2019/11/10 - 2019/11/10
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しにあの旅人さん
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旅に出たならば、帰らねばなりません。
東征のあとの、ヤマトタケルの家路を辿ります。
今回のテーマは、9泊10日が物語る記紀東征の不思議な平和主義。
古事記によれば、
「足柄の坂本に至り(中略)其の国より甲斐に越え出て酒折宮に坐(いま)しし・・・」
日本書紀もほぼ同じ、
「常陸を経て甲斐国に至り、酒折宮においでになった」
古事記の方が足柄山越えと経路が具体的なので、こちらを元に旅程を辿ります。
足柄山を下りて、甲斐国に入り、富士の裾野を北上します。
酒折の宮への最短距離ですから、ヤマトタケルの時代もだいたい同じような道を通ったはずです。古代、ここには東海道の支線、甲斐路があり、足柄山の西麓、東海道の横走駅から甲斐国の国府を結んでいました。甲斐国の国府はどこにあったか、正確には比定されていませんが、酒折の宮近くにあったという説が有力です。
今回の旅行記で引用、参照した資料は、
ヤマトタケルの家路1 足柄の坂
に列挙してあります。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
進行方向左にはいつも富士山。
でも古事記は一言も富士山には触れていません。
「其の国より甲斐に越え出て酒折宮に坐(いま)しし・・・」見事にスルーです。
これはこのあと、八ヶ岳山麓、伊那谷を通ったときにも感じたことですが、奈良盆地にはない見事な自然なのに、また日本ではここだけにしかない巨大な山岳なのに、古事記は信濃、甲斐の山々にはまったく興味がありません。
どうしてかな。 -
人なんて住んでいなかったのよ。
古事記の作者の興味は、ヤマトタケルがどこそこの部族の酋長の娘を娶ったとか、なんとか神といわれている山賊を退治したとか、誰か人間がいないとお話になりません。現代だって入ったら出てこられない自殺の名所?になっているそうだから。当時はいかほどの荒野か、恐ろしい。話の作りようもなかったでしょうよ。
By妻 -
富士山麓には行っていなんじゃないかな。
古事記の作者が書きたかったエピソードは、足柄山の「吾妻はや」、つぎは酒折宮の老人との歌のやりとり。そのあとは伊吹山事件から能褒野に至るヤマトタケル悲劇のクライマックス。もともと三つとも違う旅人の記録だから、つながるはずがない。でもつじつまを合わせる必要があるので、「其の国より甲斐に越え出て酒折宮に・・・」と華麗にワープ。 -
古事記っていうのは、ヤマト朝廷内の女性向け週刊誌だから。
いつの時代でも女はゴシップが好きだし、子供は冒険活劇にわくわく。富士山がどうのこうというような話は、興味ないの。私が古事記の作者なら、ヤマトタケルが富士山に登って、木花之佐久夜毘売(このはなさくや姫)に恋したという話にしたいところだけど、古事記のライターは一応ドキュメンタリーを目指しているのでしょうかね。ジャンプじゃなくて、ジャーナル狙い?
By妻
「ジャンプじゃなくて、ジャーナル狙い」通じないぜー、今日日。
夫より注釈。ジャンプとは少年ジャンプ。ジャーナルは今は亡き朝日ジャーナル。
かつて、60年代太古の昔、「馬手にジャーナル、弓手にジャンプ」と申しました。大学生が知的エリートという誇りをまだかすかにもっていたころの言葉です。 -
ところで、「宮廷の女子供」は古事記がすらすら読めたのかねえ。
「故、登立其坂、三歎詔云『阿豆麻波夜』故、號其國謂阿豆麻也」
さっきの足柄峠の場面だけど、
「かれ、其の坂に登り立ち、三たび嘆きのりたまわく、『あづまはや』 かれ其の国になづけて阿豆麻(あずま)というなり」
と読むんだって。崩れているけれど一応漢文だそうです。
「佐泥佐斯 佐賀牟能袁怒邇 毛由流肥能 本那迦邇多知弖 斗比斯岐美波母」
足柄山の前、走水での乙橘姫の歌。万葉仮名。
現代語訳だと、
「(さねさし)相模国の小野に 燃えて迫る火の 火の中に立って わたしの名をお呼び下さったあなたよ」
読み下しだと、
「さねさし、さがむ(相模)の小野に 燃ゆる火の 火中(ほなか)に立ちて 問いし君はも」
漢字の音が読めないと読み下せない。
「毛由流肥能」これがこのなかでは一番わかりやすいけれど、それでも「もゆるひの」とは、最初読めなかったよ!
