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≪「大砲ベルンハルト」とか、「爆弾ベルンハルト」とオランダ人に畏怖されたミュンスターのガレン侯爵司教のこと≫<br /><br />レムゴーの伝説:ミュンスターの侯爵司教に攻められたレムゴーが何故?雄牛を贈ったのか。<br />https://4travel.jp/travelogue/11557360<br /><br />伝説:ミュンスターの雄鶏の狡猾さ(策略?)に負けたガレン侯爵司教(救世主となった黄金の雄鶏)<br />https://4travel.jp/travelogue/11469941<br /><br />の二つの伝説は面白いことに、ガレン侯爵司教がレムゴーでは勝利し、ミュンスターでは退却した話になっている。<br /><br />また、包囲戦を同じようにしているが、オランダでの包囲戦と異なり、大砲を使用した様子が無い。<br /><br />このガレン司教は実在した人物ですので、歴史上の彼はどんな方だったか大変興味を持った。<br /><br />写真は大砲の玉が飛んでいる絵に描かれたガレン司教

番外編:「大砲ベルンハルトとか、爆弾ベルンハルト」とオランダ人に畏怖されたミュンスターのガレン侯爵司教のこと

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2019/09/18 - 2019/10/03

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旅行記グループ ドイツの伝説・民話その3

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jijidaruma

jijidarumaさん

≪「大砲ベルンハルト」とか、「爆弾ベルンハルト」とオランダ人に畏怖されたミュンスターのガレン侯爵司教のこと≫

レムゴーの伝説:ミュンスターの侯爵司教に攻められたレムゴーが何故?雄牛を贈ったのか。
https://4travel.jp/travelogue/11557360

伝説:ミュンスターの雄鶏の狡猾さ(策略?)に負けたガレン侯爵司教(救世主となった黄金の雄鶏)
https://4travel.jp/travelogue/11469941

の二つの伝説は面白いことに、ガレン侯爵司教がレムゴーでは勝利し、ミュンスターでは退却した話になっている。

また、包囲戦を同じようにしているが、オランダでの包囲戦と異なり、大砲を使用した様子が無い。

このガレン司教は実在した人物ですので、歴史上の彼はどんな方だったか大変興味を持った。

写真は大砲の玉が飛んでいる絵に描かれたガレン司教

旅行の満足度
4.5
同行者
カップル・夫婦(シニア)
交通手段
レンタカー
旅行の手配内容
個別手配
  • Christoph Bernhard von Galen クリストフ・ベルンハルト・フォン・ガレンは1606年10月12日、Westfalenヴェストファーレン地方のRinkerodeリンケローデ(現在、人口3800人の村)近くのHaus Bispingビスピング家の水城で生まれ、1678年9月19日、Ahausアハウス(現在、ミュンスターラントの西に位置するBorkenボルケン行政区に属する人口39千人の町)で亡くなっている。<br /><br />写真はガレン司教の生まれたHaus Bispingビスピング家の水城

    Christoph Bernhard von Galen クリストフ・ベルンハルト・フォン・ガレンは1606年10月12日、Westfalenヴェストファーレン地方のRinkerodeリンケローデ(現在、人口3800人の村)近くのHaus Bispingビスピング家の水城で生まれ、1678年9月19日、Ahausアハウス(現在、ミュンスターラントの西に位置するBorkenボルケン行政区に属する人口39千人の町)で亡くなっている。

    写真はガレン司教の生まれたHaus Bispingビスピング家の水城

  • カトリックの司祭であり、1650年11月14日から死去するまでミュンスターの侯爵司教でした。<br />死後、ガレン司教はミュンスターのSt. Paulus-Dom聖パウロ大聖堂のSt.Josephs-Kapelle聖ヨセフ礼拝堂(大聖堂内の縄張り図No.19)に埋葬され、見事なGrabmal墓碑を見ることができる。<br /><br />写真はミュンスターのSt.-Paulus-Dom聖パウロ大聖堂

    カトリックの司祭であり、1650年11月14日から死去するまでミュンスターの侯爵司教でした。
    死後、ガレン司教はミュンスターのSt. Paulus-Dom聖パウロ大聖堂のSt.Josephs-Kapelle聖ヨセフ礼拝堂(大聖堂内の縄張り図No.19)に埋葬され、見事なGrabmal墓碑を見ることができる。

