2019/11/10 - 2019/11/10
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しにあの旅人さん
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旅に出たならば、帰らねばなりません。
東征のあとの、ヤマトタケルの家路を辿ります。
古事記景行天皇紀倭建命(やまと・たけるの・みこと)の条、足柄山越えに有名な1文があります。
「その坂(峠)の頂きに登立ち、三度嘆息なさり、『我が妻よ』とおっしゃった。それからその国を名付けて阿豆麻(あずま)というのである」
明治時代の歴史学者久米邦武は、これを足柄山の碓井峠、宮城野城址と考察しました。
理由は、そこから走水、浦賀水道が見えなければならない。
しかし足柄の碓井峠からは走水は見えなかったのです。
詳しくは、
「ヤマトタケルの家路1 足柄の坂」をご覧下さい。
それでは、県道78号線の足柄峠からはどうか。
ヤマトタケルが峠を越えた日は晴天、彼の眼前にあったものは・・・
この旅行記グループは19年11月の旅行の記録です。ドライブは20年4月2日ですが、旅行記を順番に並べたいので、旅行日を11月10日とします。
今回の旅行記で引用、参照した資料は、
ヤマトタケルの家路1 足柄の坂
に列挙してあります。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
県道78号から、
-
足柄峠にやってきました。
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南、金時山方面。
-
北、万葉公園を経て南足柄市。
-
西方向です。
-
北西です。
足柄峠からは、相模湾はおろか、何も見えません。現在は開発されてかなり開けた感じです。古代はおそらく鬱蒼たる原生林の間を、広くて6メートルほどの路が登り、下っていたはずです。
残念、ダメかと思いました。が、ここに来るまでの間、万葉公園の前後が開けていたのを思い出しました。
戻ります。 -
足柄峠と万葉公園の間に、
-
足柄関跡がありました。
古代足柄路に関所はありません。 -
足柄峠頂上の説明板によると、足柄関が作られたのは899年。
「更級日記」の作者、Mlle.菅原が通った足柄路は古代駅路を踏襲しました。この関所あたりを古代駅路も通っていたのです。
地蔵堂から直登の可能性もありますが、等高線を伝って勾配を緩くすると、現県道78号線と同じルートの可能性が強いと思います。 -
万葉公園の東屋です。県道越しに、木々の梢の間に海らしきものが見えます。
目の前は県道78号、つまり足柄路です。
東屋に登ってみました。前が開けて木立に邪魔されません。足柄万葉公園 公園・植物園
-
海が見えます。相模湾に違いない。相模湾のどこが見えているのか。
-
湾の奥に島らしきものがひとつ。
-
望遠で。
-
さらに望遠。相模湾に島は一つ。江ノ島です。展望台と橋が見えます。
-
古代東海道は走水、現在の浦賀水道を船で渡るのがメインコースでした。
「日本古代の道と駅」によると、走水駅と大前(天前とも、あまさい)駅を結んでおりました。走水駅は横須賀市の下、現走水港と推定されます。
大前駅の位置は不明ですが、走水からの上陸地点で、富津崎周辺と考えられるそうです。このあたりはのっぺりとした海岸線で、あまり港に適した地形とは思えないのですが、岩瀬川の河口に、現在は大貫港があります。古代も今も、港にふさわしい地形は同じです。大貫港と仮定します。約11kmの船旅であります。
ヤマトタケルが乗る船の遭難事故は、この11kmのどこかで発生したことになります。
なお、安房、現在の館山方面に向かう場合は、より南の天羽駅に上陸した可能性もあります。その位置もまた不明ですが、現在の上総湊付近だそうです。古代以降明治期まで現在の富津市を中心に天羽郡があり、現在も天羽中学、高校など、地名が引き継がれています。
日本書紀に限定すれば、ヤマトタケルは上総上陸後外房に回りますので、天羽上陸が理にかなっていますが、古事記は房総通過の道筋に触れていません。
