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旅に出たならば、帰らねばなりません。<br />東征のあとの、ヤマトタケルの家路を辿ります。<br /><br />更新記録<br />2020/05/05 引用資料「先代公事本紀」現代語訳追加<br /><br />私たちは、古事記と日本書紀が語るヤマトタケルの東征の物語は、6世紀から7世紀ごろ、ヤマトから東国を旅した人々の旅行記だと思っています。<br />東征には華々しい戦いの描写などはありません。武力による東国の征服物語などではないのです。<br /><br />古事記東征の冒頭で、天皇は「軍隊も下さらず」東方を平定せよと命じたと、ヤマトタケルは叔母の倭比売命(やまとひめの・みこと)に嘆きます。<br />肝心の蝦夷に入ってからは、極めてあっさり。<br />「そこからさらに東へと入ってお行きになり、ことごとく荒々しい蝦夷どもを手懐け、また山河の荒々しい神どもを平定して」、都へ帰ってしまいます。主戦場になるはずの蝦夷の記述はこれだけです。これで「東征」?<br /><br />日本書紀では、景行天皇は旅立ちの前のヤマトタケルに、<br />「深謀遠慮をもって、良くない者はこらしめ、徳をもってなつかせ、兵を使わずおのずから従うようにさせよ。言葉を考えて荒ぶる神を静まらせ、あるいは武を振るって姦鬼を打ち払え」<br />と指示しています。<br />つまり武力の行使を最低限にしろということです。<br />さて、いよいよヤマトタケルは船で「蝦夷の支配地に入った」とあります。<br />「蝦夷の首領島津神・国津神たちが、竹水門(たけのみなと)に屯して防ごうとした」<br />ところが、彼らはヤマトタケルの威光に恐れ入ってあっさり降伏。<br />「みずから縛についた形で服従した。それでその罪を許された。その首領を俘(とりこ)にして手下にされた」<br />このどこが「東征」でしょう。行っただけじゃないですか。<br />このあとに、<br />「蝦夷を平らげられ日高見国から帰り・・・」とあるので、主戦場は書紀でもこれでおしまい。<br />また帰路、ヤマトタケルは、能褒野(のぼの)で、<br />「神恩を被り皇威に頼って、背く者は罪に従い、荒ぶる神も自ずから従いました」<br />と述懐しています。<br /><br />東「征」というものの、東国は武力なしにヤマト朝廷の勢力下におくことができたと、記紀が自ら述べています。国造(くにのみやつこ)と呼ばれる各地土着の豪族と、ヤマト朝廷との緩やかな連合体が、平和裏にできたと考えるべきでしょう。<br />軍勢など連れていない明確な根拠は、帰路常陸の国から酒折の宮まで9泊10日で移動していることです。軍勢など率いていたら、この数字はでません。移動不可能です。<br />「ヤマトタケルの家路4」の最後で、マニアックに計算するつもりです。<br /><br /><br />しかしこれは大事業でした。100年以上の時をかけ、ヤマトから東国に赴いた数多くの人々の努力の結晶だと思います。<br />まず自然にできた道をたどって、パイオニアが地方の有力豪族との接触を図ります。彼らとの交渉のため、東国に赴いた皇子クラスの貴人、大官もいたでしょう。<br />話がまとまると、ヤマトとその国を直線に結ぶ官道、駅路建設のため、技術者集団が大挙して東に向かいます。ヤマト朝廷の地方での拠点となる国府ができます。駅路を辿って国府に赴任、帰任する中下級官僚が旅をします。農民が納税のためヤマトと国とを往復します。防人が通ります。このくりかえしで、ヤマト朝廷は支配権を東国に広げていったのです。<br />しかし、この時代、東国への旅は極めて過酷なものでありました。<br /><br />記紀はそれを成し遂げた人々を讃えるために、東国の旅人の物語を語ることにしました。朝廷の命により東国を旅した旅人の記録を、収集したはずです。しかしそれをそのまま並べただけでは、「東国の旅は大変だったんだよ」「あー、大変だったね」で終わってしまいます。<br />記紀の編集部は、これをヤマトタケルという英雄の物語とする基本方針を決め、集めた手元の記録から、それにふさわしい物語をつなぎ合わせたと、私たちは思っています。<br />古事記は、宮廷の女性読者を念頭におき、歌謡叙事悲劇を歌い上げました。<br />日本書紀は、歴史書らしく、もう少し冷静に困難な旅の実情を叙述しました。<br />一人の記録ではないので、ヤマトタケルのゆかりの地があちこちにあって当然です。<br />全部に、違う旅行者が行ったのです。<br /><br />今回の旅行記では次の資料を使用しました。<br /><br />「全現代語訳・日本書紀」宇治谷孟・講談社学術文庫<br />「全現代語訳・続日本紀」宇治谷孟・講談社学術文庫<br />「新版言語訳付き・古事記」中村啓信・角川ソフィア文庫<br />「風土記上」中村啓信・角川ソフィア文庫<br />「更級日記 現代語訳付き」原岡文子訳注・角川ソフィア文庫電子版<br />「先代公事本紀」現代語訳<br />http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/sendaikuji_1.htm<br />文中、引用、参照が「日本書紀」「続日本紀」「古事記」「風土記」「更級日記」「先代公事本紀」とあるのはこの資料をさします。<br />日本の神社・寺院検索サイト「八百万の神」 https://yaokami.jp/<br />神社を地域別・主祭神別に検索できる非常に優れたサイトです。いつもお世話になっております。<br />「道路の日本史」服部健一・中公新書電子版<br />「古代道路の謎」近江俊秀・祥伝社新書<br />「古代甲斐国の交通と社会」大隅淸陽・六一書房<br />「日本古代の道と駅」木下良・吉川弘文館<br />「日本古代道路辞典」古代交通研究会編・八木書店<br /><br />古事記によれば、ヤマトタケルは東国を平和裏に平定し、新治(にいばり)、筑波より都へ帰還します。家路についたのです。<br />「足柄の坂本に至り(中略)其の国より甲斐に越え出て酒折宮に坐(いま)しし・・・」<br />「坂」は峠のことです。「峠」という漢字は国字です。15世紀頃作られた文字のようです。記紀の頃は、峠は「坂」と書かれました。足柄山で峠を越え、酒折の宮にいたる旅をたどります。<br />古代の東海道は足柄山を越えていました。通説では、8世紀以降奈良平安時代は現在の県道78号線足柄峠です。それ以前ははっきりわかりません。7世紀半ばには東海道は開通していました。それをいいことに、あえて、ヤマトタケルには足柄山碓井峠を越えてもらいます。

