2019/11/11 - 2019/11/11
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しにあの旅人さん
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旅に出たならば、帰らねばなりません。
東征のあとの、ヤマトタケルの家路を辿ります。
伊那谷にはヤマトタケルを祀る神社が2社しかありません。記紀によれば、ヤマトタケルは伊那谷を縦断して神坂峠を越えたとなっております。はっきり書いてあるので、もっといっぱいあると思っておりました。
今回の目玉は、
「独占スクープ、乙橘姫悲話の真実に迫る、舎人親王、太安万侶、穂積咋三者会議!」
参考、引用資料については
「ヤマトタケル紀行・家路1」
に列挙してあります。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
まず熱田神社です。
松本には大宮熱田神社があります。が、ここのご祭神は、天照大神、日本武尊、須佐之男命、宮簀姫(みやずひめ)とありますが、今回は伊那の熱田神社の方へ。
なぜかというと、この本殿は1762年に溝口村百数十戸の氏子が300両もの大金を出しあって建築したものだと聞いたからです。150戸として300両を割ると1戸あたり2両ですが、この当時の2両って現在のいくらくらいだろう、20万円、まさかの200万円?
By妻 -
伊那市長谷溝口宮の久保
-
拝殿と本殿。本殿は藁葺き屋根の覆屋の中にあります。
創建年代は不明。現在の本殿は1763年建立ですので、18世紀以前です。しかし後述のみごとな本殿の造りから見ると、それ以前かなり前に創建され、近隣の村々に崇敬されていたと考えられます。いきなりこのような華麗な神社が建てられると思えません。 -
ご祭神は日本武尊(やまとたけるの・みこと)
神社説明書では、
「むかし、日本武尊(やまとたけるのみこと)が、東夷征伐の帰りに、戸台の赤河原でたびたび村におりてきては危害を加えていた大蛇を退治し、溝口の地に行宮(あんぐう)を造り、その傍らに大蛇の首を埋めました。後世の人々が、尊(みこと)のなさけを慕い、尾張の国の熱田神宮の形影(三方三ツ辻)を迎えて、産土神(うぶすながみ)として祀ったのが始まりと伝えられています」
私の地元上総のヤマトタケル伝説によくあるタイプです。 -
勝浦の瀧口神社にも、ほぼ同様の大蛇退治の伝承があります。
-
瀧口神社は外房の海に面する神社です。その正反対の、日本でももっとも山深い伊那の山中に同じ伝承があるのは不思議です。
海辺にも山辺にも大蛇退治のお話があるって、要するに日本中ヘビだらけだったのでしょう。毒蛇も多かったでしょう。今もヘビが平気って人いますよね。私の友人にもいるのですが、「ヘビが恐くて田舎に住めるか!」とか言って私をキョウハクするくせに、虫が恐いんだと。ヘン、カナブン捕まえて襟首に入れてやったわ。・・・いやいや、失礼しました。そういう人が大蛇退治したんじゃないですかね。
ということはヤマトタケルはヘビが平気だった?ヘビ首に巻いて、ピースなんて写真撮っちゃうタイプ?