古代東海道の本道は上総から常陸を結ぶものですので、走水-大貫を前提に話を進めます。 -
足柄峠の万葉公園から見ると、大貫港はちょうど江ノ島の方向、三浦半島の向こうになります。
-
私の安デジカメではこれが限界。もっと高性能のカメラを三脚に据えれば、おそらく大貫港は見えます。三浦半島の山地に阻まれて、走水の遭難現場そのものが見えるかどうかは、微妙なところです。
しかし、 -
目の前に広がる相模湾。
-
三浦半島の彼方、房総半島との間、
-
そのどこかが走水であることは分かるでしょう。
足柄峠から、走水は見えたといっていい。
古事記。
「その坂(峠)の頂きに登立ち、三度嘆息なさり、『我が妻よ』とおっしゃった。それからその国を名付けて阿豆麻(あずま)というのである」
久米邦武は、そこから走水、浦賀水道が見えなければならないと考えました。
久米の説は、足柄峠であれば、成立します。
古事記は、足柄山から走水が見えた、とは書いていません。
しかし、よく読めば、確実に見えております。日本書紀と比べるとはっきり分かります。
この記紀屈指の名場面は、日本書紀では、
「日本武尊は常に弟橘姫を思い出される心があって、碓日の峯にのぼり、東南の方を望んで三度嘆いて『吾嬬はや、ああ』と言われた。それで碓日の峯より東の諸国を吾嬬国(あずまのくに)という」
「東南の方を望んで」となっております。碓井峠は走水つまり浦賀水道から直線で157kmあります。絶対に見えません。弟橘姫の入水の場所を特定するには、方角を示すしか方法がないのです。
足柄山から走水はほぼ東にありますが、「東を望んで」とはなっておりません。眼前にあるものを「東を望んで」と書く必要はありません。
ヤマトタケルは、走水を食い入るように見つめながら、「我が妻よ」と3度言ったことになります。
7世紀のこの日、阿豆麻の国の南部は、晴天でありました。
私たちが想定する旅人の時代は7世紀ごろです。このころ、旅人は妻を同伴したのでしょうか。私的な旅というのはこの時代あり得ません。国府への赴任、帰任、なんらかの特命を帯びた旅であります。
菅原孝標は家族を連れて帰任しましたが、それは11世紀のことです。ヤマトタケルの時代は、それを遡ること300年から400年です。
日本書紀によれば、推古天皇8年(601年)7月、当摩皇子(たぎまの・みこ)が新羅を討つ将軍として出兵しましたが、「そのとき従っていた妻の舎人姫王(とねりひめの・おおきみ)が明石で薨じた」とあり、妻を帯同していたことが分かります。
有名なところでは、斉明天皇7年(662年)、斉明天皇が百済救援軍の陣頭指揮をとるため九州の現在の博多に行く途中「太田姫皇子(おおたの・ひめみこ)が女子を産んだと」とあります。太田姫皇子は大海人皇子(おおあまの・おうじ、後の天武天皇)の妻です。妻だけが天皇に同行することはないので、夫である大海人皇子も一緒だったに違いありません。
記紀は当然のようにヤマトタケルに弟橘姫を連れて行かせます。記紀が書かれた8世紀初頭では、皇子クラスの旅であれば、妻を連れてゆくのは普通だと思われていたのでしょう。したがって、高い身分の旅行者が、任国の東国で、連れて行った妻を失ったケースもあり、記紀の編集部はその記録をもっていたでしょう。
より下位の旅行者はどうだったのでしょう。国府には国司、介(次官)、掾(次官補)などの高官ばかりではなく、下級官吏もいたはずです。彼らは妻を連れていたか。私は疑問だと思います。まずヤマトの妻が行きたがるはずがない。数百年あとのMlle.菅原でさえ、うんざりしていた未開の東国です。アフリカのジャングルの奥地に派遣された夫を単身赴任させる現在の妻と同じ。
そうした下級官吏は現地で女と暮らす、現地妻のケースがほとんどだったのでしょう。そうした現地妻に任地で死なれ、やまとへ帰った下級官吏もいた。捨てて帰った薄情者もいた。愛する女をいろんな事情で連れて帰れずに現地に残した男もいた。愛憎、悲喜交々の物語があったのであります。
ヤマトタケルは「我が妻よ」と嘆息しました。走水からの続きで妻は乙橘姫となります。
しかし、古事記のライターは「我が妻乙橘姫よ」とも「死んだ我が妻よ」とも書いておりません。
