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旅に出たならば、帰らねばなりません。<br />東征のあとの、ヤマトタケルの家路を辿ります。<br /><br />ヤマトタケルは、東山道最大の難所、信濃坂、現在の神坂(みさか)峠にかかります。この項では、この峠をヤマトタケルの時代のとおり、信濃坂とよびます。記紀では「坂」とは「峠」を意味しました。<br />古事記ではあっさりと「信濃の坂の神を懐(なつ)けて」尾張に行ってしまいます。<br />日本書紀では信濃坂にたどり着くまでが大変です。<br />「日本武尊は信濃に進まれた。この国は山高く谷は深い。青い嶺が幾重にも重なる。人は杖をついても登るのが難しい。岩は険しく坂道は長く、高峯数千、馬は行き悩んで進まない。しかし日本武尊は霞を分け、霧を凌いで大山を渡り歩かれた。峯に着かれて、空腹のため山中で食事をされた」<br />私たちは「この国は山高く谷は深い。青い嶺が幾重にも重なる。人は杖をついても登るのが難しい」は信濃国、特に伊奈谷の描写だと思います。後半「岩は険しく・・・」以降は信濃坂。そのものずばりです。<br /><br />参考、引用資料については<br />「ヤマトタケル紀行・家路1」<br />に列挙してあります<br />

ヤマトタケルの家路13 信濃坂

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2019/11/11 - 2019/11/12

62位(同エリア317件中)

旅行記グループ ヤマトタケルの家路

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しにあの旅人

しにあの旅人さん

旅に出たならば、帰らねばなりません。
東征のあとの、ヤマトタケルの家路を辿ります。

ヤマトタケルは、東山道最大の難所、信濃坂、現在の神坂(みさか)峠にかかります。この項では、この峠をヤマトタケルの時代のとおり、信濃坂とよびます。記紀では「坂」とは「峠」を意味しました。
古事記ではあっさりと「信濃の坂の神を懐(なつ)けて」尾張に行ってしまいます。
日本書紀では信濃坂にたどり着くまでが大変です。
「日本武尊は信濃に進まれた。この国は山高く谷は深い。青い嶺が幾重にも重なる。人は杖をついても登るのが難しい。岩は険しく坂道は長く、高峯数千、馬は行き悩んで進まない。しかし日本武尊は霞を分け、霧を凌いで大山を渡り歩かれた。峯に着かれて、空腹のため山中で食事をされた」
私たちは「この国は山高く谷は深い。青い嶺が幾重にも重なる。人は杖をついても登るのが難しい」は信濃国、特に伊奈谷の描写だと思います。後半「岩は険しく・・・」以降は信濃坂。そのものずばりです。

参考、引用資料については
「ヤマトタケル紀行・家路1」
に列挙してあります

旅行の満足度
5.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
交通手段
自家用車
旅行の手配内容
個別手配

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  • 東山道信濃坂の信濃国(現長野県)側には阿智駅、美濃国(現岐阜県)側には坂本駅がありました。距離を計算してみます。<br />阿智駅の場所ですが、現阿智村駒場木戸脇が有力候補地です。<br />「南信州新聞」 2002/1/1 「道の歴史を訪ねてみれば...」<br />http://www.kmatsum.info/Sinsyu/uma/horse2.html<br />木戸脇という集落が見つかりません。距離を測るのが目的なので、近くといわれる安布知(あふち)神社とします。<br />「日本古代の道と駅」によれば、坂本駅は岐阜県中津川市の落合五郎遺跡が有力候補地。ピンポイントできませんが、中世の城跡、五郎丸城遺跡というのがありますので、そこをマークしました。

    東山道信濃坂の信濃国(現長野県)側には阿智駅、美濃国(現岐阜県)側には坂本駅がありました。距離を計算してみます。
    阿智駅の場所ですが、現阿智村駒場木戸脇が有力候補地です。
    「南信州新聞」 2002/1/1 「道の歴史を訪ねてみれば...」
    http://www.kmatsum.info/Sinsyu/uma/horse2.html
    木戸脇という集落が見つかりません。距離を測るのが目的なので、近くといわれる安布知(あふち)神社とします。
    「日本古代の道と駅」によれば、坂本駅は岐阜県中津川市の落合五郎遺跡が有力候補地。ピンポイントできませんが、中世の城跡、五郎丸城遺跡というのがありますので、そこをマークしました。

  • 安布知神社-神坂神社 12.3km

    安布知神社-神坂神社 12.3km

  • 神坂神社-神坂峠は現在ハイキングコースです。6.8kmです。

    神坂神社-神坂峠は現在ハイキングコースです。6.8kmです。

  • 神坂峠-五郎丸遺跡 19.4km<br />合計38.5km<br /><br />927年の古代法令集・延喜式によれば阿智駅―坂本駅間は74唐里。1唐里は559.8mだそうです。約41.5km<br />現在は橋などでむりやり道をまっすぐ通すことは可能ですから、このくらいの誤差はでるでしょう。通常駅路の駅間隔は16キロですから、2倍半以上離れています。その間に駅を作れなかったのです。<br />古代の交通制度には、駅制、伝制があります。あわせて駅伝制。各駅には馬と駅使が常備され、重要な情報を引き継いだ駅使が馬を駆って次の駅に伝えます。箱根駅伝などの「駅伝」の語源です。<br />その制度の実現のために作られたのが官道、駅路と伝路です。駅路は情報伝達のため都と各国の国府間で、馬を疾走させることを目的に作られました。したがってできるだけ直線で、道幅も原則12メートル、最低でも6メートルありました。伝路は国府とその支配下にある評(ひょう)、郡(こおり)を結んでいました。<br />駅路には各駅ごとに駅家(うまや)があります。駅家には中央政府から駅田(えきでん、やくでん)が駅家の経営のために与えられ、その田から収穫する駅稲(えきとう)で経営することになっていました。田の耕作は近隣の村が行い、この集落を駅戸(えきこ)、駅戸に住む人を駅子(えきし)といいました。駅戸は田の耕作、馬の飼育など駅家にかかわるあらゆる仕事を行いました。以上「古代道路の謎」より。<br />つまり駅家は独立採算が原則で、周囲に平野、水田がないと成り立たないのです。信濃坂の両側では、稲作が可能な平野部は当時では阿智駅、坂本駅が最後ということです。

