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<Blombergブロムベルク:アルハイトの盗みと巡礼地となった泉の話><br /><br />Simon I. zur Lippeジーモン1世・リッペ(1275年~1344年)は<br />ブロムベルク城をその居城とし、城砦を宮殿に改築した。<br />当時、ジーモン1世とその後継者はブロムベルク城とレムゴーの<br />Schloss Brakeブラーケ城の二つの城館を使用し、その間を頻繁に<br />行き来していた。<br /><br />ブロムベルクの町と城は市城壁で囲まれ、さらに城は土塁と壕で<br />護られていた。西および南側は急勾配が天然の護りとなっていたが、<br />東および北向きの都市は壁、壕、土塁、イバラの生け垣で囲まれていた。<br />さらに6本の防衛塔、門の前の空壕など、城塞都市の構えで守られていた。<br /><br />このうち、ニーダー・トーア(下の門)と市壁の一部が現在も遺っている。<br />ブロムベルクの町はオーバーシュタット(上の町)とウンターシュタット<br />(下の町)に分かれた2つの地区からなっている。<br /><br />写真はブロムベルクのマルクト広場にあるアルハイト・プステコーケの泉

番外編:Blombergブロムベルク・アルハイトの盗みと巡礼地となった泉の話

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2019/09/18 - 2019/10/03

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旅行記グループ ドイツの伝説・民話その3

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jijidaruma

jijidarumaさん

<Blombergブロムベルク:アルハイトの盗みと巡礼地となった泉の話>

Simon I. zur Lippeジーモン1世・リッペ(1275年~1344年)は
ブロムベルク城をその居城とし、城砦を宮殿に改築した。
当時、ジーモン1世とその後継者はブロムベルク城とレムゴーの
Schloss Brakeブラーケ城の二つの城館を使用し、その間を頻繁に
行き来していた。

ブロムベルクの町と城は市城壁で囲まれ、さらに城は土塁と壕で
護られていた。西および南側は急勾配が天然の護りとなっていたが、
東および北向きの都市は壁、壕、土塁、イバラの生け垣で囲まれていた。
さらに6本の防衛塔、門の前の空壕など、城塞都市の構えで守られていた。

このうち、ニーダー・トーア(下の門)と市壁の一部が現在も遺っている。
ブロムベルクの町はオーバーシュタット(上の町)とウンターシュタット
(下の町)に分かれた2つの地区からなっている。

写真はブロムベルクのマルクト広場にあるアルハイト・プステコーケの泉

旅行の満足度
4.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
交通手段
レンタカー
旅行の手配内容
個別手配

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  • 上述の城塞都市はSoester Fehdeゾーストのフェーデ(Erzbischof von Koelnケルン大司教勢力に対抗したHerzogtum Kleveクレーフェ公国とゾーストなどとの間で戦い:支配者間の一種の決闘であり、決まった場所・決まった時間に武力に頼って決着された)で完全に破壊されるまで、ブロムベルクを護ってきた。<br /><br />写真はブロムベルク:Rathausブロムベルク市庁舎<br /><br />マルクト広場の市庁舎は、1587年に建築家ハンス・ラーデによって建造された。正面の三連の木組み破風は1830年に造られたものである。<br />上階には市庁舎ホールと小会議室がある。

    イチオシ

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    上述の城塞都市はSoester Fehdeゾーストのフェーデ(Erzbischof von Koelnケルン大司教勢力に対抗したHerzogtum Kleveクレーフェ公国とゾーストなどとの間で戦い:支配者間の一種の決闘であり、決まった場所・決まった時間に武力に頼って決着された)で完全に破壊されるまで、ブロムベルクを護ってきた。

    写真はブロムベルク:Rathausブロムベルク市庁舎

    マルクト広場の市庁舎は、1587年に建築家ハンス・ラーデによって建造された。正面の三連の木組み破風は1830年に造られたものである。
    上階には市庁舎ホールと小会議室がある。

  • 1447年にケルン大司教がこの町を包囲した。6月14日、その兵士らによってブロムベルクの町は完全に焼き払われた。<br /><br />ブロムベルクの町は1468年からリッペ領主Bernhard VII. zur Lippeベルンハルト7世 の庇護の下で再建された。<br /><br />写真はブロムベルク:ブロムベルク市庁舎の拡大

    1447年にケルン大司教がこの町を包囲した。6月14日、その兵士らによってブロムベルクの町は完全に焼き払われた。

    ブロムベルクの町は1468年からリッペ領主Bernhard VII. zur Lippeベルンハルト7世 の庇護の下で再建された。

    写真はブロムベルク:ブロムベルク市庁舎の拡大

  • この頃、ブロムベルクの町に重要な事件が起こった。<br /><br />Alheyd Pustekokeアルハイト・プステコーケという名前の女性がMartinikircheマルティーニ教会から45枚の奉納されたHostieホスチア(聖別されたパンをホスチアと呼ぶ)を盗み出した。<br />彼女はこの事が発覚することを恐れ、Brunnen im Seligen Winkelゼーリゲン・ヴィンケルの泉にホスチアを投げ入れた。<br />しかしホスチアは沈まず、彼女は盗んだ罪を認めさせられて、火刑に処せられた。<br /><br />ゼーリゲン・ヴィンケルの泉がwundersame Heilkraefte霊力をもつというニュースはすぐに広まり、ブロムベルクはWallfahrtsort巡礼地に発展していった。<br /><br />写真はブロムベルク:Alheyd-Brunnen auf dem Blomberger Marktplatzマルクト広場にあるアルハイトの泉

