2019/09/18 - 2019/10/03
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jijidarumaさん
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<伝説:ヴィルヘルムシュタールの太鼓手は突撃せよ!と、太鼓を連打した>
ヘッセン州北部のカッセル郡Caldenカルデンの町近くに広大な庭園と共に美しいSchloss Wilhelmsthalヴィルヘルムシュタール城がある。
その門前に大きなTafel案内板が立っている。
「Maerhenlandwegメルヘン地方の道(後述)を示す案内板はかつての戦争で活躍した太鼓手の伝説を思い出させる。
7年戦争の最中の1762年6月24日、ヴィルヘルムシュタール城の城門前で戦われた「Schlacht bei Wilhelmsthaltヴィルヘルムシュタールの戦い」で、イギリス、プロイセンなどの連合軍にフランス軍が大敗北し、約3,000人が戦死したと云われている。
メルヘン地方の道・「Der Tambour (Trommler) von Wilhelmsthalヴィルヘルムシュタールの太鼓手(たいこしゅ:英語のDrummer)」については伝説が残る。
写真はヴィルヘルムシュタール城の門前にある太鼓手の案内板
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- レンタカー
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
伝承によると、太鼓手は現在のGrebensteinグレーベンシュタイン(カッセルとWarburgヴァールブルクの間)の地区、Burguffelnブルグフェルンの出身だったそうです。
「ヴィルヘルムシュタールの戦い」で、若くて経験の浅い太鼓手はKommando指揮官が兵士たちに命令した「zum Sammeln集まれ!」ではなく、「zum Sturm突撃せよ!」と、太鼓を連打して攻撃前進を指示したそうです。
若者の大きな勘違いだった太鼓の音は連合軍の兵たちを鼓舞し、猛烈な攻撃がフランス軍を襲った。この一戦でフランス軍は多くの戦死者や降伏者を出したと云われている。フランス軍が太鼓の音に大敗北したのでした。
この事のみで名も無き、その後の生死も分からない太鼓手は伝説の主人公になった。だから、この伝説は通常の伝説よりも実に短い話になっている。
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写真はヴィルヘルムシュタール城の門前にある太鼓手の案内板 -
写真はWappen_Caldenカルデンの紋章
Caldenカルデン:
カルデンはヘッセン州カッセル郡に属す人口7.5千人の村である。
地方飛行場カッセル・カルデン飛行場と、ヴィルヘルムスタール城で知られる。
(見所)
・Schloss Wilhelmsthalヴィルヘルムスタール城(宿泊先傍の宮殿、美しい庭園を持つロココ様式の城館)
・Kopfsteineコプフシュタイネ(フュルステンヴァルト地区の自然記念物)
・Steinkistengrabカルデンの石櫃(石櫃墓) -
1756年から1763年までの7年戦争(渡部昇一教授は18紀の世界戦争であったと言われているが)では、当時のヨーロッパの大国同士、一方がプロイセンとイギリスなどの連合軍と、もう一方のオーストリア、フランス、ロシアとが戦いました。
この戦いには数多くの中小の領邦が関与し、その一つLandgrafschaft Hessen-Kasselヘッセン・カッセル方伯領も参戦したのです。
写真はヴィルヘルムシュタール城の門 -
ヘッセン・カッセル方伯領の多くの住民にとって、特に1760年~1762年の「Diemelディーメルの戦争」(1760年7月31日のSchlacht bei Warburgヴァールブルクの戦いの事だろう)の間に、かなりの経済的損害を被っていた。
ヘッセン軍は英軍兵士と共にフランス軍と戦い、連合軍が勝利していたが。
フランス軍が1762年6月24日にここで敗北し、「ヴィルヘルムシュタールの戦い」が有名になりましたが、一月後の1762年7月23日の「Schlacht bei Lutternbergラッターベルクの戦い」でもフランス軍は敗北し、ヘッセンから撤退しました。