    神坂峠-五郎丸遺跡 19.4km
    合計38.5km

    927年の古代法令集・延喜式によれば阿智駅―坂本駅間は74唐里。1唐里は559.8mだそうです。約41.5km
    現在は橋などでむりやり道をまっすぐ通すことは可能ですから、このくらいの誤差はでるでしょう。通常駅路の駅間隔は16キロですから、2倍半以上離れています。その間に駅を作れなかったのです。
    古代の交通制度には、駅制、伝制があります。あわせて駅伝制。各駅には馬と駅使が常備され、重要な情報を引き継いだ駅使が馬を駆って次の駅に伝えます。箱根駅伝などの「駅伝」の語源です。
    その制度の実現のために作られたのが官道、駅路と伝路です。駅路は情報伝達のため都と各国の国府間で、馬を疾走させることを目的に作られました。したがってできるだけ直線で、道幅も原則12メートル、最低でも6メートルありました。伝路は国府とその支配下にある評(ひょう)、郡(こおり)を結んでいました。
    駅路には各駅ごとに駅家(うまや)があります。駅家には中央政府から駅田(えきでん、やくでん)が駅家の経営のために与えられ、その田から収穫する駅稲(えきとう)で経営することになっていました。田の耕作は近隣の村が行い、この集落を駅戸(えきこ)、駅戸に住む人を駅子(えきし)といいました。駅戸は田の耕作、馬の飼育など駅家にかかわるあらゆる仕事を行いました。以上「古代道路の謎」より。
    つまり駅家は独立採算が原則で、周囲に平野、水田がないと成り立たないのです。信濃坂の両側では、稲作が可能な平野部は当時では阿智駅、坂本駅が最後ということです。

  • 阿智駅近くと思われる安布知神社です。<br />長野県下伊那郡阿智村駒場2079

    阿智駅近くと思われる安布知神社です。
    長野県下伊那郡阿智村駒場2079

  • 神社案内にも、<br />「古代東山道の阿智駅(あちのうまや)がおかれたところで、駅馬三十頭をおいて嶮難な神坂峠に備えた阿智駅の守護神として、当社は重要な位置を占めている」<br />とあります。

    神社案内にも、
    「古代東山道の阿智駅(あちのうまや)がおかれたところで、駅馬三十頭をおいて嶮難な神坂峠に備えた阿智駅の守護神として、当社は重要な位置を占めている」
    とあります。

  • 神社周辺はまあまあ平地。駅をおける地形ではあります。

    神社周辺はまあまあ平地。駅をおける地形ではあります。

  • 隣接するのは阿智村立第一小学校。現在地に建設されたのは1903年(明治35年)ですから、それ以前どういう地形であったかは分かりません。しかし当時わざわざ山を切り崩して学校を建てるというのは考えにくいので、このあたりを含め、平地だったと思います。広大な厩を作れる地形です。<br /><br />いろいろな神社をお参りしました。神社に隣接して小学校、中学校ある例をよく見ました。神社の土地の所有はいずこにあるのか私には分かりませんが、神社の存在が公的なものだったのでしょう。明治時代、子供達の為の公的な施設を造るとき、神社の土地を利用したのは自然だったのでしょう。<br />今、神社に行くとだれもいない。もったいないです。たいていの神社は高い所にあって、夏は風通しがよく、冬は日当たりがいい。公園に行くようにみんなで利用すればいいのに。<br />By妻

    隣接するのは阿智村立第一小学校。現在地に建設されたのは1903年(明治35年)ですから、それ以前どういう地形であったかは分かりません。しかし当時わざわざ山を切り崩して学校を建てるというのは考えにくいので、このあたりを含め、平地だったと思います。広大な厩を作れる地形です。

    いろいろな神社をお参りしました。神社に隣接して小学校、中学校ある例をよく見ました。神社の土地の所有はいずこにあるのか私には分かりませんが、神社の存在が公的なものだったのでしょう。明治時代、子供達の為の公的な施設を造るとき、神社の土地を利用したのは自然だったのでしょう。
    今、神社に行くとだれもいない。もったいないです。たいていの神社は高い所にあって、夏は風通しがよく、冬は日当たりがいい。公園に行くようにみんなで利用すればいいのに。
    By妻

  • 県道園原インター線を神坂神社に向かいます。東山道はこの道路の下、園原(そのはら)川に沿っていました。この近く、杉の木平遺跡では道幅5.2メートルの堀くぼめた道路遺跡が発見されているそうです。(「日本古代の道と駅」)

    県道園原インター線を神坂神社に向かいます。東山道はこの道路の下、園原(そのはら)川に沿っていました。この近く、杉の木平遺跡では道幅5.2メートルの堀くぼめた道路遺跡が発見されているそうです。(「日本古代の道と駅」)

  • 神坂神社<br />長野県下伊那郡阿智村智里3577

    神坂神社
    長野県下伊那郡阿智村智里3577

  • 神社右に10台くらい止まれる駐車場があります。

    神社右に10台くらい止まれる駐車場があります。

  • 道路は神社の右をまいてまだ続きますが、2キロくらいで行き止まりです。

    道路は神社の右をまいてまだ続きますが、2キロくらいで行き止まりです。

  • 拝殿<br />本殿は覆屋に覆われ見えません。<br />住吉三神(海の神様)を祀ります。<br />日本武尊も合祀されていますが、江戸中期以降の合祀だそうです。

    拝殿
    本殿は覆屋に覆われ見えません。
    住吉三神(海の神様)を祀ります。
    日本武尊も合祀されていますが、江戸中期以降の合祀だそうです。

  • 樹齢数百年という栃の巨木が境内に何本もあります。<br />数百年というとこのような太さです。

    樹齢数百年という栃の巨木が境内に何本もあります。
    数百年というとこのような太さです。

  • 神社左横に古代東山道の痕跡があります。

    神社左横に古代東山道の痕跡があります。

  • ここより神坂峠まで6.8キロです。今はハイキングコースです。

    ここより神坂峠まで6.8キロです。今はハイキングコースです。

  • 現在の道幅は1メートルくらいのものです。

    現在の道幅は1メートルくらいのものです。

  • しかし谷側の杉などは太くても樹齢数十年です。

    しかし谷側の杉などは太くても樹齢数十年です。

  • 山側の栃にしても古くて樹齢数百年。<br />道幅はかつてはもっと広かった。しかし律令の定める6メートル幅の駅路があったとは思えません。杉の木平遺跡ではすでに道幅5.2メートルでした。これは道路の縁を含む外々の幅で、道路本体は4.2メートルでした。これから標高差1000メートルを登ります。律令がいくら定めたって、できないものはできない。

    山側の栃にしても古くて樹齢数百年。
    道幅はかつてはもっと広かった。しかし律令の定める6メートル幅の駅路があったとは思えません。杉の木平遺跡ではすでに道幅5.2メートルでした。これは道路の縁を含む外々の幅で、道路本体は4.2メートルでした。これから標高差1000メートルを登ります。律令がいくら定めたって、できないものはできない。

  • 神社近くの案内板です。神社からしばらくは、スイッチバックしながら高度をかせぎます。やがて平坦な尾根道にでます。<br />園原川は峠の直下が水源です。沢伝いに行って、ここからの直登は、やればできるでしょうが、旅人は登山家ではありません。現在の山小屋、萬岳荘を経由する尾根筋の道が東山道でした。