    この頃、ブロムベルクの町に重要な事件が起こった。

    Alheyd Pustekokeアルハイト・プステコーケという名前の女性がMartinikircheマルティーニ教会から45枚の奉納されたHostieホスチア(聖別されたパンをホスチアと呼ぶ)を盗み出した。
    彼女はこの事が発覚することを恐れ、Brunnen im Seligen Winkelゼーリゲン・ヴィンケルの泉にホスチアを投げ入れた。
    しかしホスチアは沈まず、彼女は盗んだ罪を認めさせられて、火刑に処せられた。

    ゼーリゲン・ヴィンケルの泉がwundersame Heilkraefte霊力をもつというニュースはすぐに広まり、ブロムベルクはWallfahrtsort巡礼地に発展していった。

    写真はブロムベルク:Alheyd-Brunnen auf dem Blomberger Marktplatzマルクト広場にあるアルハイトの泉

  • このことはまた、ヴァチカンにもこの知らせが届き、ローマの枢機卿はこの泉の上に礼拝堂を建設するよう勧めたという。<br /><br />Kloster Moellenbeckメレンベックのアウグスチナー修道参事会が 1468年に教会を寄進し、同時に修道院の建設許可を得た。修道院教会は1473年に後期ゴシック様式に改築され、現在は福音主義改革派の市教区教会となっている。<br /><br />寄進の収入は修道院教会が建設できるほどの額があり、この修道院教会は約 200年の間リッペ領主家およびリッペ伯の廟所として使われた。<br />教会の内陣には、寄進者のベルンハルト7世とその妻アンナのミサ用棺がある。墓所は、2つの部屋に 19体の遺骸が安置されていた。 <br /><br />写真はブロムベルク:Klosterkirche修道院教会

    このことはまた、ヴァチカンにもこの知らせが届き、ローマの枢機卿はこの泉の上に礼拝堂を建設するよう勧めたという。

    Kloster Moellenbeckメレンベックのアウグスチナー修道参事会が 1468年に教会を寄進し、同時に修道院の建設許可を得た。修道院教会は1473年に後期ゴシック様式に改築され、現在は福音主義改革派の市教区教会となっている。

    寄進の収入は修道院教会が建設できるほどの額があり、この修道院教会は約 200年の間リッペ領主家およびリッペ伯の廟所として使われた。
    教会の内陣には、寄進者のベルンハルト7世とその妻アンナのミサ用棺がある。墓所は、2つの部屋に 19体の遺骸が安置されていた。

    写真はブロムベルク:Klosterkirche修道院教会

  • アルハイト・プストコーケの火刑死と、霊力をもつ泉が巡礼地となった話は、今に伝承されている。<br /><br />この事を記念して建てられた“アルハイト・プステコーケの泉”はハンス・ゲルト・ルーヴェによって製作され、マルクト広場にある。<br /><br />写真はブロムベルク:ニーダー・トーア(下の門)<br />ニーダートーア(下の門)は15世紀に建造され、リッペで最後に遺った中世の市門である。

    アルハイト・プストコーケの火刑死と、霊力をもつ泉が巡礼地となった話は、今に伝承されている。

    この事を記念して建てられた“アルハイト・プステコーケの泉”はハンス・ゲルト・ルーヴェによって製作され、マルクト広場にある。

    写真はブロムベルク:ニーダー・トーア(下の門)
    ニーダートーア(下の門)は15世紀に建造され、リッペで最後に遺った中世の市門である。

  • ブロムベルクはルトライン・ヴェストファーレン州リッペ郡(オストヴェストファーレン・リッペ地方)の人口約 15千人の町である。<br />Bielefeldビーレフェルトから南東に45 km、Detmoldデトモルトから東に15kmの距離にある。<br /><br />写真はブロムベルク:ブロムベルク城の入口前のAltes_Amtshaus旧庁舎もヴェーザールネサンス様式と思われる美しい木組み建築

    ブロムベルクはルトライン・ヴェストファーレン州リッペ郡(オストヴェストファーレン・リッペ地方)の人口約 15千人の町である。
    Bielefeldビーレフェルトから南東に45 km、Detmoldデトモルトから東に15kmの距離にある。

    写真はブロムベルク:ブロムベルク城の入口前のAltes_Amtshaus旧庁舎もヴェーザールネサンス様式と思われる美しい木組み建築

  • 写真はブロムベルク:狭くて車体をこすりそうになるブロムベルク城の城門入口

    写真はブロムベルク:狭くて車体をこすりそうになるブロムベルク城の城門入口

  • 13世紀にGraf Bernhard Ⅲ. ベルンハルト3世伯が創設したもので、古くからの旧市街が残り、宿泊先のBurghotel Blomberg古城ホテル ブロムベルク城がある。<br /><br />写真はブロムベルク:Burg-Innenhofブロムベルク城の中庭

    13世紀にGraf Bernhard Ⅲ. ベルンハルト3世伯が創設したもので、古くからの旧市街が残り、宿泊先のBurghotel Blomberg古城ホテル ブロムベルク城がある。

    写真はブロムベルク:Burg-Innenhofブロムベルク城の中庭

    ブルクホテル ブロムベルグ ホテル

    リッペ侯家のブロンベルク城はトイトブルクの森からヴェーザー川に沿った丘陵地帯の観光の中心にある。 by jijidarumaさん
  • 写真はブロムベルク:ブロムベルク城の夜景

    写真はブロムベルク:ブロムベルク城の夜景

  • 写真はブロムベルク:ブロムベルク城の城門外近くに立つ太く大きな菩提樹は何やらこちらの方が霊力を持っているように思える。

    写真はブロムベルク:ブロムベルク城の城門外近くに立つ太く大きな菩提樹は何やらこちらの方が霊力を持っているように思える。

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