2019/11/12 - 2019/11/12
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しにあの旅人さん
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旅に出たならば、帰らねばなりません。
東征のあとの、ヤマトタケルの家路を辿ります。
もう何年も前ですが、名古屋の熱田神宮宝物殿で初老のご婦人に会いました。
神社境内はパワースポットなるものに浮かれた観光客でごった返しておりました。しかし宝物殿は、その種のいかがわしいモノとは無縁、よほど神社らしい静かな空間でした。
歴女、というのでしょうね。ヤマトタケルや古代の歴史に詳しい方でした。この方が言うには、ヤマトタケルは美夜受比売(みやずひめ)にだまされたのだ。色仕掛けで剣を取り上げて、そのまま伊吹山に行かせた。
憤慨しておられました。息子の嫁が気に入らない母親という感じ。
妻にいわせると、いや違う、ヤマトタケルに恋している。美夜受比売は恋敵。この時タケルは30、ちょっと年の差があるような。
能褒野でのヤマトタケルの悲劇の発端となる伊吹山から今回は始めます。
参考、引用資料については
「ヤマトタケル紀行・家路1」
に列挙してあります。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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-
神坂峠から能褒野(のぼの)までのヤマトタケル一行の立ち寄り先です。
神坂峠-熱田神宮-伊吹山-醒井(さめい)-当芸野(たぎの)-尾津-杖突坂-能褒野。
黒丸は古事記、日本書紀共通。赤丸は古事記だけ。古事記はこのほかに「三重の村」に立ち寄ったとしております。杖衝坂近くだそうですが、ピンポイントできませんでした。
美夜受比売の御殿は熱田神宮としました。尾張を支配する尾張氏の娘です。
古事記は、ここで二人がいちゃいちゃしている様子を語ります。美夜受比売はヤマトタケルの妻で、2人で現に住んでいるのですから、なにをしても結構。二人は幸せそうです。伊吹山以降の悲劇を際立たせる、読み物としての古事記の作者自慢の一節。
この二人のラブラブの様子が先の歴女さんには気に入らなかったようです。
このお姫様、色っぽいけれど、あまり上品ではない。
一方日本書紀はそっけない。「尾張氏の女(むすめ)宮簀媛をめとって、長く留まれた」 書紀では「宮簀媛」、字が違いますが読みは同じです。二人が結婚生活を営んだことを物語っています。仲がいいとは書いていません。
宮簀媛ですが、ヤマトタケルの正妻といわれます。
ところが、古事記、日本書紀とも、ヤマトタケルの項末尾の系図に載っていません。逆に、ヤマトタケルが旅の途中に拾った愛人にすぎないといわれることもある乙橘姫、書紀では弟橘媛、古事記では弟橘比売命は「妃」として記載されています。
書紀だと、「次の『后』穂積氏忍山宿禰の女(むすめ)の弟橘媛は稚武彦王(わかたけひこのみこ)を生んだ」であります。
古事記では「倭建命の『妃』で、名は弟橘比売命は・・・」
ただ、ヤマトタケルの征西、東征を通じて、結婚生活を営んだと明記されているのは宮簀媛だけです。しかも東征の行き帰りに2度も出てくる。これをもって正妻といわれるのではないかと思います。
尾張氏は有力者とはいえ、一介の地方豪族、忍山宿禰は景行、成務天皇に仕えた高級貴族ということになっています。その娘宮簀媛が皇子であるヤマトタケルの妃であるというのは、当時の常識からして無理がある。 -
古事記
「倭建命は、その身に帯びていらっしゃる草薙の剣を、美夜受比売のもとに置いて、伊吹山の神を殺しにお行きになった」「この山の神は素手でもすぐに殺してくれよう」と思ったのでした。伊吹山を見くびったのですね。
日本書紀