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写真はヴィルヘルムシュタール城の正面 -
2012年6月24日のHNAオンラインの記事によると、7年戦争の1762年6月24日の「ヴィルヘルムシュタールの戦い」から250年の年を記念して、戦いの場にガイド付きツアーを行ったとある。
そこで一行が扮装してブラウンシュヴァイク公の兵たちとフランス軍が向き合ったと。
(ミンデンの戦い(1759年8月1日)のあったミンデンの町でも250周年記念祭が行われた)
写真は七年戦争:ミンデンの戦い(1759年8月1日)250周年祭:英・スコットランド軍 -
ヴィルヘルムシュタール城の城内台所のある翼(建物部分)には展示場があり、Zinnsoldaten錫で出来た兵士人形たちが様々な戦闘場面を見せている。
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写真はヴィルヘルムシュタール城:Parkseite庭園側 -
<Wikiに依れば>此の戦いの詳細は以下のようである。
この戦いはFerdinand von Braunschweig-Wolfenbuettelフェルディナント・フォン・ブラウンシュヴァイク・ヴォルフェンビュッテル公・元帥が率いるイギリス、プロイセン、ブラウンシュヴァイク、ヘッセン・カッセルの連合軍が、スービーズ公Charles de Rohanシャルル・ド・ロアン元帥が率いるフランス軍に勝利した戦闘である。
写真はヴィルヘルムシュタール城:Parkseite庭園側 -
フランス(ルイ15世の治世)は1757年以降何度かハノーファーの侵攻と占領を試み、それをイギリスに占領されたフランス植民地と交換しようとした。フェルディナント率いる連合軍はそれまでの試みを全て挫けたが、1762年には戦争の終結が近づいたため、フランス軍は最後の試みとして再度侵攻し、フェルディナント軍を撃破しようとした。
フェルディナントは進軍して両側からフランス軍を攻撃、包囲に近い陣形をとった。イギリス軍がJacques Philippe de Choiseul-Stainvilleジャック・フィリップ・ド・ショワズール・スタンヴィル公・元帥率いるフランス軍中央部を前後から同時攻撃して1,500人の損害を与え、数個連隊を降伏させた。
写真はヴィルヘルムシュタール城:Grundriss-Park庭園の縄張り図 -
イチオシ
結果は連合軍の勝利であった。フランスがハノーファーを占領しようとする最後の試みは挫かれ、結局停戦とパリ条約締結までフランスはハノーファーを占領することができなかった。
連合軍はそのまま進軍して11月にフランス軍の占拠したカッセルを攻め落とした。フェルディナント公にとってはパリ条約(1763年の講和条約)により戦争が終結する前の最後の会戦となった。
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写真はヴィルヘルムシュタール城:庭園 -
イチオシ
一月後の1762年7月23日にも両軍は「Schlacht bei Lutternbergラッターベルクの戦い」でぶつかり、フランス軍はまた敗北し、ヘッセン地域から撤退した。
1758年にも同じ場所(南ニーダーザクセンのゲッティンゲン地区)で戦いがあったので、「Zweite Schlacht bei Lutterberg第二次ルッターベルクの戦い」とも呼ばれる。
写真はヴィルヘルムシュタール城:Parkseite庭園側 -
Franz *Xaver von Sachsenフランツ・クサーヴァー・フォン・ザクセン伯が率いるフランスとザクセンの連合軍とフェルディナント・フォン・ブラウンシュヴァイク・ヴォルフェンビュッテル元帥率いるイギリス、ハノーファー、ヘッセン・カッセルの連合軍とが激突した。
写真はヴィルヘルムシュタール城:俯瞰
*海抜 24~75 mと所謂、ライン川沿いの低地に都市が出来た。この地はたいへん珍しい、読めない都市名である「聖者たちの場所=Xantenクサンテン」と9世紀に名付けられた。Duisburgデュイスブルクから北西に30kmの距離、オランダ国境に近く、ライン川左岸に位置する、人口約2万1千人という小さな町である。