    神社近くの案内板です。神社からしばらくは、スイッチバックしながら高度をかせぎます。やがて平坦な尾根道にでます。
    園原川は峠の直下が水源です。沢伝いに行って、ここからの直登は、やればできるでしょうが、旅人は登山家ではありません。現在の山小屋、萬岳荘を経由する尾根筋の道が東山道でした。

  • 翌日、美濃国(岐阜県)側から神坂峠に車で上がりました。

    翌日、美濃国(岐阜県)側から神坂峠に車で上がりました。

  • 神坂峠です。

    神坂峠です。

  • 峠のすぐ近くには、神坂峠遺跡があります。<br />この遺跡は旅の無事を祈る祭祀の場所でした。古墳時代に遡る土器などが発掘され、古くから信濃坂が木曽山脈の両側を結ぶ重要な交通路であったことがわかります。

    峠のすぐ近くには、神坂峠遺跡があります。
    この遺跡は旅の無事を祈る祭祀の場所でした。古墳時代に遡る土器などが発掘され、古くから信濃坂が木曽山脈の両側を結ぶ重要な交通路であったことがわかります。

  • 信濃国(長野県)側に案内板がありました。この先数十メートルで神坂峠です。<br />道幅は、クマザサなどを切り払えば6メートルあるかもしれません。<br />標高1569メートル、冬の雪の時期、峠を越えるのは大変だったでしょう。古代官道で最も標高の高い峠でした。

    信濃国(長野県)側に案内板がありました。この先数十メートルで神坂峠です。
    道幅は、クマザサなどを切り払えば6メートルあるかもしれません。
    標高1569メートル、冬の雪の時期、峠を越えるのは大変だったでしょう。古代官道で最も標高の高い峠でした。

  • 私たちは美濃側から登ったのですが、Rがきついヘアピンカーブの連続でした。車のギアのレンジはBにほぼ入れっぱなし。1500cc、四駆の車ですが、しんどかった。<br /><br />阿智、坂本両駅は馬30匹を常備することになっていました。普通の駅の3倍の数です。それだけこの峠が、古代の交通体系では重要でした。<br />古代の馬は非常に高価な乗り物でした。情報の伝達がメインの用途で、後世のように荷物を運ぶなどという使いかたはできません。郵便配達車がフェラーリと思えばいい。<br />荷物は駅子が背に負って峠を越えたのです。阿智、坂本両駅の負担は非常に大きかったようです。<br /><br />日本後紀延暦18年(799年)9月13日の条で、<br />「信濃国伊奈郡阿智駅の駅子の調庸を永く免除することにした。阿知駅が設置されている官道が険しく難路なためである」<br />とあります。8世紀末で難路だというのですから、7世紀ヤマトタケルの時代は、酷路? ひどい道路略して非道?<br /><br />「古代甲斐国の交通と社会」によれば、<br />「続日本紀」840年の条には、郡の役人が無能で、坂本の駅子がみんな逃げてしまい、諸使の往来が困難になり、中央政府が介入して坂本駅を建て直したとあります。<br />また「類聚三代格」855年の記録に、坂本-阿智駅間は他の駅間の数倍の距離なので「星を戴きて早くに発(ゆ)けども、夜を犯して遅くにいたる。(中略)駅子荷を負いて、常に運送に困(くる)しみ、寒節の中、道に死するもの衆(おお)し」<br /><br />当時の駅路を使っての旅はどんなものであったか。<br />家路1でも書きましたが、「道路の日本史」によると、官道の使用目的は1.国の緊急情報の伝達、2.軍隊の移動、3.公用役人の輸送、4.都への税金の輸送。<br />民間人の旅行など「眼中になかった」<br />「公務でない場合でも一定以上の官位をもつ者に対して駅家に泊まらせはするが、食事を提供してはならぬ」と律令(法律)で決まっていました。<br />「古代道路の謎」によると、官道を実際に頻繁に使うのは、納税のために都へ向かう庶民でした。「4.都への税金の輸送」です。古代では税は現物を納税者が自分で運ぶのです。<br />行きは決められた時期に国司が引率します。駅屋で接待を受けられるのは引率の役人だけ。庶民は自前で食料を用意しなければなりません。行きはまだいいほう。帰りは自力で帰るのです。駅も使えない。<br /><br />日本書紀大化2年(646年)3月22日の条です。<br />途中で発病し、駅路に面する家「路頭の家」の前で行き倒れる人もいます。<br />「すると路傍の家の者が、『何故自分の家の近くで人を死なせた』と責めて、死者のつれに対して、祓(はら)えの償いを強要する。このため兄が道中で死んでも、弟がその始末をしないということも多い」<br />要するに遺体の始末料を払えと強要するのです。<br />「また溺死した者があった時、それを目にした者が『なぜ溺死者を人に見せた』といって、つれに祓えの償いを要求する。このため兄が河に溺れても救おうとしない者も多い」<br />こうなると、もういいがかりです。<br />家の前で飯を炊くと、償いを出せ。甑(こしき、飯を蒸すための道具)を借りて飯を炊くと、甑がひっくり返っただけで、償いを要求。<br />これに対し日本書紀は、<br />「愚かななげかわしい習わしである。今すぐやめて二度とすべきではない」<br />よく言うよ、です。いくら古代でも、国がもうちょっと納税者の便宜を図ればいいだけです。<br />国も国ですが、民も民で、排他的、利己的だったのです。<br />これが現代の週刊誌みたいなものではなく、正史たる日本書紀にわざわざ書いてある。こういうことが正史に書くほど重大事だったわけで、私たちの古代のご先祖は、かなりエグかったようです。<br />ただ、前述のように駅は独立採算制ですから、駅の経営はいつも苦しくて、駅を支える駅子の負担は大変だった。少しでも元をとろうとしたのでしょう。<br />古代は、一般庶民がのんびりと旅をできるようなものではなかったのです。<br /><br />時代はさがりますが、続日本紀天平宝字元年(757年)冬10月6日の条に、孝謙天皇の勅として、<br />「聞くところによると、諸国からの調・庸を運ぶ人夫は、仕事を終わって帰郷する際、遠路のために食料が絶えてしまう、と。また旅先で病気になった人には、親しく世話をしてくれる人がいないので、餓死を免れるために物乞いをしてやっと命をつないでいる、と。(中略)京都と諸国の官司に命じて、食料と医薬を与え、よく調べて無事に郷里に着けるようにせよ」<br />天皇直々の言葉です。従わなかったら、<br />「違勅の罪を科することにする」<br />天皇の命令違反だぞと官司を脅さないと、庶民は旅の面倒をみてもらえない。当時の旅はよっぽどひどかったのがよく分かります。<br />でもこの勅で旅が快適になった、とは書いてありません。<br /><br />日本後紀延暦24年(805年)夏4月4日の条、<br />「聞くところによると、調を京へ運ぶ脚夫は路次で進めなくなり、飢えて死亡することが多いという」<br />だから役人は旅人の面倒を真剣に見ろ、と桓武天皇が勅しています。<br />変わっていません。<br />646年から805年まで159年変わっていないのです。<br /><br />「山椒大夫」という森鴎外が小説にしたお話があります。子供向けには、安寿と厨子王のお話として知られています。親子別々に人買いにさらわれた、幼い姉弟の苦難のお話です。子供心にむごく感じていやでしたねえ。あれは本当にあったことを反映していたのでしょうか。<br />By妻<br /><br />しかし、天皇の勅だと、旅の庶民は駅路の駅または国府、官司のいるところまでたどり着けば、運が良ければ何とかしてもらえそうです。<br />本来は、<br />「公務でない場合でも一定以上の官位をもつ者に対して駅家に泊まらせはするが、食事を提供してはならぬ」<br />と律令で決まっていました。官位などに縁のない庶民はまったく相手にしてもらえないはずです。法律はともかく、実際は多少は改善されていたような感じです。<br /><br />ところで、幕末で「違勅」となると、尊王攘夷派の侍が刀を抜いて「天誅!」と叫んで切り込んできます。古代の「違勅」はずいぶん軽かったようです。<br /><br />天皇の皇子クラスの身分で、しかも名目だけでも「蝦夷の征伐」という任務がなければ、古代では旅などはできなかった。このあたりの事情は書紀発表時の同時代人、しかも知識層では常識でしょう。<br />そのへんの「ほにゃらの連(むらじ)」程度の旅行記だと、当時の人は「旅になんか行けっこないじゃん、ありえね~」古代日本語風だと「アホでおじゃる」そこから先は読んでくれません。<br />東国の旅行記という話にリアリティを持たせるためには、皇子の東征という設定をもうけざるをえません。<br />だから「蝦夷の征伐」というわりには、肝心の華々しい戦さの記述などはないのです。<br />当たり前。名目だけの「蝦夷の征伐」、編集の都合上とってつけただけです。

