2019/11/11 - 2019/11/11
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しにあの旅人さん
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旅に出たならば、帰らねばなりません。
東征のあとの、ヤマトタケルの家路を辿ります。
日本書紀では、碓日坂のあと吉備武彦(きびの・たけひこ)を越(こし)の国に分派し、ヤマトタケルは信濃国に入りました。
書紀は「進入信濃」、信濃に入り進むとするだけで、どこを通ったかは書いていません。
出発地は碓日坂(現碓井峠)、到着地は信濃坂(現神坂峠)がピンポイントで明記されております。
碓井峠は熊野皇大神社、神坂峠はその上り口神坂神社を結んでみました。
参考、引用資料については
「ヤマトタケル紀行・家路1」
に列挙してあります。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
「ヤマトタケルの家路」で何回も繰り返していますが、古代の1級官道である駅路は、驚くほど現在の高速道路とコースが似ております。目的地に早く着くためになるべく直線ルートをとるという目的が、古代も現代も同じだからです。
その原則で、上信越自動車道、長野自動車道、中央高速を通るコースを選びました。
碓井峠から塩尻までは、国道142号を通るほうが、3角形の1辺ですから、近道です。しかしこのコースは、私たちも走ってみましたが、山また山の連続で、歩いたらえらいことになります。東山道をデザインした古代人は、遠回りでも楽なコースを選んだのです。
加えて古代の官道の駅舎は原則独立採算で、周囲の田んぼを耕して経費を捻出します。そのため、まわりが平野で田んぼがないと困るのです。最近古代道路に凝っているので、神坂峠越えで詳述します。
辰野町で、伊那谷または伊那平とよばれる、天竜川を囲む細長い平野に入ります。 -
陣馬形山山頂展望台より。
伊那谷北部です。中央狭隘部より伊那谷に入ります。左下部の川が天竜川。 -
木曽山脈、中央アルプスのほうが通りがいい。
-
最高峰は木曽駒ヶ岳2956メートル。
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3000メートルを越す山はありませんが、2931メートルの宝剣岳、2800メートル級が2坐、2700メートルを越す山が4坐あります。
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全長65キロ、東には天竜川が流れ、西は木曽川。
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標高1445メートルの陣馬形山からの眺望ですが、伊那谷から見ると仰ぎ見るような山々でした。
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反対側は赤石山脈(南アルプス)です。赤石岳。
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仙丈ヶ岳
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間ノ岳
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戸倉山でしょうか。
-
甲斐駒ヶ岳。
3000メートル級の山が9坐あります。
☆☆☆
伊那谷の底から山脈を見上げました。 -
午後3時40分の木曽山脈です。もう太陽は山稜に触れようとしています。
-
富県小学校前です。
-
陽はどんどん落ちていきました。
-
山脈はシルエットで、重なる稜線の識別も難しくなりました。
4時ちょうど、ほぼこの位置で、太陽は山脈の向こうに消えました。 -
4時15分
-
数分後、空の輝きが落ちていきました。
-
早い日没です。
大御食(おおみけ)神社前です。山は見上げる高さでした。
☆☆☆
伊那谷は、日本を代表する二つの山脈に挟まれているのです。
伊那谷を歩くヤマトからの旅人は、東西の山々を見上げて、何を思ったでしょうか。
奈良盆地を囲む丘陵は、高くてもせいぜい金剛山地1000メートル級なのです。
日本書紀は信濃国の旅をこう描写します。
「則日本武尊 進入信濃 是國也 山高谷幽 翠嶺萬重」
「日本武尊は信濃に進まれた。この国は山高く谷は深い。青い嶺が幾重にも重なる」
ここは原文に近く、「山高く谷幽し。翠嶺萬重す」と読みたいところ。「翠」は「翡翠」の「翠」ですから、「青」や「碧」よりもっと緑に近いということでしょう。
この部分、ヤマトタケル東征の項では唯一風景の描写があります。「山高谷幽 翠嶺萬重」に続いて、「人は杖をついても登るのが難しい。岩は険しく坂道は長く、高峯数千、馬は行き悩んで進まない」