古代ローマ軍団の都市であり、「聖者たちの場所」の意味であるXantenクサンテンという町の名前は珍しいと思っていたが、フランスとザクセンの連合軍を指揮したフランツ・クサーヴァー・フォン・ザクセン伯の名前がXから始まるのをみて、Xantenクサンテンの町を思い出した。
いずれにしても読めないし、珍しい。 -
ザクセン軍とフランス軍はフルダ川右岸で野営していた。フルダ川左岸で集結したヘッセン・カッセルとハノーファーの連合軍は午前3時に奇襲攻撃を仕掛け、川越しで激しい砲撃戦をはじめた。正午にはヘッセン・カッセルとハノーファー軍の勝利で決着し、フランス軍はゲッティンゲンとミュンデンに撤退した。
両軍の死傷者は合計2,500人であった。
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写真はヴィルヘルムシュタール城:ドイツの切手Stamps_of_Germany_(Berlin)_1982,_MiNr_674,_A -
<Siebenjaehriger Krieg七年戦争について>
七年戦争は1756年~1763年のプロイセン王国とオーストリアの対立を軸に、プロイセンはイギリスと、オーストリアはフランス、ロシアと結び、全ヨーロッパに広がった戦争を言う。
プロイセンとオーストリア間ではシュレジェン地方の帰属を決定する戦争となったので、第3次シュレジェン戦争とも言う。
同時にイギリスとフランスの植民地における英仏植民地戦争(第2次英仏百年戦争)も並行して行われ、世界的な広がりを持つ戦争となった。
写真は七年戦争当時の領邦図 -
結果はプロイセンとイギリスの勝利となり、ヨーロッパでのプロイセンの地位を向上させ、イギリスの植民地帝国としての繁栄がもたらされた。
この戦争は絶対王政各国の財政を圧迫し、イギリスからのアメリカ独立戦争、フランスではフランス革命という市民革命が起こる契機となった。
(外交革命)
オーストリア継承戦争で敗れ、シュレジェン地方を失ったオーストリアのマリア・テレジア女帝は大胆な外交政策の変更を行い、フランスと提携することに成功し、プロイセンを孤立させた。
(対戦国)
オーストリア(ハプスブルク家マリア・テレジア)とプロイセン(ホーエンツォレルン家フリードリヒ2世)の対立を軸に、外交革命によってまずフランス(ブルボン朝ルイ15世)がオーストリアを支援、スペイン、ロシア、スウェーデンも同調した。イギリスは植民地でフランスと激しく対立していたので、プロイセン側についたが、兵力を割く余裕はなかった。そのためプロイセンは孤立した戦いを強いられた。
写真は七年戦争の会戦の絵:
左上から時計回り:プラッシーの戦い(1757年6月23日)、カリヨンの戦い(1758年7月6日 - 8日)、ツォルンドルフの戦い(1758年8月25日)、クネルスドルフの戦い(1759年8月12日)。 -
(経緯)
1756年、プロイセンのフリードリヒ2世が、形勢の逆転をねらってオーストリア領に侵入し、戦争が開始された。プロイセン軍はプラハ、ロスバハ、ロイテンなどの戦闘で勝利したが、フランス軍の本格介入によって1959年のクネルスドルフの戦いに敗れ、一時ベルリンを占領され、危機に陥った。
しかしロシアで1761年に女帝エリザヴェータ(ピョートル大帝の娘)が急死し、フリードリヒ2世を崇拝していたピョートル3世(翌年、妻のエカチェリーナ2世に廃位される)が皇帝となったために単独講和に応じ、並行して行われた英仏植民地戦争でフランスが敗れた事などから、プロイセンは戦争を耐え抜いた。1763年のフベルトゥスブルク条約でシュレジェンの領有をオーストリアに認めさせた。
(植民地戦争との連動)
なおイギリスはヨーロッパの戦争にはプロイセンを金銭的に支援しただけでほとんど出兵せず、専ら植民地でのフランスと戦いである北米大陸でのフレンチ・インディアン戦争、インドでのプラッシーの戦いと第三次カーナティック戦争に専念した。イギリスとフランス・スペイン間では同じく1763年にパリ条約を締結して講和が成立し、イギリスはフランスから広大な植民地を獲得した。
写真は七年戦争当時の軍装:左がハノーファー、英軍、右が仏軍 -
(影響および意義)
①ヨーロッパにおけるプロイセンの国際的地位が向上し強国の一員となり、ドイツ統一の主導権を握る。
