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旅に出たならば、帰らねばなりません。<br />東征のあとの、ヤマトタケルの家路を辿ります。<br /><br />ヤマトタケルは能褒野で薨去します。日本書紀によれば、年30。<br />「(景行天皇は)ヤマトタケルを伊勢国の能褒野の陵(みささぎ)に葬られた。そのとき日本武尊は白鳥となって、陵から出で倭国(やまとのくに)をさして飛んでいった。家来たちがその柩を開いてみると、衣だけがむなしく残って屍はなかった。そこで使いを遣わして、白鳥を追い求めた。倭(やまと)の琴弾原(ことひきはら、)にとどまった。それでそこに陵を造った。白鳥はまた飛んで河内に行き、古市邑(ふるいちのむら)にとどまった。またそこに陵を造った。時の人はこの三つの陵を名付けて、白鳥陵(しらとりの・みささぎ)といった。それからついに高く飛んで天に上った。それでただ衣冠だけを葬った」<br /><br />倭(やまと)の琴弾原の陵とは、現奈良県御所市富田の白鳥陵。河内の古市邑のそれは<br />現大阪市羽曳野市軽里の白鳥陵。そして能褒野の陵が白鳥三陵です。<br /><br />参考、引用資料については<br />「ヤマトタケル紀行・家路1」<br />に列挙してあります。

ヤマトタケルの家路16 能褒野

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2019/11/12 - 2019/11/12

24位(同エリア88件中)

旅行記グループ ヤマトタケルの家路

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26

しにあの旅人

しにあの旅人さん

旅に出たならば、帰らねばなりません。
東征のあとの、ヤマトタケルの家路を辿ります。

ヤマトタケルは能褒野で薨去します。日本書紀によれば、年30。
「(景行天皇は)ヤマトタケルを伊勢国の能褒野の陵(みささぎ)に葬られた。そのとき日本武尊は白鳥となって、陵から出で倭国(やまとのくに)をさして飛んでいった。家来たちがその柩を開いてみると、衣だけがむなしく残って屍はなかった。そこで使いを遣わして、白鳥を追い求めた。倭(やまと)の琴弾原(ことひきはら、)にとどまった。それでそこに陵を造った。白鳥はまた飛んで河内に行き、古市邑(ふるいちのむら)にとどまった。またそこに陵を造った。時の人はこの三つの陵を名付けて、白鳥陵(しらとりの・みささぎ)といった。それからついに高く飛んで天に上った。それでただ衣冠だけを葬った」

倭(やまと)の琴弾原の陵とは、現奈良県御所市富田の白鳥陵。河内の古市邑のそれは
現大阪市羽曳野市軽里の白鳥陵。そして能褒野の陵が白鳥三陵です。

参考、引用資料については
「ヤマトタケル紀行・家路1」
に列挙してあります。

旅行の満足度
5.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
交通手段
自家用車
旅行の手配内容
個別手配

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  • 現奈良県御所市富田の白鳥陵は村落の一隅にありました。

    現奈良県御所市富田の白鳥陵は村落の一隅にありました。

  • 古墳や史跡がふんだんにある奈良ならではの道案内です。

    古墳や史跡がふんだんにある奈良ならではの道案内です。

  • 手作りの案内表示ではないかと思います。地元の方に守られているのですね。

    手作りの案内表示ではないかと思います。地元の方に守られているのですね。

  • 村落の背後の丘を登ります。

    村落の背後の丘を登ります。

  • 白鳥陵です。

    白鳥陵です。

  • 「日本武尊琴引原白鳥陵」とあります。日本書紀では「琴弾原」 いつもは垂直水平を補正するのですが、そのままにしておきます。わずかに傾いた、それが趣のある石碑でした。

    「日本武尊琴引原白鳥陵」とあります。日本書紀では「琴弾原」 いつもは垂直水平を補正するのですが、そのままにしておきます。わずかに傾いた、それが趣のある石碑でした。

  • 例によって、宮内庁のお達しです。最初は、上から目線でなんとなく不愉快でしたが、言っていることは確かにその通りで、「・・・でお願いいたします」などという今日日の甘ったるい言い回しより、直裁で好ましく思うようになりました。<br />「ああ、そうかよ」と、こっちも遠慮なく返事すればいいだけです。

