2019/11/10 - 2019/11/10
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しにあの旅人さん
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旅に出たならば、帰らねばなりません。
東征のあとの、ヤマトタケルの家路を辿ります。
日本書紀より。
「常陸を経て甲斐国に至り、酒折宮においでになった。
『蝦夷の悪い者たちはすべて罪に服した。ただ信濃国、越国(こしのくに)だけが少し王化に服していない』と、甲斐から北方の、武蔵・上野(かみつけ)をめぐって、西の碓井坂にお着きになった。
日本武尊は信濃に進まれた」
「坂」は記紀の時代「峠」を意味します。
この旅行は2019年11月16日でしたが、「ヤマトタケルの家路7」として順番に並べたいので、旅行日付は2019年11月10日とします。
参考、引用資料については
「ヤマトタケルの家路1」
に列挙してあります。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
-
酒折宮では御火焚(みひたき)の者との歌のやりとりがあります。古事記とほぼ同じです。
「この夜、歌を作って従者にお尋ねになって、こう言われた。
新治や筑波を過ぎて、幾夜寝ただろうか。
従者達は答えられなかった。御火焚の者が、皇子の歌の後を続けて歌って、
『日数を重ねて、夜は9夜、昼は10日でございます』とお答えした。
御火焚の賢いのを褒めて、厚く褒美を与えられた」
褒美の内容は書いてありませんが、古事記では「東の国造の地位を与えた」となっております。 -
古事記と同じ、「新治や筑波」より9泊10日で来ています。
古代には駅路というヤマトと地方の国府を結ぶ官道がありました。駅路は、驚いたことに、現代の高速道路と同じ道筋であることが多いのです。目的地に早く着くには、可能な限り直線にするという、目的が同じだからです。ヤマトタケルの道筋も高速か、なるべく直線の道路を選んで大きな間違いはありません。
この地図のように現東京からは、笹子峠を越えて行くのが最短距離ですが、駅路も、2級官道ともいうべき伝路もありません。
遠回りですが、古事記と同じ足柄山越えのルートをとったとします。古代、ヤマトから甲斐国へのメインルートは、東海道を足柄山の麓から北上、甲斐路という駅路を通りました。
出発を石岡とした理由、足柄山越のルート詳細、当時の官道と1日の進行距離は、
「ヤマトタケルの家路6」
をご覧下さい。
ここで「従者達は答えられなかった」というのが分からない。覚えていないのか、数が数えられないのか。我が家の孫が3歳半の頃「5,6,9・・・」などとやっておりましたが。
従者とはだれか。
日本書紀では、ヤマトタケルには吉備武彦(きびの・たけひこ)、大伴武日連(おおともの・たけひの・むらじ)が従っています。七掬脛(ななつかはぎ)が専属料理人として同行しています。
古代人は立派な官道を日本全国に張り巡らせました。今も昔も土木工事には高級な数値計算が必須です。当時の算数のレベルがそんなに低いとは思えないのですが。
しかも天下のヤマトタケルの家来ですよ。
書紀のこの文章のライターさん、なんですか、この3人になにか恨みがあるのですか。
吉備武彦、大伴武日連は連日の旅の指揮で疲れてもう寝ていた。七掬脛はコックだから翌朝の朝食の仕込みで火のそばにいなかった。答えられなかったのは他の従者、それはありうる。それならそうとはっきり書きなさい。名前の分かっている従者はこの3人だけ、なにも1300年のあとまで、この3人が算数の落ちこぼれだと誤解させるようなことを書くべきではない。
☆☆☆
ある集まりのことです。
最初は税金のこととか、社会人らしいというか、大人らしい話をしていたのですが、ある画家が「絵描きは1日中絵を描いているからお金の計算なんてできない」と言ったんです。すると「バレエを踊っていると、頭が重たいと飛べないからね~」と舞踏家。
それをきいた音楽家が「だいたい音楽やっているような人間は、子供の時から1日何十時間もピアノとかバイオリンの練習しかしていないから、数なんて、1,2,たくさんだよ」って...1日何十時間って! 確かに! この人数字弱いんだなと思いました。
