2015/07/16 - 2015/07/16
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jijidarumaさん
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黒い森のエーベルシュタイン伯爵家の紋章には黄金の薔薇伝説がある。
旅行時期 2015/07/14 - 2015/07/28
エーベルシュタイン伯爵家の紋章は薔薇であるが、その紋章には伝説が残る。
2015年7月16日に訪れ、一泊した古城ホテル エーベルシュタイン城の小冊子に、その伝説が簡単に載っていた。
その冊子に目を通した時、伝説好きもあって「黄金の薔薇」の言葉が気になった。
以来、3年半もの時間が過ぎてしまった。
昨春の旅のアルバム貼りが漸く完了し、次の旅まで色々と整理の時間に充てることにした。
それで、頭の隅にあった冊子をファイルから引き出して、訳してみることにしたのだ。
すると冊子の文章は中身が大雑把であり、疑問が出る。
まずは「黄金の薔薇」とは?誰が誰にといったことから知りたくなったのである。
この伝説にともあれ納得したのは今日2月25日である。
写真はMurgムルグ川(ライン川の支流、長さ 80.2 km)から見上げた古城ホテル エーベルシュタイン城
- 旅行の満足度
- 4.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- レンタカー
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
バーデン・バーデンから車で東に20分の距離にある。
Gernsbachゲルンズバッハを流れるムルグ川から130mの高さに、ムルグ渓谷のシンボルであるエーベルシュタイン城は堂々とした姿を見せている。
Felsnase鼻のように突き出た岩山に立つ古城の周辺はブドウ畑が囲み、それは美しい景観の中にある。
写真はエーベルシュタイン城への道・小冊子にあった地図 -
【Die Sage von der Ebersteiner Roseエーベルシュタインの薔薇伝説】
エーベルシュタイン伯爵家の紋章は薔薇であるが、その紋章には伝説が残る。
写真はエーベルシュタイン城の小冊子:右上に薔薇の紋章がある。 -
写真はGernsbachゲルンズバッハ:ムルグ川から見るエーベルシュタイン城
-
ある時、カイザー(Roemisch-deutscher Kaiser*神聖ローマ皇帝)はGraf von Ebersteinエーベルシュタイン伯爵をPapstローマの教皇に使者として派遣した。
エーベルシュタイン伯は教皇に面会し、首尾よく、カイザーの重要な役目を果たしたと云う。
写真は古い薔薇の紋章 -
エーベルシュタイン伯がこの事で大いに功をあげたと感じたローマ教皇は、それを賞して伯爵に*「黄金の薔薇」を贈った。
カイザーはこの事をたいへん喜び、忠節心の厚いGefolgsmann側近として寓し、同時にカイザーはエーベルシュタイン伯爵に今後、伯爵の紋章に薔薇(のデザイン)を使用する事を許したと云う。
・・・・・
エーベルシュタイン伯爵の紋章の薔薇は元来、「五弁(花びらが5枚)の薔薇」で、1207年以来使用されたことが立証されている。その後、1600年頃に伯爵家の名を表す「Eberイノシシ」が紋章に追加されたと云う。
写真はエーベルシュタイン伯爵家の紋章:5弁の薔薇、中央が青いサファイア色である薔薇の花 -
写真はかつて攻城戦があったAlt_Ebersteinburgエーベルシュタイン旧城の城址
-
写真はGernsbachゲルンズバッハ:Schloss_Eberstein_mittelalterlichem_Jagdzugエーベルシュタイン城・中世時代の狩猟一行
-
(実際には「黄金の薔薇」はエーベルシュタイン伯爵からカイザーに献上され、伯爵は紋章に薔薇を使用する事を許可されたという事だろうか!)