東国を去るに当たり、そこで苦楽を共にした女への別れの言葉でもあります。
ライターは、愛する女と別れて上総市原の国府から帰任した親友のグチを、酒を飲みながら聞いてやった。親友は、足柄峠の頂で東国、つまり相模、三浦半島、走り水、房総半島を見渡したとき、思わず女の名を 3 回叫んだ、というのは私の全くの想像です。ただ、ライターは、足柄峠から東国が見えるということを、なんらかの方法で知ったのは間違いありません。
私は、古事記のヤマトタケルの東征担当のライターは、大和盆地から出たことのない、ヤマト・ヒッキーだと思っております。足柄山など知るはずもない。
それにこの人は地図音痴です。「ヤマトタケルの家路」のずっとあと、三重県に入ったあたりで、行ったり来たり地図音痴ぶりを発揮します。
その彼が、走水と足柄山との位置関係を正確に把握しています。
誰かが入れ知恵したのです。
彼にとって大事だったのは、旅人が東国を去るに当たり、生き別れにしろ死に別れにしろ、涙ながらに女の名を3回叫んだこと。そのあと阿豆麻とか蜂の頭とかいうのは、どうせ編集部の偉いさん、太安麻呂あたりが、あとで付け加えたつまらん地名伝承であります。
場所は異なりますが、走水が見えることにこだわり、ライターの思いを感じ取った久米博士はすごいと思います。
博士は、学者である前に、感受性豊かな詩人だったようです。
古事記のライターは満足でありましょう。 -
足柄峠を下ります。
Mlle.菅原によれば、
「まだ暁より足柄を越ゆ。(中略)からうじて越え出でて、関山にとどまりぬ。これよりは駿河なり」
「翌朝はまだ夜明け前から足柄山を越える。(中略)やっとのことで峠を越え抜けて、関山に泊まった。ここからは駿河国である」
関山という地名は足柄峠を下ったあたりに見つけられませんでした。
現県立小山高校の近くに関山という丘があるようです。
坂本駅から18.9キロ、13才の少女、姉、継母、48歳の父という一団ですから、このくらいが限界でしょう。この時代の48歳は、年寄りの部類です。「からうじて越え出でて」というところに、へとへとになってたどり着いた感じがよく出ています。航空写真でみても矢倉沢からずうーと足柄山の山中です。
きっと、このなかで一番元気なのは、Mlle.菅原ではなかったでしょうか。 -
古代足柄路に、関山という駅はありません。坂本駅の次は横走(よこはしり)駅なのです。現在の駒門風穴(こまかど かざあな)の近くといわれております。しかし29キロもあります。峠越えをして、さらに10キロ、この一団が横走駅までその日のうちに行けたとは思えません。
時は11世紀の初めです。古代律令制はガタがきております。官制の駅など無視して、地つきの豪族が構える屋敷に世話になったと考えておかしくありません。
この近くに後年矢倉沢往還の竹之下宿ができました。その前身となるものがあったのかもしれません。 -
「更級日記」です。
「横走の関のかたはらに、岩壺といふ所あり。えも言はず大きなる石の四方なる中に、穴のあきたる中より出づる水の、清く冷たきことかぎりなし」
「横走の関の傍らに、岩壺という所がある」とあります。
「岩壺」というのは、現「駒門風穴」であるといわれております。1万年前の富士山の大爆発でできた溶岩洞窟です。
どんなものかというと、これは写真のほうがはやい。
上の写真のような洞窟が口をひらいております。
「なんとも言えないほど大きな岩の四角になっている中に・・・」
そのものずばりです。Mlle.菅原がこれを見たのは丁度1000年前、変わっておりません。駐車場問題なし by しにあの旅人さん駒門風穴 自然・景勝地
-
なかから見ると。
-
結構広いのです。先を行く妻と比べると大きさが分かります。
-
灼熱の溶岩が通り抜けた穴だそうです。260メートル以上あります。
Mlle.菅原はこの洞窟に入ったか。好奇心旺盛な少女ですから、入りたかったでしょう。でも継母に「とんでもない!」と怒られたにちがいない。洞窟内部の描写はありません。それに彼女の旅装束では多分無理。なかは大きな石がごろごろしていて、歩きにくいのです。今は電灯がありますが、当時は真っ暗闇でしたでしょう。
どんな旅装束かというと、 -