そういう人たちを存じ申し上げているもので、この話は、ヤマトタケルの家来たちは、絵描きと舞踏家と音楽家なんだなと思っていました。そういう私も、相当1,2,たくさんの口です。
By妻
「常陸を経て甲斐国に至り、酒折宮においでになった。
『蝦夷の悪い者たちはすべて罪に服した。ただ信濃国、越国(こしのくに)だけが少し王化に服していない』と、甲斐から北方の、武蔵・上野(かみつけ)をめぐって、西の碓井坂にお着きになった」
日本書紀が語る、酒折宮から碓井峠にいたる、ルートです。
非常に不自然なルートです。
武蔵、上野をめぐるなら、甲斐に入る前に回っておいた方がいい。
ヤマトタケルの旅で、経路だけ記されていて詳細がない、空白の旅路の一つです。いつの日か、訪ねてみたいと思っております。 -
神社検索サイト「八百万の神」により、武蔵・上野(現東京都三多磨、栃木県、群馬県)のヤマトタケルを祀る神社、ゆかりの神社を地図上に記録してみました。すると面白い地図ができます。
個々の神社の詳細ははぶきます。関東平野の西を縁取る山岳地帯に沿って神社が続きます。まだ神社の創建年代、由緒など詳しいことは調べておりません。書紀がいうヤマトタケルの武蔵、上野の旅とは、このコースではないか。東国旅行史上特筆すべき何かがあったらしい。
なお私たちは、武蔵国=現東京都と思っていました。古代の武蔵国は、現埼玉県のほとんどを含み、現在の東京都よりはるかに広い地域です。
酒折宮から秩父山塊を踏破して三峯神社、その後関東平野に出るというコースもあります。雁坂路です。酒折神社から三峯神社まではまだ行っておりませんが、その先三峯神社から秩父に行く道路は走ったことがあります。現在でも車のすれ違いが難しい大変な道路です。当時はどんな悪路か。そんな道筋で酒折宮から関東平野に戻るというのは、不合理です。
私たちは、ヤマトタケルは、6-7世紀にヤマトから東国を旅した多くの旅人の総称だと考えています。そうすると話しは簡単です。
石岡から酒折宮に旅したのは旅行者A、石岡から武蔵・上野を回って碓井峠に至ったのは旅行者B。両方をヤマトタケル1人の旅に統合すると、「甲斐(酒折宮)から北方の、武蔵・上野(かみつけ)をめぐって、西の碓井坂にお着きになった」という旅程になります。 -
「日本武尊は常に弟橘姫を思い出される心があって、碓日の峯にのぼり、東南の方を望んで三度嘆いて『吾嬬はや、ああ』と言われた。それで碓日の峯より東の諸国を吾嬬国(あずまのくに)という」
日本書紀より。
峠より東南。これが、ヤマトタケルが見た風景です。 -
走水で最愛の妻、乙橘姫を失ったヤマトタケルが、東国を去るにあたり、万感の思いを込めて「我が妻よ」と歌い上げるにふさわしい山々であると、私たちは思いました。
-
前景は妙義山、その向こうはおそらく秩父山塊。
足柄峠よりはるかにスケールの大きな景観です。書紀のこの項のライターは、この景色を実際に見たことがあるのではないか、と思います。
古事記、日本書紀の編集者がもっていた、妻を関東で失ってヤマトへ帰る貴人の記録は同じものであった。家路のどこかで「我が妻よ」と叫んだとその記録にあった。
古事記のライターはそれを足柄山の峠に設定した。書紀は古事記のあとに完成しています。
書紀の筆者は、足柄山の「我が妻よ」では迫力に欠けると思った。そこで自分の知っている関東を見渡せる峠、碓井坂に舞台を変えた。私たちの推理です。
あとだしジャンケンですが、碓井坂の方が、ヤマトタケルに「我が妻よ」と歌わせる雄大さを持っています。
ただ、彼は足柄峠から走水が見える可能性には、思いが及ばなかった。走水が見えれば、この場面の悲劇性が劇的に高まります。おそらく彼は実際の足柄峠を知らない。原生林のなかの低い峠くらいの、伝聞資料しか手元になかったのでしょう。 -
北八ヶ岳かな。
-
蓼科山ではないかと思います。
-
背後の浅間山
日本書紀は舎人親王の編纂ということになっています。編集長であります。現在と同じで、編集長が全文を書くわけではありません。編集方針は彼が立てますが、実際の叙述は編集部の現場のライターの仕事です。この仕事のやり方は現在でも古代でも同じはずです。
ヤマトタケルの東征を担当したライターの机上には、東国の旅の途中で妻が客死し、悲しみに溢れて碓井峠を越えたヤマトの貴公子の報告書があった。そのほかにも、困難な東国の旅の記録がたくさんあった。