私たちは、書紀のこの項の作者は、甲斐、信濃の山岳を実際に知っているのではないかと思いました。
がらっと話は変わります。
「古代甲斐国の交通と社会」によれば。
660年に百済が滅亡し、ヤマト朝廷は百済復興のため、朝鮮に出兵します。663年に白水江の戦いで倭・百済の連合軍が唐・新羅の連合軍に大敗し、倭は朝鮮より撤退します。そのとき生き残った船に敗残の倭軍だけでなく、亡命希望のたくさんの百済人貴族、一般人を乗せて帰りました。668年には唐・新羅の連合軍により高句麗も滅びます。これ以降、高句麗からの亡命者も増えていきます。
その亡命百済人、高句麗人の多くが、甲斐国に移住しているのです。
日本後紀799年の記事に、666年に摂津国から甲斐国に百済人が遷されたとあります。百済から日本に亡命しとりあえず落ち着いたのが摂津、その後甲斐に定住したということです。定住地は現山梨市。
また続日本紀霊亀2年(716年)5月16日の条では、
「駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野の7カ国にいる高麗(こま)人1795人を武蔵野国に移住させ、初めて高麗郡を置いた」
とあります。それ以前から亡命あるいは移住してきた高麗人が東国に多く住んでいたことが分かります。
ここまで史実です。
663年に日本にやって来た若い百済人貴族夫婦がいたとします。もともと中国系で、中国語、つまり漢文ができた。甲斐国に定住します。670年ごろに男の子が生まれました。頭が天才的にいい子だったので、中国語をしこんだ。日本書紀は天武天皇の御代に編纂が始まったとされています。在位673年-686年。
690年ごろ、時に彼は20才、優秀だと都にまで名が知られ、書紀の実際の執筆者として採用された。
年齢があいますね。強引にあわせていますが。
彼が、伊那谷、神坂峠を越えて都に上がれば、当然、赤石山脈、木曽山脈を見ています。
伊那谷では「山高く谷は深い。青い嶺が幾重にも重なる」神坂峠では「人は杖をついても登るのが難しい。岩は険しく坂道は長く、高峯数千、馬は行き悩んで進まない」
彼の経験です。
東国の高麗人2世にも優秀な人物がいたことでしょう。常陸、下野あたりの出身だと碓日坂を越えてヤマトへ上った。
古代の日本は実に国際的です。この時代、百済、高句麗の滅亡後、朝鮮半島から千人単位の亡命、移住が何度もあったようです。彼らの定着先の斡旋にヤマト政府はあたふたしている様子が続日本紀にあります。
新潟あたりに渤海から大使が勝手に来て、それを現地の住民が襲って身ぐるみはいじゃって、ヤマトは後始末に右往左往。遣唐使のメンバーが中国人の嫁さん連れて帰ってきちゃうし、ペルシャ人やインド人も来る。遭難した遣唐使がベトナム、中国、渤海経由で何年もかけて帰ってきたり。
この時代の日本は、開放的というか、かなりひっちゃかめっちゃか。
多分、高度成長期で、人手が圧倒的に足らなかったのではないか。実に懐深く、移住者、難民を受け入れています。
東国から移住してきた蝦夷が氏だの姓だのをくれと誓願を出しています。陳情そくOKらしく、乱発しています。蝦夷出身の政府の高官も出ています。
百済出身の貴族はざら。
日本書紀の後半、続日本紀、日本後記あたりを読むと、古代の日本が、全く予想に反した、オープンな、生き生きとした時代であったと、つくづく思います。
☆☆☆
「日本古代の道と駅」によると、伊那谷では天竜川沿いの低地を通る駅路と右岸、つまり中央アルプスよりを通る路線がありました。現在の高速道路とほぼ平行します。中央アルプスの麓の高台です。
すると、ヤマトタケルはこういう景色を見ながら歩いたのです。 -
伊那谷を南下するので、弓手(ゆんで)、つまり左側に赤石山脈。
-
仙丈ヶ岳
駒ヶ岳サービスエリアより(撮影11月16日) -
北岳、間ノ岳
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間ノ岳
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北岳
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馬手(めて)には、谷間から中央アルプスが見えたはず。麓ですから、近すぎて全景を見渡すスポットはなかったでしょう。
-
南駒ヶ岳、空木岳
☆☆☆
この山と山に押しつぶされそうな狭い谷に伊那の人々は住んでいるわけです。食べ物も温暖な平野のものとはずいぶん違うようです。
御多分に漏れずこの辺りも若い人が減って、夜はすっかり寂しい町になっております。晩御飯に出ても営業している店はいくらもありません。その中のある居酒屋に入りました。店内には仕事なのか観光なのか、2,3人のいかにも旅人の男性が飲んでおりました。
お品書きを見てみると、見たこともない料理名があります。
ザザムシの・・・
いなごの佃煮、おっ?お~!