毛が流れて能が肥えるって、何だ?「能」って、「熊」の間違いか? 熊が肥えったって意味不明。どうしても文字の意味に囚われちゃう。
崩れ漢文の方がまだ意味が分かる。つまり、漢字、 漢文の知識があって、しかも万葉仮名に相当慣れていないと、古事記は読めない。
ヤマト朝廷内の女子供が直接読むわけないじゃないと思う。
「古事記を読む会」とかいうのがあって、その係の人が、節をつけて、歌うように、読み上げる。伴奏がついたかも。古事記はそのための台本です。だから仲間うちで読めればいい半ぱな漢文、半ぱな読みになってもよかったのです。夜露死苦です。
朗々と読み上げる人を、ぼーっと憧れて見ている、自分じゃ読めない女官もいたり、漢文のお勉強ができなくて書紀を読めない、落ちこぼれた、親の七光り高級貴族も聞いていたんじゃないかと。
蜻蛉日記の作者の息子右大将道綱は、「自分の名前以外の漢字は読めない」とウソか本当か、悪口を言われていますし。貴族階級の人が皆々教養あるとは限りません。ましてやさらに昔ですからね~。
By妻
古事記には系図がよく出てくる。この東征だって、最後は系図。
系図が出てくると、ほにゃらの真人の息子曰く。「あのホニャラの命って、うちの先祖だって。爺ちゃんが言ってた」
「なんだ、たいしたとないね。おれんとこの先祖のナントカの尊の家来だぞ」となんとかの朝臣のガキ。「うるせえ!」というんで部屋の後ろで取っ組み合い。
などどいうことはないが、この系図を教えるというのは、ヤマト朝廷の貴族に序列をつけるという古事記の目的ではないかな。
系図だけ読み上げたって、ガキみこ(皇子)オシャマひめみこ(皇女)には興味ないけれど、その前に面白い話を振っておけば、みんな興味津々で食いついてくる。
序列を子供のうちから頭に染み込ませる高等戦術。
ていうか、これ逆です。系図があって、その添え書きが古事記。血筋というのは古今東西最重要事項です。呉茂一の「ギリシャ神話」は私の愛読書ですが、よくもまあ、あんな複雑な蜘蛛の糸のようにこんがらかった話をギリシャ人は作ったものです。
現代でも私は佐藤浩市を三國連太郎の息子って呼んじゃうし、宇野重吉の息子なんて、それで通じなかったら、ルビーの指輪で通じるし。この親子、ムチャクチャ似てきましたね。血って、やぱり無視できない何かでしょう。
By妻 -
などという話をしながら須走の浅間神社前で休息。
駐車場前の歩道橋は素晴らしい富士山の撮影スポットでした。山を巡る雲の姿が刻々と変わります。
話はちょっと変わって、古事記の朗読に伴奏がついたという仮定ですが、笛、太鼓に加えて、銅鐸もあったのではないかな。銅鐸が楽器かどうか、諸説ありますが、続日本紀(しょくにほんぎ)元明(げんめい)天皇紀和銅6年(713年)7月6日の条に、
「村君東人(むらきみの・あずまびと)は、長岡野の地で銅鐸を得て(天皇に)献上した。高さ3尺・口径1尺で、その造りは普通と異なっており、音色は律呂(りつりょ、楽のきまり)にかなっている」
とあります。銅鐸はBC2世紀からAD2世紀に作られました。続日本紀が完成したのは797年、銅鐸の時代から600年しかたっていない。当時の人は銅鐸は楽器だと思っていたわけです。ちっこいのを使っていたりして。
音楽は絶対に必要だと思います。サスペンスでもスリラーでも、バックの音がなければ滑稽だったりしますからね。
そこで思うのですが、古事記は朗読劇と同時にコーラスもついて、一大スペクタクル・ミュージカルになっていたんではないですかね。それを行うバンド名は稗田、そこの不世出の大歌手が阿礼。
それで舞台は古墳の上。なぜあんな前方後円の変な形をしているかといえば、片方が舞台でもう片方が身分の高い人のための特等席。どっちが舞台だろう。やっぱり後円部分かな。それで埋葬された天皇の生前の業績とかが歌われるわけ。あ、いやいや、やっぱり前方後円全部舞台で、本当は前円後方で、方部分が楽隊、円部分にソリスト。堀の水面を渡って響いてくる歌は、漆黒の暗闇の中で、それは死の国からの言葉に聞こえたことでしょう。