その思いをヤマトタケルに仮託して後世に残したいと彼は思った。困難な辺境の旅の実態を知る彼としては、旅人へのオマージュとして、この物語を書紀に残した。
私たちが、書紀の編集現場のライターになったつもりの解釈です。
書紀が描くヤマトタケルの東征の物語そのものはフィクションです。ヤマトタケルは実在しません。
しかしこの文章を書いた人物は確実にいたのです。8世紀初頭のある日、彼は机に向かって、この文章を書いた。そのときの彼の意図を推察することは可能です。
私たちは、日本書紀ヤマトタケル東征の物語を書いた人物は、古事記と違い、甲斐、信濃を実際に旅した人物、もしかすると甲斐国、あるいは上野国の生まれではないかと、想像しています。「ヤマトタケルの家路」の後半で、例によってゴチャゴチャと理屈を並べる予定です。 -
ところで、不思議なことがあります。
「日本武尊は常に弟橘姫を思い出される心があって、碓日の峯にのぼり、東南の方を望んで三度嘆いて『吾嬬はや、ああ』と言われた」
「故登碓日嶺而『東南』望之三歎曰吾嬬者耶嬬」(『 』挿入は筆者)
日本書紀原文です。間違いなく「東南」を望んでおります。
「東南の方」とは上図です。乙橘姫が入水した走水、浦賀水道は正確に東南にあります。
走水まで直線で157kmあります。走水は地球の球面の遙か向こうで、その彼方の房総半島には500メートルを超える山はなく、目印はありません。
実測に基づく地図がない時代に、どうして走水がある方位を正確に知ることができたのか。
走水の海難事故で妻を失った旅人の記録、または伝承があり、その中に「碓日の坂で南東を望んで妻に最後の別れを告げた」とあったので、書紀のライターはよく考えずにそのまま採用した。
このコースでヤマトへ帰るとき、碓井峠を越えれば二度と東(あずま)、つまり関東を見ることはありません。
その旅人は、東南の方向から亡き妻が「あなた、さようなら」と言った、と感じた。
または、
その旅人は、東南の方向に亡き妻の幻影を見て「おまえ、さようなら」と言った。
きわめて、あやふやな推測であります。 -
熊野皇大神社は、旧東山道の碓井峠に鎮座しています。碓井峠は古代東国とヤマトを往来する旅人を悩ませた難所でした。
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群馬県と長野県の県境にあります。そのため一つの神社ですが、宗教法人としては長野県熊野皇大神社と群馬県熊野神社の2社に別れています。お社も二つ、宮司さんも2人いらっしゃいます。
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木彫りの社標の左が群馬県熊野神社、石の社標の左が、
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長野県熊野皇大神社
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小さなお社が2社並んでおります。
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御朱印も別です。群馬県熊野神社。
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長野県熊野皇大神社
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階段の左右に狛犬さん。
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室町時代中期の作というと、狛犬として全国的にいっても古い方です。
狛犬か唐獅子か、まったく不明。 -
右側ですから口を開いた「阿」のはずですが、摩耗が激しくてどこが口かはっきりしません。真横から見ると開いているような。
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左側。「吽」閉じているような。
最初見たときは、目、耳、しっぽがなく、寸胴に手足、狛山椒魚かと思いました。足がなければ狛なまず。 -
神社前に見晴台があります。しかし電線や土産物屋が目の前で、せっかくの景観がめちゃくちゃです