    例によって、宮内庁のお達しです。最初は、上から目線でなんとなく不愉快でしたが、言っていることは確かにその通りで、「・・・でお願いいたします」などという今日日の甘ったるい言い回しより、直裁で好ましく思うようになりました。
    「ああ、そうかよ」と、こっちも遠慮なく返事すればいいだけです。

  • 周囲は木立に覆われておりました。

    周囲は木立に覆われておりました。

  • 赤いのは、カラスウリですね。60年以上前、私が子供のころ、どこにでもありました。いまは珍しい。古都らしい懐かしい風景です。

    赤いのは、カラスウリですね。60年以上前、私が子供のころ、どこにでもありました。いまは珍しい。古都らしい懐かしい風景です。

  • 小路が陵を取り巻いておりました。蛇が大嫌いな妻が一周しました。11月ならもう出ないというのは甘い。村の道路で1匹車にひかれて死んでおりました。

    小路が陵を取り巻いておりました。蛇が大嫌いな妻が一周しました。11月ならもう出ないというのは甘い。村の道路で1匹車にひかれて死んでおりました。

  • 奈良の村らしい、落ち着いたたたずまいいでした。

    奈良の村らしい、落ち着いたたたずまいいでした。

  • 私が白鳥なら、この村には降りたい。

    私が白鳥なら、この村には降りたい。

  • 大阪市羽曳野市軽里の白鳥陵

    大阪市羽曳野市軽里の白鳥陵

  • 「日本武尊白鳥陵」いつもの石碑です。宮内庁御用達ですね。

    「日本武尊白鳥陵」いつもの石碑です。宮内庁御用達ですね。

  • この一画だけ緑がありました。

    この一画だけ緑がありました。

  • 宮内庁はヤマトタケルの白鳥三陵の一つに比定していますが、考古学上は軽里大塚古墳(かるさとおおつかこふん)とよばれ、5世紀後半の築造で、実際の被葬者は分からないそうです。

    宮内庁はヤマトタケルの白鳥三陵の一つに比定していますが、考古学上は軽里大塚古墳(かるさとおおつかこふん)とよばれ、5世紀後半の築造で、実際の被葬者は分からないそうです。

  • こうした住宅地の真ん中にあります。<br />広い壕のある立派な古墳ですが、白鳥三陵のうち、今となっては、もっともヤマトタケルのみささぎにはふさわしくありません。

    こうした住宅地の真ん中にあります。
    広い壕のある立派な古墳ですが、白鳥三陵のうち、今となっては、もっともヤマトタケルのみささぎにはふさわしくありません。

  • 能褒野墓全景<br />湾曲する道の行く手、白く見えるのは丘の擁壁です。このあたりにヤマトタケルの墓があります。

    能褒野墓全景
    湾曲する道の行く手、白く見えるのは丘の擁壁です。このあたりにヤマトタケルの墓があります。

  • 小路が古墳に誘います。

    小路が古墳に誘います。

  • 白い擁壁の近くに丘に登る階段があり、

    白い擁壁の近くに丘に登る階段があり、

  • 墓があります。

    墓があります。

  • 宮内庁の表示です。

    宮内庁の表示です。

  • 手作り感のある案内です。

    手作り感のある案内です。

  • 子供の声の歌が聞こえました。<br />近くの橋を子供たちが歌いながら歩いていました。学校が終わる時間でした。<br /><br />日本を代表する英雄の死です。他の英雄達、例えばスサノオ、オオクニヌシ、はたまた神武。その誰一人どのように死んだか書いてありません。(神様は死なないの?)<br />ヤマトタケル一人が、どのように苦しみ、耐え、力尽きたかが書かれています。その力尽きた英雄を葬った場所が三カ所もあるって、どういうことでしょう。<br />魂が白い鳥となって飛び上がり、舞い降り、また飛び上がり・・・その舞い降りた場所だそうです。<br />ヤマトタケルは白という色に囲まれています。白い蛇、白い猪にやられ、白い犬に導かれて味方と合流し、そして自身は白い鳥になるわけで、白い物語とよべます。<br />ヤマトタケルは若々しく、純粋無垢な印象がありますが、白という色からきたものでしょう。それとも彼を現すと白だ!ということでしょうか。<br />いずれにしてもヤマトタケルは未熟な十代の少年のイメージですよね。<br />By妻