    写真はミュンスターのSt.-Paulus-Dom聖パウロ大聖堂

  • 1928年、クリストフ・ベルンハルト・フォン・ガレンは「Emslandbuchエムスランドブーフ(エムス地方誌」の記事で、「starke Persoenlichkeit強い人格」を持った人として賞賛されている。<br /><br />写真は大聖堂内の縄張り図No.19

    1928年、クリストフ・ベルンハルト・フォン・ガレンは「Emslandbuchエムスランドブーフ(エムス地方誌」の記事で、「starke Persoenlichkeit強い人格」を持った人として賞賛されている。

    写真は大聖堂内の縄張り図No.19

  • ガレン侯爵司教はオランダ人による「西部国境、広大なMoorgebieteムーアランドへの絶え間ない嫌がらせ(厄介なこと、侵攻)」からの地域の保護者でした。<br /><br />ガレン司教はその職にある時は、世俗と宗教上の権威を持つため、無制限の支配を求める「権力の本性」をむき出しにして事に当たったが、それには当時の人々の支持もあった。<br /><br />新旧キリスト教徒の宗教戦争であった30年戦争後、「父祖伝来の地を再活性化する」という「Riesenaufgabe巨大な仕事(使命)」は、人々が戦争で「疲れ果てていた」ために、より「強い人格」を持った人物によってのみそれらは解決できると、考えられていたからであろう。<br /><br />写真はSt.-Josephs-Kapelle聖ヨセフ礼拝堂(大聖堂内の縄張り図No.19)

    ガレン侯爵司教はオランダ人による「西部国境、広大なMoorgebieteムーアランドへの絶え間ない嫌がらせ(厄介なこと、侵攻)」からの地域の保護者でした。

    ガレン司教はその職にある時は、世俗と宗教上の権威を持つため、無制限の支配を求める「権力の本性」をむき出しにして事に当たったが、それには当時の人々の支持もあった。

    新旧キリスト教徒の宗教戦争であった30年戦争後、「父祖伝来の地を再活性化する」という「Riesenaufgabe巨大な仕事(使命)」は、人々が戦争で「疲れ果てていた」ために、より「強い人格」を持った人物によってのみそれらは解決できると、考えられていたからであろう。

    写真はSt.-Josephs-Kapelle聖ヨセフ礼拝堂(大聖堂内の縄張り図No.19)

  • その辺りは、ガレン司教の数々の要塞築城や何度も行った戦いにおいて見て取れよう。人々の記憶に残る伝説にもガレン司教は登場し、オランダでの包囲戦ではガレン司教を「Kanonen-Bernd大砲ベルント」とか、 「Bommen Berendボメン・ベレンドつまり爆弾ベルンハルト」とオランダ人は呼んで恐れたと云う。<br /><br />写真はガレン司教の見事な墓碑

    その辺りは、ガレン司教の数々の要塞築城や何度も行った戦いにおいて見て取れよう。人々の記憶に残る伝説にもガレン司教は登場し、オランダでの包囲戦ではガレン司教を「Kanonen-Bernd大砲ベルント」とか、 「Bommen Berendボメン・ベレンドつまり爆弾ベルンハルト」とオランダ人は呼んで恐れたと云う。

    写真はガレン司教の見事な墓碑

  • 中世以来のミュンスターの多くの司教と同様に、ガレン司教もAhausアハウス、Horstmarホルストマール、Sassenbergザッセンベルク、Wolbeckボルベックの城を交互に居城としていましたが、ほとんどの期間はCoesfeldコーズフェルトに住んでいた。<br /><br />写真はミュンスターラント地方図とオランダ、ガレン司教の関係地(赤丸)

    中世以来のミュンスターの多くの司教と同様に、ガレン司教もAhausアハウス、Horstmarホルストマール、Sassenbergザッセンベルク、Wolbeckボルベックの城を交互に居城としていましたが、ほとんどの期間はCoesfeldコーズフェルトに住んでいた。

    写真はミュンスターラント地方図とオランダ、ガレン司教の関係地(赤丸)