    私たちは美濃側から登ったのですが、Rがきついヘアピンカーブの連続でした。車のギアのレンジはBにほぼ入れっぱなし。1500cc、四駆の車ですが、しんどかった。

    阿智、坂本両駅は馬30匹を常備することになっていました。普通の駅の3倍の数です。それだけこの峠が、古代の交通体系では重要でした。
    古代の馬は非常に高価な乗り物でした。情報の伝達がメインの用途で、後世のように荷物を運ぶなどという使いかたはできません。郵便配達車がフェラーリと思えばいい。
    荷物は駅子が背に負って峠を越えたのです。阿智、坂本両駅の負担は非常に大きかったようです。

    日本後紀延暦18年(799年)9月13日の条で、
    「信濃国伊奈郡阿智駅の駅子の調庸を永く免除することにした。阿知駅が設置されている官道が険しく難路なためである」
    とあります。8世紀末で難路だというのですから、7世紀ヤマトタケルの時代は、酷路? ひどい道路略して非道?

    「古代甲斐国の交通と社会」によれば、
    「続日本紀」840年の条には、郡の役人が無能で、坂本の駅子がみんな逃げてしまい、諸使の往来が困難になり、中央政府が介入して坂本駅を建て直したとあります。
    また「類聚三代格」855年の記録に、坂本-阿智駅間は他の駅間の数倍の距離なので「星を戴きて早くに発(ゆ)けども、夜を犯して遅くにいたる。(中略)駅子荷を負いて、常に運送に困(くる)しみ、寒節の中、道に死するもの衆(おお)し」

    当時の駅路を使っての旅はどんなものであったか。
    家路1でも書きましたが、「道路の日本史」によると、官道の使用目的は1.国の緊急情報の伝達、2.軍隊の移動、3.公用役人の輸送、4.都への税金の輸送。
    民間人の旅行など「眼中になかった」
    「公務でない場合でも一定以上の官位をもつ者に対して駅家に泊まらせはするが、食事を提供してはならぬ」と律令(法律)で決まっていました。
    「古代道路の謎」によると、官道を実際に頻繁に使うのは、納税のために都へ向かう庶民でした。「4.都への税金の輸送」です。古代では税は現物を納税者が自分で運ぶのです。
    行きは決められた時期に国司が引率します。駅屋で接待を受けられるのは引率の役人だけ。庶民は自前で食料を用意しなければなりません。行きはまだいいほう。帰りは自力で帰るのです。駅も使えない。

    日本書紀大化2年(646年)3月22日の条です。
    途中で発病し、駅路に面する家「路頭の家」の前で行き倒れる人もいます。
    「すると路傍の家の者が、『何故自分の家の近くで人を死なせた』と責めて、死者のつれに対して、祓(はら)えの償いを強要する。このため兄が道中で死んでも、弟がその始末をしないということも多い」
    要するに遺体の始末料を払えと強要するのです。
    「また溺死した者があった時、それを目にした者が『なぜ溺死者を人に見せた』といって、つれに祓えの償いを要求する。このため兄が河に溺れても救おうとしない者も多い」
    こうなると、もういいがかりです。
    家の前で飯を炊くと、償いを出せ。甑(こしき、飯を蒸すための道具)を借りて飯を炊くと、甑がひっくり返っただけで、償いを要求。
    これに対し日本書紀は、
    「愚かななげかわしい習わしである。今すぐやめて二度とすべきではない」
    よく言うよ、です。いくら古代でも、国がもうちょっと納税者の便宜を図ればいいだけです。
    国も国ですが、民も民で、排他的、利己的だったのです。
    これが現代の週刊誌みたいなものではなく、正史たる日本書紀にわざわざ書いてある。こういうことが正史に書くほど重大事だったわけで、私たちの古代のご先祖は、かなりエグかったようです。
    ただ、前述のように駅は独立採算制ですから、駅の経営はいつも苦しくて、駅を支える駅子の負担は大変だった。少しでも元をとろうとしたのでしょう。
    古代は、一般庶民がのんびりと旅をできるようなものではなかったのです。

    時代はさがりますが、続日本紀天平宝字元年(757年)冬10月6日の条に、孝謙天皇の勅として、
    「聞くところによると、諸国からの調・庸を運ぶ人夫は、仕事を終わって帰郷する際、遠路のために食料が絶えてしまう、と。また旅先で病気になった人には、親しく世話をしてくれる人がいないので、餓死を免れるために物乞いをしてやっと命をつないでいる、と。(中略)京都と諸国の官司に命じて、食料と医薬を与え、よく調べて無事に郷里に着けるようにせよ」
    天皇直々の言葉です。従わなかったら、
    「違勅の罪を科することにする」
    天皇の命令違反だぞと官司を脅さないと、庶民は旅の面倒をみてもらえない。当時の旅はよっぽどひどかったのがよく分かります。
    でもこの勅で旅が快適になった、とは書いてありません。