ヤマトタケルの家路1 足柄の坂

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2019/11/10 - 2019/11/10

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旅行記グループ ヤマトタケルの家路

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31

しにあの旅人

しにあの旅人さん

旅に出たならば、帰らねばなりません。
東征のあとの、ヤマトタケルの家路を辿ります。

更新記録
2020/05/05 引用資料「先代公事本紀」現代語訳追加

私たちは、古事記と日本書紀が語るヤマトタケルの東征の物語は、6世紀から7世紀ごろ、ヤマトから東国を旅した人々の旅行記だと思っています。
東征には華々しい戦いの描写などはありません。武力による東国の征服物語などではないのです。

古事記東征の冒頭で、天皇は「軍隊も下さらず」東方を平定せよと命じたと、ヤマトタケルは叔母の倭比売命(やまとひめの・みこと)に嘆きます。
肝心の蝦夷に入ってからは、極めてあっさり。
「そこからさらに東へと入ってお行きになり、ことごとく荒々しい蝦夷どもを手懐け、また山河の荒々しい神どもを平定して」、都へ帰ってしまいます。主戦場になるはずの蝦夷の記述はこれだけです。これで「東征」?

日本書紀では、景行天皇は旅立ちの前のヤマトタケルに、
「深謀遠慮をもって、良くない者はこらしめ、徳をもってなつかせ、兵を使わずおのずから従うようにさせよ。言葉を考えて荒ぶる神を静まらせ、あるいは武を振るって姦鬼を打ち払え」
と指示しています。
つまり武力の行使を最低限にしろということです。
さて、いよいよヤマトタケルは船で「蝦夷の支配地に入った」とあります。
「蝦夷の首領島津神・国津神たちが、竹水門(たけのみなと)に屯して防ごうとした」
ところが、彼らはヤマトタケルの威光に恐れ入ってあっさり降伏。
「みずから縛についた形で服従した。それでその罪を許された。その首領を俘(とりこ)にして手下にされた」
このどこが「東征」でしょう。行っただけじゃないですか。
このあとに、
「蝦夷を平らげられ日高見国から帰り・・・」とあるので、主戦場は書紀でもこれでおしまい。
また帰路、ヤマトタケルは、能褒野(のぼの)で、
「神恩を被り皇威に頼って、背く者は罪に従い、荒ぶる神も自ずから従いました」
と述懐しています。

東「征」というものの、東国は武力なしにヤマト朝廷の勢力下におくことができたと、記紀が自ら述べています。国造(くにのみやつこ)と呼ばれる各地土着の豪族と、ヤマト朝廷との緩やかな連合体が、平和裏にできたと考えるべきでしょう。
軍勢など連れていない明確な根拠は、帰路常陸の国から酒折の宮まで9泊10日で移動していることです。軍勢など率いていたら、この数字はでません。移動不可能です。
「ヤマトタケルの家路4」の最後で、マニアックに計算するつもりです。


しかしこれは大事業でした。100年以上の時をかけ、ヤマトから東国に赴いた数多くの人々の努力の結晶だと思います。
まず自然にできた道をたどって、パイオニアが地方の有力豪族との接触を図ります。彼らとの交渉のため、東国に赴いた皇子クラスの貴人、大官もいたでしょう。
話がまとまると、ヤマトとその国を直線に結ぶ官道、駅路建設のため、技術者集団が大挙して東に向かいます。ヤマト朝廷の地方での拠点となる国府ができます。駅路を辿って国府に赴任、帰任する中下級官僚が旅をします。農民が納税のためヤマトと国とを往復します。防人が通ります。このくりかえしで、ヤマト朝廷は支配権を東国に広げていったのです。
しかし、この時代、東国への旅は極めて過酷なものでありました。

記紀はそれを成し遂げた人々を讃えるために、東国の旅人の物語を語ることにしました。朝廷の命により東国を旅した旅人の記録を、収集したはずです。しかしそれをそのまま並べただけでは、「東国の旅は大変だったんだよ」「あー、大変だったね」で終わってしまいます。
記紀の編集部は、これをヤマトタケルという英雄の物語とする基本方針を決め、集めた手元の記録から、それにふさわしい物語をつなぎ合わせたと、私たちは思っています。
古事記は、宮廷の女性読者を念頭におき、歌謡叙事悲劇を歌い上げました。
日本書紀は、歴史書らしく、もう少し冷静に困難な旅の実情を叙述しました。
一人の記録ではないので、ヤマトタケルのゆかりの地があちこちにあって当然です。
全部に、違う旅行者が行ったのです。