    子供の声の歌が聞こえました。
    近くの橋を子供たちが歌いながら歩いていました。学校が終わる時間でした。

    日本を代表する英雄の死です。他の英雄達、例えばスサノオ、オオクニヌシ、はたまた神武。その誰一人どのように死んだか書いてありません。(神様は死なないの?)
    ヤマトタケル一人が、どのように苦しみ、耐え、力尽きたかが書かれています。その力尽きた英雄を葬った場所が三カ所もあるって、どういうことでしょう。
    魂が白い鳥となって飛び上がり、舞い降り、また飛び上がり・・・その舞い降りた場所だそうです。
    ヤマトタケルは白という色に囲まれています。白い蛇、白い猪にやられ、白い犬に導かれて味方と合流し、そして自身は白い鳥になるわけで、白い物語とよべます。
    ヤマトタケルは若々しく、純粋無垢な印象がありますが、白という色からきたものでしょう。それとも彼を現すと白だ!ということでしょうか。
    いずれにしてもヤマトタケルは未熟な十代の少年のイメージですよね。
    By妻

  • ヤマトタケルの最期を古事記と日本書紀で辿ります。<br /><br />古事記は、まるでオペラかミュージカルです。<br />稗田阿礼(ひえだの・あれ)が記憶していた話を書き留めたものだということになっています。稗田阿礼が実在したかどうかは、学者の間でも疑問とされています。<br />妻の考えだと、古事記のヤマトタケル最期の場面は、もともとヤマトタケルに関係なく、民衆の間で歌われていたものだ。祭のときに、歌垣のように、複数の歌手の掛け合いで、芝居のように演じられた。それを採取して、ヤマトタケルの物語に採用した。<br />稗田阿礼は、いってみればICレコーダーのようなもので、各地の民間歌謡、歌われていた口碑をそのままに記憶してきて、古事記のライターに再現して歌ってみせたのではないか。<br />そう思ってみると、まさにそのとおり。はじめから歌劇だったのです。<br /><br />舞台は真っ暗、まずナレーターが、<br />「能褒野にお着きになった時に、故郷を思って歌っておっしゃる」<br />舞台中央にヤマトタケルがフェードイン、テノールでしょうね。現代語訳は舞台上部に字幕で表示されると思って下さい。<br /><br />「やまとはくにの まほろば たたなづく 青がき 山ごもれる 大和しうるはし」<br /><br />倭は 国のもっとも秀でたところ<br />重なり合っている山々の 青い垣<br />山々に囲まれた 倭は すばらしい<br /><br />「命の またけむ人は たたみこも 平群(へぐり)の山の 熊白檮(くまかし)が葉を 髻華(うず)に挿せ その子」<br /><br />命の 無事であった人は<br />(薦を編んで幾重にも重ねたような)平群の山の<br />大きな白檮(かし)の葉を<br />かんざしとして挿しなさい おまえたち<br /><br />「はしけやし 我家(わぎへ)の方よ 雲居立ちくも」<br /><br />いとおしい 我が家の方から<br />雲が立ち渡ってくるよ<br /><br />ナレーション<br />「これは片歌である。この時にご病気が急変した」<br /><br />倒れ伏すヤマトタケル。しかし起き上がって、<br /><br />「嬢子(おとめ)の 床のべに わが置きし 剣(つるぎ)の太刀(たち) その太刀はや」<br /><br />乙女の 床のかたわらに<br />我が置き残した 太刀<br />その太刀よ<br /><br />ふたたび崩れ落ちるヤマトタケル。フェイドアウト。<br /><br />ナレーター、駅鈴の鈴の音、遠ざかる馬のひずめの音、<br />「歌い終わり、崩御なさった。そこで早馬の使者を都の天皇にお届け申し上げた」<br /><br />舞台奥の紗幕の向こうでフェイドイン<br />いならぶ后たちと御子<br />ナレーション<br />「倭建命の訃報を受けて、大和においでになる后と御子たちはみな能褒野に下ってきた」<br /><br />シルエットの彼らのコーラスです。<br /><br />「なづき田の 稲(いな)がらに 稲がらに 蔓ひもとろふ ところつづら」<br /><br />かたわらの 田の稲の茎に<br />その稲の茎に 這いからまっている<br />山芋の蔓よ<br /><br />ナレーション<br />「そのとき、倭建命の霊魂が、大きな千鳥になり、天に飛翔して、浜に向かって飛んでお行きになった」<br />舞台中央よりゆるやかに飛び立つ白鳥。<br /><br />「浅小竹原(あさじのはら) 腰(こし)なづむ 空は行かず 足よ行くな」<br /><br />朝言い篠原を行くと 篠竹に腰がとられる<br />鳥のように空を飛んでは行かれず 足でとぼとぼ行くもどかしさよ<br /><br />「海が行けば 腰なづむ 大河原の 植え草 海がは いさよふ」<br /><br />海に入って行くと 海水に腰をとられる<br />広い河に 生えている水草のように<br />海では 波にゆらゆらともたつくばかり<br /><br />「浜つ千鳥(ちどり) 浜よは行かず 磯づたふ」<br /><br />浜の千鳥よ 浜からはもう追って行けないので<br />磯伝いに追いかけることよ<br /><br />コーラス、フェイドアウト<br />ナレーション<br />「千鳥はその国から飛翔してお行きになって、河内国の志紀にお泊まりになった。そこで、その地に御陵をつくって、鎮座申し上げた。その御陵に名付けて白鳥の陵という。しかしまたその地から天高く飛翔してお行きになった」<br /><br />もともと歌われていたものですから、もとに戻すだけです。<br />かがり火に照らされて、笛や太鼓の素朴な伴奏。銅鐸は楽器という説もあります。長く尾を引く銅鐸の音にのせて、素朴な節回しで歌われたのではないでしょうか。<br />古事記のヤマトタケル東征を書けと言われた作者は、どこかで採取されてきたこの歌のやりとりを聞いたとき、「これを使おう」と思った。この歌がクライマックスで盛り上がるように、東国を旅した旅人の記録をつなぎ合わせ、物語をつくった。<br /><br />ヤマトタケルの物語はフィクションです。ヤマトタケルは実在する人物ではありません。<br />しかし、古事記でこの物語を書いた人物は確実に存在するのです。その人物の気持ちになってみて、どうこの話をまとめたのか、想像してみました。