そうかこれが噂の長野メシか!蜂の子御飯とか。
カウンターの隣に座った杉並から来た男性は積極果敢な人で、「おたぐり」とかいう馬の腸ですね、それを召し上がり、ザザムシを試してみようとおっしゃっていました。
我々はここがまだ旅の初日、お腹でもこわしてはいけないので、平凡にトンカツを食べて、伊那ローメンなるものをお土産に買うのがせいぜいでした。 -
・・・と、私はイナゴやハチノコなど食べ慣れないものに対して拒否反応が出てしまったのですが、パリではエスカルゴといわれるカタツムリ、グルヌイユといわれても日本ではカエルを喜々としていただくのです。
何なんだ、私!偏見なのか?と悩みながら、某お菓子ケーカーのキャラメルコーンを、いつものようにボルネオのツリーハウスの酋長になったつもりで「ドンドコドン、ヤア!」とエア槍を左手に持って踊りながら食べたのでした。
ご説明いたしましょう。って大げさなこともなく、むかしTVのルポルタージュを見たってだけなんですが。
見はるかす森林を眼下に見るツリーハウスに住むその酋長は、何かのお祝いで友人を招待してパーティを催します。彼はまず森に下りて朽ち木を探し、その木に巣くうイモムシをとってきます。これをタロイモと共にバナナの葉に包んで、ツリーハウスにある炉で焼くのです。月が中天にかかりジャングルを白く照らすとき、はるかむこうからキラリキラリ輝く槍先を木々の上に見せながら、太鼓の音と共にお客達は列を作ってやって来ます。
「ドンドコドン、ヤア!」と到着の踊りがあって、歓迎の踊りがあって、バナナの葉に包まれたイモムシはプチプチにおいしく焼き上がり、宴は大成功でした。
このイモムシがキャラメルコーンにそっくりなのです。 -
それを見て以来、このお菓子を食べるときには、私は「ドンドコドン、ヤア!」の儀式をすることになっています。
本物のボルネオ飯を食べるチャンスも元気もないけれど、コロコロ太ったイモムシを喜ぶ客人を見て、満足の吐息をついた酋長の心意気に多いに共感したわけです。
キャラメルコーンは軽くておいしいですよ。
By妻。
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この旅行記へのコメント (4)
-
- 前日光さん 2020/07/12 22:48:58
- 亡命百済人or高句麗人の息子ですか(@_@)
- こんばんは、しにあの旅人さん
体調不良がまだ続いていますが、やっときょう太陽の光を浴びてちょこっと良くなったような気が。。。
なるほど、古代には渡来した朝鮮半島の人々などが、今よりもっとたくさんいたのでは?という説、頷けます。
私は、鉄を巡って半島の製鉄集団が出雲から出雲往来に沿って、移動しながら製鉄技法を伝えたという説に同感しているので、今よりももっと国際色豊かだったのではと思っています。
それにしても語学堪能と思われるその渡来人二世が、伊那谷辺りを通って、3000メートルに届きそうな高い山々を見ながらヤマトに招聘され、記紀の執筆に当たったという、あり得そうな説に感心しました!
「則日本武尊 進入信濃 是國也 山高谷幽 翠嶺萬重」、この記述部分をもって、よくもそこまで考えが発展するものだと半ば呆れております。
そして今後、キャラメル・コーンを食べるとき、先入観に悩まされると思いました。
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2020/07/13 06:31:27
- Re: 亡命百済人or高句麗人の息子ですか(@_@)
- おはようございます。
はやくよくなってください。
元文献の言葉尻を捉えて、ありそうな話に発展させるのは、最も得意とするところ。学説のつまみ食いなどもおいいしい。元文献と考古学的事実に矛盾しなければ、何をどう書いてもいいのです。要はいかにそれらしく、書いている当方が楽しいか。
go to何とか、中身がよくわかりませんが、行けるものなら使ってみたいと思っています。6月末の飛鳥奈良で行き損ねたところがあるので、リターンマッチ。
10月末、コロナの状況次第ですね。
往復自家用車です。高速をまっすぐ走るだけなら、By妻でも運転できるのがわかりました。最低速度違反に気をつけなければ。
目的地についてしまえば、どっちみちめったに人なんか来ない遺跡ばかりです。部屋食、慣れれば気楽でいいもんです。
コロナも気からと申します。積極的に打って出る気構えを持つだけで元気になります。
-
- ももであさん 2020/07/09 18:47:43
- ドンドコドン、ヤア!
- ヤマトタケルさん 伊那谷にまで進出してたのですか!? 日本アルプスの地形を考えると自ずとこうなっちゃうのですね。北アルプスほどの派手さはありませんが、質実剛健な南アルプスは大好きで何度か縦走しました。北岳や塩見岳バットレスの力強いお姿にはいつも惚れ惚れします。
伊那谷はB級グルメの宝庫でこちらもよく出かけました。ローメンやソースカツ丼、信州蕎麦の有名どころはかなり制覇しました。
先日近所のスーパーでキャラメルコーンが\69だったので買いましたが、食べ終わった後で良かった。でも後はまだ残っているカールをどうするかですね^^; って既にドンドコドン、ヤア! ザザムシ、イナゴ、ハチノコ... 全部居酒屋の酋長に食べさせられました。
- しにあの旅人さん からの返信 2020/07/10 09:02:53
- Re: ドンドコドン、ヤア!
- さすがももであさん、なんでもお食べになる。イナゴの瓶詰はまだ未開封で8ヶ月も我が家にあります。友達が来ると出すのですが、みんななんとか理由をつけて食べようとは言いません。きっとただの佃煮だと思いますが。
キャラメルコーンは、妻の教育もあり、ふつーに食べます。
ドライブしていると、助手席から食べ物が自動的に供給されますが、その常連です。
だから車で旅に出ると、檄太りします。
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