  • 1652年から1656年にかけて、ガレン司教はコーズフェルトの町にSt.-Ludgerus-Burg聖ルゲルス城を築城し、要塞化を企てた。<br />彼の死後、この要塞は放棄されたと云う。<br /><br />写真はCoesfeld_mit_Zitadelleシタデル_LudgerusburgCoesfeld_mit_Zitadelle_Ludgerusburgルゲルス要塞のあるコーズフェルトの図

    1652年から1656年にかけて、ガレン司教はコーズフェルトの町にSt.-Ludgerus-Burg聖ルゲルス城を築城し、要塞化を企てた。
    彼の死後、この要塞は放棄されたと云う。

    写真はCoesfeld_mit_Zitadelleシタデル_LudgerusburgCoesfeld_mit_Zitadelle_Ludgerusburgルゲルス要塞のあるコーズフェルトの図

  • ミュンスターに中世以来司教座がおかれ、またハンザ同盟都市としても栄えた。16世紀には中世に築かれていた郭の外側に円形の城郭が構築され、要塞都市化していった。<br /><br />1533年から34年にかけて「ミュンスターの反乱」と呼ばれる急進的プロテスタント(再洗礼派)によって帝国都市の実権が奪われ、これを危機に感じた帝国諸侯との間でミュンスターの包囲戦が行われ、帝国諸侯軍が勝利した。<br /><br />写真は1534帝国諸侯軍に包囲されるミュンスター(1534年))

    ミュンスターに中世以来司教座がおかれ、またハンザ同盟都市としても栄えた。16世紀には中世に築かれていた郭の外側に円形の城郭が構築され、要塞都市化していった。

    1533年から34年にかけて「ミュンスターの反乱」と呼ばれる急進的プロテスタント(再洗礼派)によって帝国都市の実権が奪われ、これを危機に感じた帝国諸侯との間でミュンスターの包囲戦が行われ、帝国諸侯軍が勝利した。

    写真は1534帝国諸侯軍に包囲されるミュンスター(1534年))

  • この戦いの後、1535年にミュンスター司教Franz von Waldeckフランツ・フォン・ヴァルデックはミュンスターの刷新を行い、それまでの城郭に稜堡や角堡を付す形で増築した。<br /><br />この後も世俗領主化を進める司教と都市自治組織の対立が先鋭化、都市からオランダへの援軍要請の使者を捕らえたミュンスター司教クリストフ・ベルンハルト・フォン・ガレンは1657年にミュンスターの町を包囲した。<br /><br />この時はガレン司教軍が撤収したが、伝説:ミュンスターの雄鶏の狡猾さ(策略?)に負けたガレン侯爵司教(救世主となった黄金の雄鶏)・・といった事があったのかどうか?<br />ともあれガレン司教は包囲を解いた。<br /><br />1660年にミュンスターの町は再び包囲されて陥落した。ミュンスターの町の自治は奪われ司教の支配が強まっていった。<br />ガレン司教は1661~1662年にかけてミュンスター西側の城郭部分を壊し、シタデルを築城した。<br /><br />写真はガレン司教の築いたDie ehemalige Zitadelle von Muensterかつてのミュンスター要塞の図(1680年)<br /><br />七年戦争(1754年から1763年まで行われた戦争。 ハプスブルク家がオーストリア継承戦争で失ったシュレージエンをプロイセンから奪回しようとしたことが直接の原因だが、そこに1754年以来の英仏間の植民地競争が加わり世界規模の戦争となった)の時には数度に渡ってミュンスターのシタデルは包囲され、大きな被害をうけた。<br />その後、(ガレン司教の死後になる)1770年にシタデルは取り壊された。<br />

    この戦いの後、1535年にミュンスター司教Franz von Waldeckフランツ・フォン・ヴァルデックはミュンスターの刷新を行い、それまでの城郭に稜堡や角堡を付す形で増築した。

    この後も世俗領主化を進める司教と都市自治組織の対立が先鋭化、都市からオランダへの援軍要請の使者を捕らえたミュンスター司教クリストフ・ベルンハルト・フォン・ガレンは1657年にミュンスターの町を包囲した。

    この時はガレン司教軍が撤収したが、伝説:ミュンスターの雄鶏の狡猾さ(策略?)に負けたガレン侯爵司教(救世主となった黄金の雄鶏)・・といった事があったのかどうか?
    ともあれガレン司教は包囲を解いた。