いかがでしょうか。またまた妄想でした。
By妻
出たあああ〜~~ By妻お得意のトンデモ古代情報!
でも、古墳の周りのお客は? てっぺんでやってたら、全然見えないよ。
主客はなくなった人。その家族も列席できた。堀の縁にひれ伏して聞いているってのはどうでしょう。権力者のこの世からあの世への旅立ちの儀式なんですよ。
それに気味の悪い想像ですが、ハニワ以前に古墳に生き埋めにされた奴婢たちにも聞こえたことでしょう。逆に言えば、死にゆく奴婢たちのうめき声も音楽が消したかもしれません。
By妻 -
酒折宮(さかおりのみや)
-
山梨県甲府市酒折3-1-13
-
この近くに甲斐の国府があった可能性もあるようです。
-
古代駅路東海道から別れた甲斐路がこの辺りに来て、ここから秩父を抜けて関東にでる雁坂路(かりさかじ)もあり、甲斐国の中心でした。
-
古事記によれば、
「その国から甲斐国に越出て、酒折宮に滞在なさった時に、歌っておっしゃる、
新治、筑波と通り過ぎて
幾夜寝たことだろう
すると、お傍で灯し火を焚く老人が、御歌に続けて歌っていう、
日数重ねて 夜は九夜
日は十日でございます
そこでその老人を誉めて、東の国造の地位を与えた」
変な話です。こんなことで東の国造の地位がもらえるのか。
日本書紀にも同じエピソードがあります。
記紀は同時に編纂されました。完成は古事記の方が早かった。この話は、書紀がオリジナルで、古事記は意味も分からずに適当にパクったのではないか 。
書紀では「厚く褒美を与えられた」と褒美の内容は書いてないので、まあまあ妥当な褒美だということでしょう。まさか国造の地位だとは読者は思わない。
古事記では「東の国造の地位を与えた」となっております。「まさか」です。「えっ!」であります。
古事記なら許しておきましょうか。どうせ、宮廷のあまりおつむの高級でない連中に読み聞かせるためのものです。おもしろければいい。
これは9泊10日でここまで来たということに重大な意味があるのです。書紀は知っているのです。
詳しくはあとで。 -
この問答歌のやりとりが、連歌の発祥だということになっています。
-
その歌碑です。
-
神社由緒によれば、この灯し火を焚く老人は塩海足尼(しおのみのすくね)
「日本武尊が酒折宮を発つときに、『吾行末ここに御霊を留め鎮まり坐すべし』と言われ、自身の身を救った『火打嚢(ひうちぶくろ)』を塩海足尼(しおのみのすくね)に授けました。
日本武尊の御命を奉戴した塩海足尼がこの『火打嚢』を御神体として御鎮祭したと伝えられています。
この『火打嚢』は(中略)伊勢神宮で叔母の倭姫命より「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」とともに授けられたものです。駿河の国で国造に欺かれて野火攻めに遭ったとき、これを用いて難を免れたといいます(古事記による)」
この塩海足尼(しおのみのすくね)ですが、神社由緒は下記を根拠にしていると思われます。
平安時代初期成立の歴史書「先代公事本紀」(せんだいくじほんぎ)の第10巻「国造本紀」に、
「甲斐国造(かいのくにのみやつこ)
纏向の日代の帝[景行天皇]の御世に狭穂彦王(さほひこのおおきみ)の三世の孫の臣知津彦公(おみちつひこのきみ)の子の塩海足尼(しおうみのすくね)を国造に定められた」
とあります。
ここでおもしろいのは、これは古事記の記述と違うのです。古事記開化天皇紀によると、開化天皇の孫の沙本毘子王(さほびこのみこ)が甲斐国造の祖先となっています。
