2018/12/20 - 2018/12/20
227位(同エリア2399件中)
kojikojiさん
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- 旅行記1461冊
- クチコミ1135件
- Q&A回答73件
- 2,649,979アクセス
- フォロワー147人
ベルリンの到着は夜遅かったので外出もせずおとなしくしました。翌朝は6時にモーニングコールがありましたが、その時間には朝食に出る準備はできていました。ホテルは暖房も入って快適でしたが部屋の中はやはり乾燥しているので注意しないといけません。午前8時にホテルを出発しますがベルリンの観光は2時間だけです。朝8時でどこを見学するかというと全ての場所は入場しない外観だけの観光なので心配はいりません。まずは東ドイツ側の「イースト・サイド・ギャラリー」でベルリンの壁を見ます。ずっと見たかったブレジネフとホーネッカーのキスの壁画も見ることができました。あとは博物館島で「ベルリン大聖堂」を見て、「国会議事堂」から「ブランデンブルグ門」、最後にトイレに行ってベルリン観光は終わりです。2時間のペラペラの観光だということは分かっていましたが、事前にいろいろ調べて勉強していてよかったです。そのおかげで車窓から見えるものを理解できたり、ガイドさんの説明以上にベルリンを楽しめたと思います。特に最後にトイレを借りに行っただけの「テロのトポグラフィー」はちゃんとツアーのコースに入れたほうが良いと思いました。残念なのはベルリンではクリスマスマーケットに立ち寄る時間が設定されていなかったことです。この先の都市すべてでも思いましたが、この時期のクリスマスマーケットに立ち寄ることが無かったら、本当に表面だけの観光ツアーだと思いました。ただ、ツアー代金の安さは本当にありがたいです。この時期のクリスマスマーケット巡りをうたったツアーより100,000円は安いと感じますのでお得だと思います。ツアーバスは南下してマイセンへ向かいます。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 4.5
- 交通
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 15万円 - 20万円
- 交通手段
- 鉄道 観光バス 徒歩 飛行機
- 航空会社
- ルフトハンザドイツ航空
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- 阪急交通社
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ベルリン・テーゲル空港からツアーバスに乗ってホテルへ移動します。1948年のベルリン封鎖時にわずか49日で滑走路が建設された話は有名です。西側諸国からの援助物資は西ベルリンにある空港を通じ空輸されましたが、テーゲル空港には当時ヨーロッパ最長の2400メートルの滑走路が建設され、約2年間で27万回の物資空輸が行われます。古臭い印象の空港ですが2020年にベルリン・ブランデンブルク国際空港の開港と共に役目を終えるそうです。
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この日から最終日前のブダペストのホテル到着まではこのバスのお世話になりました。ドライバーさんはスロヴァキアの方でクリスマスを挟んでご苦労なことです。34名+1名のトランクの上げ下ろしもあるので大変です。
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風邪をひいているので羽田空港で添乗員さんになるべく後ろの席にしてもらうようしてもらうようお願いしました。元々喉が弱いので風邪をひくと温度の変化や乾燥で咳が止まらなくなってしまいます。この後は他の方に迷惑なのでずっとマスクをしていました。ただオーストリアは顔を隠して車外は出歩けないので大変です。マスクをして歩いたら逮捕されるそうです。
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妻はいつでもマイペースで元気です。前の週のエジプト旅行でクフ王のピラミッドの中に入らなかった分元気なのかもしれません。
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この時点で午後8時過ぎです。ホテルまでは1時間くらいかかるので、チェックインの後にトラムで市の中心へ向かってもクリスマスマーケットは終わっているので諦めます。
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ベルリンとプラハは自力で夜間に出掛けられると踏んでいましたが、風邪ひきなので両方とも諦め、プラハではオプションの時計塔とレストランディナーまで参加することにしました。
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車窓にはクリスマスシーズンで開かれているサーカスのテントまで見えました。次に来るときはクリスマスシーズンにベルリンだけで来ても良いかなと思いました。
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この日の宿泊は「コンフォートホテル・リヒテンベルグ」という市の東側、旧東ベルリンの地区にあるボーリング場を併設したホテルです。
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ミュンヘンやケルンの郊外でも泊まったドイツの郊外によくあるタイプのホテルです。個人で予約すると1泊2食付きで5,000円くらいのホテルです。
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現代的なデザインのフロントです。カウンターの右手にスタンド型のドリンクスタンドがありビールやジュースや水が買えます。
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小さいながらロビーのようなスペースもあります。