    1660年にミュンスターの町は再び包囲されて陥落した。ミュンスターの町の自治は奪われ司教の支配が強まっていった。
    ガレン司教は1661~1662年にかけてミュンスター西側の城郭部分を壊し、シタデルを築城した。

    写真はガレン司教の築いたDie ehemalige Zitadelle von Muensterかつてのミュンスター要塞の図(1680年)

    七年戦争(1754年から1763年まで行われた戦争。 ハプスブルク家がオーストリア継承戦争で失ったシュレージエンをプロイセンから奪回しようとしたことが直接の原因だが、そこに1754年以来の英仏間の植民地競争が加わり世界規模の戦争となった)の時には数度に渡ってミュンスターのシタデルは包囲され、大きな被害をうけた。
    その後、(ガレン司教の死後になる)1770年にシタデルは取り壊された。

  • Christoph Bernhard von Galenガレン侯爵司教はオランダ人の侵害からの地域の保護者を自認していたから、ガレン司教の外交政策は繰り返し、彼のErbfeind不倶戴天の敵(宿敵)、つまりRepublik der Vereinigten Niederlandeオランダのカルヴィン派信徒の共和国に焦点を当てたものでした。<br /><br />ガレン司教はまた、「鎧をまとった司教」として、攻城策を迫撃砲弾による砲撃に集中したので、「Kanonen-Bernd大砲ベルント」とか、 「Bommen Berendボメン・ベレンドつまり爆弾ベルンハルト」とオランダ人は呼んで恐れたと云う。<br /><br />オランダ相手の三つの包囲戦を以下に纏めた。<br /><br />写真は1672年、仏蘭戦争の仏軍侵攻図

    Christoph Bernhard von Galenガレン侯爵司教はオランダ人の侵害からの地域の保護者を自認していたから、ガレン司教の外交政策は繰り返し、彼のErbfeind不倶戴天の敵(宿敵)、つまりRepublik der Vereinigten Niederlandeオランダのカルヴィン派信徒の共和国に焦点を当てたものでした。

    ガレン司教はまた、「鎧をまとった司教」として、攻城策を迫撃砲弾による砲撃に集中したので、「Kanonen-Bernd大砲ベルント」とか、 「Bommen Berendボメン・ベレンドつまり爆弾ベルンハルト」とオランダ人は呼んで恐れたと云う。

    オランダ相手の三つの包囲戦を以下に纏めた。

    写真は1672年、仏蘭戦争の仏軍侵攻図

  • <フルンロー包囲戦><br />オランダの東部、ドイツ国境にあるフルンロー包囲戦(オランダ語でBeleg van Groenlo)は仏蘭戦争中の1672年6月3日~9日に行われた、フランス王国、ケルン選帝侯領、ミュンスター司教領の連合軍によるネーデルラント連邦共和国の要塞都市フルンローの包囲戦である。フルンローは数日間の包囲の後、降伏した。(現在の人口1万人)<br /><br />写真は「鎧をまとった司教」ガレン司教の乗馬姿の図 (1671年)

    <フルンロー包囲戦>
    オランダの東部、ドイツ国境にあるフルンロー包囲戦(オランダ語でBeleg van Groenlo)は仏蘭戦争中の1672年6月3日~9日に行われた、フランス王国、ケルン選帝侯領、ミュンスター司教領の連合軍によるネーデルラント連邦共和国の要塞都市フルンローの包囲戦である。フルンローは数日間の包囲の後、降伏した。(現在の人口1万人)

    写真は「鎧をまとった司教」ガレン司教の乗馬姿の図 (1671年)

  • 6月3日、ガレン司教指揮のミュンスター軍はフルンローに接近、ガレン司教は臼砲(きゅうほう:曲射砲の一つ)8門を設置して砲撃を開始した。<br />砲弾合計288発が発射され、ミュンスター軍の砲撃の一弾がフルンローの弾薬庫に命中した。爆発による負傷した人はいなかったが、いずれにしても、フルンローの市民はこの砲撃で恐慌状態になった。<br /><br />さらに、フルンローの住民は多くがカトリック教徒であったので、ミュンスターを「外国」とはみなせず、プロテスタント信徒の共和国よりミュンスターの方が自分たちに近いとさえ考えた。<br /><br />6月9日、フルンローは降伏、夜には降伏の合意がなされた。フルンローの住民は引き続き宗教の自由を有し、略奪を免れたほか、フルンロー市はその権利を維持した。共和国に忠誠を誓い続けた人々は資産を売却してから去ることを許され、残りの市民はミュンスター司教領の住民となった。<br />ガレン司教は自らフルンローを統治することにした。<br />連合軍は続いてブレデフォールト包囲戦を行い、ロヘムやデーフェンテルも落とした。このようにして、共和国のRampjaarランプジャール(災難の年)と呼ばれる1672年最初の戦いが終わった。ガレン司教はフルンローが再び籠城に使われないように、要塞施設を破壊し、占領から2年後の1674年に撤退した。<br /><br />写真は要塞都市フルンローの図(1649年)

