは、この日、峠は雲に覆われていたのです。
-
文学的才能にあふれた、多感な13才の少女が、相模湾や富士の景色を見ていたら、何も書かないはずがありません。
足柄越えの後、清見が関から富士山を見て、
「その山のたたずまいは、全くこの世に類を見ない様子である。ほかとは異なる山の姿で、紺青を塗ったような色の山肌に、雪が消える時もなく積もっているので、濃い紫の衣の上に、白の衵を着ているようにも見え、山の頂上の少し平たくなっている所から、煙が立ち上っている。夕暮れ時は火が燃え立つのも見える」
と書いています。
それが、標高700メートル、彼女と富士山の間には何一つ遮るものがない足柄峠の下りからであれば、どんなに感動したでありましょう。どんな名文が残ったか! Mlle.菅原は富士山を独り占めできたのです。
この日、足柄山がガスっていたことは、日本文学史上の痛恨事であります。 -
さすが日本一の山。
雄大にして優美でした。が、どうしても頂上にかかる雲がとれない。木花咲耶(このはなさくや)姫様は恥ずかしがり屋でいらっしゃる。けれど、ふとこの雲が噴煙だとしたらと...と考えました。
浅間は今も白い煙を噴いております。
かぐや姫の時代の富士山はこんなふうに白い煙を上げていたかもしれません。かぐや姫が時の天皇に贈った不老不死の薬を、姫のいない世に不死となっても意味がないと火口にたたき込んだ、その燃える煙だそうです。時の天皇の失恋の煙。
木花咲耶姫さんは、生まれる子供をだんなに「本当にオレの子?」なんて疑われて、産室に火をつけた神様で、激しい、激しい。その激情家の女神様が富士山の神様ですからね、古代に富士山がどのように人々に思われていたか、推測できようというもの。
知人のハーフの子が、「フジサンなんて簡単に言っちゃダメ。フジサマとお呼びしろ」と申しました。おいおい、フジサンのサンは山のことで・・・とか説明しようかと思いましたが、いやあ、間近に拝見するMt.フジは誠にフジサマと申し上げるのが正しいような、神々しくも麗しいお姿でありました。
By妻 -
足柄山をおりて富士の裾野を走りました。左折右折をかさねていると、富士山がみえない。キョロキョロ探すと、目の前の、フロントガラスいっぱいの青い壁のようなものが、富士山でありました。
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この旅行記へのコメント (11)
-
- pedaruさん 2020/04/22 05:48:40
- 桜への思い
- しにあの旅人さん おはようございます。
けれど桜ほどの花が他にありましょうや。一本で佳し、2,3本で佳し、群れてももちろん美しい。つぼみも、咲き始めた風情も可憐。満開の豪華さ、散るときの華やかさ、寂しい美しさ。どこをどうしても美しく、また朝ぼらけと共に奥ゆかしく、昼は言うまでもなく、夕べはたまた灯りに照らされての風情。いついかなる時も美しい。嬉しいにつけ悲しいにつけ、日本人の心を打つ花です。
西行でなくとも、「願わくば花のもとにて」春、散る花びらに包まれて死ねたらと、日本人なら思いますよね。
By妻
桜の本性を言い当てた文章に感銘を受けました。まさに日本人の思っていることを余すところなく語ってくれました。しにあの旅人さんの奥様は、4トラベル旅行記の伴侶としても力強い味方ですね。
pedaru
- しにあの旅人さん からの返信 2020/04/23 05:28:10
- Re: 桜への思い
- Pedaruさん、おはようございます。
毎夕6時、町の防災無線で、家にいろ、体を動かせ、と若干矛盾する放送が流れます。はやくこういう放送を聞かなくていい日が来てほしいものです。
妻がここぞと力を入れた文章を、しっかり読み取っていただき、本人喜んでおります。外角低め速球ストライクという感じです。パーンといい音が響きました。じつに気持ちいい。
妻は旅行中はナビゲーター、記録係、帰ってきてからは編集者兼ライターであります。妻がライターのときは私が編集者。
事実関係は私が書くから、感想を書けと?咤激励しております。なかなか書かない。書きはじめればサラーっと書くのですが。
ナントカもおだてりゃ木に登るといいます。一生懸命おだてております。われながら、いい編集者だと思います。
-
- ねんきん老人さん 2020/04/13 16:49:38
- 縦横無尽な想像力はどこからくるのでしょう?