市原市観光協会のポスターからお借りしました。モデルはプロコスプレイヤー五木あきら。彼女は25くらいですが、13才に見えます。さすがプロ。コスプレにプロがいるのは知りませんでした。
衣装まで資料調べに手が回りませんので、まあこんなものかと。
ただ、この紅の鼻緒の草履では、1日20キロの足柄峠越えは無理ではないかな。はいていたのはわらじでしょう。
草履やわらじのようなものは平安時代にはあったそうです。赤い鼻緒の草履はいいけれど、この衣装にわらじは可愛くない。源氏物語を熟読し、若紫に憧れていたMlle.菅原はいやがるでしょうね。「お願い、写真撮るのやめて!!」と言いそう。
2020年は菅原孝標女の旅立ちから1000年ということで、上総国の国府があった市原市が記念イベントを行っています。
市長さん自ら孝標に扮し、プロモーションビデオでがんばっています。
しかし、新暦10月だと、この格好で峠上りは暑いですよ。レースのカーテン付きの菅笠みたいなのは、はやばやとおつきのばあやに渡し、ピンクのコート(なんというのでしょう)、も脱いじゃって、じんべえの上だけに緋のハカマみたいな格好で坂を登る。「いと、あさまし!」(まあ、みっともない)とか継母に怒られて、ぶんむくれて菅笠をかぶった。まあ。そんなところではないかと。 -
「穴が開いていてその中から湧き出る水が、きれいで冷たいことといったらこの上もない」
妻がコートを着ているのは、寒いからではありません。洞窟内部は意外に暖かいのです。天井からポタポタ水が垂れて、それが冷たい。私はフードなしのジャンパーで、帽子を車においてきた。何回も襟首に水が入って、「清く冷たきことかぎりなし」
ここは古代東海道です。ここで甲斐の国府、現在の酒折(さかおり)の宮に行く甲斐路を分岐しました。
古代にここに関所はありません。Mlle.菅原が通った11世紀にはあった。足柄峠の関が作られたのは899年ですから、そのころでしょうか。
厳密に言うとここは横走関のあった場所で、横走駅ではありません。しかし後年の関所は駅の近くに作られることが多いので、横走駅もこの付近と考えていいでしょう。
「更級日記」のMlle.菅原とはここでお別れです。
案内してくれてありがとう、マドムワゼル。あなたの日記は、平安時代の東海道を知る貴重な文献なのですよ。残してくれて、感謝している学者はいっぱいいます。
高校生のとき、古文の教師が徹底的に古典文法を仕込んでくれました。そのおかげで更級日記を通読できました。その時の私は、この3ヶ月の旅の記録は、13歳のMlle.菅原がリアルタイムで書いた、文字通りの日記だと思っておりました。それから時が経ち、初老を迎えてからの回想記とはね・・・ちょっと残念。 -
上総国国分寺跡七重の塔基石。
Mlle.菅原が少女時代をすごした上総国国府は、現市原市の国分寺跡近くと言われております。 -
国分尼寺中門。
国分尼寺も国府の近くでありました。当時の技術、資材で復元中です。 -
回廊。中門の内部です。
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ちょっとおませな文学少女は、早く京に上がって、源氏物語など物語を思う存分読みたいと思っておりました。「等身に薬師仏を造りて」仏前で「京に行かせてください」と、いつも祈っておりました。
国分尼寺もお参りしたこともあったでしょう。 -
市原市教育委員会ふるさと文化課からいただきました。
Mlle.菅原のイラストです。
昔フランスに着いてすぐ、語学学校に入ったときのことです。クラスにはアメリカ人他世界中から来た人たちがいました。ある寒い日、非常に寒かったので教室はがんがん暖房が強くなります。室内は若い人がいっぱい詰まっていますから、なおのこと室温が上昇していきました。
するとカナダから来た少女がチョッキを脱ぎました。ちょっと時間をおいてセーターを脱ぎました。また下に薄いセーターを着ていました。又々暑くなった彼女はその薄いセーターを脱ぎましたら、長袖のTシャツを着ていました。そしてそれまでも脱いだらまた半袖のTシャツでした。そこで授業は終わりました。
