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<レムゴーの伝説:ミュンスターの侯爵司教に攻められたレムゴーが何故?雄牛を贈ったのか。><br /><br />Lemgoレムゴーはノルトライン・ヴェストファーレン州リッペ郡(オストヴェストファーレン・リッペ地方)の大学都市であり、人口約 41千人の中都市である。日本人観光客の訪れも少なく、知られていないが、木組みの家並みが素晴らしい町として、世評も高い。<br />北にMindenミンデン(29km)、西にBielefeldビーレフェルト (25 km)、南にDetmoldデトモルトとPaderbornパーダーボルン (36 km) の各都市がある。<br /><br />さて、先般、番外編:レムゴーの伝説・「ビール樽の紛争(酒税)」が生んだ宰相の泉と題した伝説を書いた。<br />この町は更にもう一つの伝説を残している。<br /><br />その伝説によると、1675年の頃の話だがFuerstbischof von Muenster, Christoph Bernhard von Galenミュンスターの侯爵司教、クリストフ・ベルンハルト・フォン・ガレンはレムゴーの要塞都市を包囲していたが、それを攻め落とすことができませんでした。<br /><br />写真は伝説の主人公ミュンスターの侯爵司教、クリストフ・ベルンハルト・フォン・ガレン

番外編:レムゴーの伝説・ミュンスターの侯爵司教に攻められたレムゴーが何故?雄牛を贈ったのか。

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2019/09/18 - 2019/10/03

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旅行記グループ ドイツの伝説・民話その3

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jijidaruma

jijidarumaさん

<レムゴーの伝説:ミュンスターの侯爵司教に攻められたレムゴーが何故?雄牛を贈ったのか。>

Lemgoレムゴーはノルトライン・ヴェストファーレン州リッペ郡(オストヴェストファーレン・リッペ地方)の大学都市であり、人口約 41千人の中都市である。日本人観光客の訪れも少なく、知られていないが、木組みの家並みが素晴らしい町として、世評も高い。
北にMindenミンデン(29km)、西にBielefeldビーレフェルト (25 km)、南にDetmoldデトモルトとPaderbornパーダーボルン (36 km) の各都市がある。

さて、先般、番外編:レムゴーの伝説・「ビール樽の紛争(酒税)」が生んだ宰相の泉と題した伝説を書いた。
この町は更にもう一つの伝説を残している。

その伝説によると、1675年の頃の話だがFuerstbischof von Muenster, Christoph Bernhard von Galenミュンスターの侯爵司教、クリストフ・ベルンハルト・フォン・ガレンはレムゴーの要塞都市を包囲していたが、それを攻め落とすことができませんでした。

写真は伝説の主人公ミュンスターの侯爵司教、クリストフ・ベルンハルト・フォン・ガレン

旅行の満足度
4.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
交通手段
レンタカー
旅行の手配内容
個別手配

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  • それで、レムゴーの人達は思いあがって、攻城軍の総司令官ガレン司教に雄牛を贈ったのです。しかも、牛の角の間に置いた板に書き添えたのでした。<br /><br />「雄牛が歌うことを学ぶことは少ない(雄牛のように老いていくだけで、知恵がつかないといった意味だろう)が、(そんな雄牛の様な)ガレン司教でもレムゴーの町を征服できるだろうよ」と。<br /><br />写真はChristoph_Bernhard_von_Galen_wapenガレン侯爵司教の紋章

    それで、レムゴーの人達は思いあがって、攻城軍の総司令官ガレン司教に雄牛を贈ったのです。しかも、牛の角の間に置いた板に書き添えたのでした。

    「雄牛が歌うことを学ぶことは少ない(雄牛のように老いていくだけで、知恵がつかないといった意味だろう)が、(そんな雄牛の様な)ガレン司教でもレムゴーの町を征服できるだろうよ」と。

    写真はChristoph_Bernhard_von_Galen_wapenガレン侯爵司教の紋章

  • この挑戦状に怒ったガレン司教はレムゴーの町を徹底的に破壊尽くし、平らになった土地にHaferオートムギ(エンバク)をまいてやろうと誓いました。<br /><br />そこで、ガレン司教はBegaベガ川(距離43.9km、レムゴーの町を流れるWerraヴェラ川の支流)の水を他方向に導き、町を水攻めにし、厳重に包囲したのです。<br /><br />レムゴーが保有していた食料は乏しくて、一気に飢饉に襲われることになった。<br />思いあがっていたレムゴーの人達にも、もうガレン司教に降伏するしかないことが明らかだった。レムゴーの市長と市参事会員たちも貧しげな衣服をまとい、総司令官ガレン司教の前に現れ、慈悲を乞いました。<br /><br />写真はLemgoレムゴーの1663年頃の絵

    この挑戦状に怒ったガレン司教はレムゴーの町を徹底的に破壊尽くし、平らになった土地にHaferオートムギ(エンバク)をまいてやろうと誓いました。

    そこで、ガレン司教はBegaベガ川(距離43.9km、レムゴーの町を流れるWerraヴェラ川の支流)の水を他方向に導き、町を水攻めにし、厳重に包囲したのです。

    レムゴーが保有していた食料は乏しくて、一気に飢饉に襲われることになった。
    思いあがっていたレムゴーの人達にも、もうガレン司教に降伏するしかないことが明らかだった。レムゴーの市長と市参事会員たちも貧しげな衣服をまとい、総司令官ガレン司教の前に現れ、慈悲を乞いました。