先代公事本紀は、古事記や日本書紀をつなぎ合わせて作られたものだが、ところどころ違う記述があるそうです。これはその違う記述のひとつです。
もしかすると記紀以外の、失われた歴史書からの引用ではないか。壬申の乱の時、蘇我馬子の屋敷ごと焼滅したという歴史書、だったりして。
学部卒論、もしかすると修士論文クラスのテーマでいかがでしょう。「おまえやれ?」いやもう、今からでは寿命がもたない。
なお、
「先代公事本紀」現代語訳
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/sendaikuji_1.htm
は、HISASHIさんという方の労作です。プロフィルはこれ以上分かりません。「先代公事本紀」の現代語訳は、本も含めてほかにありません。こういう作品がネット上にあるというのは、驚嘆すべきことです。 -
七五三でした。女の子、七才ですね。健やかにお育ちください。
-
御朱印をいただきました。
-
「新治、筑波と通り過ぎて」とあります。ヤマトタケルが家路についた出発地を推定すると、新治、筑波の近くだということです。距離を測ってみたくなりました。9泊10日で来られるものか。
ウイキペディアによれば、常陸国国府は現石岡市の市立石岡小学校の校庭から遺構が発見されています。チーム・ヤマトタケルにはここから出発してもらいます。
古代国家の官道を通ったと仮定します。
「道路の日本史」によれば、古代の官道は1級官道に相当する駅路、2級官道的な伝路があります。「駅伝」の語源です。
また国府は駅路に面して建てられていることが多く、駅路は国府設立の前に存在していたことが分かります。当たり前で、道路がなければ国府など造れません。
「常陸国風土記」は721年成立です。その総記に、
「孝徳天皇の御代になって(中略)足柄の坂から東にある国全部を統括して治めさせた。その時に、あずまの国は分かれて八つの国となったが、常陸の国は、その一つであった」
とあります。
孝徳天皇の在位は645年-654年ですから、その時代に国府は創設されました。常陸の国からヤマトに向かう駅路、古代東海道はそれ以前に開通していたはずです。
「古代道路の謎」によると、駅路に関する日本書紀の最初の記述は、日本書紀欽明天皇紀32年(571年)です。4月15日、
「天皇(欽明天皇)は病に臥せられた。皇太子は他に赴いて不在であったので駅馬に走らせて呼び寄せた」
崇峻5年(592年)11月3日に崇峻天皇が東漢直駒(やまとの・あやの・あたいの・こま)に殺されました。5日の記述に、
「早馬を筑紫の将軍達の処に使わして『国内の乱れによって外事を怠ってはならぬ』と伝えた」
この時、任那は新羅と戦争中。同盟国任那に援軍を出すか、国際情勢が風雲急を告げるときでした。この記述により、ヤマトと北九州を結ぶ山陽道という駅路がすでに開通していたことが分かります。駅路による重要な情報の伝達が機能していたのです。
古代東海道の開通年代は不明ですが、7世紀前半は間違いなく、7世紀初めもいける、古代人にがんばってもらって6世紀末。6世紀から7世紀という、私たちが想像する、ヤマトタケルの旅行時期に強引にいれました。
官道は、なんと現代の高速道路と同じ経路を辿ることが多いそうです。なるべく直線で目的地に到達するという目的が共通だからです。したがって、石岡から酒折宮まで、可能な限り現代の高速道路、または直線道路を通る距離を計算しました。
歩くスピード。はるか後世になりますが、江戸時代、東海道を江戸から京まで、旅人は速い人で1日40キロを歩いていました。時速4キロで10時間。恐るべき健脚です。しかしできなくはないでしょう。
チーム・ヤマトタケルもこのくらいの速度でがんばってもらいます。
「道路の日本史」によると江戸時代の参勤交代の1日の移動距離は40キロです。参勤交代の大名行列は数百人というのも珍しくないので、すごいスピードです。通常人数が多くなると歩くスピードは落ちます。