イメージ、ガラガラと音をたてて崩れました。
下らないことを書くんじゃない! とクレームが入りました。
何言ってるんですか、これこそ立体的に迫るヤマトタケルの実像!ですよ。
By妻 -
立派な舞殿がありました。「舞宮」というそうです。
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かつて村人が「神前で踊りや芝居を神様に奉納するために舞台」でした。いわば、現在の公民館のようなものです。
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この神社の本殿は有名なものだそうです。
これは本殿本体を保護する覆屋です。 -
格子の間から撮影しました。
職人の名も伝わっております。大工棟梁は池上善八。 -
彫り物師は関口文次郎。
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日光東照宮の流を汲む建築手法だそうです。
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スポンサーの氏子さん達はお金も出したけれど口も出して、最高の技術者に最高の技を望んだようで、結果、そりゃあもう、小ぶりながらも立派な、立派なお社が完成して、
「伊奈日光」と呼ばれたそうですから、氏子さんたちは報われました。よかったです。
凝った細工の宝石箱のような神社です。建立当時はさぞやピカピカまばゆかったことでしょう。近郷近在の人々が、弁当もって見物に来て、「あー、いいものを見た、冥土の土産だ」とか言ったんじゃないですかね。
ツアーもあって、××村ご一行様はその後料理屋でコイコクなんて食べて。
日光東照宮がヴェルサイユなら、ここはプティ・トリアノン。郷土のプライドをかけての建立でした。
By妻 -
たしかに覆屋が必要です。これを風雨に直接さらすわけにはいきません。
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大御食神社に向かいます。
-
大御食(おおみけ)神社
伊那谷のヤマトタケルを祀る二つめの神社です。 -
長野県駒ヶ根市赤穂11475番地
-
拝殿
ご祭神、
日本武尊
宮簀姫(みやずひめ、ヤマトタケルの正妻、名古屋の熱田神宮の祭神)
八幡大神(はちまんさま、応神天皇)
ご祭神の名前が日本武尊とか、宮簀姫とかは、後世そうなったので、創建当時はこの土地のご夫婦神が祀られていた。この土地の開拓者の長でしょうかね。
そして、この土地の原住民、一緒に開拓に入った氏族の者の飢えを何らかの方法で救ってくれた。それで食物の神様の大御食神社という名前なんです。
どういう方法かというと、まず猟に画期的方法を用いて、じゃんじゃん狩に成功した。第2は農業の改良。これは長期計画。でも今目前の緊急事態解決には間に合わない。そこで、第3。それまでふつーの人が食物と考えていなかったものを食べ物として認識させたので、あっ、これも食べられる、これも!という具合で、とにかく救われた。
はい、お分かりですね。ザザムシとか、イナゴとか。
私いまだにドンドコドン、ヤア!の呪縛から解放されておりません。けれど、ハチノコとか、こういったものは、比較的体力のない人間でも手に入るし、
そして、栄養満点で、飢えて弱った体がみるみるうちに回復して、オオーとなったんじゃないですかね。
By妻 -
創建年代は不明です。延喜式内社ではありません。
ヤマトタケルが東征の帰路にこの村に立ち寄ったという伝説をもとに創建された神社です。
神社には「阿比留草文字」(あひるくさもじ、所謂神代文字の一種)で書かれた社伝が伝わっております。それによると神社の創建は、景行天皇48年(118年)です。考古学的には無理な年代です。
私たちは、超古代史、古史古伝は大好きです。でも年代など事実関係の確定には準拠しないことにしております。
ヤマトタケルの名を、日本の古代史に登場させたのは古事記(712年、元明天皇の御代)、日本書紀(720年、元正天皇の御代)です。したがってそれ以前にヤマトタケルを祀る神社、伝説が成立することはありえません。 -
本殿
「神殿工作物の由来」によれば、本殿は享保18年(1733年)造営、元治元年(1864年)現在の改築とあります。 -
棟梁・斉藤常吉、彫工・立木音四郎の銘が残っております。当時の名工だそうです。
神社に着いたのは午後4時を過ぎておりました。中央アルプスに日が落ちるのは早く、この時間では境内はもう薄暗くなっておりました。私たちと入れ違いに神社から出て行く方がおられました。どうやら宮司さんらしく、一足違いで御朱印をもらいそこねました。