    日本後紀延暦24年(805年)夏4月4日の条、
    「聞くところによると、調を京へ運ぶ脚夫は路次で進めなくなり、飢えて死亡することが多いという」
    だから役人は旅人の面倒を真剣に見ろ、と桓武天皇が勅しています。
    変わっていません。
    646年から805年まで159年変わっていないのです。

    「山椒大夫」という森鴎外が小説にしたお話があります。子供向けには、安寿と厨子王のお話として知られています。親子別々に人買いにさらわれた、幼い姉弟の苦難のお話です。子供心にむごく感じていやでしたねえ。あれは本当にあったことを反映していたのでしょうか。
    By妻

    しかし、天皇の勅だと、旅の庶民は駅路の駅または国府、官司のいるところまでたどり着けば、運が良ければ何とかしてもらえそうです。
    本来は、
    「公務でない場合でも一定以上の官位をもつ者に対して駅家に泊まらせはするが、食事を提供してはならぬ」
    と律令で決まっていました。官位などに縁のない庶民はまったく相手にしてもらえないはずです。法律はともかく、実際は多少は改善されていたような感じです。

    ところで、幕末で「違勅」となると、尊王攘夷派の侍が刀を抜いて「天誅!」と叫んで切り込んできます。古代の「違勅」はずいぶん軽かったようです。

    天皇の皇子クラスの身分で、しかも名目だけでも「蝦夷の征伐」という任務がなければ、古代では旅などはできなかった。このあたりの事情は書紀発表時の同時代人、しかも知識層では常識でしょう。
    そのへんの「ほにゃらの連(むらじ)」程度の旅行記だと、当時の人は「旅になんか行けっこないじゃん、ありえね~」古代日本語風だと「アホでおじゃる」そこから先は読んでくれません。
    東国の旅行記という話にリアリティを持たせるためには、皇子の東征という設定をもうけざるをえません。
    だから「蝦夷の征伐」というわりには、肝心の華々しい戦さの記述などはないのです。
    当たり前。名目だけの「蝦夷の征伐」、編集の都合上とってつけただけです。

  • 現在の神坂峠からはほとんど伊那谷方向の眺望はききません。

    現在の神坂峠からはほとんど伊那谷方向の眺望はききません。

  • すこしヘブンス園原の方向に林道を行くと視界が開けます。

    すこしヘブンス園原の方向に林道を行くと視界が開けます。

  • 伊那谷と南アルプスです。目前の谷底に園原川が流れ、左の濃い稜線がつきるところが伊那谷、阿智駅がありました。

    伊那谷と南アルプスです。目前の谷底に園原川が流れ、左の濃い稜線がつきるところが伊那谷、阿智駅がありました。

  • 「山高く谷は深い。青い嶺が幾重にも重なる」そのものです。

    「山高く谷は深い。青い嶺が幾重にも重なる」そのものです。

  • 「雲山畳重(うんざん・じょうちょう)にして、路遠く坂高し」<br />前述の「類聚三代格」による信濃側神坂峠の描写です。

    「雲山畳重(うんざん・じょうちょう)にして、路遠く坂高し」
    前述の「類聚三代格」による信濃側神坂峠の描写です。

  • 信濃坂は古事記ではスルー。「信濃の坂の神を懐(なつ)けて」だけ。そのあとは「尾張の国に戻ってきて、先日約束しておいた美夜受比売(みやずひめ)のもとにお入りになった」<br />古事記の編集者は、ドン臭い信濃の峠越えなどに興味はありません。尾張での美夜受比売との歌のやりとり、二人がいちゃついた話しに早くもっていきたい。甲斐国より信濃国に越え、尾張の国に戻ってきた、ですむはずです。<br />「信濃の坂の神を懐(なつ)けて」などという、あってもなくてもいい話をなぜ挿入したのか。<br />私たちは、現場のライターの第1稿にはなかったと思っています。そのほうが文章がすっきりする。あとから編集長・太安万侶(おおの・やすまろ)が「これを入れろ!」ともってきた。東国を旅した貴人の一人に、信濃坂あたりの小豪族を懐柔してヤマト朝廷に協力させた、というような功績があったのかもしれない。太安万侶の親戚だったりして。<br />当時の人は、ここまで書いてあれば「ははーん、あのことね」と分かったのではないか。

    信濃坂は古事記ではスルー。「信濃の坂の神を懐(なつ)けて」だけ。そのあとは「尾張の国に戻ってきて、先日約束しておいた美夜受比売(みやずひめ)のもとにお入りになった」
    古事記の編集者は、ドン臭い信濃の峠越えなどに興味はありません。尾張での美夜受比売との歌のやりとり、二人がいちゃついた話しに早くもっていきたい。甲斐国より信濃国に越え、尾張の国に戻ってきた、ですむはずです。
    「信濃の坂の神を懐(なつ)けて」などという、あってもなくてもいい話をなぜ挿入したのか。
    私たちは、現場のライターの第1稿にはなかったと思っています。そのほうが文章がすっきりする。あとから編集長・太安万侶(おおの・やすまろ)が「これを入れろ!」ともってきた。東国を旅した貴人の一人に、信濃坂あたりの小豪族を懐柔してヤマト朝廷に協力させた、というような功績があったのかもしれない。太安万侶の親戚だったりして。
    当時の人は、ここまで書いてあれば「ははーん、あのことね」と分かったのではないか。

  • ここでヤマトタケルは不思議な体験をします。嶺について食事をしていると、<br />「山の神は皇子を苦しめようと、白い鹿になって皇子の前に立った。皇子は怪しんで一箇蒜で、白い鹿をはじかれた。それが眼に当たって鹿は死んだ」<br />同じエピソードが古事記にあります。場所は足柄山の峠の麓。<br />「お食事を召し上がっている所に、その坂の神が、白い鹿に姿を変えて来て立った。そこで食い残しの蒜の一部分で、もっと近くに引き寄せて、投げ打ちなさると、鹿の目に命中し、打ち殺した」<br /><br />信濃坂、足柄山、記紀に共通するこのエピソードの一番常識的な解釈は、白い鹿だから季節は冬、山中で山賊が襲ってきたので、返り討ちにした。でもそれなら素直に「山賊を退治した」と書けばいいだけです。<br />「蒜」というのも分からない。ひる、のびる、にんにく、いろいろ解釈があるようです。そんなものを一束眼にぶつけたくらいで、鹿が死にますかね。暗喩にしたって、これを書けと言われた記紀のライターはおかしいと思ったはず。<br />「やってみましょうか?」と外を闊歩している奈良の鹿を見ながら、ライターは言った。<br />「やめてよ~、SNSに投稿されて大炎上まちがいなし」と編集長大野安麻呂。