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ここにはコーヒーと紅茶が無料で置かれています。wifiはもちろん無料で部屋でもネット検索やLINEはストレスなくサクサク作業が出来ました。
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人数が多いのでチェックンにはかなり時間がかかりました。ただ今回のツアーではパスポートの提示の必要が無かったので助かりました。
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この上掛けの畳み方がドイツらしいですね。幅の狭いシングルベットが2床置かれています。
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バスタブがあってお湯が豊富に出るので湯船にゆっくり浸かりました。飛行機での長時間の移動と風邪ひきには温かいお湯がなによりです。
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洗面台は小さいので物を置くスペースが無い以外は特に問題はありません。
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ミュンヘンに着く前に晩御飯は機内で食べていますがすでにお腹は空いています。羽田空港のコンビニで買ったおにぎりと茹で卵と缶チューハイの晩御飯です。近隣no
スーパーなどは事前に調べてありますが何もありません。 -
翌朝はモーニングコールが午前6時でした。フロントの女の子が電話してくれました。
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午前7時になって1階のレストランで朝食です。安いホテルの割にメニューは豊富で美味しかったです。
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カイザーゼンメルと穀物のついたパンを見るとドイツ語圏の国に来たと感じます。パンの上面にある模様が皇帝や王がかぶっていた王冠のようなに見える事から、この名がついています。カイザーゼンメルはオーストリアで生まれたパンですが、近隣の国ではよく見かけます。
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風邪をひいていても食欲だけはありました。これが無くなってしまうと途端に具合が悪くなります。妻は朝から絶好調です。
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添乗員さんのおかげで旅行中はずっと一番後ろの席を使えました。前の方の席は人気があるので、どなかたらもクレームが無かったと願います。午前8時にホテルを出発しましたが、人数は多いツアーでしたが出発はずっと定刻でした。
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ガラス窓に周囲の木々が写り込んでいるのかと思ったらビルに描かれたものでした。
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30分ほどでベルリン東駅に着きました。ここで市内を説明してくれる現地在住のガイドさんがバスに乗り込んできました。最初に説明されたのがこの東駅です。東西分裂の頃は東ドイツ側の中央駅で1987年に改修工事が始まりますが、壁の崩壊で工事は頓挫して完成したのは2002年だそうです。そのままバスは「イーストサイドギャラリー」に向かいます。
ベルリン東駅 駅
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1945年に降伏したドイツはアメリカを中心とする資本主義とソヴィエト連邦を中心とする共産主義との間で揺れ動き、1961年の8月13日から当時の東ドイツによって西ドイツ側を包囲する壁が建設されます。「ベルリンの壁」の誕生です。まさにその年のパリ祭の日に生まれたのでこの壁は他人とは思えません。
イーストサイドギャラリー 博物館・美術館・ギャラリー
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1989年11月10日にベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツが再統一されるまでベルリンの壁はアメリカとソヴィエト連邦の政治的な対立の場所として存在していました。この年の夏にはモスクワ経由でロンドンに入り、ミラノからマルセイユと南仏を周り、最後はパリにいたのですから、ベルリンにも行っていればよかったと思います。その当時ベルリンは旅行先とは考えていませんでした。
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現在では「ベルリンの壁」は米ソ冷戦の象徴的遺跡としての保存の声が高まり、シュプレー川沿いの約1.3キロのベルリンの壁は「イーストサイドギャラリー」として保存されています。
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イーストサイドギャラリーには「ベルリンの壁」にインスピレーションを得た24の国の芸術家118人によって壁に「壁画」が描かれています。
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上海万博文化センターも現在はメルセデスベンツ・アレーナになっていますが、本家ドイツにはたくさんあるようです。ここはO2ワールドとも呼ばれ、バスケットやアイスホッケーやコンサートに使われるそうです。
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クリスティン・フックス(Christine Fuchs )の作品。 How’s God - She’s Black