(歴史的背景)
中世の歴史的事実としても、ローマ教皇が「黄金の薔薇」を贈ったことがあった。
薔薇の紋章に関する伝説はエーベルシュタイン伯家の隆盛を誇った時代を考証したものである。15世紀頃から、エーベルシュタイン伯家は衰退期に入り、1660年の男系承継者の死で、伯爵の家系は途絶えた。
写真はGernsbachゲルンズバッハの町の紋章もエーベルシュタイン伯爵家に準じている。 -
*「神聖ローマ皇帝」とは古代ローマ皇帝や東ローマ皇帝と区別するための歴史学的用語である。カール大帝以降を指す場合とオットー1世以降に限る場合がある。
理念的には、中世西ヨーロッパにおける世俗の最高支配者とされ、カトリック世界において普遍的な世俗支配権を主張した。特にドイツとイタリアで国法上最も重要な位置を占め、指導的役割を担った。(Wiki)
写真はKaiser Otto I.神聖ローマ皇帝オットー1世(オットー大帝)の切手(2012年発行)
*神聖ローマ皇帝Otto I.オットー1世(912年~973年)は中世ドイツの王(在位:936年~973年)及びイタリア王(在位:951年 - 973年)、並びに西ヨーロッパの皇帝(在位:962年 - 973年)。ザクセン王朝第2代
ローマ皇帝の称号を約40年ぶりに復活させて国制を確立し、神聖ローマ帝国の初代皇帝とも見なされる。Otto I. der Grosseオットー大帝とも呼ばれる。 -
*「黄金の薔薇」はカトリック教会の教皇が伝統的に祝福するものである。美しい黄金の薔薇はキリストの栄光の復活と威光の象徴とされる。黄金のバラは時折、敬意や愛情の証として贈られる。その慣習は7世紀の第89代教皇グレゴリウス2世、第90代教皇グレゴリウス3世の頃に始まったとされる。
黄金の薔薇の受領者には教会や聖地、皇帝、王侯貴族(男女及び夫婦)、国家も含まれているが、16世紀まで、黄金の薔薇は通常、君主などの貴族の男性に贈られていたが、16世紀以降は貴族の女性や、夫人に送られることが一般的になった。(Wiki)
写真はエーベルシュタイン伯爵家の紋章・薔薇の紋章:Rose Plakat薔薇のポスター(宣伝)Die Ebersteiner Rose -
因みに黄金の薔薇の受領者リストでドイツの皇帝、王侯貴族をピックアップすると、次の5例が該当する。
1415年、ジギスムント(Sigismund神聖ローマ皇帝)
1435年、ジギスムント(Sigismund神聖ローマ皇帝)
1452年、フリードリヒ3世(Friedrich III.神聖ローマ皇帝)
1482年、エーバーハルト1世(Eberhard I.ヴュルテンベルク公)
1518年、賢明公フリードリヒ3世(Friedrich III.ザクセン選帝侯)
この事例からはカイザーとエーベルシュタイン伯爵の名はない。エーベルシュタイン伯爵の紋章の薔薇は1207年以来使用されたことが立証されていることからすると、時期的にも合わず、やはり伝説になってしまうのだが・・・。
写真は古城ホテル エーベルシュタイン城:黄金の薔薇(イメージ) -
<教皇の贈り物(Paepstliches Geschenk)>
小冊子の説明では今一つ理解に至らずで、更に資料を見てみると、
もう少し詳細が分かったので、以下に追記した。
当時、Strassburgシュトラスブルク(仏語・ストラスブール)の司教は、皇帝Otto I.オットー1世と紛争中でした。エーベルシュタイン伯爵はシュトラスブルク司教側に味方していました。この事をオットー1世は不快に思っていた。
西暦938年、神聖ローマ皇帝オットー1世は海抜480mに築城されていたBurg Alt Eberstein旧エーベルシュタイン城を攻め落とすべく、兵糧攻めにしようと決心した。
しかし、1年経っても城は堅固で落ちず、守る側の士気も高かった。
攻城戦の結果が出なかったので、オットー1世は城を手に入れるために策略をめぐらすことにした。
写真はエーベルシュタイン伯爵家の紋章:Eberhardエーベルハルトのもつ薔薇の紋章入り盾
Bernhard_von_Eberstein († 1526) mit Wappenschild -
オットー1世はTurnierトゥルネイ(馬上槍試合)に参加するようSpeyerシュパイアーにエーベルシュタイン伯爵を招待したのです。
オットー1世の下心は、試合に招待すればエーベルシュタイン伯爵が不在となり、領主のいない城を簡単に攻め落とせるからでした。
しかし、オットー1世の娘はエーベルシュタイン伯爵家の若い息子を好ましく思っていたので、彼にオットー1世の計画を教えて、父を裏切ってしまいます。
急ぎ引き返してきたエーベルシュタイン伯はちょうど皇帝軍の新たな攻撃に間に合い、その攻撃をかわし、勝利を維持したのでした。
皇帝軍の兵士たちは戦いに飽いていて、そんなに力ずくの攻撃もしなかった為、エーベルシュタイン城の穀物蔵もワイン倉庫も依然として十分に満たされて、さらなる籠城戦に耐えることができた。
オットー1世にその様子を示すため、エーベルシュタイン伯は皇帝の検査官を招じて、貯蔵庫を見せた。
写真はEberstein-Grafen-Wappenイノシシが追加されたエーベルシュタイン伯爵家の紋章 -
これにはオットー1世もさらなる攻城戦の継続があまりに金がかかってしまうのを理解した。
オットー1世もエーベルシュタイン伯の戦上手(直訳は狡猾な)に感心し、これ以上の争いを避け、エーベルシュタイン伯家と同盟を結ぶことにした。
そして、お互いに好ましく思っていたオットー1世の娘Wendelgardベンデルガルトとエーベルシュタイン伯の最も若い息子Eberhardエーベルハルトの婚姻を許した。
写真はエーベルシュタイン城:Torhausトアーハウス(城門と建物が連結したもの) -