    6月3日、ガレン司教指揮のミュンスター軍はフルンローに接近、ガレン司教は臼砲(きゅうほう:曲射砲の一つ)8門を設置して砲撃を開始した。
    砲弾合計288発が発射され、ミュンスター軍の砲撃の一弾がフルンローの弾薬庫に命中した。爆発による負傷した人はいなかったが、いずれにしても、フルンローの市民はこの砲撃で恐慌状態になった。

    さらに、フルンローの住民は多くがカトリック教徒であったので、ミュンスターを「外国」とはみなせず、プロテスタント信徒の共和国よりミュンスターの方が自分たちに近いとさえ考えた。

    6月9日、フルンローは降伏、夜には降伏の合意がなされた。フルンローの住民は引き続き宗教の自由を有し、略奪を免れたほか、フルンロー市はその権利を維持した。共和国に忠誠を誓い続けた人々は資産を売却してから去ることを許され、残りの市民はミュンスター司教領の住民となった。
    ガレン司教は自らフルンローを統治することにした。
    連合軍は続いてブレデフォールト包囲戦を行い、ロヘムやデーフェンテルも落とした。このようにして、共和国のRampjaarランプジャール(災難の年)と呼ばれる1672年最初の戦いが終わった。ガレン司教はフルンローが再び籠城に使われないように、要塞施設を破壊し、占領から2年後の1674年に撤退した。

    写真は要塞都市フルンローの図(1649年)

  • <ブレデフォールト包囲戦><br />ブレデフォールト包囲戦(オランダ語Beleg van Bredevoort)は仏蘭戦争中の1672年6月12日から6月19日にかけて行われた、ミュンスター司教ガレンによるブレデフォールトの戦いである。<br />かつてブレデフォールトはドイツのBocholtボフォルトから北に12kmにある国境の要塞都市であったが、現在は人口1600人の小村になっている。<br /><br />写真は要塞Bredevoortブレデフォールト1600年の図

    <ブレデフォールト包囲戦>
    ブレデフォールト包囲戦(オランダ語Beleg van Bredevoort)は仏蘭戦争中の1672年6月12日から6月19日にかけて行われた、ミュンスター司教ガレンによるブレデフォールトの戦いである。
    かつてブレデフォールトはドイツのBocholtボフォルトから北に12kmにある国境の要塞都市であったが、現在は人口1600人の小村になっている。

    写真は要塞Bredevoortブレデフォールト1600年の図

  • 6月12日、St. Paulザンクト・パウル将軍率いるミュンスター軍は包囲を開始したが、一般的な包囲戦と違い、ブレデフォールトと外界の連絡が切断されていなかった。アルター門の方では砲台が設置され、塹壕が掘られたが、逆側のミセル門は開かれたままであり、籠城中の住民たちは自由に移動できたと云う。 <br /><br />ミュンスター軍の兵士は水浸しになっている塹壕に入り、主に臼砲(きゅうほう)による砲撃が始ったが、損害はほとんど与えられず、恐怖を与えたのみだった。砲撃による損害は「農民2人と子供1人が命を失い、女性1人が両足を失い、馬1頭が30m先に飛ばされた」という。<br />ブレデフォールトに籠る守備軍は給料もまともに支払われず、ミュンスター軍が強襲を仕掛けるという噂が流れると、その士気がさらに低下した。<br />1週間後、ブレデフォールトは栄誉をもって降伏することを許された。ミュンスターによる占領は2年間続き、1674年5月にミュンスター軍は撤退した。<br /><br />写真はオランダ・フローニンゲンGroningen地方図