「近江の五十葺山(伊吹山)に、荒ぶる神のあることを聞いて、剣を外して宮簀媛の家におき、徒歩で行かれた」剣を置いていった理由は特にありません。
歴女の方が言われたような、美夜受比売がヤマトタケルをだましたような記述は、ここではありません。強いていえば、伊吹山の神はたいしたことはないと吹き込んだのは美夜受比売だと邪推はできる。
色仕掛け。「さびいしいから、お願い、剣を置いていってね。あなたのかわりに抱いて寝るわ」と言った。などとはどこをどう読んでも出てこないな。 -
伊吹山のどこかで、古事記によれば牛のように大きい白いイノシシに出会いました。
日本書紀だと「山の神は大蛇になって道を塞いだ」
ヤマトタケルはイノシシまたは大蛇を山の神の使い、つまり子分だと見くびりました。
帰りに殺してやろう。(古事記)
主神(かむざね、神の正体)を殺せばそれで片づく。「蛇を踏み越えてなお進まれた」(日本書紀)
しかしイノシシ、大蛇は神そのものだったのです。
「蛇を踏み越えてなお進まれた」 え? 蛇を踏み越えちゃうの? 妻だったら蛇を見ただけで伊吹山が吹っ飛ぶような悲鳴を上げます。漢文原文だと「跨蛇猶行」、「蛇(おろち)を股(またこ)えて猶(なお)行でます」こっちの方がすごいな。跨いじゃうのかよ。跨がれた大蛇は頭の上に?マーク。ここまで馬鹿にされたら山の神が怒るのも無理ないと思いませんか?
怒った神は、雹を降らせました。霧が峰にかかり、道に迷いました。ヤマトタケルは「うちのめされて」(古事記)、「正気を失って酔ったようであった」(日本書紀)、やっと下山しました。 -
伊吹山をやっと下山したヤマトタケルは、「玉倉部の清水に至り着いて、休憩していらっしゃる時に、御心地も少しずつお覚めになり、正気を戻された。そこでその清水に名付けて居醒(いさめ)の清水というのである」(古事記)
日本書紀も同様に、「正気を失い酔ったようであった。それで山の下の泉に休んで、そこの水を飲むとやっと気持ちが醒めた。それでその泉を居醒井(いさめがい)という」
居醒の清水または居醒井は、現醒ヶ井(さめがい)宿にありました。醒ヶ井宿は中山道の宿場町です。近江国では、近世中山道は古代東山道をほぼ踏襲します。「日本古代道路辞典」によれば東山道の横川駅は醒井の近くに比定されるそうです。
息吹山麓には関ヶ原があります。東名高速、東海道新幹線、東海道線が通っております。雪で交通がよく乱れる所です。1927年2月14日には、伊吹山山頂で11メートル82センチという積雪が観測されました。これは積雪世界記録です(ウイキペディア)
古事記の「大きい白いイノシシ」とくれば、だれでも雪を連想します。このあたりで雪に悩まされた旅人が、とにかく逃げ込んだのが横川駅、つまり醒ヶ井ということです。
しかし伊吹山の神が怒ってふらせたのは、雪ではなく雹でした。雪は予想できますが、雹は、いきなり周囲が暗くなって、風が吹いて、気温が下がって、バラバラバラと降ってきます。木立もない広いところで襲われたら、避難の方法がありません。
伊吹山で突然天候が急変し、遭難しかけた旅人が、なんとか横川駅にたどりついて難を避けたということもあったでしょう。
記紀の編集部はこうした旅人の記録、報告書をもっていて、ヤマトタケルの旅のエピソードとして採用した。 -
醒ヶ井は現在の伊吹山ドライブウエイをたどって山頂から28.9km。直線で山頂から約10km、山麓から約5kmです。
-
醒ヶ井宿
宿場町の面影を残す小さな村でした。 -
珍しく私たち以外にもちらほら観光している人がいて、写真などを撮っていらっしゃいました。気配を消すようにそっと歩かれ、声もあたりに気を遣った小声で話しておられました。その数少ない人もすぐに立ち去って、またすぐに静かな空気に包まれた醒ヶ井宿でした。
By妻 -
水の清らかさ、見るからに冷たそうな流れ、その水に手を浸した人々が全て目が覚めたように思ったことでしょう。ヤマトタケルだけではなく、沢山の人々のさっぱりさせたわき水だったのでしょう。