夕暮れ時、杉林の中の神社は静まりかえっておりました。私たちの他には参拝者はおりませんでした。薄暗い拝殿の一隅で、幔幕の修理をしておられる方がいました。
「神社のかたですか」とおうかがいしたら、
「いえ、お手伝いしております」とお答えになりました。氏子さんなのですね。
☆☆☆
伊那谷に宮田(みやだ)村という村があります。
公式サイトは
https://www.vill.miyada.nagano.jp/
面積は54.5平方キロ、東京世田谷区が58.08平方キロですから、ほぼ同じ。2020年2月で人口3.469世帯、9.020人だそうです。世田谷区は482.743人ですからちょっと少ない。
伊那市と駒ヶ根市に挟まれた横長の村。日本中大都会以外はどこも過疎が進んでいますが、この村はここ15年くらいよこばいでがんばっています。住みやすいらしい。
7世紀には古代駅路の東山道が通り、宮田駅という駅舎があり、伊那谷の中心でした。そのころの世田谷区、つまり武蔵国荏原郡などは無人の雑木林ですから、よっぽど開けておりました。
この宮田村が宮田村村誌という本をだしておりまして、その中に宮田近辺に伝わるヤマトタケルに関する伝説が紹介されております。
「日本武尊が大田切川まで来られると、大水で渡ることが出来なかった。すると、西の方の高山から一頭の馬が馳せ来た。尊は不思議に思われて、里の翁に聞くと、西山にすむ神馬で、秋冬はこの原に住み、春夏は西山に住む旨を申し上げた。尊はその神馬に乗って無事に大田切川を渡られた」 駒ヶ嶽御尋書-天保3年(1832年)
そのとき日本武尊が腰をかけ休んだという「御座石」が、宮田村駒ヶ原に文化財として残っています。 -
御座石
宮田村が「宮田村インターネット博物館」というサイトをだしておりまして、そのなかにありました。
http://www.miyada.jp/
期待していなかったので、面白いものを見せてくれると感心しました。どなたか熱心な方ががんばっておられるのだと思います。
上記伝説の詳細が知りたくて、日曜日の夕方メールを村の図書館に送りましたが、すぐに電話があり、近日中に宮田村村誌のコピーを送る。図書館ですから、日曜日も開館しているのでしょうか。有り難うございました。
☆☆☆
私たちの地元房総では、日本書紀の、ヤマトタケルが通ったという記述を根拠に、外房で20のヤマトタケル由来の神社があります。
千葉県市原市(旧上総国)、市川市(旧下総国)、東京都葛飾区(旧下総国)近辺では、この地域にヤマトタケルが立ち寄ったとは記紀のどこにも書いてありませんが、ヤマトタケルをまつる神社が40社、伝説があちこちにあります。
現代でも観光モニュメントがいっぱい。
くわしくは私たちの下記の旅行記グループをごらんになってください。
ヤマトタケルの旅日本書紀編2018年
https://4travel.jp/travelogue_group/12750
ヤマトタケルの旅上総国下総国2019年
https://4travel.jp/travelogue/11463690#travelogue_groupArea
冒頭に書いたように、記紀の文章を読めば、ヤマトタケルは伊那谷を通過したことになります。それを由緒に熱田神社、大御食神社は創建されたのです。宮田村村誌にある伝承も、同じです。
記紀にここまではっきり書いてあるので、伊那谷では後年もっと多くの神社が作られてもおかしくありません。
それが房総に比べて少ない。
理由は、房総には、走水での乙橘姫の悲劇という、記紀屈指の名場面があります。伊那谷にはそれがなかった、ということでしょう。
ヤマトタケル東征のクライマックスは能褒野ですから、記紀の作者は伊那谷をスルーしてしまったのです。
伊那谷の豪族、いまでいうと宮田村の村長みたいな人物が、太安万侶、舎人親王あたりに、伊那谷についても記紀でなにか書いてくれと陳情すべきでした。
では房総ではだれがやったのか。 -
大貫海水浴場の乙橘姫の像。
内房の観光事業振興に貢献しています。
「独占スクープ、乙橘姫悲話の真実に迫る、舎人親王、太安万侶、穂積咋三者会議!」
ご用とお急ぎでない方専用です。時間とパソコン電源代の返還には応じかねますので、ご承知おき下さい。
場所:藤原京の日本書紀編集局事務所。
時期:700年前後。
記紀の編纂を言い出したのは天武天皇。在位は673年―686年ですが、その後も編纂は引き継がれました。
登場人物
ご存知書紀編集長舎人親王、古事記の太安万侶。
舎人親王は皇族で政府高官ですから、こんな所へは来たことがない。大量の元資料を見せるというので、しぶしぶやって来ました。珍しいのと資料のゴミで朝服(みかどころも)が汚れそうで、落ち着かない