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一番有名なのはディミトリ・ヴルベル(Dmitri Vrubel)によって描かれたようにキスしているブレジネフとホーネッカーの壁画です。 1990年に最初に描かれますが、落書きされたために2009年に修復されています。
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東ドイツ建国記念式典の際に当時の東ドイツのホーネッカー首相とソビエト連邦最高指導者ブレジネフ書記長があいさつした場面を撮影した写真をそのまま模写したものです。インパクトではイーストサイドギャラリー内で最高と言ってもいいと思います。社会主義国家や共産主義国家では、あいさつするときに同性とでも口でキスを交わす習慣があったので、立場によっては普通の事だったようです。まるで彼らが恋人なんじゃないかと思うぐらいですが。
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作者であるロシアのディミトリ・ヴルベルは絵の下にこんな文章を書き足していました。Mein Gott, hilf mir, diese t? dliche Liebe zu ? berleben
「神様、この愛を乗り越えるのをお助けください」 -
ギリシャのクレタ島のイラクリオン博物館にある「ファイストスの円盤」を模したものだとはすぐに分かりましたが、壁をぶち破る円盤は何を意味するのか…。
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テオドール・チェスラフ・テジク(Theodor Cheslav Tezhik)の作品。は赤の広場のクレムリンのスパスカヤ門と聖ワシリー教会が風に吹かれて、時代の変化を表しいているようです。ちょっとシャガールっぽいですね。
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基本的に壁の崩壊から新しいものが始まるというようなものが多いです。
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旧東ベルリンのミューレン通りからシュブレー川と対岸の西ベルリンを見たところです。オーバーバウム橋を眺めていて、マット・デイモン主演の「ボーン・スプレマシー」に出ていたなと思い出しました。今回行くブダペストもエディー・マーフィーの「アイ・スパイ」で出てきたし、プラハの教会はショーン・コネリーの「リーグ・オブ・レジェンド」にも出てくるななんてマイナー映画を幾つか思い出しました。
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壁の裏側は旧西ベルリン側です。こちらから東に行く人はいないと思うので、壁にはすぐにたどり着けたようです。反対側には緩衝地帯と有刺鉄線のフェンスなどがあって壁には近づけないようになっていたそうです。
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現在では自由にどちらも歩けるし、雰囲気も全く変わりがありません。それはほんの30年前までは行き来が出来なかったのですから…。平和な時代に日本で生まれたことに感謝です。
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壁の厚さを見ると非常に薄いことに気が付きます。崩壊の瞬間をテレビで見ていましたが、ブランデンブルグ門の前の壁にはたくさんの人が乗っていたので、もっと分厚いのだと思っていました。
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悲惨な話の多いベルリンの壁ですが、東ドイツから西側へ簡単に行く方法があったそうです。65歳になると東ドイツでは年金が支給されるので、その年になると自由に西側へ行けたそうです。お金がかかるだけの年寄りを体よく追っ払ったわけです。妻はあと2年でベルリン送りです。
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シャミル・ギマジェフ(Schamil Gimajev)によるフリーダムとペレストロイカという言葉が組み込まれた非常に大きな壁画です。
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ずっと見て歩きたいところですが1.3キロは歩けませんし、自由時間は残りわずかです。
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ガブリエル・ハイムラー(Gabriel Heilmer)の作品は分かりやすいですね。軽々と壁を飛び越える男の姿です。
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トーマス・クリンゲンシュタイン(Thomas Klingenstein)の描いた壁画。妻は富士山で生まれたので記念写真を撮っておきます。
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この絵を描いたのは日本人ではないのですが、東アジアの国々の人は気に入らなかったようで、ハングルでだいぶ落書きされたそうです。日本人による落書きも古い写真から読み取れました。
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現在はどの作品にも落書きの跡は見えませんでした。
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そろそろ出発の時間です。冷えてきたのでバスに戻ります。
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通りの反対から眺めるとこんな感じです。この車道の辺りが緩衝地帯で有刺鉄線のフェンスが建っていたのだと思います。
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現在はただのカラフルな壁にしか見えません。