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東山道のころは、ここから前述のような、関東平野の大パノラマが見渡せたことでしょう。
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神社境内のシナノキ。推定樹齢800年、目通り幹囲5.7メートルの巨木です。
この神社で一番古く、神社の主のようでありました。しかしヤマトタケルたちが旅した時代、この巨木ですらまだありません。この木の幼木が芽吹いたときより、さらに600年も前の物語です。
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この旅行記へのコメント (3)
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- しにあの旅人さん 2020/06/05 06:26:09
- おはようございます
- 私は完全な朝型。4時過ぎに起きて、8時には寝てしまいます。午前中散歩か家庭菜園の世話、午後は昼寝、頭を使うのは、この旅ブログの読み書きだけです。おかげさまで、夫婦2人ともこの半年、房総はおろか長生郡から一歩も出ずに過ごしました。
毎回タケル君にお付き合いいただき、本人になりかわりまして感謝いたします。やっと碓氷峠を越えたところ、これからヤマトまでまだ遠路遥々であります。
古代人の地理感覚は、驚くことばかりです。駅路の国府から次の国府までまっすぐに道を作るといいますが、実測地図がないのに、どうやって次の国府の方向を知ったのだろう。夜、星を見ながら測量したのかな。私なら無理。でも夜型の前日光さんなら大丈夫ですね。天武天皇に重用されたでしょう。
-
- 前日光さん 2020/06/05 00:11:23
- ヤマトタケル複数説 賛成!です
- しにあの旅人さん、こんばんは。
いいね!してから数日間、なぜかパソコンの前に落ち着いて坐る時間がなく。。。(^_^;
せっかくいろいろコメントしようと思っていたのに、かなり忘却しました。
でもヤマトタケル複数説とか、舎人編集長の下で、ライターがそれぞれの見聞をまとめたという説も大賛成!です。
新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる。。。に答えられなかった従者たち、吉備さん、大伴さん、ナナツカハギさんが算数が苦手だったと1300年後にも伝わってしまったのは、彼らに気の毒ですね。
きっと名前が残っていない従者たちがオバカさんだったのだと、大伴氏が好きな私は思います(大伴家持と旅人が好きなだけですが)
そしてまたしても、by妻さんの絵描きと舞踏家と音楽家は「1、2。。。たくさん」という数字概念の持ち主であるという説に、ハタと膝を打ちました!
自分の絵はいくらで売れるとか、バレエやコンサートの儲けなんかを気にするゲージツカは、所詮本物ではありません。
生活に困窮しても、自らの芸術性を追求するようでなくては。
(それにしても現在、コロナのせいで、芸術活動ができないというのは、本当に気の毒だと思います。)
私、実は役行者にも興味がありまして。
この方も複数存在し、全国津々浦々に出没していたのではないかと以前から思っています。
これだと弘法大師も、そういうことになりますかね。
一人の人間の行動が、いつのまにか複数に存在していたかのように見えるというのは、やはりその最初の人物が優れものだったからなのでしょうが。
それにしても、書記の「吾嬬はや、ああ」と叫んで東南の方を見たという記述と、走水の方角が一致しているのですねぇ。
偶然なのか、はたまた複数の似たような体験をした旅人の記録をライターが採用したという説、あやふやとおっしゃいますが、いとおもしろしです。
書き足りないことが多々ありますが、時間も遅くなりましたので、今回はこの辺で。
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2020/06/05 06:27:03
- Re: ヤマトタケル複数説 賛成!です
- また間違えた。新コメントを起こしてしまいました。
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