もうひとりは穂積咋(ほずみのくい)
いわくつきの人物です。
日本書紀孝徳天皇元年(645年)8月5日や2年(646年)3月2日を読むと、このときすでに彼は東国国司でした。東国は8カ国ありますがどことは書いてありません。
3月2日の記事だと、
「穂積臣咋が犯したことは、人民に対して不当に物を求め、後で悔いて物を返したが、全部は返さなかったことである」
要するに汚職です。一部返しているのはみみっちい。
でも天皇が新しい難波宮で即位するので、お祝いで大赦されています。このあとも国司を首になっていませんから、前後相当長く国司だった。
大化5年(皇極5年)、蘇我倉山田石川麻呂(そがくらの・やまだの・いしかわまろ)冤罪事件のときも名前が出てきます。冤罪で自殺した石川麻呂の遺体の首を切らせたというのですから、天皇への点数稼ぎにしてもかなりエグい。イメージよくない。
壬申の乱にも一族が出てきます。
天武天皇元年(672年)6月、壬申の乱が勃発すると、近江朝は、
「穂積臣百足(ひゃくたり)、弟五百枝(いおえ)、物部首日向(もののべの・おびと・ひむか)を倭の京(飛鳥)に遣わした」
とあります。百足、五百枝は穂積咋の息子です。
百足は、6月29日小墾田の武器庫で殺されてしまいます。
五百枝もこのとき捕まりますが、
「しばらく後、許して軍中に入れた」
要するに寝返って大海人皇子側についたということです。
父咋が裏で糸を引いて、近江朝の大友皇子、反旗を翻した大海人皇子のどっちが勝っても、一族が生き残れるように仕組んだ可能性大だと思います。後世真田昌幸が同じようなことをしたのは、大河ドラマで皆さんご存知の通り。
645年に30才とすると700年には85才になります。当時としては相当高齢ではありますが、存命の可能性あり。
没年不明。
その3人がなぜここに集まったか。古事記日本書紀を編纂するにあたり、ヤマトタケルの東征という項目を設けることになりました。ところが資料がない。元東国国司穂積咋より、大量の資料をもっているという売り込みが、書紀編集部にありました。と、いうことにします。
それで舎人親王が穂積を呼び出したわけです。
舎人親王は天武5年(676年)生まれですから、700年だと24才。新進気鋭、皇族政治家のホープです。自分が編集している草稿段階の日本書紀にも、穂積咋は出てくる。あんまり評判よくない。「こういうヤツの方が使えることもある」と思って会うことにしました。
太安万侶としては、古事記は歌物語ですから、なにかぐっとくるサビがほしいと思っていた。売り込みの穂積の政治的素性など知ったこっちゃない。というわけでついてきた。
穂積はすごい分量の、ほこりだらけの木簡をもって、書紀編集部にやって来ました。舎人親王が衣服が汚れそうといやがったゴミとはこの木簡です。
舎人親王は書紀の「東征」のキモになるようないい話はないかと、穂積に聞きました。
「パンチの効いた、ぐっと読者を引きつけるようなエピソードがほしい」要するにこういうことです。
穂積はホコリだらけの木簡の山を取り出します。
「ゴミを舞い上がらせるな!」舎人親王は朱色の新調の朝服が心配。
「資料はあとで掃除してから出せ。要点を言え」
穂積は縷々語ります。
東国の旅の難所走水で、愛する男のために身を犠牲にした女の伝説。
「よし、それでいこう」舎人親王納得。
「うちもその話に乗ります」太安万侶も感激したようです。
「つきましては・・・」と、ここで穂積は、彼にとっての本題を切り出します。
「私どもの祖先、穂積氏忍山宿禰(おしやまのすくね)に弟橘媛と申す女(むすめ)がおります。この弟橘媛をヤマトタケル様の后とし、走水で皇子を救う女にしていただけないでしょうか」
「そういうことか、やっぱり食えないじじいだな」と舎人親王は思った。でもいい話だ。
この提案も採用されました。
その結果書紀日本武尊東征の最後に、彼の3人の后の三番目として、
「次の后穂積氏忍山宿禰の女(むすめ)の弟橘媛は稚武彦王(わかたけひこのみこ)を生んだ」と系図が記載されました。
太安万侶はウハウハです。ここで歌手には思いっきり唸ってもらおう。都はるみみたいなのを連想して下さい。
穂積はこのあと彼の東国の本拠地上総に橘神社をつくります。
祭神は弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)
以下は史実。出典ウイキペディア。
877年「日本三代実録」に橘神社の名があります。歴史文献初出です。
祭神は弟橘比売命。
884年「日本三代実録」によれば、日本武尊、忍山宿禰が合祀されました。
927年成立の延喜式に上総国長柄郡「橘神社」と記載されました。現在の茂原市本納の橘樹神社であります。
顰蹙の嵐!