    ここでヤマトタケルは不思議な体験をします。嶺について食事をしていると、
    「山の神は皇子を苦しめようと、白い鹿になって皇子の前に立った。皇子は怪しんで一箇蒜で、白い鹿をはじかれた。それが眼に当たって鹿は死んだ」
    同じエピソードが古事記にあります。場所は足柄山の峠の麓。
    「お食事を召し上がっている所に、その坂の神が、白い鹿に姿を変えて来て立った。そこで食い残しの蒜の一部分で、もっと近くに引き寄せて、投げ打ちなさると、鹿の目に命中し、打ち殺した」

    信濃坂、足柄山、記紀に共通するこのエピソードの一番常識的な解釈は、白い鹿だから季節は冬、山中で山賊が襲ってきたので、返り討ちにした。でもそれなら素直に「山賊を退治した」と書けばいいだけです。
    「蒜」というのも分からない。ひる、のびる、にんにく、いろいろ解釈があるようです。そんなものを一束眼にぶつけたくらいで、鹿が死にますかね。暗喩にしたって、これを書けと言われた記紀のライターはおかしいと思ったはず。
    「やってみましょうか?」と外を闊歩している奈良の鹿を見ながら、ライターは言った。
    「やめてよ~、SNSに投稿されて大炎上まちがいなし」と編集長大野安麻呂。

  • もうひとつの素直な解釈は、旅人が本当に白い鹿に山中で出会った。アルビノです。珍しい。食事中にぬっと出てきた鹿に驚いて、パニクった旅人が、食べかけの「蒜」なるものを鹿にぶつけたら、どういうわけか本当に死んでしまった。これもまた不思議。珍しいと不思議が重なって、記録に残った。それを紀記の作者が面白い旅のエピソードとして採用した。<br />これだけでは「珍しいね」で終わってしまうので、峠の神だの、山の神だの偉そうな話にした。私はこの非常にストレートな解釈が気に入っています。<br /><br />続日本紀文武天皇元年(697)9月3日の条に、丹波国が白い鹿を献上したとあります。同じ日、近江国は白いスッポンを献上しています。<br />そのほか白いなんとかの献上は頻繁です。<br />この時代アルビノは瑞祥ということで、縁起物だったのです。<br />朝廷の動物園は白いなんとかでいっぱいだったに違いない。縁起物だから断れないし。何食うか分からないヤツも来たし、餌代もかかるし、本当は迷惑だった。<br />でもその白い瑞祥、なかでも一級品の白鹿を叩き殺すというのは、穏やかではない。<br />なぜヤマトタケルにはそれが許されたのか、このあたりも学部卒論のテーマですよ、文学部の学生さん。<br /><br />書紀ではこのあと、道が分からなくなって、白い犬に導かれて美濃に出ることができたとなっています。<br />これはそれほど大変な道だという意味でしょうが、神坂峠から坂本駅への下りは細い谷筋一本です。とにかく下っていればいいので、間違えるはずがありません。私たちが車で往復したときも、車道を横切る登山道はありました。当時もはば6メートルの駅路に交差する獣道みたいな枝道はあったでしょうが、まず間違えない。迷い込んでもそのまま下れば本道にでます。<br />書紀の編集部は、読者が信濃坂を知らない素人だと思って、なめていますね。<br />なにか白い犬を出さなければいけない理由が書紀編集部にあったのでしょうが、こればかりは相当意地悪に邪推しても分からない。<br /><br />次に、突然、越(こし)の民情視察に碓氷峠を越えてから分派した吉備武彦と合流します。<br />「吉備武彦は越からやってきてお会いした」<br />これだけ。ケータイのない時代に、どうやってピンポイントで合流できたのか、という話はおいといて、民情報告など一切なし。<br />そのあと急に山の神の白鹿の後日談になります。<br />「これより先、信濃坂を越える者は、神気を受けて病み臥す者が多かった。しかし白い鹿を殺されてからは、この山を越える者は、蒜を噛んで人や馬に塗ると神気にあたらなくなった」<br />逆にいうと、蒜を塗らないと神気にあたるいうことで、ダメじゃん。全然退治されていない。<br />白い鹿以降、書紀は大混乱しています。言っていることは矛盾しているし、吉備武彦のエピソードは挿入する場所を間違えている。<br />普通だと、白い鹿を叩き殺す、蒜を噛む後日談、白犬の案内で美濃に下りる、吉備武彦との再会、だと思います。蒜と白犬は入れ替わってもいいけれど、吉備武彦は絶対最後でしょう。<br /><br />いけず!<br />書紀の編集部はね、ちょうど1300年後にこういう根性曲がりの読み方をされると、思っていなかったの!<br />By妻<br /><br />白い犬が吉備武彦のところまで案内したんですよ。犬は桃太郎の家来の犬飼氏のことです。<br />すると白い鹿。ウーム、これはきっと鹿の毛皮を貼った兜をつけた、そのあたりの酋長だったのではないですかね、大坂の近つ飛鳥博物館で鹿の皮を貼り、キジの尾羽を飾りにした兜を見ました。飛鳥時代の武将の兜でした。<br />博物館でみた兜はたいそう美しく立派でした。ああいうものを誰でもが持てるはずもなく、兜と持ち主とは離しがたく、その持ち主は鹿兜のXXと呼ばれ、鹿のXXとなり、やがて略して鹿というだけでXXを現すようになったのではないか。<br />白いというのは暗がりの中で人間の顔はテラっと光るのですよ。現代でもジャングルに潜むとき人は顔に泥だのつけて迷彩しますよね。<br />で、蒜。うーむ。ネギ、ニンニク、ノビルのどれかだろうけれど、九条ネギとか、深谷の根深とか、ニンニクなら青森六片とか、有名産地があります。その産地の村長を味方につけた、とか。ニンニク食べたらワーイワイ力がもりもりつきました、ってこと? ポパイか?! ニンニクに弱い鹿。白い鹿はきっとドラキュラ一族に違いない。<br />By妻

    もうひとつの素直な解釈は、旅人が本当に白い鹿に山中で出会った。アルビノです。珍しい。食事中にぬっと出てきた鹿に驚いて、パニクった旅人が、食べかけの「蒜」なるものを鹿にぶつけたら、どういうわけか本当に死んでしまった。これもまた不思議。珍しいと不思議が重なって、記録に残った。それを紀記の作者が面白い旅のエピソードとして採用した。
    これだけでは「珍しいね」で終わってしまうので、峠の神だの、山の神だの偉そうな話にした。私はこの非常にストレートな解釈が気に入っています。

    続日本紀文武天皇元年(697)9月3日の条に、丹波国が白い鹿を献上したとあります。同じ日、近江国は白いスッポンを献上しています。
    そのほか白いなんとかの献上は頻繁です。
    この時代アルビノは瑞祥ということで、縁起物だったのです。
    朝廷の動物園は白いなんとかでいっぱいだったに違いない。縁起物だから断れないし。何食うか分からないヤツも来たし、餌代もかかるし、本当は迷惑だった。
    でもその白い瑞祥、なかでも一級品の白鹿を叩き殺すというのは、穏やかではない。
    なぜヤマトタケルにはそれが許されたのか、このあたりも学部卒論のテーマですよ、文学部の学生さん。