    ヤマトタケルの最期を古事記と日本書紀で辿ります。

    古事記は、まるでオペラかミュージカルです。
    稗田阿礼(ひえだの・あれ)が記憶していた話を書き留めたものだということになっています。稗田阿礼が実在したかどうかは、学者の間でも疑問とされています。
    妻の考えだと、古事記のヤマトタケル最期の場面は、もともとヤマトタケルに関係なく、民衆の間で歌われていたものだ。祭のときに、歌垣のように、複数の歌手の掛け合いで、芝居のように演じられた。それを採取して、ヤマトタケルの物語に採用した。
    稗田阿礼は、いってみればICレコーダーのようなもので、各地の民間歌謡、歌われていた口碑をそのままに記憶してきて、古事記のライターに再現して歌ってみせたのではないか。
    そう思ってみると、まさにそのとおり。はじめから歌劇だったのです。

    舞台は真っ暗、まずナレーターが、
    「能褒野にお着きになった時に、故郷を思って歌っておっしゃる」
    舞台中央にヤマトタケルがフェードイン、テノールでしょうね。現代語訳は舞台上部に字幕で表示されると思って下さい。

    「やまとはくにの まほろば たたなづく 青がき 山ごもれる 大和しうるはし」

    倭は 国のもっとも秀でたところ
    重なり合っている山々の 青い垣
    山々に囲まれた 倭は すばらしい

    「命の またけむ人は たたみこも 平群(へぐり)の山の 熊白檮(くまかし)が葉を 髻華(うず)に挿せ その子」

    命の 無事であった人は
    (薦を編んで幾重にも重ねたような)平群の山の
    大きな白檮(かし)の葉を
    かんざしとして挿しなさい おまえたち

    「はしけやし 我家(わぎへ)の方よ 雲居立ちくも」

    いとおしい 我が家の方から
    雲が立ち渡ってくるよ

    ナレーション
    「これは片歌である。この時にご病気が急変した」

    倒れ伏すヤマトタケル。しかし起き上がって、

    「嬢子(おとめ)の 床のべに わが置きし 剣(つるぎ)の太刀(たち) その太刀はや」

    乙女の 床のかたわらに
    我が置き残した 太刀
    その太刀よ

    ふたたび崩れ落ちるヤマトタケル。フェイドアウト。

    ナレーター、駅鈴の鈴の音、遠ざかる馬のひずめの音、
    「歌い終わり、崩御なさった。そこで早馬の使者を都の天皇にお届け申し上げた」

    舞台奥の紗幕の向こうでフェイドイン
    いならぶ后たちと御子
    ナレーション
    「倭建命の訃報を受けて、大和においでになる后と御子たちはみな能褒野に下ってきた」