「ドスドス」長靴や石が飛んでくる音、
時間と電気代を返せ?
だから〜〜最初に時間とパソコン電源代の返還には応じかねます、と言ったでしょ。
しかし現在、乙橘媛は日本古代史のスーパーヒロインであり、私の地元千葉県には、ヤマトタケルを祀る神社がどさっとあり、ヤマトタケルが通ったという伝説はあちこちにあります。
上総、下総の観光資源として貢献すること極めて大。
誰かが、弟橘姫の話を記紀に持ち込んだのです。誰でしょね。こういう時は、「それで誰が得するか」で考えるといい。すると、やっぱり、穂積咋じゃないですかね〜〜〜 -
木更津の「きみさらずタワー」
1992年、時の総理大臣竹下登が音頭とった「ふるさと創生事業」の1億円で作ったモニュメントです。塔の上に建っているのが、ヤマトタケルと乙橘姫。木更津観光の目玉です。
千葉県知事と木更津市長は、穂積咋に感謝しないといけないかも。
橘樹神社というのは外房にあるのです。乙橘姫は浦賀水道で遭難したのです。東京湾で遭難した人の櫛が太平洋をドンブラして流れ着くって、謎でした。そうかあ、そうなのか!これで謎は解けました。
ということは穂積咋の領地がもしも北海道なら?沖縄なら?
そういえば、同じ千葉に蘇我という地名がありましす。千葉市の蘇我比咩神社の伝承では、乙橘姫と一緒に入水した蘇我の女性が漂着したから蘇我という地名になったと。この女性は死ななかったらしい。よかったけれど、伝説にはなりませんでした。蘇我氏の宣伝部は穂積咋PR部隊に負けましたね。
By妻
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この旅行記へのコメント (2)
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- 前日光さん 2020/08/04 16:06:18
- 恐るべし! 穗積咋(>_<)
- それにしても、乙橘媛と共に入水した蘇我氏の娘はかわいそう。
蘇我氏が穗積咋よりも謙虚かつ上品であったために、モニュメントにはなりませんでしたが、しっかりと上総国に「蘇我」という地名は残しました。
ネズミの国に行くときに、たしか「蘇我行き」の電車に乗ったことを思い出しました!
舎人親王、太安万侶、そして穂積咋!
三人目の穂積は知らなかったですが、蘇我倉山田石川麻呂の自害した遺体の首を切ったとは!
悪逆非道なヤツ!
だからその息子、百足と五百枝もロクデナシなんですね!
息子の裏で糸引く親父咋!
真田とおんなじかぁ~(*_*)
でも真田だと悪人に見えなくなってしまうのは、大河(草刈正雄)のせいかも。
咋の役を野間口くんとかがやったら、「咋、いとにくし!」となることでしょうよ。
今回は久しぶりにby妻さんの妄想炸裂でしたね!
あの世で穂積咋が、さぞ悔しがっていると思います(^^;)
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2020/08/06 07:25:04
- Re: 恐るべし! 穗積咋(>_<)
- おはようございます。コメントありがとうございます。
私は、穂積咋は、伊藤四郎がいいのではないかと思っております。ずーと前の大河ドラマで、後白川法皇をやったときの、妖怪じみた憎たらしさ。
舎人親王は、ジャニーズあたりにいくらでもおります。穂積咋にいいようにあしらわれるイケメンの青年貴公子。
太安万侶は、年格好50前後として、軽薄なところが、浜田雅功がいいのではないかと。
蘇我比咩神社の伝説は、ヤマトタケルの下総のところでやってみたかったのですが、気力が続きませんでした。なぜか下総はタケル関係伝説が多いのです。行っていないのですがね。源頼朝の立ち回り先とダブっているよいうな感じです。
頼朝伝説は近場で交通費がかからないので、ネタがなくなったら、やってみます。
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