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<Hofgeismarホーフガイスマル:Die Wuerfelturm-Sageサイコロ博打の伝説><br /><br />ホーフガイスマルの市庁舎向かう通りに奇妙な銅像が立っている。<br /><br />2つの実物大のBronze-Skulpturenブロンズ彫刻はかつてホーフガイスマルが、包囲戦で攻めるLandgraf von Hessen ヘッセン方伯、Braunschweigブラウンシュヴァイク公と戦ったが、抗争した両派を表していると云う。<br /><br />伝説によると、1401年にホーフガイスマルはその存続をかけて、二つの国と争ったが、この時、ホーフガイスマルはサイコロ博打で18対17のサイコロの目で勝ったそうだ。<br /><br />写真はDie Wuerfelturm-Sageサイコロ博打の伝説を語る銅像<br /><br />

番外編:ホーフガイスマルの町を賭けたサイコロ博打の伝説

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2019/09/18 - 2019/10/03

9位(同エリア57件中)

旅行記グループ ドイツの伝説・民話その3

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jijidaruma

jijidarumaさん

<Hofgeismarホーフガイスマル:Die Wuerfelturm-Sageサイコロ博打の伝説>

ホーフガイスマルの市庁舎向かう通りに奇妙な銅像が立っている。

2つの実物大のBronze-Skulpturenブロンズ彫刻はかつてホーフガイスマルが、包囲戦で攻めるLandgraf von Hessen ヘッセン方伯、Braunschweigブラウンシュヴァイク公と戦ったが、抗争した両派を表していると云う。

伝説によると、1401年にホーフガイスマルはその存続をかけて、二つの国と争ったが、この時、ホーフガイスマルはサイコロ博打で18対17のサイコロの目で勝ったそうだ。

写真はDie Wuerfelturm-Sageサイコロ博打の伝説を語る銅像

旅行の満足度
4.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
交通手段
レンタカー
旅行の手配内容
個別手配

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  • Hofgeismarホーフガイスマルはヘッセン州カッセル郡に属す人口15千人の町である。GrebensteinグレーベンシュタインとTrendelburgトレンデルブルクとの間、Die Lempeレムペ川(距離16kmを流れる)がDie Esseエッセ川(距離27.6km)に合流する河口に面しており、Kasselカッセルの北25 km に位置している。<br /><br />写真はハン・ミュンデンから古城群を見ながらホーフガイスマルに至る図

    Hofgeismarホーフガイスマルはヘッセン州カッセル郡に属す人口15千人の町である。GrebensteinグレーベンシュタインとTrendelburgトレンデルブルクとの間、Die Lempeレムペ川(距離16kmを流れる)がDie Esseエッセ川(距離27.6km)に合流する河口に面しており、Kasselカッセルの北25 km に位置している。

    写真はハン・ミュンデンから古城群を見ながらホーフガイスマルに至る図

  • 写真はWappen von Hofgeismarホーフガイスマルの紋章:<br /> ホーフガイスマルの紋章は赤地に、銀のゴシック様式の建築構造物と、その下に銀の輪が描かれている。<br />この「マインツの輪」はこの町が1462年までマインツ大司教領に属していたことを示している。

    写真はWappen von Hofgeismarホーフガイスマルの紋章:
    ホーフガイスマルの紋章は赤地に、銀のゴシック様式の建築構造物と、その下に銀の輪が描かれている。
    この「マインツの輪」はこの町が1462年までマインツ大司教領に属していたことを示している。

  • 旧市街には14世紀に建造され、19世紀に増改築されたRathaus市庁舎がマルクト広場に立つ。その周辺に木組み建築の家が多い。<br /><br />写真はホーフガイスマルのRathaus市庁舎:マルクト広場に立つ。