By妻 -
平成の水百選第1位だそうです。こじんまりとして隅々にまで神経の行き届いた村でした。
By妻 -
水面にはゴミ一つなく、見事に手入れされていました。
-
記紀の時代にも、ここにきれいな泉があることは知られていたのです。
しかし、ヤマトタケルは「ここで始めて病気になられた」(日本書紀)
☆☆☆
醒ヶ井宿から、古事記と日本書紀のルートは異なります。記述の姿勢ががらっと変わります。
日本書紀では、「日本武尊はここで始めて病気になられた。そしてようやく起きて尾張に帰られた。しかし宮簀媛(みやずひめ)の家に入らないで、伊勢に移って尾津(おつ)に着かれた」 病をおして尾張に着きました。「宮簀媛の家に入らないで」とあるので、近くまでは行ったのでしょう。
でも正妻の家で病を養うことなく旅を続けます。
宮簀媛がヤマトタケルを拒絶したと解釈できます。
ヤマトタケルが妻に会う気がないのなら、尾張になど行きません。ヤマトに帰るには遠回りです。
原文で確認します。「爰不入宮簀媛之家、便移伊勢而到尾津」 宮簀媛の家に入らずして、伊勢に移り尾津に至る。
私たちは、ヤマトタケルの能褒野の悲劇はここにあると思います。伊吹山で傷ついた夫を妻が拒否したのです。
熱田神宮宝物館の歴女さんが、宮簀媛はヤマトタケルをだまして息吹山に行かせたという根拠は、ここにあります。
宮簀媛がヤマトタケルをだまして伊吹山で殺そうとし、生きて帰ってきた彼を拒絶したという解釈も可能でしょう。
理由は、分かりません。日本書紀はただ、夫が妻に裏切られたと暗に語るだけ。能褒野でのヤマトタケルの死を悲劇としてもりあげるべく、伏線をはりました。
古事記では、尾張の美夜受比売(みやずひめ)のもとに戻ろうとしたとは書いてありません。当芸野(たぎの)直行です。伊吹山のダメージは回復していないので、足がたぎたぎしくなった、だからその地を名付けて当芸(たぎ)というなどと、アホみたいな地名伝承を語っております。
☆☆☆
杖衝坂のエピソードも同様です。
「そこからほんのちょっとお行きになっただけで、たいそうお疲れになったので、御杖をつき、のろのろとお歩きになった。そこでその地に名付けて杖衝坂という」 -
杖衝坂
三重県四日市市采女町3464
丘の上の平坦な道路が急にがくんと下り始めます。 -
杖衝き坂とはよく名付けたものですが、私の実感からすると「四つん這い坂」とか、「這い登り坂」とか名付けたかった。この一画が山になっていて、坂を下りきると住宅地がびっしりでした。
山の反対側から登ってきて「血塚神社」なにやらおどろおどろ。神社をすぎると急転直下といいたい急下り坂。狭いし、曲がるし、急だし。
By妻 -
住宅地の真ん中です。
-
200メートルほどです。突き当たりが坂を下りきったところ。
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滑り止めの舗装がしてあります。近所の方によると、少しの雪でも通行不能になるそうです。
-
途中坂脇に広場があって、そこにはショベルカー。ああ、この道も広げる工事するのね、と勝手に納得していたら、広場の下の家から幼稚園児とママ登場。「こんにちは、ここ通り抜けられますか」声をかけると、よそ者ナンバーの車に興味をもたれたのか、あれこれ話して下さる。道は通り抜けられるけれど、山の周囲に広い道があるから、この山の住民以外がわざわざ通ることはない。あの広場のショベルカーは除雪用。他所は雪が降らなくてもすぐ降るし、しかも積もる。積もったら、もう登るも下るも身動きがとれないから、除雪しないとね~、だそうです。
大変なところでした。ヤマト盆地で育ったタケルには無理だったのね。
By妻 -
古事記に基づき、史跡となっております。
-
史跡全景
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松尾芭蕉の句碑もあります。