- しにあの旅人様
いやぁ、なんとも読み応えのある旅行記でした。
いつも、折角の旅行記を読み落としては勿体ないと思って古いものから順に拝読しているのですが、今回はヤマトタケルの文字に気が急いてしまい、朝一番に読み始めました。
たちまち私の知らないことが滝のしぶきのごとく吹き寄せてきて、慌ててもう一台のパソコンをつけて、しにあの旅人様の旅行記とウィキペディアや更級日記の解説を並べて一行々々読み進めました。
更級日記は、高校時代に古典の教科書にその一部が載っており、授業で読んだことは確かなのですが、文体も内容もまったく覚えていません。「菅原孝標女が父親の帰京に従ったことを含む半生を著した回想録」というような試験用のフレーズしか記憶にありません。
ましてや、その道中であの「足柄山の金太郎」に出会った可能性などということに思いの及ぶ筈もなく、はたまた更級日記に富士山についての記述がまったくないことからその日の箱根がガスっていたとの考察などに驚き、しにあの旅人様の発想にまるで推理小説でも読むような高揚感を覚え、二人の足取りを時系列に沿ってメモしたりしながら午前中いっぱいかけて読み終わりました。
そんな中で、きんぴらごぼうのきんぴらが金太郎の息子の金平に由来するとの新しい知識を得、これは老人会のいい話題になるなと膝を打ったりして、読後には「いやはや」という驚嘆と、久々に少しだけ勉強した満足感を覚えました。
とても真似はできませんが、しにあの旅人様の旅のスタイルに大きな刺激を受け、コロナ騒ぎで家から出られない一日が、得難い一日になりました。
ありがとうございました。
ところで、「シニア」はひらがなに変わったのですか?
ねんきん老人
- しにあの旅人さん からの返信 2020/04/14 05:11:25
- Re: 縦横無尽な想像力はどこからくるのでしょう?
- 花道七三でミエをきったところ、大向こうから「たびと屋!」と掛け声がかかりました。そういう気分です。ねらったところをねらったように読んでいただけて、大喜びです。
孝標女と金時の邂逅は、1年違いで可能性がなくなりましたが、ただの思いつきでも、追いかけてみると案外面白いこともある思いました。これがもしドンピシャだったら、それこそ舞台正面、海老蔵ばりに目を剥いて大見えを切るところでした。残念。
足柄山当日ガスっていた件は、杉下右京の気分です。人差し指をたてて「その日、足柄山はですね・・・」という感じ。
キンピラゴボウがうけた件も妻が喜んでいます。
私たちは褒められると木に登るタチなので、これからもいろいろ頑張ります。なにを頑張るのかよく分かりませんが。
「しにあの旅人」と改名しました。「旅人」は「たびと」と読みます。大伴旅人にあやかりました。それにともない「シニア」もひらがなにした方が古代っぽい。
このところ続日本紀を読んでおります。もちろん現代語訳。登場する大伴旅人は非常に魅力的な人物で、あやかることにしました。そのうち旅のブログでも、大伴旅人をやってみようかと思っております。
- しにあの旅人さん からの返信 2020/04/15 08:15:20
- Re: 縦横無尽な想像力はどこからくるのでしょう?
- 孝標女と金時の遭遇について、妻の新説追加しました。
-
- 前日光さん 2020/04/13 13:02:13
- 斬新です(@_@)
- Mlle.菅原と金太郎の邂逅、ちょっとの差で不可能でしたか。
こんにちは、しにあの旅人さん。
そういえば菅原孝標女は、父が上総の介でしたね。
娘の才能が抜きんでていたばかりに、その名を残した父孝標、持つべきは文学的才能のある娘ですねぇ。
さてそのご一行様が京の都に戻る道筋、もしや金太郎に会っていたのではないかという発想に笑えました。
いつも面白い考察をされる奥様の(もちろんご主人様も(^_-)、止まらない妄想に、こちらの好奇心も刺激されっぱなしです(^_^)v
房総半島にお住まいなので、妄想が暴走してしまうのでしょうか?(^_-)
ところで大昔の映画で「日本誕生」というのがありましたが、ご存じありませんか?
三船敏郎がヤマトタケルとスサノオノミコトの二役を演じたものです。
昭和三〇年代の映画ですが。
これをなぜか私が通っていた小学校では、隣町の映画館まで全校児童を引きつれて鑑賞に行ったのです(私の住んでいた地域には映画館がありませんでした)
今で言うところの「芸術鑑賞」というものでしょうか?
なにしろ私は、その時小学校の一年生だったので、うろ覚えなのですが、大蛇の尻尾が空から海の上に垂れ下がっていた恐ろしい光景と、司葉子さん演じるオトタチバナヒメが今の浦賀水道走水の海上で入水する悲しくも美しい場面を記憶しているつもりでした。(特撮というものの、初期のものだったようです)
あれから幾星霜、ビデオショップでこの映画を見つけた私は、よせばいいのに即借りてきて、期待に胸躍らせながら見てみると。。。そのショボサにガックリきたのでした。
あの頃は映画館で見たので、画面が大きかったせいで迫力もあったのでしょう。
しかも特撮物の走り、興奮しないはずがありません。
しかし半世紀以上経って見たその映画は、チャチだなぁという感想だったのです(T_T)
画面はシロクロだったのに、私の中ではオトタチバナヒメの美しい着衣はカラーでした。
おそらく何十年もの間に、画像に勝手に色がついてしまったのでしょうね。
オトタチバナヒメは司葉子さんで、これ以上のキャストはないのですが、ヤマトタケルはもっと繊細でか弱いタイプの佐藤健さんなんてどうでしょう?