    旧市街には14世紀に建造され、19世紀に増改築されたRathaus市庁舎がマルクト広場に立つ。その周辺に木組み建築の家が多い。

    写真はホーフガイスマルのRathaus市庁舎:マルクト広場に立つ。

  • Die Wuerfelturm-Sageサイコロ博打の伝説はこんな時代を反映した。<br /><br />1401年、ヘッセン方伯軍とブラウンシュヴァイク公の軍はマインツ大司教の支配下にあったホーフガイスマルを長い間包囲・攻城戦をしていた。:<br /><br />写真は伝説本の表紙

    Die Wuerfelturm-Sageサイコロ博打の伝説はこんな時代を反映した。

    1401年、ヘッセン方伯軍とブラウンシュヴァイク公の軍はマインツ大司教の支配下にあったホーフガイスマルを長い間包囲・攻城戦をしていた。:

    写真は伝説本の表紙

  • その背景には当時、Herzog Friedrich I. von Braunschweigブラウンシュヴァイク公フリードリヒ1世がFritzlarフリッツラー近くで*暗殺され、主犯とみなされていたFriedrich von Hertingshausenフリードリヒ・フォン・ヘルティングスハウゼン(ヘッセンの騎士領主)は追手に追われてホーフガイスマルに逃げこんだのでした。これを知ったLandgraf HermannⅡvon Hessenヘッセン方伯ヘルマン2世(1341年~1413年)、とブランズウィック公家の両方が彼を捕らえようとし、ホーフガイスマルの町を包囲した。<br /><br />写真はDie Wuerfelturm-Sageサイコロ博打の伝説を語る、雪の日も立つ銅像<br />

    その背景には当時、Herzog Friedrich I. von Braunschweigブラウンシュヴァイク公フリードリヒ1世がFritzlarフリッツラー近くで*暗殺され、主犯とみなされていたFriedrich von Hertingshausenフリードリヒ・フォン・ヘルティングスハウゼン(ヘッセンの騎士領主)は追手に追われてホーフガイスマルに逃げこんだのでした。これを知ったLandgraf HermannⅡvon Hessenヘッセン方伯ヘルマン2世(1341年~1413年)、とブランズウィック公家の両方が彼を捕らえようとし、ホーフガイスマルの町を包囲した。

    写真はDie Wuerfelturm-Sageサイコロ博打の伝説を語る、雪の日も立つ銅像

  • 包囲によりすぐにすべて食料の供給は遮断され、周辺の食料も包囲軍によって消費尽くされてしまった。「Schmalhans war Kuechenmeisterシュマルハンス(けちん坊の意味)はシェフだった」という慣用句が書かれていたが・・・<br /><br />直訳では何の事やら?「あそこは食べ物が貧弱である」という事が辞書にあるから、よく使われる言葉なのだろう。ともあれ、食料に欠乏していた。<br /><br />結局、彼らはホーフガイスマルをサイコロ(博打)で決めることにした。包囲軍は最初のサイコロを持ち、3つのサイコロで17 Augen=17の目を出した。サイコロの結果に、勝利を信じた町の門前の包囲軍兵士の大きな歓声が上がった。<br /><br />ホーフガイスマルの代表は心の中で「bange machen gilt nichtバンジ(不安、心配なの意味)は適用されません」と、こちらも慣用句でしょう。辞書にあります。「(兵士たちの歓声に)おどかしても怖くないぞ!」と考え、慎重に転がし、18 Augen=18の目を出した。<br />(サイコロの目と私共もよく言うが、ドイツ語もAugeアウゲ=目の意味でサイコロの目という使い方があるのは面白い)<br /><br />双方の合意通り、包囲軍は即座に包囲を解き、退去した。町は救われた。<br /><br />・・・・・<br />写真はサイコロ博打の伝説を語る銅像の説明<br />

    包囲によりすぐにすべて食料の供給は遮断され、周辺の食料も包囲軍によって消費尽くされてしまった。「Schmalhans war Kuechenmeisterシュマルハンス(けちん坊の意味)はシェフだった」という慣用句が書かれていたが・・・