「歩行(かち)ならば杖衝坂を落馬かな」
貞享4年(1687年)松尾芭蕉が江戸から伊賀への帰途、この急坂で落馬してしまい、その場で詠んだという、季語のない有名な句です。 -
坂を上りきったところには、ヤマトタケルの足の出血を封じたといわれる血塚の祠があります。古事記にはない伝承です。
日本書紀には杖衝坂の話はありません。 -
地図をもう一度。
古事記によると、杖衝坂の後の道筋は、尾津、三重の村、能褒野となります。
尾津は当芸野から杖衝坂への道筋ですが、寄らずにパス。尾津へは杖衝坂から北に約26キロ戻ります。「三重の村」は、杖衝坂近くだそうですから、再び同じ道を南下。三重の村から能褒野は南に約8キロ。
古事記の作者が地理に詳しくないということで、こだわらないことにしましょう。執筆にあたり、現地調査をしていない証拠です。地図もろくに見ていない。
このあと三重の村に着いたときも、「『我が足は、まめ・たこ・むくみで三重のまがり餅のようになって、ひどく疲れてしまった』とおっしゃった。それでその地を名付けて三重という」三重県の語源だそうです。だから~?
そりゃあまあ、これだけ無駄なルートを行ったり来たりすれば疲れます。
能褒野の悲劇を、ただ単にヤマトタケルの衰弱の結果と演出しようとしております。
「尾津の一本松」
日本書紀は、尾張から直行です。 -
御衣野尾津神社。「おいの」とよむようです、別名草薙神社。
三重県桑名市多度町御衣野
この近くには同じ一本松の伝承をもつ神社があと2社あります。
小山尾津神社
三重県桑名市多度町小山1915
戸津尾津神社
三重県桑名市多度町戸津499 -
御衣野尾津神社は古墳をおもわせる小さな丘でした、
古代は海がもっと近くにあり、ここは崎でした。海の向こうには尾張国が見えたのです。 -
ちいさな拝殿でした。
-
木漏れ日をあびた、小さな本殿でした。
-
拝殿右に小さなお社がありました。
-
なかにお祀りされていたのは、枯れた木の切り株。
-
ヤマトタケルが太刀を立てかけたと伝えられる松が枯れました。その切り株を古来より大切に保存したものです。
伝説を守り通した地元の方々の心意気を感じます。
古事記
「尾津碕の一本松の下におつきになったところ、以前ここでお食事をした時に、そこにお忘れになった御剣が、なくならずそのままあった」
日本書紀
「先に日本武尊が東国に行かれ尾津浜にとどまって食事をされたとき、一つの剣を外して、松の根元におかれた。それを忘れていってしまわれた。いまここにくると、その剣がそのままあった」
ヤマトタケルはそこで歌います。記紀ほぼおなじ歌です。書紀より。
尾張に 直(ただ)に向かえる 一つ松あはれ 一つ松 人にありせば 衣(きぬ)着せましものを 太刀佩けましを
尾張の国にまっすぐに向き合っている尾津の碕の一本松よ。もしその一本松が
男だったら、衣を着せてあげようものを。太刀を佩かせてあげようものを。
古事記では、忘れていった太刀がそのままであったことへの喜びの気持ちです。
しかし日本書紀では、まるっきり違う意味になります。
「尾張の国にまっすぐに向き合っている」と、一本松を尾張の妻の宮簀媛に比較します。
ヤマトタケルは、尾張で妻の宮簀媛に裏切られているのです。太刀でさえ私を忘れずに長い間待っていてくれたものを・・・ 信じていた妻に裏切られた男の、哀しい嘆きです。
太平洋戦争のあと、やっと復員して家に戻ってみたら、妻は他の男のもとに去っていた。そうした悲劇は、少なくありませんでした。
ヤマトタケルの物語は、古代東国を旅した人々の記録の集大成というのが、私たちの考えです。その記録に、過酷な東国の旅を終えて帰ってきたら、妻に逃げられていたという男の物語もあったようです。 -
古事記では傷ついた体を引きづって、日本書紀では心も傷ついて、ヤマトタケルは能褒野へ向かいます。
日本書紀は異説がある場合、「一書(いっしょ、あるふみ)に曰く」として併記します。