    シルエットの彼らのコーラスです。

    「なづき田の 稲(いな)がらに 稲がらに 蔓ひもとろふ ところつづら」

    かたわらの 田の稲の茎に
    その稲の茎に 這いからまっている
    山芋の蔓よ

    ナレーション
    「そのとき、倭建命の霊魂が、大きな千鳥になり、天に飛翔して、浜に向かって飛んでお行きになった」
    舞台中央よりゆるやかに飛び立つ白鳥。

    「浅小竹原(あさじのはら) 腰(こし)なづむ 空は行かず 足よ行くな」

    朝言い篠原を行くと 篠竹に腰がとられる
    鳥のように空を飛んでは行かれず 足でとぼとぼ行くもどかしさよ

    「海が行けば 腰なづむ 大河原の 植え草 海がは いさよふ」

    海に入って行くと 海水に腰をとられる
    広い河に 生えている水草のように
    海では 波にゆらゆらともたつくばかり

    「浜つ千鳥(ちどり) 浜よは行かず 磯づたふ」

    浜の千鳥よ 浜からはもう追って行けないので
    磯伝いに追いかけることよ

    コーラス、フェイドアウト
    ナレーション
    「千鳥はその国から飛翔してお行きになって、河内国の志紀にお泊まりになった。そこで、その地に御陵をつくって、鎮座申し上げた。その御陵に名付けて白鳥の陵という。しかしまたその地から天高く飛翔してお行きになった」

    もともと歌われていたものですから、もとに戻すだけです。
    かがり火に照らされて、笛や太鼓の素朴な伴奏。銅鐸は楽器という説もあります。長く尾を引く銅鐸の音にのせて、素朴な節回しで歌われたのではないでしょうか。
    古事記のヤマトタケル東征を書けと言われた作者は、どこかで採取されてきたこの歌のやりとりを聞いたとき、「これを使おう」と思った。この歌がクライマックスで盛り上がるように、東国を旅した旅人の記録をつなぎ合わせ、物語をつくった。

    ヤマトタケルの物語はフィクションです。ヤマトタケルは実在する人物ではありません。
    しかし、古事記でこの物語を書いた人物は確実に存在するのです。その人物の気持ちになってみて、どうこの話をまとめたのか、想像してみました。

  • 日本書紀によると、<br />ヤマトタケルは能褒野に着いて、病がひどくなりました。<br />しかしながら、任務を帯びて旅に出たからには、その事後処理、報告をしなければなりません。<br />まず第一に蝦夷で得た俘虜を伊勢神宮に献上する手続きをします。<br />つぎに、天皇への報告書をしたためます。<br />東夷征討に成功したこと。「甲(よろい)を巻き矛を収めて」帰国したこと。<br />「いずれの日にか天朝に復命しようと思っていましたのに、天命たちまちに至り、余命幾ばくもありません。さびしく荒野に臥し、誰に語ることもありません。自分の身の亡ぶことは惜しみませんが、残念なのは、御前にお仕えできなくなったことです」<br />「豈惜身亡、唯愁不面」、あに身のほろぶこと惜しまむや、ただ不面を愁うのみ。<br />報告書を、東国の旅の苦楽をともにした忠臣、吉備武彦(きびの・たけひこ)に託します。<br />吉備武彦は、馬上、駅鈴を鳴らして旅立ちました。<br />ヤマトタケルは臣下として、任務は果たした。でもその報告を、自ら天皇にしたかったでしょう。その栄誉を、ヤマトを目の前にして、いま一歩のところで果たせない。その無念は想像にあまりあります。<br /><br />臨終の時、吉備武彦はヤマトに向う。<br />もう一人の忠臣、大伴武日連(おおともの・たけいの・むらじ)は枕頭。<br />旅立ちから、ヤマトタケルに付き添った七拳脛(ななつかはぎ)は、古事記によれば、「長い間ずっと調理人として従事し、お仕え申し上げた」<br />ヤマトタケルは死ぬとき、一人ではありませんでした。<br /><br />ヤマトタケルは古代東国を旅した大丈夫(ますらお)の記録の集大成です。<br />旅の成就を目前にして死んでいった、忠節かつ勇敢な男達もいたでありましょう。