彼女はおしゃべりで、先生の質問には分かっても分からなくても声を上げる人でしたから、その竹の子の皮をはぐような様子はクラス中の注目を浴びながらのことでした。
私に変な趣味があるとは思わないで下さい。
脱いだこともびっくりでしたが、その衣類の貧しさに東京から来たばかりの私には信じられない思いでした。
彼女はカナダから来た人でしたが、フランスでは特別に貧しいこともない、普通の人だったと思います。他の国のことはよく知りませんが。セーターとチョッキの代わりにブルゾンになるくらいですね。私の見てきた女子学生でまずスカートはいませんでした。ジーパンとTシャツ。しかも1年中同じ。ディオール? サンローラン?なにそれ、食べたことない、の世界。一般的庶民階級ではの話ですが。
もちろんフランスでもアヴェニュー・フォッシュの表に面した最上階全部を自宅にするような大金持ちはいます。そういう人たちのことはデビ夫人に聞いて下さい。私はあくまでも庶民階級専門。図書館勤務とか、定年退職を大喜びするような人たちの階層。
ところが日本に帰ってきてまたびっくりしました。スーパーマーケットで、エプロン姿の女の人がルイ・ヴィトンの長財布を出す。ヘエーと思っていると後ろの人はコーチのバック。スーパーにねえ、ヘエー! 中学生らしき女の子達はフェンディやらアニエス・ベーやら。メジャリはチューリップのアップリケの手提げで充分!とか思ったけれど。
日本人ってお金持ち! それで皆様ブランドに詳しい、詳しい。パリのことなんて私より知っている。モンマルトルのなんとか通りの小物屋さんがどうとか。私は本当にフランスにいたんだろうか?
ははーん。これですよ、菅原孝標の娘は。フォーブール・サントノーレのアルマーニの隣に何があるとかの知識と同じに、桐壺だの浮舟だのだった。
お金さえあればグッチだってエルメスだって買えるんだという望みよりも、都に上がったら上達部の思い人になるというシンデレラ・ストリーは、源氏物語のなかにあるばかりではなく、彼女の身近な伯母さんで証明されているんだから、もっと可能性に富んでいたはず。
調べてみると菅原孝標さんは、この上総の介になったことでたいそうな金持ちになったみたいですが、娘のさらしなさんはお望みのような上達部とのご縁はなかったようです。そして子供もあまりぱっとしなかったようです。いつまでも父親の名をかぶせた呼称だったのは、さらしなさんご本人にとってはわびしいかぎりであったでしょう。
けれど、大多数の女の人生なんて、そんなものじゃないですかね。
夢はゆめのままで。
なんて書くと菅原孝標の娘がえらく庶民的になってしまいます。本当は菅原道真の子孫ということですからね。学問には自信があったことでしょう。
実の母の腹違いの姉が例の「かげろう日記」の作者、右大将道綱の母で、本朝三美人のひとりだとか。きっと当時から伝説の人だったのではないか。
さらしなちゃんはかげろうさんに憧れるとともに強い競争意識もあったのではないかな。ここいらあたりを想像すると色々おもしろそうです。
実母は上総に下らないのですからね。その間実家で養われていたのかしら。「あんな、マムシ臭いところにいけるはずがないでしょ!」「私は道長様のお父様の妻だった人の妹よ!」とか、長々と言ったかも。
当時は貴族に妻が複数いるのは当たり前でした。
更級日記の継母というのは、孝標が上総に赴任するときに結婚した妻。このとき多分20代半ば。孝標の身の回りの世話と、娘の教育係として、教養ある女性が必要だったのでしょう。
彼女は、後に上総の大輔といわれ、宮中勤めします。この上総の大輔の父親の弟が大弐三位と結婚しています。大弐三位は紫式部の娘ですからね。上総の大輔は紫式部の身内というわけ。初版というか、当時は写本の時代ですから、身内の特権で第一期写本みたいなのを、誰よりも早く読めたかも。
そういう人が、礼儀作法から日本文学部日本文学科の講義も受け持ってくれて、その上結婚前の宮中仕えの実体験とか交えて教えてもらったんですから、生徒の方はのぼせ上がらないはずはないですよね。母というより、ちょっと年が上のお姉さんの年齢です。
しかも上総に下って、また上がってという当時の都人の経験しない冒険を共にしたのですから、信頼感は100%だったことでしょう。その人がステキというのだもの!