書紀風に、
一書曰、
三重について。
ふつう人間の脚は膝で二つに折れるわけです。
ところがパンパンに脚が膨張してしまい、三つに折れているようだったというからには、ヒザをやられたのですね。傷ついたヒザが化膿したのでしょう。その足で右往左往逃げ惑ったってことでしょうか。伊吹山の山賊は強かったのです。痛かったでしょうね。つらかったでしょうね。今ならドクターヘリ出動です。タケルちゃんが哀れでかわいそうで、歴女じゃなくてもナミダ。
そして尾津までたどり着き、尾張からの援軍が来るのを待ったのではないですか。助けは来ないか。まだか、まだか。そういう状態だからこそ、ここに誰にも盗まれずにあった太刀一振りだって価値あるものだったのでしょう。尾津ってところは前回タケル一行が来てから今回まで、人間の往来のなかった過疎った所って意味か、治安の良い所だよーって意味か。いやいや、恐れ多くもタケル様の太刀を盗むなんて!というヤマトタケルの力の及んだ所だったってことじゃないでしょうか。それを確認して嬉しかったのですよ。
尾張の軍とともに反撃しようと思ったものの、タケルの容体はみるみる悪くなっていく。やむなくタケルは尾張軍の到着を待つことができず、ふるさとに向けて出発していったのです。
だから宮簀媛は決してタケルを裏切ったわけではないのです。
タケルは救援に来るに違いない宮簀媛に尾津の一本松の歌を残すのです。尾張をひたすら見つめる一本松よ、と、それは後ろ髪引かれながらヤマトへ旅立つタケルのおもいだったことでしょう。
本来ならば兵士の1人でも伝令として残したい。だけどタケルにはもはや1人で歩ける状態ではなかったので、動かすにも人手は必要だった。1人の労働力も惜しかったのです。ですからこの「尾張に 直に向かえる・・・」の歌はもうひとつの「吾妻はや」なのです。
By妻
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この旅行記へのコメント (2)
-
- 前日光さん 2020/08/30 17:09:22
- 知らなかった!三重県の語源って。。。
- ヤマトタケル絡みだったんですねぇ。
しかもタケルの芳しくない体調が、語源とは(-_-)
伊勢神宮もあるというのに、めでたくはないですね。
今週は25、26日と那須へのプチ旅をし、その後昨日までけっこう忙しくて、なかなかコメントできませんでした(>_<)
それにしても私も宮簀媛が正妻とは思いたくない。
オトタチバナヒメという美しい響きを持つその名の故に、私はオトタチバナちゃんのファンなのです。
宮簀ちゃんには、どこか策略めいたものを感じ、オトタチバナちゃんにはタケルへの無償の愛を感じるからなのです。
でもby妻さんのもう一つの「吾妻はや」説にも、抵抗できません。
そうか、「尾張に 直に向かえる・・・」の歌も、深いのねぇ(-_-;)
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2020/08/31 07:40:28
- Re: 知らなかった!三重県の語源って。。。
- おはようございます。
那須のプチ旅行記、楽しみにしています。
今回は珍しく宮簀媛でBy妻と意見が割れました。当方必ずしも一枚岩ではありません。そこで、日本書紀ぽく「一書曰く」というのを思いついた。これだったら、いくらでも違う感想を並べられるので、便利です。
ヤマトタケルは9月でタネギレです。その後いよいよ飛鳥奈良旅行ですが、資料が揃わないのでちょっと間が空きそうです。
4トラの皆さん、古い写真で面白い旅行記を作っていらっしゃるので、私もやってみようかな。1974年の写真ですからね、ちょっとここまで古いのはないみたい。
コロナ巣篭もりも、やりようによっては、楽しい。前向きに行きましょう。
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