    日本書紀によると、
    ヤマトタケルは能褒野に着いて、病がひどくなりました。
    しかしながら、任務を帯びて旅に出たからには、その事後処理、報告をしなければなりません。
    まず第一に蝦夷で得た俘虜を伊勢神宮に献上する手続きをします。
    つぎに、天皇への報告書をしたためます。
    東夷征討に成功したこと。「甲(よろい)を巻き矛を収めて」帰国したこと。
    「いずれの日にか天朝に復命しようと思っていましたのに、天命たちまちに至り、余命幾ばくもありません。さびしく荒野に臥し、誰に語ることもありません。自分の身の亡ぶことは惜しみませんが、残念なのは、御前にお仕えできなくなったことです」
    「豈惜身亡、唯愁不面」、あに身のほろぶこと惜しまむや、ただ不面を愁うのみ。
    報告書を、東国の旅の苦楽をともにした忠臣、吉備武彦(きびの・たけひこ)に託します。
    吉備武彦は、馬上、駅鈴を鳴らして旅立ちました。
    ヤマトタケルは臣下として、任務は果たした。でもその報告を、自ら天皇にしたかったでしょう。その栄誉を、ヤマトを目の前にして、いま一歩のところで果たせない。その無念は想像にあまりあります。

    臨終の時、吉備武彦はヤマトに向う。
    もう一人の忠臣、大伴武日連(おおともの・たけいの・むらじ)は枕頭。
    旅立ちから、ヤマトタケルに付き添った七拳脛(ななつかはぎ)は、古事記によれば、「長い間ずっと調理人として従事し、お仕え申し上げた」
    ヤマトタケルは死ぬとき、一人ではありませんでした。

    ヤマトタケルは古代東国を旅した大丈夫(ますらお)の記録の集大成です。
    旅の成就を目前にして死んでいった、忠節かつ勇敢な男達もいたでありましょう。

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  • 前日光さん 2020/09/11 23:39:35
    ミュージカルorオペラの監督!
    こんばんは、ついに大団円でしょうか?

    それにしても壮大なミュージカルですねぇ。。。
    ロックミュージカル「ジーザス・クライスト・スーパースター」を思い出しました。
    また30歳で亡くなったヤマトタケルに、先日夭折した三浦春馬さんを重ねてしまいました。

    しにあの旅人さんご夫妻は、ミュージカルかオペラの演出などされたら、素晴らしい作品を創るかもしれませんね。
    実は実在しなかったヤマトタケル、彼は古代東国を旅した丈夫の集大成!
    しかもその旅は成就されず。。。そこに目的達成を目前に亡くなった古代の男たちをオーバーラップさせる、お二人ともなんというロマンティストなのでしょう!
    記紀を斜め読みすると公言しておきながら、その根底には常に浪漫性に満ちた考察がされていましたよ。
    時には更級ちゃんなどを登場させて,話をおもしろおかしく盛り上げつつ、ついには「白」のイメージに彩られた古代丈夫たちの生き様へと昇華してゆく。。。国文学科卒業生、しかも上代文学専攻としましては(「万葉集」なんですけどね)、たいへん興味深く楽しく拝読させていただきました!(^^)!
    お疲れ様でした<(_ _)>

    え?もしかして、まだ続きがあったりして(^^;)


    前日光

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2020/09/12 07:07:21
    Re: ミュージカルorオペラの監督!
    おはようございます。
    はい、もう1回あります。「たたなづくあお垣」というものがどんなものか、奈良まで行ってきました。
    なるほどこれかと思いました。
    By妻がリキいれて書いています。もうちょとでUPできると思います。

    斜め読み背後の浪漫、気付いていただいて、本当に嬉しい。
    前日光さんもお好きな出雲、奈良など、行ってみたらただの遺跡や原っぱだったりします。浪漫色のメガネをかけてみなければ、何も見えません。
    イメージが何百倍にも広がって、これぞ旅という感じがします。
    はやく浪漫の旅に好き勝手に行けるようになるといいですね。

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