今回の旅行記では次の資料を使用しました。

「全現代語訳・日本書紀」宇治谷孟・講談社学術文庫
「全現代語訳・続日本紀」宇治谷孟・講談社学術文庫
「新版言語訳付き・古事記」中村啓信・角川ソフィア文庫
「風土記上」中村啓信・角川ソフィア文庫
「更級日記 現代語訳付き」原岡文子訳注・角川ソフィア文庫電子版
「先代公事本紀」現代語訳
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/sendaikuji_1.htm
文中、引用、参照が「日本書紀」「続日本紀」「古事記」「風土記」「更級日記」「先代公事本紀」とあるのはこの資料をさします。
日本の神社・寺院検索サイト「八百万の神」 https://yaokami.jp/
神社を地域別・主祭神別に検索できる非常に優れたサイトです。いつもお世話になっております。
「道路の日本史」服部健一・中公新書電子版
「古代道路の謎」近江俊秀・祥伝社新書
「古代甲斐国の交通と社会」大隅淸陽・六一書房
「日本古代の道と駅」木下良・吉川弘文館
「日本古代道路辞典」古代交通研究会編・八木書店

古事記によれば、ヤマトタケルは東国を平和裏に平定し、新治(にいばり)、筑波より都へ帰還します。家路についたのです。
「足柄の坂本に至り(中略)其の国より甲斐に越え出て酒折宮に坐(いま)しし・・・」
「坂」は峠のことです。「峠」という漢字は国字です。15世紀頃作られた文字のようです。記紀の頃は、峠は「坂」と書かれました。足柄山で峠を越え、酒折の宮にいたる旅をたどります。
古代の東海道は足柄山を越えていました。通説では、8世紀以降奈良平安時代は現在の県道78号線足柄峠です。それ以前ははっきりわかりません。7世紀半ばには東海道は開通していました。それをいいことに、あえて、ヤマトタケルには足柄山碓井峠を越えてもらいます。

旅行の満足度
5.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
交通手段
自家用車
  • 国道1号(現東海道)が箱根山中に入ってしばらく、どこかで見たことがある景色です。

    国道1号(現東海道)が箱根山中に入ってしばらく、どこかで見たことがある景色です。

  • 函嶺洞門(かんれい・どうもん)です。数年前まで箱根駅伝の走者は、この洞門の中を走りました。

    函嶺洞門(かんれい・どうもん)です。数年前まで箱根駅伝の走者は、この洞門の中を走りました。

  • ようやく山頂に陽が当たりはじめました。<br />今は、走者はこの橋を越えます。ここから登りはどんどんきつくなり、こんな坂を走っていたのかと驚きます。ヘアピンカーブなど、ギアをBレンジに落とす必要があります。<br />ヤマトタケルの一行もこのコースを辿ったはずです。従うメンバーは吉備建日子(きびの・たけひこ)、七掬脛(ななつかはぎ)、彼は一行専属料理人です。荷物運びのスタッフが何人かいたでしょう。多くても合計10人くらいではないでしょうか。<br />律令制による街道の整備が行われたのは8世紀、それ以前の旅ですから、宿駅などあてになりません。補給を考えると、人数が少ない方が荷物も少なく、旅がしやすいのです。

    ようやく山頂に陽が当たりはじめました。
    今は、走者はこの橋を越えます。ここから登りはどんどんきつくなり、こんな坂を走っていたのかと驚きます。ヘアピンカーブなど、ギアをBレンジに落とす必要があります。
    ヤマトタケルの一行もこのコースを辿ったはずです。従うメンバーは吉備建日子(きびの・たけひこ)、七掬脛(ななつかはぎ)、彼は一行専属料理人です。荷物運びのスタッフが何人かいたでしょう。多くても合計10人くらいではないでしょうか。
    律令制による街道の整備が行われたのは8世紀、それ以前の旅ですから、宿駅などあてになりません。補給を考えると、人数が少ない方が荷物も少なく、旅がしやすいのです。

  • 駅伝でお馴染み宮ノ下で、ヤマトタケルのコースは駅伝コースと別れ、138号になります。台風19号くずれの大雨で138号はこの先土砂崩れで通行止めでした。

    駅伝でお馴染み宮ノ下で、ヤマトタケルのコースは駅伝コースと別れ、138号になります。台風19号くずれの大雨で138号はこの先土砂崩れで通行止めでした。

  • 土砂崩れ現場です。2020年4月に撮ったもので、仮橋ができて一応復旧されておりました。

    土砂崩れ現場です。2020年4月に撮ったもので、仮橋ができて一応復旧されておりました。

  • 土砂は早川まで迫っておりました。<br />この道は江戸時代箱根裏街道とよばれ、箱根越えの重要な道路でした。おそらく古くからあった路でしょうが、険しい谷間を通る路で、災害には弱かったでしょう。現代ならば重機を使って数ヶ月で復旧しますが、古代ではこうした崖崩れがおきれば、すぐに廃道です。わざわざ峠越えの高所に路を通した理由が分かります。<br /><br /><br />138号を進みます。宮城野交差点の次の信号で右折、別荘地に入ります。グーグルマップで宮城野城址をめざします。ここが、古事記が述べる、ヤマトタケルが越えた古代東海道の足柄山の峠だといわれております。