名前も「タケル」ですし。
三船敏郎さんは、スサノオノミコトとしてはピッタリ!だと思います。
ちなみにこのヤマタノオロチ編は、借りてきたビデオにはありませんでした。
これもガッカリするとは思いながら、再見してみたい誘惑に駆られています。
と、長い思い出話になってしまいました。
笑って聞き流してくださいね!(^^)!
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2020/04/13 13:33:07
- Re: 斬新です(@_@)
- ご無沙汰しています。
コロナ騒動、いかがお過ごしですか。私たちはひたすら亀の子作戦です。家にこもって出かけません。無理して行ってきたのが足柄山です。
金太郎とMlle.菅原が同時代人とは私も思ってもみませんでした。調べてみたら、いい線いっていたのです。1年違いですれ違いとは残念。
この娘さんは物語大好きの文学少女で、日本史上記録に残る最初のオタクだそうです。元祖オタク。
映画「日本誕生」は私もなんとなく覚えています。合成で、大洪水がザーッとながれてくる場面があったような。たしかにチャッチかった。妻によると、三船敏郎が熊襲退治で女装する場面がキモかったそうです。そういう場面、ありましたか。
イタリアも奈良も旅行計画は全部オシャカ。昨年11月の旅行をネタに夏までしばらく楽しみます。それまでにコロナちゃんが片付いてくれないと種切れになります。
前日光さんもとにかくご自愛ください。なんとか乗り切りましょう。皆さんの旅行記を読んで、旅に出た気になっています。
ところで、「前日光」はなんと読むのですか? 「まえにっこう」?
- 前日光さん からの返信 2020/04/13 18:22:44
- RE: Re: 斬新です(@_@)
- コロナ騒動のせいで、同じく亀の子作戦です。
しかも今日は、朝から雨と強風、この風がウィルスを運んで来るんじゃないかと思ったり、いや待てよ、ウィルスを運び去ってくれるかもしれないとか、いろいろ考えた日でした。
> この娘さんは物語大好きの文学少女で、日本史上記録に残る最初のオタクだそうです。元祖オタク。
→なるほど! 元祖オタクですか! 納得です。
あの「源氏物語」へののめり込み方は、尋常ではありませんでしたからねぇ。
> 妻によると、三船敏郎が熊襲退治で女装する場面がキモかったそうです。そういう場面、ありましたか。
→残念ながら私はその場面は覚えておりません。
でも女装なら、やっぱり佐藤健君は超美しいと思うのですが(^_-)
> ところで、「前日光」はなんと読むのですか? 「まえにっこう」?
→はい!「まえにっこう」と読みます。
中禅寺湖辺りは「奥日光」と言いますが、私の住む鹿沼市は「前日光」と言われております。
全然メジャーではありませんが。
以後、お見知りおきのほどを(*^_^*)
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2020/04/15 08:15:41
- Re: 斬新です(@_@)
- 孝標女と金時の遭遇について、妻の新説追加しました。
- 前日光さん からの返信 2020/04/15 22:18:08
- 私も筋肉ムキムキは、超苦手です(^_^;
- こんばんは。
Mlle.菅原とは、好みが合いそうです。
昔から体育会系には興味がありません。
ですからオリンピックもどうでもいいです。
昭和39年の東京オリンピックの頃、運動神経が全くない私にはツライ時代でした。
読書なんかしていようものなら、担任から「ひねくれている」と言われましたからねぇ。
スポーツは苦手だから、大好きな本を読んでいただけなのに。
ますますスポーツはイヤジャ~となりました。
逞しい男子よりも、文弱男子大好きです、今でもそれは変わりません。
だから三船敏郎よりも、佐藤健なんですよ(シツコイ(>_<)
見かけのことだけですからね。
佐藤君は理系の合理的考え方をする人らしいですから、文弱ではないようです。
って、奥様って、実はスポーツ会系大好きだったりして?
もしそうでしたら、失礼なことを言ってますよね?
ちなみに私は大伴家持、在原業平、芥川龍之介、中原中也、立原道造。。。なんていう腺病質のよわっちいのが大好きです!(^^)!
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2024/12/19 16:08:55
- 更科ちゃん「光る君へ」に登場!
- NHK大河ドラマ「光る君へ」に更科ちゃんが出てきました。なんと籐式部と直接会話したのです。ご覧になりましたか?
紫式部は978-1019で、菅原孝標女は1008-1059。1020ごろ都に帰ってきたそうで、もう紫式部は死んでいます。年代的にはあり得ないのですが、大石静やってくれました。
「光る君へ」はあちこちに源氏が見え隠れして、久しぶりに楽しみました。
最終回は紫式部、清少納言の髪に白髪がまじり、赤染衛門は真っ白でした。
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