    書紀ではこのあと、道が分からなくなって、白い犬に導かれて美濃に出ることができたとなっています。
    これはそれほど大変な道だという意味でしょうが、神坂峠から坂本駅への下りは細い谷筋一本です。とにかく下っていればいいので、間違えるはずがありません。私たちが車で往復したときも、車道を横切る登山道はありました。当時もはば6メートルの駅路に交差する獣道みたいな枝道はあったでしょうが、まず間違えない。迷い込んでもそのまま下れば本道にでます。
    書紀の編集部は、読者が信濃坂を知らない素人だと思って、なめていますね。
    なにか白い犬を出さなければいけない理由が書紀編集部にあったのでしょうが、こればかりは相当意地悪に邪推しても分からない。

    次に、突然、越(こし)の民情視察に碓氷峠を越えてから分派した吉備武彦と合流します。
    「吉備武彦は越からやってきてお会いした」
    これだけ。ケータイのない時代に、どうやってピンポイントで合流できたのか、という話はおいといて、民情報告など一切なし。
    そのあと急に山の神の白鹿の後日談になります。
    「これより先、信濃坂を越える者は、神気を受けて病み臥す者が多かった。しかし白い鹿を殺されてからは、この山を越える者は、蒜を噛んで人や馬に塗ると神気にあたらなくなった」
    逆にいうと、蒜を塗らないと神気にあたるいうことで、ダメじゃん。全然退治されていない。
    白い鹿以降、書紀は大混乱しています。言っていることは矛盾しているし、吉備武彦のエピソードは挿入する場所を間違えている。
    普通だと、白い鹿を叩き殺す、蒜を噛む後日談、白犬の案内で美濃に下りる、吉備武彦との再会、だと思います。蒜と白犬は入れ替わってもいいけれど、吉備武彦は絶対最後でしょう。

    いけず!
    書紀の編集部はね、ちょうど1300年後にこういう根性曲がりの読み方をされると、思っていなかったの!
    By妻

    白い犬が吉備武彦のところまで案内したんですよ。犬は桃太郎の家来の犬飼氏のことです。
    すると白い鹿。ウーム、これはきっと鹿の毛皮を貼った兜をつけた、そのあたりの酋長だったのではないですかね、大坂の近つ飛鳥博物館で鹿の皮を貼り、キジの尾羽を飾りにした兜を見ました。飛鳥時代の武将の兜でした。
    博物館でみた兜はたいそう美しく立派でした。ああいうものを誰でもが持てるはずもなく、兜と持ち主とは離しがたく、その持ち主は鹿兜のXXと呼ばれ、鹿のXXとなり、やがて略して鹿というだけでXXを現すようになったのではないか。
    白いというのは暗がりの中で人間の顔はテラっと光るのですよ。現代でもジャングルに潜むとき人は顔に泥だのつけて迷彩しますよね。
    で、蒜。うーむ。ネギ、ニンニク、ノビルのどれかだろうけれど、九条ネギとか、深谷の根深とか、ニンニクなら青森六片とか、有名産地があります。その産地の村長を味方につけた、とか。ニンニク食べたらワーイワイ力がもりもりつきました、ってこと? ポパイか?! ニンニクに弱い鹿。白い鹿はきっとドラキュラ一族に違いない。
    By妻

  • 落葉松がきれいでした。<br />私たちは車だからいいけれど、当時の旅人は心細かったでしょう。11月の初めで、朝は伊那谷の平地で2度でした。標高1500メートルなら、朝晩は氷点下に下がる。40キロのあいだ、この時代はまだ宿泊設備はなかったのです。<br />夜になったら、真っ暗で歩けません。野宿ですね。<br />「草枕」は「旅」にかかる枕詞です。現代の私たちには詩的で、ロマンティックな響きです。でも古代では野宿覚悟でないと、旅などできない。古代人は「草枕」と聞いたら、あの旅の野宿をすぐ連想し、悲惨でつらい記憶がよみがえるではないでしょうか。そういえば、「草枕 旅・・・」が出てくる歌に、「旅は楽しいな、わーい、わい」というようなものはあったはずはないでしょう。<br /><br />万葉集巻の第三415、聖徳太子の、行倒れの旅人への挽歌。<br />「家にあらば妹が手まかむ 草枕旅に臥(こや)せるこの旅人(たびと)あわれ」<br />家にいれば、奥さんの手枕で寝ているのに、行き倒れて死んじゃった旅人、かわいそう、という意味ですから、全く楽しくない。<br /><br />同じ巻のすぐ近くにこういうのもありました。426。柿本人麻呂が香久山の屍を見て。<br />「草枕旅の宿りに誰が夫(つま)か 国忘れたる家またまくに」<br />旅の途中で行き倒れた人 だれの夫であろうか、どこの人かわからないが、家では待っている人がいるだろうに。<br /><br />それでは旅人がかわいそうだということで、最澄(伝教大師)が神坂峠越えの信濃側に<br />広拯院(こうじょういん)、美濃側に広済院(こうさいいん)という布施屋を作りました。無料の民間宿泊施設です。しかしそれは光仁8年(817年)のこと。

    落葉松がきれいでした。
    私たちは車だからいいけれど、当時の旅人は心細かったでしょう。11月の初めで、朝は伊那谷の平地で2度でした。標高1500メートルなら、朝晩は氷点下に下がる。40キロのあいだ、この時代はまだ宿泊設備はなかったのです。
    夜になったら、真っ暗で歩けません。野宿ですね。
    「草枕」は「旅」にかかる枕詞です。現代の私たちには詩的で、ロマンティックな響きです。でも古代では野宿覚悟でないと、旅などできない。古代人は「草枕」と聞いたら、あの旅の野宿をすぐ連想し、悲惨でつらい記憶がよみがえるではないでしょうか。そういえば、「草枕 旅・・・」が出てくる歌に、「旅は楽しいな、わーい、わい」というようなものはあったはずはないでしょう。

    万葉集巻の第三415、聖徳太子の、行倒れの旅人への挽歌。
    「家にあらば妹が手まかむ 草枕旅に臥(こや)せるこの旅人(たびと)あわれ」
    家にいれば、奥さんの手枕で寝ているのに、行き倒れて死んじゃった旅人、かわいそう、という意味ですから、全く楽しくない。

    同じ巻のすぐ近くにこういうのもありました。426。柿本人麻呂が香久山の屍を見て。
    「草枕旅の宿りに誰が夫(つま)か 国忘れたる家またまくに」
    旅の途中で行き倒れた人 だれの夫であろうか、どこの人かわからないが、家では待っている人がいるだろうに。