    土砂は早川まで迫っておりました。
    この道は江戸時代箱根裏街道とよばれ、箱根越えの重要な道路でした。おそらく古くからあった路でしょうが、険しい谷間を通る路で、災害には弱かったでしょう。現代ならば重機を使って数ヶ月で復旧しますが、古代ではこうした崖崩れがおきれば、すぐに廃道です。わざわざ峠越えの高所に路を通した理由が分かります。


    138号を進みます。宮城野交差点の次の信号で右折、別荘地に入ります。グーグルマップで宮城野城址をめざします。ここが、古事記が述べる、ヤマトタケルが越えた古代東海道の足柄山の峠だといわれております。

  • 「これを行け!」とグーグルさんは言いますが、無慈悲に「車両通行止め」<br />数日前に箱根町役場に電話で宮城野―宮城野城址―仙石原の林道は通れると聞いていたのですが。<br />しょうがない、路肩になんとか1台分の駐車スペースがあったので、車をここにおいて歩きます。<br /><br />車両通行止めのこちら側は別荘地のようで、おしゃれな凝った造りの家が並んでいました。結構軒を連ねるという感じ。通行止めを入って行くとぽつんと一軒家ぽいですが、道も広かったし舗装もされていました。<br />グーグルさんによると「すぐそこ」で、主人は「ここで待っている? 一緒に行く?」<br />と申しますのも、外気温はかなり低く、風もあります。私、小児ぜんそくで、成人してからはすっかり治ったつもりだったのですが、それがこの朝箱根宮ノ下あたりで出ちゃいまして、ヒューヒューいい始めたのです。<br />行くか待つか、迷ったのですが、ゆっくりマイペースでいくことにしました。これは正解でした。「すぐそこ」は、かなり遠かったです。景色もよかったので、行ったのはよかったのですが、空気は冷たくて、肺に突き刺すよう。そっちは結構つらかったです。ゼイゼイ、ヒューヒューいいながら歩いておりますと、昔の旅人だって全員がオリンピック選手みたいな健康優良児じゃあなかったんじゃないの?という、すこぶる当然の思いに到達いたしました。<br />旅に出たら生活も変わるし、水に当たるということもあっただろうし、足も痛くなったにちがいない。ヤマトタケルというと、高校か大学の「サッカー部合宿」みたいな、体力が余っちゃって、「ヘッホヘッホ」って「先輩もう駄目ッス」「アマッタレルナ、もういっちょ行くぞ-」みたいな。今はバテているけれど、基礎体力はあるみたいな大変さを考えていたんですね、私。<br />でも病気になった人とか、疲れた人とかはいたはずです。そういう人には山越えはつらかっただろうな。弱音もはきたくなっただろうな、と古代の旅人に深く同情しながら歩く山道は、人っ子ひとりいませんでした。<br />By妻

    「これを行け!」とグーグルさんは言いますが、無慈悲に「車両通行止め」
    数日前に箱根町役場に電話で宮城野―宮城野城址―仙石原の林道は通れると聞いていたのですが。
    しょうがない、路肩になんとか1台分の駐車スペースがあったので、車をここにおいて歩きます。

    車両通行止めのこちら側は別荘地のようで、おしゃれな凝った造りの家が並んでいました。結構軒を連ねるという感じ。通行止めを入って行くとぽつんと一軒家ぽいですが、道も広かったし舗装もされていました。
    グーグルさんによると「すぐそこ」で、主人は「ここで待っている? 一緒に行く?」
    と申しますのも、外気温はかなり低く、風もあります。私、小児ぜんそくで、成人してからはすっかり治ったつもりだったのですが、それがこの朝箱根宮ノ下あたりで出ちゃいまして、ヒューヒューいい始めたのです。
    行くか待つか、迷ったのですが、ゆっくりマイペースでいくことにしました。これは正解でした。「すぐそこ」は、かなり遠かったです。景色もよかったので、行ったのはよかったのですが、空気は冷たくて、肺に突き刺すよう。そっちは結構つらかったです。ゼイゼイ、ヒューヒューいいながら歩いておりますと、昔の旅人だって全員がオリンピック選手みたいな健康優良児じゃあなかったんじゃないの?という、すこぶる当然の思いに到達いたしました。
    旅に出たら生活も変わるし、水に当たるということもあっただろうし、足も痛くなったにちがいない。ヤマトタケルというと、高校か大学の「サッカー部合宿」みたいな、体力が余っちゃって、「ヘッホヘッホ」って「先輩もう駄目ッス」「アマッタレルナ、もういっちょ行くぞ-」みたいな。今はバテているけれど、基礎体力はあるみたいな大変さを考えていたんですね、私。
    でも病気になった人とか、疲れた人とかはいたはずです。そういう人には山越えはつらかっただろうな。弱音もはきたくなっただろうな、と古代の旅人に深く同情しながら歩く山道は、人っ子ひとりいませんでした。
    By妻

  • 奈良時代以前の古代東海道といわれております。当時の道筋は当然今とは違っていても、ヤマトタケル一行、つまり古代の旅人は、だいたいこのあたりを登ったにちがいない。当たり前ですが、舗装はない。駅路ですから道幅は山中でも6メートルはあったはずですが、難所では実際はどうだったでしょう。