    直訳では何の事やら?「あそこは食べ物が貧弱である」という事が辞書にあるから、よく使われる言葉なのだろう。ともあれ、食料に欠乏していた。

    結局、彼らはホーフガイスマルをサイコロ(博打)で決めることにした。包囲軍は最初のサイコロを持ち、3つのサイコロで17 Augen=17の目を出した。サイコロの結果に、勝利を信じた町の門前の包囲軍兵士の大きな歓声が上がった。

    ホーフガイスマルの代表は心の中で「bange machen gilt nichtバンジ(不安、心配なの意味)は適用されません」と、こちらも慣用句でしょう。辞書にあります。「(兵士たちの歓声に)おどかしても怖くないぞ!」と考え、慎重に転がし、18 Augen=18の目を出した。
    (サイコロの目と私共もよく言うが、ドイツ語もAugeアウゲ=目の意味でサイコロの目という使い方があるのは面白い)

    双方の合意通り、包囲軍は即座に包囲を解き、退去した。町は救われた。

    ・・・・・
    写真はサイコロ博打の伝説を語る銅像の説明

  • (*暗殺の背景)<br /><br />ブラウンシュヴァイク公フリードリヒ1世(1357年~1400年6月5日)はブラウンシュヴァイク・リューネブルク公爵、ヴォルフェンビュッテル侯爵(在位:1373年~1400年)でした。1400年にドイツGegenkoenig対立王(継承争いや政治上の対立のため、君臨している君主に対して自分こそが正当な君主であると宣言する王)に選出されたと云われている。<br /><br />1400年5月、フリードリヒ1世はフランクフルトの帝国会議に参加した。この会議の目的は神聖ローマ皇帝(ローマ王・ドイツ王)Wenzelヴェンツェル(1361年~1419年:怠慢王(der Faule)の渾名を持ち、暗愚な王として知られた)の廃位を議論することであった。<br />言い伝えによると、フリードリヒ1世は一部の貴族らにドイツ対立王に選出されたと云われているが、この選出について総意が得られなかったため、フリードリヒ1世は帝国議会から去ったとされる。文献による裏付けがないため、実際にフリードリヒ1世が対立王に選ばれたか否かは議論が分かれている。<br /><br />写真はホーフガイスマル:木組みの家並み(ホテルやt図書館)

    (*暗殺の背景)

    ブラウンシュヴァイク公フリードリヒ1世(1357年~1400年6月5日)はブラウンシュヴァイク・リューネブルク公爵、ヴォルフェンビュッテル侯爵(在位:1373年~1400年)でした。1400年にドイツGegenkoenig対立王(継承争いや政治上の対立のため、君臨している君主に対して自分こそが正当な君主であると宣言する王)に選出されたと云われている。

    1400年5月、フリードリヒ1世はフランクフルトの帝国会議に参加した。この会議の目的は神聖ローマ皇帝(ローマ王・ドイツ王)Wenzelヴェンツェル(1361年~1419年:怠慢王(der Faule)の渾名を持ち、暗愚な王として知られた)の廃位を議論することであった。
    言い伝えによると、フリードリヒ1世は一部の貴族らにドイツ対立王に選出されたと云われているが、この選出について総意が得られなかったため、フリードリヒ1世は帝国議会から去ったとされる。文献による裏付けがないため、実際にフリードリヒ1世が対立王に選ばれたか否かは議論が分かれている。

    写真はホーフガイスマル:木組みの家並み(ホテルやt図書館)

  • 1400年6月5日、フリードリヒ1世が帰路の途中のDorf Kleinenglisクライネングリス村( Fritzlarフリッツラーから南に数km行った所、フリードリヒ1世の「Kaiserkreuz皇帝の十字架」が立っている)で、マインツ大司教の家臣Graf Heinrich Ⅶ von Waldeckヴァルデック伯ハインリヒ7世、騎士Friedrich von Hertingshausenフリードリヒ・フォン・ヘルティングスハウゼン、騎士Konrad von Falkenbergコンラート・フォン・ファルケンベルクたちの指揮する200名の武装した兵に殺害されたことは確かである。<br /><br />この暗殺がマインツ大司教派により、ローマ王候補を除くために行われた可能性がある。<br />この暗殺は当時の関心の的となった。<br /><br />写真はホーフガイスマル:美しい木組みの家並み