さぞや上総大輔とさらしなちゃん姉妹とでキャーキャー盛り上がったことでしょう。
幸福な少女時代でした。
けれど時は流れ、姉も継母もいなくなり、年老いて、夫に先立たれ、息子や娘は独立して、ひとり取り残されてしまった。姨捨の更級...
La vie s’en va, ラ・ヴィ・サン・ヴァ、人生は過ぎゆく。とエディット・ピアフが歌っております。
コロナで外出規制のおババとどっちが寂しいかしらん。
By妻
古代の旅人、その1人が古事記のヤマトタケルですが、こうして足柄山を越え、北に方向を変え、甲斐国酒折の宮に向かいます。
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この旅行記へのコメント (2)
-
- 前日光さん 2020/05/02 11:38:42
- ヤマトタケルというよりは、「さらしなちゃん」に。。。
- 俄然興味が湧いてきました!
こんにちは、しにあの旅人さん。
足柄万葉公園から走水は見えたのではないかという考察、実地検証で証明していくというのは、素晴らしいです!
それにしても気になるのはMlle.菅原のこと。
枲の垂れ絹姿の写真はともかく、イラストが三頭身なのがちょっと。。。
さらしなちゃんが見たら、いくら平安人でももう少し足があったわよ!とむくれるかも。
そうそう、さらしなちゃんには継母というのが最初に出て来ましたよね。
初めてこの出だしを読んだ時、私はてっきり彼女の実母は既に亡く、いわゆる「ままはは」としてこの女性が出てきているとばかり思っていました。
そうしたら、この継母がけっこう重要な位置にいて。。。
京に戻ったら、なんと実母がいるじゃないですか!
なんだ、この実母は(`Д´)と、憤慨したものです。
吾妻夷の住む国になど、このワタクシがついて行けるものですか!といった心境だったのでしょうかね。
確かに道綱の母と異母姉妹でしたし。
理由はともあれ、我が子と遠く離れても、子へも思いはさほど強くなかったのでしょうか?
何にしても、あんな野蛮は地に私が行けるはずがないということだったのか、それとも孝標と結婚した継母に気配りしたのか、この辺のことは当時の夫婦関係(妻問い婚)などを考え合わせてみないと、現代の観念では理解できないところがあるのかもですね。
さらしなちゃんの晩年は、確かにあまり幸福とは言えないような気がしますね。
生き生きとしていた少女時代と比べてみると、どうしたの?という気分になります。
驚くべきは、この物語が、老年になって少女時代を思い出して書いたというところです。
日記とかメモとかをつけていなければ、こんな文章は書けませんよね。
ヤマトタケルと並行して考察されるさらしなちゃんの今後も、とても楽しみです!
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2020/05/04 05:47:42
- Re: ヤマトタケルというよりは、「さらしなちゃん」に。。。
- おはようございます。
一昨日九十九里浜まで散歩に行きましたが、見渡す限り浜辺に人影ありませんでした。秋田県知事じゃないけれどもともと人が少ないところではありますが、コロナ騒ぎの外出自粛うまくいっているようです。
足柄山をおりまして、さらしなちゃんとは、残念ながらここでおわかれです。ずっとあとですが、もう一度ちょっとだけ出てきてもらう予定ではあります。
行ってみる、実地検証は大事ですね。おもしろい発見がぞくぞく出てきます。学部の卒論クラスのテーマなら、毎回です。
これからも、新説、奇説、妄説、妻が大好きなトンデモ古代史など、ご期待ください。
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