    奈良時代以前の古代東海道といわれております。当時の道筋は当然今とは違っていても、ヤマトタケル一行、つまり古代の旅人は、だいたいこのあたりを登ったにちがいない。当たり前ですが、舗装はない。駅路ですから道幅は山中でも6メートルはあったはずですが、難所では実際はどうだったでしょう。

  • 山の等高線をうまくまわっているので、傾斜はそれほどきつくありません。

    山の等高線をうまくまわっているので、傾斜はそれほどきつくありません。

  • 修復されてはいますが、土砂崩れの跡がありました。

    修復されてはいますが、土砂崩れの跡がありました。

  • 道路が陥没しています。これが交通止めの理由ですね。車の重量がかかると崩れるかもしれない。

    道路が陥没しています。これが交通止めの理由ですね。車の重量がかかると崩れるかもしれない。

  • 峠の頂上が宮城野城址です。宮城野城については詳しいことは分かっていないそうです。15世紀のもので、ヤマトタケルとは関係ありません。

    峠の頂上が宮城野城址です。宮城野城については詳しいことは分かっていないそうです。15世紀のもので、ヤマトタケルとは関係ありません。

  • 現在は碓井峠梅園という梅林があります。

    現在は碓井峠梅園という梅林があります。

  • 説明板を拡大しました。「日本武尊の碑」とあります。説明板からは藪に遮られて見えません。<br />「日本武尊の碑」は大正六年(1917年)底倉高山園主・澤田かず義(「かず」は金偏に和)という方が、箱根の旧蹟を後世につたえようと、自費で建てたものです。<br />1.写真で巡る箱根ハイキングblog<br />http://hakonehike.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-1d2f.html<br />および、<br />2.箱ぴた<br />https://www.hakone-ryokan.or.jp/hakopedia/?p=1713

    説明板を拡大しました。「日本武尊の碑」とあります。説明板からは藪に遮られて見えません。
    「日本武尊の碑」は大正六年(1917年)底倉高山園主・澤田かず義(「かず」は金偏に和)という方が、箱根の旧蹟を後世につたえようと、自費で建てたものです。
    1.写真で巡る箱根ハイキングblog
    http://hakonehike.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-1d2f.html
    および、
    2.箱ぴた
    https://www.hakone-ryokan.or.jp/hakopedia/?p=1713

  • 案内板にある送水管です。

    案内板にある送水管です。

  • 送水管の左の小道をしばらく行くと、右手に崩れかけた東屋がありました。

    送水管の左の小道をしばらく行くと、右手に崩れかけた東屋がありました。

  • その少し先に、石碑のようなものが・・・

    その少し先に、石碑のようなものが・・・

  • ありました!

    ありました!

  • 「2001年宇宙の旅」のモノリスにであった気分でした。

    「2001年宇宙の旅」のモノリスにであった気分でした。

  • 「吾妻はやの碑」というのだそうです。<br />「写真で巡る箱根ハイキングblog」の作者が碑文全文を書き写していらっしゃいます。ありがとうございました。大変参考になりました。<br /><br />古事記景行天皇紀倭建命(やまと・たけるの・みこと)の条、足柄山越えに有名な1文があります。<br />「その坂(峠)の頂きに登立ち、三度嘆息なさり、『我が妻よ』とおっしゃった。それからその国を名付けて阿豆麻(あずま)というのである」<br />「我が妻よ」は古事記原文では、「阿豆麻波夜」(あづまはや)<br />この文章の直前に走水(はしりみず、現浦賀水道)で自らを犠牲にしてヤマトタケルを救った乙橘姫の悲劇が語られています。ヤマトタケルが愛する亡き妻を偲ぶ、古事記屈指の名場面です。<br /><br />この名場面の舞台が古事記では、峠名なしの足柄山。日本書紀では碓日坂と異なっています。碓日坂は前後の関係で現在の群馬県長野県境の碓井峠といわれております。<br />そこで古来この名場面がどこか、学者の間で議論されてきたのです。今もされているようです。<br /><br />明治時代の歴史学者久米邦武は、これを足柄山の峠と考察しました。<br />これにもとづき、石碑を建てた澤田かず義氏は下記のように主張されています。<br />「写真で巡る箱根ハイキングblog」の作者が書き写された碑文の一部を引用させていただきます。<br />「日本武尊が東夷征討の歸路登臨して吾妻はやと三歎せられし地は、或は上野の碓日嶺なりと云ひ、或ハ足柄の阪本阪なり云ひて、古より二説ありけるが、順路よりすれば足柄を可とすべきに、碓日峠といふ名のなきが為に世人は前説小傾けり。然るに、碓日峠の名は昔より宮城野村にありて、遥に走水の海を望み得る地位に在り。且つ阪本即ち今の関本とは僅に明神嶽を隔つるのみにて、尊の遺蹟ある甲斐に入るの順路に當れば、尊の三歎せられし遺跡は此峠なりとするは、久米博士の論ずる所にして正鵠を得たるものと謂ふべき」(読みやすいように原文にはない句読点をいれました)<br />この峠がヤマトタケルが通った路であると考証した久米博士の説を紹介し、それが妥当であると述べています。<br />たしかに、この峠は「碓井峠」とよばれていたようです。<br />宮城野城址があるこの峠が「吾妻はや」の舞台であるとして、はたして久米博士が言うように浦賀水道が見えるか。<br /><br />これにたいし上記1のブログへKという方が、2017年に次のように投稿しておられます。実名による投稿ですが、ご迷惑だといけませんのでK氏とします。<br />「碑のある場所と走水とを直線で結んでみますと、途中の明星ヶ岳の北に当る場所に標高894~5mの尾根があり、それに遮られて走水の海は見えません。碑のある場所の標高は619.4~5mですが、碓氷峠の他の場所でも、総て700m以下ですから、碓氷峠から走水の海は見える筈がありません」