②イギリスがカナダなど植民地を獲得し、世界植民地帝国(第一帝国)を形成することとなった。
③同時にイギリスは北米植民地への課税を強化したため植民地側の反発が強くなり、アメリカ独立戦争が始まる。
④オーストリアはヨーゼフ2世の啓蒙専制主義による改革に向かう。
⑤フランスは北米大陸の植民地のほとんどを喪失、さらに国庫の窮迫が深刻になり財政再建に迫られ、貴族への課税問題からついにフランス革命が勃発する。
⑥スウェーデン軍はプロイセンに出兵したが、領土的には得るものがなかった。ただ、兵士がジャガイモを持ち帰り、それが普及して主食となったので、スウェーデンではこの戦争をジャガイモ戦争と言っている。
以上、七年戦争は18世紀後半のヨーロッパ諸国の激動の引き金となった戦争であった。また、ヨーロッパにおける七年戦争・北米大陸におけるフレンチ・インディアン戦争、アジアにおけるプラッシー戦争という三つの戦争が互いに関係し合う、18紀の世界戦争であったことも注意しておこう。
写真は七年戦争:ミンデンの戦い(1759年8月1日)250周年祭:フランス軍 -
※プロイセンの勝利の要因
プロイセンはオーストリア・フランス・ロシアさらにスウェーデンを同時に敵に回して戦った。イギリスはプロイセン側についたが兵力は送らず財政援助にとどまった。まさに人口的には30対1の戦いで、当時の常識からして勝てるわけのない戦いである(兵隊の数はプロイセン20万、連合軍40万ぐらい)。
事実フリードリヒ大王は勝てなかった。主要な戦闘は16回あって、その半分は負けたのである。
しかし、最終的な平和条約においてシュレジェンとグラーツを得ることができた。フリードリヒ大王とプロイセン軍が30対1の戦争をやりとうせた理由は次である。
①国王が常に戦場における最高司令官であり、ユンカー階級が将校団として定着していた。
②制限戦争のキーポイントとして敵の補給路を断つ戦略を実施した。そのために行軍速度を速める工夫をした。
③厳格な軍律と徹底した練兵の伝統。
④大王の「工夫の才」。大砲や銃の性能を高める工夫を自ら行った。
<渡部昇一『ドイツ参謀本部』中公新書 p.23-24>
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写真は七年戦争:ミンデンの戦い(1759年8月1日)250周年祭:七年戦争:ミンデンの戦い250周年記念祭:英軍・猟兵部隊 -
<Der Maerhenlandwegメルヘン地方の道>
https://www.egotrek.de/tour/maerchenlandweg/
1975年に組織された「Deutsche Maerchenstrasseドイツ・メルヘン街道」(ハーナウから、グリム童話の世界を目にしながら、ブレーメンに至るおよそ600km)とは異なるが、この「メルヘン地方の道」は初めて知ったのだが、こちらは2000年9月17日、組織化された。
写真はDer Maerhenlandwegメルヘン地方の道:Map -
「メルヘン地方の道」はヘッセン州北部、ニーダーザクセン州南部、ヴェストファーレン地方の東部を網羅し、Bad Karlshafenバート・カールスハーフェンから始まり、Reinhardswaldラインハルトの森、Sollingゾリング、Kaufunger Wald in der Soehre und im Habichtswaelder Berglandカウファンガーの森、ゼーレやハヴィヒツの森林・山地を通る440.2kmの長い円形かつ長距離の31の様々なルートを持ったWandererヴァンダラーの為のハイキングコースです。
写真はDer Maerhenlandwegメルヘン地方の道:冊子の表紙 -
カッセル地方の29の町や自治体だけでなく、グリム兄弟の博物館のあるKasselカッセルとH・Muendenハン・ミュンデンもこのコースに入っているそうです。
写真はDer Maerhenlandwegメルヘン地方の道:道標M印(Hugenottenrouteフーゲノッテン・ルート)
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(2019年11月24日意訳・編集・加筆)
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