    イチオシ

    1400年6月5日、フリードリヒ1世が帰路の途中のDorf Kleinenglisクライネングリス村( Fritzlarフリッツラーから南に数km行った所、フリードリヒ1世の「Kaiserkreuz皇帝の十字架」が立っている)で、マインツ大司教の家臣Graf Heinrich Ⅶ von Waldeckヴァルデック伯ハインリヒ7世、騎士Friedrich von Hertingshausenフリードリヒ・フォン・ヘルティングスハウゼン、騎士Konrad von Falkenbergコンラート・フォン・ファルケンベルクたちの指揮する200名の武装した兵に殺害されたことは確かである。

    この暗殺がマインツ大司教派により、ローマ王候補を除くために行われた可能性がある。
    この暗殺は当時の関心の的となった。

    写真はホーフガイスマル:美しい木組みの家並み

  • 1402年2月3日、神聖ローマ皇帝(ローマ王・ドイツ王)Ruprechtルプレヒト(1352年~1410年)はついに、フリッツラーのStiftskirche St. Peter聖ペテロ修道院教会に永遠の魂を持つ祭壇を寄進することを暗殺者たちに命じた。<br /><br />(1400年にヴェンツェル王が諸侯により廃された後、マインツ(大司教)選帝侯・ケルン選帝侯・トリアー選帝侯の諸侯3人の後押しでローマ王に選ばれた事もあり、ルプレヒト王も暗殺者の処遇に困り、こうした裁決をしたのだろう)<br /><br />フリッツラー近くのクライネングリスの暗殺現場には砂岩の「皇帝の十字架」が建てられた。<br />また、フリードリヒ1世の遺体はブラウンシュヴァイク大聖堂に埋葬された。<br /><br />写真はホーフガイスマル:旧市街の市庁舎と木組みの家並み

    1402年2月3日、神聖ローマ皇帝(ローマ王・ドイツ王)Ruprechtルプレヒト(1352年~1410年)はついに、フリッツラーのStiftskirche St. Peter聖ペテロ修道院教会に永遠の魂を持つ祭壇を寄進することを暗殺者たちに命じた。

    (1400年にヴェンツェル王が諸侯により廃された後、マインツ(大司教)選帝侯・ケルン選帝侯・トリアー選帝侯の諸侯3人の後押しでローマ王に選ばれた事もあり、ルプレヒト王も暗殺者の処遇に困り、こうした裁決をしたのだろう)

    フリッツラー近くのクライネングリスの暗殺現場には砂岩の「皇帝の十字架」が建てられた。
    また、フリードリヒ1世の遺体はブラウンシュヴァイク大聖堂に埋葬された。

    写真はホーフガイスマル:旧市街の市庁舎と木組みの家並み

  • 「皇帝の十字架」は高さ2.1mの砂岩で出来ている。十字架自体は縦144cm、横84cm、奥行き35cmだという。<br /><br />十字架はおそらく贖罪ではなく、記念の十字架だと云われる。ルプレヒト王の裁決は贖罪の条件として十字架の建設については言及していないからです。<br />・・・・・<br /><br />写真は「Kaiserkreuz皇帝の十字架」 <br /><br />(2019年11月30日意訳・編集・加筆)<br />

    「皇帝の十字架」は高さ2.1mの砂岩で出来ている。十字架自体は縦144cm、横84cm、奥行き35cmだという。

    十字架はおそらく贖罪ではなく、記念の十字架だと云われる。ルプレヒト王の裁決は贖罪の条件として十字架の建設については言及していないからです。
    ・・・・・

    写真は「Kaiserkreuz皇帝の十字架」 

    (2019年11月30日意訳・編集・加筆)

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