    「吾妻はやの碑」というのだそうです。
    「写真で巡る箱根ハイキングblog」の作者が碑文全文を書き写していらっしゃいます。ありがとうございました。大変参考になりました。

    古事記景行天皇紀倭建命(やまと・たけるの・みこと)の条、足柄山越えに有名な1文があります。
    「その坂(峠)の頂きに登立ち、三度嘆息なさり、『我が妻よ』とおっしゃった。それからその国を名付けて阿豆麻(あずま)というのである」
    「我が妻よ」は古事記原文では、「阿豆麻波夜」(あづまはや)
    この文章の直前に走水(はしりみず、現浦賀水道)で自らを犠牲にしてヤマトタケルを救った乙橘姫の悲劇が語られています。ヤマトタケルが愛する亡き妻を偲ぶ、古事記屈指の名場面です。

    この名場面の舞台が古事記では、峠名なしの足柄山。日本書紀では碓日坂と異なっています。碓日坂は前後の関係で現在の群馬県長野県境の碓井峠といわれております。
    そこで古来この名場面がどこか、学者の間で議論されてきたのです。今もされているようです。

    明治時代の歴史学者久米邦武は、これを足柄山の峠と考察しました。
    これにもとづき、石碑を建てた澤田かず義氏は下記のように主張されています。
    「写真で巡る箱根ハイキングblog」の作者が書き写された碑文の一部を引用させていただきます。
    「日本武尊が東夷征討の歸路登臨して吾妻はやと三歎せられし地は、或は上野の碓日嶺なりと云ひ、或ハ足柄の阪本阪なり云ひて、古より二説ありけるが、順路よりすれば足柄を可とすべきに、碓日峠といふ名のなきが為に世人は前説小傾けり。然るに、碓日峠の名は昔より宮城野村にありて、遥に走水の海を望み得る地位に在り。且つ阪本即ち今の関本とは僅に明神嶽を隔つるのみにて、尊の遺蹟ある甲斐に入るの順路に當れば、尊の三歎せられし遺跡は此峠なりとするは、久米博士の論ずる所にして正鵠を得たるものと謂ふべき」(読みやすいように原文にはない句読点をいれました)
    この峠がヤマトタケルが通った路であると考証した久米博士の説を紹介し、それが妥当であると述べています。
    たしかに、この峠は「碓井峠」とよばれていたようです。
    宮城野城址があるこの峠が「吾妻はや」の舞台であるとして、はたして久米博士が言うように浦賀水道が見えるか。

    これにたいし上記1のブログへKという方が、2017年に次のように投稿しておられます。実名による投稿ですが、ご迷惑だといけませんのでK氏とします。
    「碑のある場所と走水とを直線で結んでみますと、途中の明星ヶ岳の北に当る場所に標高894~5mの尾根があり、それに遮られて走水の海は見えません。碑のある場所の標高は619.4~5mですが、碓氷峠の他の場所でも、総て700m以下ですから、碓氷峠から走水の海は見える筈がありません」

  • なるほど。<br />在野の考察恐るべしです。久米博士の学説は成立しないことがあっさりと証明されました。<br /><br />私たちの印象でも、この峠からは走水は見えなかったと思います。走水どころか、関東平野など全然見えなかったでしょう。

    なるほど。
    在野の考察恐るべしです。久米博士の学説は成立しないことがあっさりと証明されました。

    私たちの印象でも、この峠からは走水は見えなかったと思います。走水どころか、関東平野など全然見えなかったでしょう。

  • 峠から北方向。山です。

    峠から北方向。山です。

  • 谷間にかすかに見えるのは、

    谷間にかすかに見えるのは、

  • ちょっと位置を変えて、望遠で。うっすらと青いのは山稜ですね。<br /><br />峠の頂上に着くと眼下は樹林で「吾妻はや-」の気分。浦賀水道なんか見えっこない。代わりに樹林の間に道が見えるような。季節によってはもっとはっきり見えたかもしれません。「あそこを通ってきたのね~!」または「あそこを通らないと里に出られないのか!」と旅人は思ったことは確かです。!!いっぱいの気持ち。今どきの子供なら、「ええ~っ」とか「うそ~」とか「すごーい」とか、言うところです。<br />それって、英語なら「Oh my God!」ってなるところでしょう。「Oh my God! こんなに登ったんだ!」「Oh my God! まだまだあんなにあるのか!」<br />そうか「Oh my God!」を日本語にすると「吾妻はや-」なんじゃないかな?<br />だとしたら、海が見えようが、見えなかろうが、どこだっていいんじゃないですかね。<br />By妻

    ちょっと位置を変えて、望遠で。うっすらと青いのは山稜ですね。

    峠の頂上に着くと眼下は樹林で「吾妻はや-」の気分。浦賀水道なんか見えっこない。代わりに樹林の間に道が見えるような。季節によってはもっとはっきり見えたかもしれません。「あそこを通ってきたのね~!」または「あそこを通らないと里に出られないのか!」と旅人は思ったことは確かです。!!いっぱいの気持ち。今どきの子供なら、「ええ~っ」とか「うそ~」とか「すごーい」とか、言うところです。
    それって、英語なら「Oh my God!」ってなるところでしょう。「Oh my God! こんなに登ったんだ!」「Oh my God! まだまだあんなにあるのか!」
    そうか「Oh my God!」を日本語にすると「吾妻はや-」なんじゃないかな?
    だとしたら、海が見えようが、見えなかろうが、どこだっていいんじゃないですかね。
    By妻