    写真はLemgoレムゴーの1663年頃の絵

  • ガレン司教は心の中の恐ろしい葛藤を抑え、大いに馬鹿にされたことへの復讐心も断念したのだった。<br /><br />しかし、怒りの誓いを守るためには、レムゴーの街の通りの舗装をひきはがし、オートムギをまいたはずです。<br />この事は、「Haferstrasseオートムギ通り」という名の通りが、今日でもレムゴーの町にあるからです。<br /><br />写真はレムゴーの現在・俯瞰

    ガレン司教は心の中の恐ろしい葛藤を抑え、大いに馬鹿にされたことへの復讐心も断念したのだった。

    しかし、怒りの誓いを守るためには、レムゴーの街の通りの舗装をひきはがし、オートムギをまいたはずです。
    この事は、「Haferstrasseオートムギ通り」という名の通りが、今日でもレムゴーの町にあるからです。

    写真はレムゴーの現在・俯瞰

  • 追記すれば、<br />当時のミュンスターは旧教派カトリック教徒、レムゴーは新教派のプロテスタントでしたから、新旧キリスト教徒の宗教戦争・30年戦争(1618~48年)が終わった後とは言え、背景に両派の争いがくすぶっていたものと思われます。<br /><br />写真は伝説の主人公ミュンスターの侯爵司教、クリストフ・ベルンハルト・フォン・ガレン、後に新教派(カルヴィン派信徒)のオランダ人に「Kanonen-大砲あるいはBommen爆弾-ベルンハルト」と畏怖されたと云う。

    追記すれば、
    当時のミュンスターは旧教派カトリック教徒、レムゴーは新教派のプロテスタントでしたから、新旧キリスト教徒の宗教戦争・30年戦争(1618~48年)が終わった後とは言え、背景に両派の争いがくすぶっていたものと思われます。

    写真は伝説の主人公ミュンスターの侯爵司教、クリストフ・ベルンハルト・フォン・ガレン、後に新教派(カルヴィン派信徒)のオランダ人に「Kanonen-大砲あるいはBommen爆弾-ベルンハルト」と畏怖されたと云う。

  • Christoph Bernhard von Galen クリストフ・ベルンハルト・フォン・ガレンは1606年10月12日、Westfalenヴェストファーレン地方のRinkerodeリンケローデ(現在、人口3800人の村)近くのHaus Bispingビスピング家の水城で生まれ、1678年9月19日、Ahausアハウス(現在、ミュンスターラントの西に位置するBorkenボルケン行政区に属する人口39千人の町)で亡くなっている。<br /><br />写真はHaus_Bispingガレン司教の生まれたHaus Bispingビスピング家の水城

    Christoph Bernhard von Galen クリストフ・ベルンハルト・フォン・ガレンは1606年10月12日、Westfalenヴェストファーレン地方のRinkerodeリンケローデ(現在、人口3800人の村)近くのHaus Bispingビスピング家の水城で生まれ、1678年9月19日、Ahausアハウス(現在、ミュンスターラントの西に位置するBorkenボルケン行政区に属する人口39千人の町)で亡くなっている。

    写真はHaus_Bispingガレン司教の生まれたHaus Bispingビスピング家の水城

  • カトリックの司祭であり、1650年11月14日から死去するまでミュンスターの侯爵司教でした。<br /><br />死後、ガレン司教はミュンスターのSt. Paulus-Dom聖パウロ大聖堂のSt.Josephs-Kapelle聖ヨセフ礼拝堂(大聖堂内の縄張り図No.19)に埋葬され、見事なGrabmal墓碑を見ることができる。<br /><br />(2019年8月31日訳・編集加筆)<br /><br />写真はミュンスターの侯爵司教、クリストフ・ベルンハルト・ガレン_(1606~1678年)が眠る大聖堂内の見事な墓碑

    カトリックの司祭であり、1650年11月14日から死去するまでミュンスターの侯爵司教でした。

    死後、ガレン司教はミュンスターのSt. Paulus-Dom聖パウロ大聖堂のSt.Josephs-Kapelle聖ヨセフ礼拝堂(大聖堂内の縄張り図No.19)に埋葬され、見事なGrabmal墓碑を見ることができる。

    (2019年8月31日訳・編集加筆)

    写真はミュンスターの侯爵司教、クリストフ・ベルンハルト・ガレン_(1606~1678年)が眠る大聖堂内の見事な墓碑

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ドイツの伝説・民話その3

この旅行記へのコメント (2)

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  • pedaruさん 2019/10/23 04:31:16
    町の伝説
    mimidarumaさん おはようございます。

    伝説シリーズ、とっても面白い編集だと思います。
    牛を送ったレムゴーの人たちも、腹が減っては戦ができなかったのですね。
    思い上がりが悲惨な結果を招くというお話ですが、馬鹿なことをしたと、反省したことでしょう。

    pedaru

    jijidaruma

    jijidarumaさん からの返信 2019/10/23 13:57:51
    Re: 町の伝説
    pedaruさん、
    今日は。いつもありがとうございます。

    この度は伝説シリーズにコメントも頂き、嬉しく思います。
    ドイツの古城好きも高じて来ると、訪れる古城や町々で
    何やら伝説・民話を気にするようになりました。
    ここに登場するクリストフ・ベルンハルト・フォン・ガレン
    領主司教は面白いことにもう一つの伝説に絡みます。
    ミュンスターの“黄金の雄鶏”の話ですが、ここでは逆に雄鶏の
    狡猾さ(策略?)に負けたガレン侯爵司教・・・という事に。

    そんなことで、4Traでも90ぐらいの伝説・民話を載せて
    きました。
    お読みいただき感謝です。
    jijidaruma

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