    それでは旅人がかわいそうだということで、最澄(伝教大師)が神坂峠越えの信濃側に
    広拯院(こうじょういん)、美濃側に広済院(こうさいいん)という布施屋を作りました。無料の民間宿泊施設です。しかしそれは光仁8年(817年)のこと。

  • 広拯院は、現東山道園原ビジターセンター背後の丘の上にあります。<br />長野県下伊那郡阿智村智里3592-4<br /><br />くねくね、くねくね山の中の道を上ったところに広拯院はありました。山地だからおそばがおいしそうと思ったら、やっぱりお店がありました。昔の旅人もおそばを食べたのでしょうね。粒のままで、そば雑炊。粉にしてそばがきでしょうか。私たちは食事を済ませてきましたが、ここのおそばはきっとおいしいと思いますよ。<br />By妻

    広拯院は、現東山道園原ビジターセンター背後の丘の上にあります。
    長野県下伊那郡阿智村智里3592-4

    くねくね、くねくね山の中の道を上ったところに広拯院はありました。山地だからおそばがおいしそうと思ったら、やっぱりお店がありました。昔の旅人もおそばを食べたのでしょうね。粒のままで、そば雑炊。粉にしてそばがきでしょうか。私たちは食事を済ませてきましたが、ここのおそばはきっとおいしいと思いますよ。
    By妻

  • 別名信濃比叡といわれます。<br />美濃側の布施屋の位置は分かっていないそうです。

    別名信濃比叡といわれます。
    美濃側の布施屋の位置は分かっていないそうです。

  • なにはともあれ、ヤマトタケル一行は神坂峠を越えました。

    なにはともあれ、ヤマトタケル一行は神坂峠を越えました。

  • 11月初旬なら、古代の旅人も色づいた落葉松を見たでしょう。

    11月初旬なら、古代の旅人も色づいた落葉松を見たでしょう。

  • こんな落ち葉を踏んだのでしょうか。<br />地面が舗装されているのは興醒めですが。

    こんな落ち葉を踏んだのでしょうか。
    地面が舗装されているのは興醒めですが。

  • 神坂峠を無事下れば坂本駅がありました。<br />坂本駅は落合五郎丸遺跡にあったといわれておりますが、この遺跡をピンポイントできませんでした。

    神坂峠を無事下れば坂本駅がありました。
    坂本駅は落合五郎丸遺跡にあったといわれておりますが、この遺跡をピンポイントできませんでした。

  • 東山道坂本駅碑<br />岐阜県中津川市駒場397-2<br /><br />中津川市は駒場(こまんば)周辺に、特定されていないが、坂本駅があったとしております。

    東山道坂本駅碑
    岐阜県中津川市駒場397-2

    中津川市は駒場(こまんば)周辺に、特定されていないが、坂本駅があったとしております。

  • 旧中山道が通っております。

    旧中山道が通っております。

  • 周囲は現在でも開けており、正面は住宅地。<br />常時馬30匹を飼う厩を作れる地形ではあります。

    周囲は現在でも開けており、正面は住宅地。
    常時馬30匹を飼う厩を作れる地形ではあります。

  • 目の前は工事中でした。道標。工事のため動かしたのでしょう。<br /><br />右 穴井宿<br />中山道駒場村<br />左 中津川宿<br /><br />とあります。<br />工事のあと、ちゃんと元の位置に戻して下さいね。<br /><br />工事中でしたが、このあたりは古の町の雰囲気が残る、情緒ある家並みでした。工事が終わったころもう一度行ってみたいです。つつましく、日々を丁寧に生きているという感じでした。<br />By妻

    目の前は工事中でした。道標。工事のため動かしたのでしょう。

    右 穴井宿
    中山道駒場村
    左 中津川宿

    とあります。
    工事のあと、ちゃんと元の位置に戻して下さいね。

    工事中でしたが、このあたりは古の町の雰囲気が残る、情緒ある家並みでした。工事が終わったころもう一度行ってみたいです。つつましく、日々を丁寧に生きているという感じでした。
    By妻

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この旅行記へのコメント (2)

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  • 前日光さん 2020/08/19 17:07:56
    白い鹿→ポパイ→ドラキュラ~(゜Д゜)
    しにあの旅人さん、
    毎日お暑うございます!
    この間まで、毎日雨でいつ梅雨明けになるのでしょうか?と言っていたのに、今度はいつ夏が終わるのだ!という話です。
    でも、いつコロナが終息するのか、これが今全人類の疑問&課題ですね。
    記紀のライターに何とかしてほしいです。

    白い鹿=アルビノ説、面白く拝見しました。
    しかし山の神の化身が、たかが蒜ごときで死んでしまうのか?はたまた山の神を殺してもいいのか?と疑問は尽きませんが、蒜の一撃で死んだと書いてあるのでは仕方ありません。

    んん?蒜って何?
    ひょっとして鞭みたいに硬い植物だったの?
    でもそれじゃあ噛み切るのが大変(*_*)、古代人は強固な歯の持ち主だった?
    もし蒜がニンニクだったとして、ニンニクは噛み切るのが大変とは思えない、しかしニオイは強烈!山の神はニンニクのニオイにヤラレた?そんなヤワな山の神のはずがない!

    ニンニクでモリモリ元気が出てきたのは、まるでポパイみたい!
    でもニンニクに弱いとしたら、その正体はドラキュラ(@_@)
    なんと奇想天外な!
    by妻さんがハンパない妄想力で、この旅行記の中を縦横無尽に走り回っておりますね!

    それにしても「白」という色が、この時代に大きな意味を持っていたようですね?
    白は吉祥を表していた?
    白雉・白鳳という年号もありますし。

    白鹿に関する虚実相半ばする考察に笑わせていただきました。

    ※しにあの旅人さんって、元大学教授ですか?
    文学部、もしくは古代史の(?_?)


    前日光

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2020/08/20 07:29:50
    Re: 白い鹿→ポパイ→ドラキュラ~(゜Д゜)
    いえいえ、そんな大したものではありません。ちょっと凝り性なだけです。
    古事記でも日本書紀でも、ありがたがらないで、斜めからイケズに読むと、実に面白いことに気づきまして、メモを取りながらあら探しをします。すると日付を控えることになるので、何となく偉そうに、引用を書くことになります。学者の文章風に見えるのは、実はそれだけなんです。
    コロナ騒ぎで暇ですから、これからも意地ワル~く記紀を読んでいきます。
    コロナでどこにも行けず、お金が余ってしょうがないので(ウソばっか)、岩波古典体系の日本書紀をアマゾンの中古で(せこい)書いました。引用を、読み下し文でやったらカッコいいという、ミーハー根性です。
    せっかくお小遣いはたいて買ったので、そういうところが出てきたら、カッコイイと拍手してくれたら嬉しいな。

しにあの旅人さんのトラベラーページ

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