  • 峠の頂上は、今はかなり開けた感じです。古代東海道がここを通っていた時代以降、まず宮城野城が建設、取り壊され、近代では送電の鉄塔、送水管、梅園が建設されて、環境はかなり変わったはずです。<br /><br />植村直己という冒険家がいました。<br />彼が北極点をめざす犬ゾリ旅行をするのですが、ある日テントで眠っていると、北極熊が来るのです。北極熊はテントの周囲をぐるぐるかいで回り、テントの中の植村は次の瞬間襲われるかと死を覚悟します。その時植村は、「公ちゃん、ぼくはもう死ぬよ」と言います。この言葉の前後を読むと、これが絶体絶命のときの人間の悲鳴であり、祈りであることが伝わります。彼は無信仰な人だったのでしょう。信仰者なら「神様・・・」と言うべきところです。公ちゃんとは、奥さんの公子さんのことです。植村にとって、神にも代わる絶対者は妻公子さんだったのですね。<br />お母さんじゃないんだ、と当時幼児の息子の世話に明け暮れていた私はショックを受けました。そしてその本には犬ゾリやクレバスの話など書いてあったはずなのに、全部忘れて、「公ちゃん」だけ鮮明に胸に刻まれました。今日、この峠に立つと「公ちゃん、ぼくは死ぬよ」は「吾妻はや」の現代語訳なのだと、しみじみ思いました。「吾妻はや」は自分に尽くしてくれた妻への愛の言葉であったと同時に、助けを求める祈りの言葉ではなかったかと思えるのです。<br />By妻

    峠の頂上は、今はかなり開けた感じです。古代東海道がここを通っていた時代以降、まず宮城野城が建設、取り壊され、近代では送電の鉄塔、送水管、梅園が建設されて、環境はかなり変わったはずです。

    植村直己という冒険家がいました。
    彼が北極点をめざす犬ゾリ旅行をするのですが、ある日テントで眠っていると、北極熊が来るのです。北極熊はテントの周囲をぐるぐるかいで回り、テントの中の植村は次の瞬間襲われるかと死を覚悟します。その時植村は、「公ちゃん、ぼくはもう死ぬよ」と言います。この言葉の前後を読むと、これが絶体絶命のときの人間の悲鳴であり、祈りであることが伝わります。彼は無信仰な人だったのでしょう。信仰者なら「神様・・・」と言うべきところです。公ちゃんとは、奥さんの公子さんのことです。植村にとって、神にも代わる絶対者は妻公子さんだったのですね。
    お母さんじゃないんだ、と当時幼児の息子の世話に明け暮れていた私はショックを受けました。そしてその本には犬ゾリやクレバスの話など書いてあったはずなのに、全部忘れて、「公ちゃん」だけ鮮明に胸に刻まれました。今日、この峠に立つと「公ちゃん、ぼくは死ぬよ」は「吾妻はや」の現代語訳なのだと、しみじみ思いました。「吾妻はや」は自分に尽くしてくれた妻への愛の言葉であったと同時に、助けを求める祈りの言葉ではなかったかと思えるのです。
    By妻

  • 道の谷川、つまり関東平野方向は、ほぼこんな感じです。山林に邪魔されて何も見えませんでした。

    道の谷川、つまり関東平野方向は、ほぼこんな感じです。山林に邪魔されて何も見えませんでした。

  • 当時と現代の樹相が代わっていないとするとブナ林、しかも巨木ばっかりだったでしょう。まず樹林の外など見えません。

    当時と現代の樹相が代わっていないとするとブナ林、しかも巨木ばっかりだったでしょう。まず樹林の外など見えません。

  • こんな感じの木々に覆われていたでしょう。

    こんな感じの木々に覆われていたでしょう。

  • ちょっとひらけると、むこうは山。<br /><br />私たちは、ヤマトタケルは古代の旅人の総称だと思っています。群馬県長野県境の碓井峠を越えて都に帰った旅人はいました。足柄山を越えたヤマトタケルもいた。その足柄山にしても、現在の足柄峠やこの峠を越えたり、いろいろなケースがあったでしょう。<br />古事記が述べる足柄の峠も、日本書紀の碓井峠も、違うヤマトタケルが通ったのです。<br />そのうちのどこか、関東平野を見渡せる峠で、旅人の一人が旅の途中で客死した妻を偲んだのです。<br />記紀の作者が、どの旅人の記録を採用したかで、ルートが違ってくるだけです。<br />記紀のエピソードのなかで、乙橘姫の悲劇ほど、読者の紅涙を絞る物語はありません。<br />ヤマトタケルが東国を去るにあたり、走水が見えようと見えまいと、愛する女が眠る広大な大地へ最後のオマージュをささげる。記紀の作者の文学的才能に感嘆するばかりです。