参勤交代は藩の浮沈をかけた大事業で、1日40キロ歩けないような弱者は初めから連れてゆかない。集団競歩の訓練を受けたエキスパートだけが歩くと思えばいい。
これを数十人、数百人の団体でやるのですから、工夫がいります。荷物などは宿泊先の宿場に馬で先発させて歩くときは身軽にする。宿泊先の宿場では先発隊が準備を整えて待ち受けるなど、ロジスティックに万全を期したでありましょう。
現地でお金を払って人を雇い、物資を調達したのでしょう。参勤交代が藩の財政を圧迫するというのは、こういうロジスティックにお金がかかるからではないかな。本隊100人を歩かせるとしたら、それと同数、多分数倍のロジ部隊が必要です。大きなイベントをやったことがある方ならお分かりでしょう。
しかしこれは宿場の設備が完備した江戸時代のオペレーションの話で、古代では不可能です。
「道路の日本史」によると、官道の使用目的は1.国の緊急情報の伝達、2.軍隊の移動、3.公用役人の輸送、4.都への税金の輸送。
民間人の旅行など「眼中になかった」
「公務でない場合でも一定以上の官位をもつ者に対して駅家に泊まらせはするが、食事を提供してはならぬ」と律令(法律)で決まっていました。
記紀が旅行の主人公を天皇の皇子としたのは、こういう実情を知っていて、話にリアリティをもたせるためでしょう。皇子クラスで、東征という公務があって、やっと駅家に泊まれるのです。公務がないと皇子でも食事はでません。素泊まりです。この時代、皇子はうじゃうじゃいます。
古代は一民間人がトコトコ旅行できるような環境ではないようです。だれでも利用できる布施屋という救護施設ができたのは、平安末期だそうです。 -
まず通説の足柄峠越ではなく、足柄山碓井峠越のケース。
石岡―箱根の入口函嶺洞門。古代東海道168km は常磐自動車道、東名高速、小田原厚木道路のルートを通ったと仮定します。
ここまで、4日では8キロ足りないし、当時の川に橋はないので、渡河に時間がかかるとして5日。
函嶺洞門―酒折宮。
足柄の碓井峠を越えてからは、横走(よこはしり)駅という駅舎がありました。ここで東海道と甲斐路が分岐します。「ヤマトタケルの家路4-足柄山3」で述べたように横走駅は現御殿場市駒門(こまかど)の駒門風穴(こまかど かざあな)の近くという説に従います。 -
函嶺洞門-宮城野城、10.1km
-
宮城野城-駒門風穴、21.4km
足柄山越えは計31.5km -
甲斐路という二級官道のルートがよく分かりません。現代の道路で計算します。
甲斐路は御殿場で東海道と別れ、御殿場駒門風穴-鳥居地峠、30.1km -
鳥居地峠―御坂峠、22.3km
-
御坂峠-石和町を通過して酒折宮、24.4km。
なお御坂峠には、ヤマトタケルが通ったという伝承があるそうです。
合計108.3km 古代道路の原則により可能な限り直線道路を選びます。つづら折りの峠道を3カ所越えます。整備された一級官道ではないし、1日40キロは無理でしょう。峠越え1カ所1日として3日、プラス1日で計4日。
合計9泊10日。
石岡-酒折の宮9泊10日はドンピシャ可能なスケジュールです。 -
足柄峠のケース。
石岡国府-坂本宿168km。奇しくも石岡-函嶺洞門と同じ距離です。
足柄山碓井峠越と同じで5日。 -
坂本宿-横走駅29km
以降は足柄山碓井峠越と同じです。合計115キロ。約7キロこちらの方が長いですが、同様に峠越え1カ所1日として3日、プラス1日で計4日。
合計9泊10日。
石岡-酒折の宮9泊10日は、2コースともなんとかなります。
おそらく大半は野営に次ぐ野営、非常にハードな旅ですが、鍛え抜かれた少人数のエキスパートだけが旅をします。チーム・ヤマトタケル、がんばった!