    6月12日、St. Paulザンクト・パウル将軍率いるミュンスター軍は包囲を開始したが、一般的な包囲戦と違い、ブレデフォールトと外界の連絡が切断されていなかった。アルター門の方では砲台が設置され、塹壕が掘られたが、逆側のミセル門は開かれたままであり、籠城中の住民たちは自由に移動できたと云う。

    ミュンスター軍の兵士は水浸しになっている塹壕に入り、主に臼砲(きゅうほう)による砲撃が始ったが、損害はほとんど与えられず、恐怖を与えたのみだった。砲撃による損害は「農民2人と子供1人が命を失い、女性1人が両足を失い、馬1頭が30m先に飛ばされた」という。
    ブレデフォールトに籠る守備軍は給料もまともに支払われず、ミュンスター軍が強襲を仕掛けるという噂が流れると、その士気がさらに低下した。
    1週間後、ブレデフォールトは栄誉をもって降伏することを許された。ミュンスターによる占領は2年間続き、1674年5月にミュンスター軍は撤退した。

    写真はオランダ・フローニンゲンGroningen地方図

  • <Die Belagerung Groningens 1672年のフローニンゲン包囲戦><br />オランダ北部のGroningensフローニンゲンは、13世紀には既に城壁に囲まれた重要な商業都市であった。<br />現在は人口18万人を超える商工業の中心都市になっている。<br /><br />フローニンゲン包囲戦は仏蘭戦争中の1672年7月9日~8月17日にかけて行われたドイツ・ミュンスター侯爵司教によるオランダ・フローニンゲンの包囲戦である。<br />Hollaendischer Krieg仏蘭戦争(英語でFranco-Dutch War、1672年~1678年)は、17世紀に起こったフランス王国と、オランダ(ネーデルラント連邦共和国)・ハプスブルク帝国・スペイン連合軍との戦争である。<br /><br />写真は1672年、オランダ・フローニンゲンの包囲戦:この包囲戦で大敗したと云うガレン司教

    <Die Belagerung Groningens 1672年のフローニンゲン包囲戦>
    オランダ北部のGroningensフローニンゲンは、13世紀には既に城壁に囲まれた重要な商業都市であった。
    現在は人口18万人を超える商工業の中心都市になっている。

    フローニンゲン包囲戦は仏蘭戦争中の1672年7月9日~8月17日にかけて行われたドイツ・ミュンスター侯爵司教によるオランダ・フローニンゲンの包囲戦である。
    Hollaendischer Krieg仏蘭戦争(英語でFranco-Dutch War、1672年~1678年)は、17世紀に起こったフランス王国と、オランダ(ネーデルラント連邦共和国)・ハプスブルク帝国・スペイン連合軍との戦争である。

    写真は1672年、オランダ・フローニンゲンの包囲戦:この包囲戦で大敗したと云うガレン司教

  • 初めはフランス・イングランドとオランダの戦いだったが、途中からイングランドが中立となり、神聖ローマ帝国諸侯とスペインがオランダと同盟を結び参戦、フランスもスウェーデンを戦争に引き入れ、規模が拡大していった。<br />ミュンスター侯爵司教軍は仏軍側の一大勢力だった。<br /><br />フローニンゲンがミュンスター侯爵司教ベルンハルト・ガレンにより激しく砲攻撃された時、フローニンゲンの市城壁はよくその攻撃に堪えた。<br /><br />写真は1672年、オランダ・フローニンゲンの包囲戦・・・砲弾が飛ぶ

    初めはフランス・イングランドとオランダの戦いだったが、途中からイングランドが中立となり、神聖ローマ帝国諸侯とスペインがオランダと同盟を結び参戦、フランスもスウェーデンを戦争に引き入れ、規模が拡大していった。
    ミュンスター侯爵司教軍は仏軍側の一大勢力だった。

    フローニンゲンがミュンスター侯爵司教ベルンハルト・ガレンにより激しく砲攻撃された時、フローニンゲンの市城壁はよくその攻撃に堪えた。

    写真は1672年、オランダ・フローニンゲンの包囲戦・・・砲弾が飛ぶ

  • 包囲戦がオランダの勝利に終わった上、ミュンスター軍は指揮下の2万4千のうち半分が戦死するという壊滅的な損害を被ってしまった為、ミュンスター軍は弱体化して、その後数週間のうちにミュンスター軍の占領地のほとんどがオランダ軍により回復された。<br /><br />写真は1672年、オランダ・フローニンゲンの包囲戦