    ちょっとひらけると、むこうは山。

    私たちは、ヤマトタケルは古代の旅人の総称だと思っています。群馬県長野県境の碓井峠を越えて都に帰った旅人はいました。足柄山を越えたヤマトタケルもいた。その足柄山にしても、現在の足柄峠やこの峠を越えたり、いろいろなケースがあったでしょう。
    古事記が述べる足柄の峠も、日本書紀の碓井峠も、違うヤマトタケルが通ったのです。
    そのうちのどこか、関東平野を見渡せる峠で、旅人の一人が旅の途中で客死した妻を偲んだのです。
    記紀の作者が、どの旅人の記録を採用したかで、ルートが違ってくるだけです。
    記紀のエピソードのなかで、乙橘姫の悲劇ほど、読者の紅涙を絞る物語はありません。
    ヤマトタケルが東国を去るにあたり、走水が見えようと見えまいと、愛する女が眠る広大な大地へ最後のオマージュをささげる。記紀の作者の文学的才能に感嘆するばかりです。

  • 峠道の傍らの花など眺めながら、車に戻りました。グーグルさんは片道徒歩5分と言ったけれど、20分はたっぷりかかりました。<br /><br />ふと思ったのですが、どうして箱根町はヤマトタケルをNHK大河ドラマに推薦しないのでしょうか。この峠をとにかくヤマトタケルが通ったことにして、町おこしをする。走水があるので千葉県と連携するといい。ヤマトタケルは当然ジャニーズのだれか、乙橘姫はなんとか48から適当に、景行天皇は年格好からいって、森田健作が最適でしょう。<br /><br />観光客が殺到するので

    峠道の傍らの花など眺めながら、車に戻りました。グーグルさんは片道徒歩5分と言ったけれど、20分はたっぷりかかりました。

    ふと思ったのですが、どうして箱根町はヤマトタケルをNHK大河ドラマに推薦しないのでしょうか。この峠をとにかくヤマトタケルが通ったことにして、町おこしをする。走水があるので千葉県と連携するといい。ヤマトタケルは当然ジャニーズのだれか、乙橘姫はなんとか48から適当に、景行天皇は年格好からいって、森田健作が最適でしょう。

    観光客が殺到するので

  • こういうのは何とかしてね。

    こういうのは何とかしてね。

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ヤマトタケルの家路

この旅行記へのコメント (5)

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  • mistralさん 2020/04/16 09:36:27
    過去と現代を。
    しにあの旅人さん

    お久しぶりです。
    ご無沙汰しています間に、たくさんの旅行記をアップされてました。
    お元気でお過ごしのご様子ですね。
    いつの間に?か、しにあの、と平仮名表記に変わられていたんですね。

    いつもながら、一編の旅行記が、過去と現代を行き来します壮大な読み物
    となっていて、楽しませて頂きました。
    奥様が、要所要所に登場されて、優しく解説される箇所があり
    ご夫婦揃っての力作!です。

    Oh, my God!の感嘆詞を巡っての奥様の考察は意味深いですね。
    夫の危機の折に、名前を呼んでもらえる妻だったかしら?など反省し、
    ヤマトタケルは古代の旅人の総称、とされる説にはおおいに納得でした。

    今年のご旅行の計画は、断念されたとか。
    いつの日か、あの折は大変だった!と思い出せる日が来ることを願って。

    mistral

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2020/04/16 11:03:23
    Re: 過去と現代を。
    こちらこそ御無沙汰です。
    イタリア旅行も奈良もあきらめて、ひたすら亀の子で嵐の過ぎ去るのを待ちます。コロナが収まっても、その後遺症で、来年はイタリアは無理かなと思っています。

    大伴旅人にあやかって、「旅人」を「たびと」と読んでいただくことにしました。「しにあ」もひらがなの方が古代っぽいので。

    「家路」は昨年11月の旅行の記録です。行っておいてよかった。ほかにネタもないので、しばらくは大事にこのシリーズを書き続けます。皆さんもタネ切れでお困りでしょう。

    私たちはお互いが書き手で編集者。妻が筆が遅いので、書かせるのが大変。遅いところだけ、向田邦子です。
    下書きを何回もプリントアウトして校正しあいます。インクボトル式のプリンターにしたので、写真の印刷もし放題。
    このおかげで、外出しないですみます。亀の甲らに閉じこもり、ああでもない、こうでもないと下書きをいじっております。コロナ感染防止に、旅ブログが役に立ちました。

    mistralさんもくれぐれにご自愛下さい。
  • ももであさん 2020/04/06 11:54:45
    吾コロナ者耶
    今の世相からすると、
    「Oh my God!」を日本語にすると「吾コロナ者耶」
    って、感じですね。

    ヤマトタケル:ジャニーズのだれか ⇒ 大賛同
    乙橘姫:なんとか48から適当に ⇒ 賛同
    景行天皇:森田健作 ⇒ 勘弁して下さい

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2020/04/06 12:22:08
    Re: 吾コロナ者耶
    いや、絶対森田健作。そんでもって、走り水とアクアラインをごっちゃにして、割引を永久化する。「これがあればオトタイバナヒメも無事だったものを」とか、海ホタルに来た景行天皇が言う。
    すごいシナリオでしょう。
    今思いついた。
    4トラベラーの皆さん、みんな旅行を取り止めたようです。わたしもイタリアはパー、代わりの奈良もダメ。亀の子作戦でひたすら引きこもります。手を洗いすぎて、ガサガサです。
    猫もコロナにかかるとか。とにかくご自愛ください。

    ももであ

    ももであさん からの返信 2020/04/06 14:18:08
    RE: Re: 吾コロナ者耶

    > 猫もコロナにかかるとか。とにかくご自愛ください。
    そう。なんですよね〜 しかもトラまで(ΦωΦ)

しにあの旅人さんのトラベラーページ

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