ウイキペディアによれば、旧日本帝国陸軍の歩兵部隊では、旅次行軍つまり敵と接触する可能性のない普通の行軍では、1日の移動距離は24キロが標準でした。武器、食料を携帯しての移動で、徴兵による雑多な体格、体力の人たちの集まりですから、最も足の遅い兵士の速度に合わせます。旧陸軍はまるっきり機動力に欠ける軍隊で、歩兵部隊の移動は大戦末期の中国戦線でも、歩兵の足でした。そんな大事な歩兵の進軍速度でも1日24キロです。
古代の軍兵も徴兵制による同種の軍隊です。移動距離も同様と考えます。
すると1日24キロでは、石岡―箱根の入口函嶺洞門、または石岡-坂本宿の168km、は、ヤマトタケル同様渡河を勘定に入れると8日。
足柄峠越より距離が少し短い函嶺洞門-酒折の宮108.3キロ。3峠越えは、最も体力のない軍兵にあわせると、チーム・ヤマトタケルの倍かかるとして6日、1.5倍で4.5日。プラス1日、計7日または5.5日。
合計15日または13.5日です。この数字は、24キロ行軍したら、宿がなければ野営するという行軍となります。古代ですから、江戸時代の参勤交代のような別動ロジ部隊のサポートはありません。計算上できるという話で、実際には15日または13.5日でも無理でしょう。
石岡-酒折の宮9泊10日は不可能です。
ヤマトタケルは軍勢を連れていないというもう一つの根拠です。
酒折の宮の、灯し火を焚く老人との歌のやりとりは、この9泊10日という数字を出すのが目的ではないかと、私たちは思います。その他はおまけ。文字はいかようにも解釈できます。しかし数字には解釈の余地がありません。9泊10日は、どう読んでも9泊10日です。
そして9泊10日は絶妙な数字です。少人数の健脚な旅人、チーム・ヤマトタケルならなんとかできる。しかし軍勢をつれていたらできない。
記紀の冒頭で天皇自らが宣言した、東征は武力なしに行ったという記述を裏付けるために、記紀の作者が埋め込んだ明確な証拠です。
記紀のヤマトタケル東征は平和主義ではじまります。
「ヤマトタケルの家路1」の冒頭を再掲します。
☆☆☆
古事記東征の冒頭で、天皇は「軍隊も下さらず」東方を平定せよと命じたと、ヤマトタケルは叔母の倭比売命(やまとひめの・みこと)に嘆きます。
肝心の蝦夷に入ってからは、極めてあっさり。
「そこからさらに東へと入ってお行きになり、ことごとく荒々しい蝦夷どもを手懐け、また山河の荒々しい神どもを平定して」、ヤマトへ帰ってしまいます。主戦場になるはずの蝦夷の記述はこれだけです。これで「東征」?