    包囲戦がオランダの勝利に終わった上、ミュンスター軍は指揮下の2万4千のうち半分が戦死するという壊滅的な損害を被ってしまった為、ミュンスター軍は弱体化して、その後数週間のうちにミュンスター軍の占領地のほとんどがオランダ軍により回復された。

    写真は1672年、オランダ・フローニンゲンの包囲戦

  • フローニンゲンでは毎年8月28日がRampjaar1672ランプジャール(=Katastrophenjahr大惨事の年)として認識され、包囲戦の戦勝を記念する祝日となっている。それも1700年の頃から祝われているそうだ。<br />この日は音楽と花火の盛大な祭りになると云う。<br /><br />この祭りは「Gronings Ontzet(Entsatz援軍の意がある)」または「Bommen Berendボメン・ベレンド」と呼ばれるようだ。<br /><br />・・・・・<br /><br />写真はオランダ・フローニンゲンの包囲戦の勝利Siege_of_Groningen_(1672 Ontzet)

    フローニンゲンでは毎年8月28日がRampjaar1672ランプジャール(=Katastrophenjahr大惨事の年)として認識され、包囲戦の戦勝を記念する祝日となっている。それも1700年の頃から祝われているそうだ。
    この日は音楽と花火の盛大な祭りになると云う。

    この祭りは「Gronings Ontzet(Entsatz援軍の意がある)」または「Bommen Berendボメン・ベレンド」と呼ばれるようだ。

    ・・・・・

    写真はオランダ・フローニンゲンの包囲戦の勝利Siege_of_Groningen_(1672 Ontzet)

  • 写真は1672年、オランダ・フローニンゲンの包囲戦の記念硬貨?!

    写真は1672年、オランダ・フローニンゲンの包囲戦の記念硬貨?!

  • ミュンスターのクリストフ・ベルンハルト・フォン・ガレン侯爵司教は内政的にも顕著な功績を残した。<br /><br />「魔女狩りの狂気と戦う」:<br /><br />17世紀前半、ミュンスターラントは30年戦争の混乱後により厳しくされた魔女狩りの波に支配されていた。<br />クリストフ・ベルナルト・ガレン侯爵司教の前任者Ferdinand von Bayernフェルディナンド・フォン・バイエルンはHexenprozesse魔女裁判を反改革の正当な手段(急進的プロテスタント(再洗礼派)に対する)として理解していたが、ガレン司教はWahrsagerei占いとHexenglauben魔女信仰に反対したと云う。<br /><br />彼は「鎧をまとった司教」と畏怖された話が強調されているが、一方で1658年に魔女と魔術師に対する*Wasserprobe水攻め(“水吟味”)で魔女・魔術師を判断する制度を禁止した。<br /><br />そうした*Wasserprobe水攻め(“水吟味”)については以下のような様々な絵が残る。<br /><br />写真は魔女の飛翔についてはよく知られているが、これは1451年の図、<br />魔女の祭で知られるハルツ地方、例えばゴスラーなどの土産物屋でよく見られる。

    ミュンスターのクリストフ・ベルンハルト・フォン・ガレン侯爵司教は内政的にも顕著な功績を残した。

    「魔女狩りの狂気と戦う」:

    17世紀前半、ミュンスターラントは30年戦争の混乱後により厳しくされた魔女狩りの波に支配されていた。
    クリストフ・ベルナルト・ガレン侯爵司教の前任者Ferdinand von Bayernフェルディナンド・フォン・バイエルンはHexenprozesse魔女裁判を反改革の正当な手段(急進的プロテスタント(再洗礼派)に対する)として理解していたが、ガレン司教はWahrsagerei占いとHexenglauben魔女信仰に反対したと云う。

    彼は「鎧をまとった司教」と畏怖された話が強調されているが、一方で1658年に魔女と魔術師に対する*Wasserprobe水攻め(“水吟味”)で魔女・魔術師を判断する制度を禁止した。