その後、皇帝オットー1世はローマ教皇に外交使節団を派遣した際に、オットー1世の新しい義理の息子(娘婿)Graf Eberhard von Ebersteinエーベルハルト・エーベルシュタイン伯を使節団代表とした。
謁見したキリスト教会のローマ教皇は皇帝オットー1世の娘婿エーベルハルトの使節としての見事な態度にいたく感心し、エーベルハルトに「真ん中に青いサファイアが輝く、黄金の薔薇」を与えたそうだ。
皇帝オットー1世は、その後、エーベルシュタイン伯爵家の紋章、中央が青いサファイア色である薔薇の花に、イノシシの図案を加えさせている。
・・・・・
写真はエーベルシュタイン伯爵家の紋章・薔薇の紋章:Torhausトアーハウス(城門と建物が連結したもの)の上部 -
Schloss Ebersteinエーベルシュタイン城もいわば“イノシシの城”で、ルネサンス風Torhausトアーハウス(城門と建物が連結したもの)の上部に残る“エーベルシュタインのWappen紋章”には“5枚の花弁付きの薔薇とイノシシ”の絵が楯の中に刻まれている。
只、バラは1207年以来と考証されているが、イノシシはそれよりも400年遅い1600年頃に家の名前として紋章に具現化されたと云う。
(ただし、残念ながら、前述の皇帝オットー1世とエーベルシュタイン伯爵家の攻城戦の時代とか、黄金の薔薇の受領者リストに名が無いなど、話の齟齬があるが、これも伝説だから止む無いか)
写真はエーベルシュタイン伯爵家の紋章・薔薇の紋章(拡大) -
写真はエーベルシュタイン伯爵家の象徴イノシシ像(Eberはイノシシのこと)
-
現在は城山周辺に広がるぶどう園で城主の兄弟がワイン醸造業を営み、トアーハウスを入った左右の建物群をホテル・レストランとして賃貸しているそうだ。ホテル・レストラン棟の中庭にワインの販売所があるのもその為だ。
今に残る城壁は12mの高さで厚みは3mと云われ、城壁の事を“マントの壁”と称している。
写真はエーベルシュタイン伯爵家の居城・俯瞰 -
ホテル・レストラン棟があるのは城から数m低い位置にある建物群で、“レストランとホテル エーベルシュタイン城”と称している。
グルメレストランのBernd Werner´s Gourmetrestaurantベルンド・ヴェルナーのグルメレストランは2006年から2015年までミシュラン1星を獲得していて、今年は10周年の記念の年にあたる。ゴーミョー15点。ドイツランクは139位と健闘している。
写真はエーベルシュタイン伯爵家の居城:今は古城ホテルとグルメレストランン・夜景 -
<エーベルシュタイン城の歴史>
Grafen von Ebersteinエーベルシュタイン伯爵の居城として、Otto I. von Ebersteinオットー1世 (1207~1279年)が築城し、最初の城主になった。1272年に初めて歴史書に現れたのだが、その頃、最も城の古い部分になる城壁や天守閣が備えられた。
16世紀と17世紀に大規模な増築がなされたが、伯爵の家系は途絶えた。
1691年に火災で一部焼けてからは作業場と倉庫としてのみ使われた。
写真は古城ホテル エーベルシュタイン城:テラスからブドウ畑も -
19世紀になり、城の外観や内装が新ゴシック様式の城館に改装され、今もその様式を残している。この頃はMarkgraf von Badenバーデン辺境伯家の夏の離宮として利用された。
2000年にMaximilian Andreas Markgraf von Badenマキシミリアン・アンドレア・バーデン辺境伯からケルンの実業家Gerd Overlackゲルト・オーヴェルラック(ゲルンズバッハの旧市庁舎の項で書いた“バーデンのフッガー家”と称された富裕な木材業・ムルグ川交運業者Jakob Kastヤコブ・カストの係累と云われる。)に城は売られ、城には所有者の家族が住み、現在、立ち入りは厳禁になっていた。
本来、この立派な城郭がホテルになっていれば、正統派の古城ホテルなのだが、少々残念なことだ。
写真は古城ホテル エーベルシュタイン城:ムルグ川からの遠望 -
写真は古城ホテル エーベルシュタイン城:秋景色
-
Baden・Badenバーデン・バーデンの保養施設Trinkhalleトリンクハーレという建物に旧エーベルシュタイン城での攻城戦を描いた絵画が掲げられている。
参考:Die Sagen der Trinkhalleトリンクハーレの伝説集(14の壁画の説明)
von Rika Wettstein, Baden-Baden
http://www.bad-bad.de/sehen/sagen.htm
写真はバーデン・バーデンの保養施設Trinkhalleトリンクハーレ -
バーデン・バーデンの保養施設トリンクハーレにあるフレスコ画は1844年にドイツ人画家Jakob・Goetzenbergerヤコブ・ゲッツエンベルガーによって描かれた。
上部に見えるのはエーベルシュタインの旧城。
写真は1844年作フレスコ画9番:Jakob・Goetzenbergerヤコブ・ゲッツエンベルガー -
おまけの写真は古城ホテル エーベルシュタイン城に残るもう一つの伝説のフレスコ画10番(バーデン・バーデンの保養施設トリンクハーレ)
≪Die Sage vom ”Grafensprung“ヴォルフ伯爵の伝説・運命の跳躍≫
https://4travel.jp/travelogue/11030462
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旅行記グループ ドイツの伝説・民話その3
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