日本書紀では、景行天皇は旅立ちの前のヤマトタケルに、
「深謀遠慮をもって、良くない者はこらしめ、徳をもってなつかせ、兵を使わずおのずから従うようにさせよ。言葉を考えて荒ぶる神を静まらせ、あるいは武を振るって姦鬼を打ち払え」
と指示しています。
つまり武力の行使を最低限にしろということです。
さて、いよいよヤマトタケルは船で「蝦夷の支配地に入った」とあります。
「蝦夷の首領島津神・国津神たちが、竹水門(たけのみなと)に屯して防ごうとした」
ところが、彼らはヤマトタケルの威光に恐れ入ってあっさり降伏。
「みずから縛についた形で服従した。それでその罪を許された。その首領を俘(とりこ)にして手下にされた」
このどこが「東征」でしょう。行っただけじゃないですか。
このあとに、
「蝦夷を平らげられ日高見国から帰り・・・」とあるので、主戦場は書紀でもこれでおしまい。
また帰路、ヤマトタケルは、能褒野(のぼの)で、
「神恩を被り皇威に頼って、背く者は罪に従い、荒ぶる神も自ずから従いました」
と述懐しています。
☆☆☆
この平和主義はなんなのか。
理由は、分かりません。不思議な平和主義です。
ヤマト朝廷の威信を宣伝するのが目的なら、威風堂々と軍勢を行軍させた方がいい。石岡から酒折の宮まで何日かかろうと、別に期限があるわけではない。このあとヤマトタケルは尾張で宮簀媛(みやずひめ)と結婚するのですが、式の場所日時が決まっていて、招待状は発送済みという話は聞いておりません。
以下は、By妻も真っ青のトンデモ説です。
これはもしかすると、この文章を書いた書紀の現場のライターのたくらみではないか。
編集長舎人親王は、5泊6日だろうが、12泊13日だろうが、興味はない。それをいいことに、現場のライターは、石岡-酒折の宮を9泊10日にした。舎人親王がすべての資料を持っているわけではない。現場の下級官吏、いわゆるノンキャリが、自分たちで集めた一次資料を押さえているのは今も昔も同じでしょう。舎人親王は、ノンキャリがどんな資料を持っているかさえ完全には知らないのです。
ヤマトが平和裏に東国に進出したのを知っている現場のライターは、「後世の人よ、ちゃんと計算して、ヤマトタケルは軍勢なしに旅したのを検証してくれよ」と、言いたかったのではないか。
現代でも、記紀の明白な記述にもかかわらず、房総各地にヤマトタケルが軍勢とともに通過したという伝承が残っています。書紀のライターはそれを見越して、反論できない証拠として、この9泊10日という数字を残した。
繰り返しですが、文字はいかようにも解釈できます。しかし数字、9泊10日は、どう読んでも9泊10日です。
理由は、東国開拓に現場で従事し、辛酸を舐め、犠牲になったパイオニアたちの名誉を守るため。彼らは、ライターと同じヤマトの下級官吏だったのでしょう。
「おれたちは、けっして東国を武力で征服したんじゃないんだ!!!」
分かったよ。君たちは、騎兵隊でインディアンを追っ払って西部を「開拓」した連中とはちがうんだね。
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この旅行記へのコメント (5)
-
- 前日光さん 2020/05/19 23:55:02
- by妻さーーん(^^;)
- その妄想っぷりに、群馬のお酒、「龍神大吟醸」で乾杯!
こんばんは、夜型人間なので、この時間にならないとなかなか調子が出ません(~_~;)
万葉仮名は、苦手でした^^;
だって漢字の意味を全く無視して、音だけを当てたのなんて。。。
後世の人間にそれ読めって、どんだけ意地悪なんだぁ~
(別に後の世の人に読んで!なんて思ってないと言われりゃそれまでですが)
古事記には、富士山のことがひと言もなかったですかね?
伊勢物語だったら、富士の山を見て「鹿の子まだら」に雪が積もってるなんて言ってるのに、富士山に登らなかったとしても、行く先々であの大きな山はイヤでも目に入ってきたでしょうが。
古事記が女性向け週刊誌だったとすれば、確かに大きなお山のことよりは、ヤマトタケルの華麗なる女性遍歴の方に興味があったことでしょうよ。
古事記にはメロディーが付いていた説、誰かがお話を語るときに、節を付けたって。。
それがやがて一大スペクタクルミュージカルとなり、古墳を舞台として演じられたとな??