    そうした*Wasserprobe水攻め(“水吟味”)については以下のような様々な絵が残る。

    写真は魔女の飛翔についてはよく知られているが、これは1451年の図、
    魔女の祭で知られるハルツ地方、例えばゴスラーなどの土産物屋でよく見られる。

  • *Wasserprobe水攻め魔女狩りが行われた17、18世紀は、ミュンスターラントのレンベックの人々にも害を及ぼし、彼らを不安や恐怖に陥れたと云います。<br />それはレンベック城(2013年10月の旅で古城ホテル レンベック城に2泊し、この時に知ったのだが)の水濠の合流する場所である水車用の池で、レンベック流の「Hexenkolk魔女の水たまり」と称した恐ろしい“水吟味(魔女であることの証明)”が行なわれました。<br /><br />写真はWasserprobe水攻めの審問(“水吟味”)

    *Wasserprobe水攻め魔女狩りが行われた17、18世紀は、ミュンスターラントのレンベックの人々にも害を及ぼし、彼らを不安や恐怖に陥れたと云います。
    それはレンベック城(2013年10月の旅で古城ホテル レンベック城に2泊し、この時に知ったのだが)の水濠の合流する場所である水車用の池で、レンベック流の「Hexenkolk魔女の水たまり」と称した恐ろしい“水吟味(魔女であることの証明)”が行なわれました。

    写真はWasserprobe水攻めの審問(“水吟味”)

  • この時のGottesurteil神意裁判(神の裁き)では(17世紀の初めに行われ出したものだが)ある高齢のZauberer魔法使いを水に沈めたと云う。<br /><br />魔法使いは水に沈まず、彼は有罪(魔女である)と見なされ、レンベック城の地下牢獄・「Deifskellerダイフスケラー」の中に投獄されました。<br /><br />魔法使いはそこに、7年もの間囚われていて、衰弱して行ったとみられていたが、魔法使いはしぶとく、復讐をした。レンベック城の城主を呪い、祟り、城主の家系には相続人たる男児が長い間、生まれなかったと云う。<br /><br />写真はWasserprobe水攻めの審問(“水吟味”)_1878年の絵

    この時のGottesurteil神意裁判(神の裁き)では(17世紀の初めに行われ出したものだが)ある高齢のZauberer魔法使いを水に沈めたと云う。

    魔法使いは水に沈まず、彼は有罪(魔女である)と見なされ、レンベック城の地下牢獄・「Deifskellerダイフスケラー」の中に投獄されました。

    魔法使いはそこに、7年もの間囚われていて、衰弱して行ったとみられていたが、魔法使いはしぶとく、復讐をした。レンベック城の城主を呪い、祟り、城主の家系には相続人たる男児が長い間、生まれなかったと云う。

    写真はWasserprobe水攻めの審問(“水吟味”)_1878年の絵

  • 写真はWasserprobe水攻めの審問(“水吟味”)

    写真はWasserprobe水攻めの審問(“水吟味”)

  • 写真はWasserprobe水攻めの審問(“水吟味”)=Hexenprobe魔女の審問

    写真はWasserprobe水攻めの審問(“水吟味”)=Hexenprobe魔女の審問

  • 写真は魔女の審問:Foltermuseum_Freiburg拷問博物館のHexenwaage魔女の秤<br />(魔女は飛ぶことができるから、体重は軽いはずと言う考えがあった。水に沈まず、壁を通り抜けると云った話も・・・)<br />

    写真は魔女の審問:Foltermuseum_Freiburg拷問博物館のHexenwaage魔女の秤
    (魔女は飛ぶことができるから、体重は軽いはずと言う考えがあった。水に沈まず、壁を通り抜けると云った話も・・・)

  • 現代では魔女狩りについては、「近世の魔女迫害の主たる原動力は教会や世俗権力ではなく民衆の側にあり、15世紀から18世紀までに全ヨーロッパで推定4万人から6万人が処刑された」と考えられている。<br /><br />写真は魔女たちの火刑図<br /><br />(2019年10月21日意訳・編集・加筆)

    現代では魔女狩りについては、「近世の魔女迫害の主たる原動力は教会や世俗権力ではなく民衆の側にあり、15世紀から18世紀までに全ヨーロッパで推定4万人から6万人が処刑された」と考えられている。

    写真は魔女たちの火刑図

    (2019年10月21日意訳・編集・加筆)

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ドイツの伝説・民話その3

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