古墳の中に生き埋めにされた奴婢たちの死にゆく声を、このスペクタクルミュージックがかき消したとは!
なんて荒唐無稽!奔放な妄想力!
わぁ~、どこまで行っちゃうんだぁ~(@_@)
でもこう言うの、好き!大好物!です。
9泊10日という揺るがない数字と不思議な平和主義、不可解ですね。
舎人親王は、確かに下っ端がどんな資料を持ってるかなんてことに思いを致すことはなかったでしょう。
現場のライターの深い慮り?
東国を武力で征服したわけではないということを、後世の人間は忖度しなさいということなのか?
いやはや、妄想と実証主義とがガッツリと組んでいるので難解でしたが、その分面白かったです(^_^)v
また次回もトンデモ妄想を期待しております(^_-)
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2020/05/21 10:46:28
- Re: by妻さーーん(^^;)
- By妻が快(怪)進撃です。皆さん、どんなトンデモ説が出るか楽しみにしているようで。褒められたので、ますます木に上ると思います。
記紀の原稿を書いたライターは必ずいます。どんなやつだったか、興味津々です。名前もプロフィルも残っていないので、何をどう想像しようとこっちの勝手。これからもたびたび出てきます。なんかもう、友達みたいな親近感を感じます。
私は記紀の斜め読み、意地悪読み、裏読みが大好き。なんとかアラを見つけてほじくり返せないものか。コロナ騒ぎで暇だし。
直近のニュースでは、首都圏の巣ごもり解除、今日は無理でも、来週半ばには検討するそうです。すわ、奈良か。
-
- ももであさん 2020/05/19 11:01:06
- ヤシオリ作戦
- 学生時代 ぼくも関西から長崎まで歩いて帰ったことがありましたが、
野宿しながら7泊半日 1日平均80キロ歩行でした。
今でも1日40キロ程度であれば、十分いけると思います。
もちろん道は整備されているし、幸い熊襲にも遭いませんでしたが。
平均的な体力は別としても、オリンピックの記録がどんどん伸びる
ように、チーム・ヤマトタケルよりも実は現代人の方がすごいかも
知れませんね。自衛隊員やウルトラマラソン経験者であれば、
十二分にクリアできそうな行程で、むしろ東征の実感が湧きました。
騎兵隊には無理でも、アメリカインディアンに至っては、1日で
150キロ移動していたと言われています。
現代よりも様々なハンデが大きかったチーム・ヤマトタケルの
元気の源は、ゴジラさえ退治した八塩折之酒ですかね!?
酒折宮と八塩折之酒は何か関連がありますか?
- しにあの旅人さん からの返信 2020/05/19 12:13:14
- Re: ヤシオリ作戦
- 1日80キロ! これはすごい! ということはほとんど走っていたということですね。
もっとも加賀前田家の参勤交代では、17世紀に、金沢ー江戸約500キロを5日で駆け抜けた記録が残っているそうです。1日100キロです。人数は2500人とか。大集団がホコリを巻きあげながら走ったのでしょうね。
500キロを走る2500人の集団マラソン、オリンピックでやってみたら面白い。多分、勝てる現代人はいません。エントリーする国は、まずない。
ヤシオリ酒、酒折の宮には出てきませんね。酒を呑む場面が出てこない。火を囲みながら飲んでいたのかな。チーム・ヤマトタケルの主要メンバーはこの日早寝したという説を次回ぶち上げます。
- しにあの旅人さん からの返信 2020/05/19 12:27:05
- Re: ヤシオリ作戦
- 追加。
最期の5日目は今の群馬県安中あたりから江戸まで126キロを、未明に立って午後1時に江戸に着いたそうです。10月の話ですから、実動10時間として時速13キロです。100キロを4日間走った後ですからね、できる現代人は多分、いません。
やろうとする人がいない。
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