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こんな町中なのに巨大な煙突が立っていました。これは火力発電所の煙突ですが、この敷地の中には伝説のクラブ「Tresor」があります。若いころはおじさんもロンドンの「WAG CLUB」とかで踊っていたのですがね~。
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聖マリア教会の尖塔が見えました。ここの広場ではクリスマスマーケットが開かれていますが、午前9時では店開きもしていません。
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ベルリン名物のカリーヴルスト食べたかったな~。いつもデュッセルドルフの空港の店で食べるだけです。
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シュプレー川を渡って、中洲の博物館島に入ります。
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「ベルリンテレビ塔」は東ドイツ建国20周年を祝う記念碑として東ベルリン地区に1965年から1969年にかけて建設され、東ベルリンのシンボルとなります。ベルリンのランドマークを見ると、元々西にあったのか東にあったのかその時代背景を知ると余計興味がわいてきます。
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ムゼウムスインゼル(博物館島)でバスを降りてしばらくガイドさんの説明を聞きます。正面には「旧国立美術館」のアプスを持つローマ様式の寺院のような美しい建物が見えます。
旧ナショナルギャラリー 博物館・美術館・ギャラリー
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現在の「アルテ美術館」は1823年から1830年にかけて、カール・フリードリヒ・シンケルの設計によって建てられます。18本の柱と明確で広い柱廊がある建物のファサードは周囲の建物と対照的です。元々はフリードリヒ・ヴィルヘム3世王によって設立されたベルリン美術館の古代彫刻や絵画のコレクションを収蔵していました。
旧博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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イオニア式の柱の柱頭はウォルータと呼ばれる蝸牛のような2つの渦巻き装飾が特徴です。その連続がとても美しいファサードです。
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この一対はヘラクレスの十二の功業を題材にしたブロンズ像ということです。
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ところがヘラがアマゾネスの1人に変じて「ヘラクレスが女王を拉致しようとしている。」と煽ったため、アマゾネス達はヘラクレスを攻撃します。ヘラクレスは最初の甘言は罠であったと考え、ヒッポリュテを殺害して腰帯を持ち帰ります。
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均整の取れた美しい姿です。この中に収蔵されたものも見たいものばかりです。母が友人とドイツを旅した写真の中にはここで撮ったものがありました。
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ベルリン大聖堂はこの場所に建てられた3代目の教会です。イタリア・ネオルネッサンス様式の影響を受けた中央のドームを4つの塔が囲む建築です。高さ114メートルの大きなドームを頂く壮大で美しいプロテスタントの大聖堂です。プロテスタントの信者において、カトリックにおけるローマのサン・ピエトロ大聖堂にあたるとも例えらるそうです。
ベルリン大聖堂 寺院・教会
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1888年にヴィルヘルム2世が国王になった当時ベルリンはヨーロッパの主要な大都市へと成長していました。人口も増加して産業も発展し、街は繁栄して国王は大きな影響力を持っていました。唯一欠けていたのがその威光にふさわしい大聖堂でした。1894年の王命で以前この地にあった教会が取り壊され、ユリウス・カール・ラッシュドーフの設計で現在の大聖堂が1894年から1905年にかけて建設されます。
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建物は第2次世界大戦中の1944年の空襲で大破しますが、その後は暫定的に修復されるのみで、本格的な聖堂再建は1975年からで、最終的に修復が完結したのは2002年と最近のことです。
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ベルリン大聖堂はホーエンツォレルン家の墓所として有名で、16世紀末から20世紀初頭までの一族の棺が94も並ぶ地下墓所(クリプト)は、ヨーロッパで最も重要な墓所の1つとされています。
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ファサードの十字架の下には右手を上げるキリスト像があります。右手の人差し指と中指を伸ばしていますが、これは人差し指が Ι(ギリシャ文字のイオタ)、中指が C(同シグマ(Σ))、親指と薬指とで Χ(同キー(カイ))、小指が Cを表しており、イエス(ΙC) キリスト(ΧC)を意味します。イエス・キリストは、ギリシャ語で「ΙΗΣΟΥΣ ΧΡΙΣΤΟΣ」と書きますが、ΙC・ΧCは、それぞれの語頭・語尾による省略形です。
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その下の2人の天使の間の盾に描かれているのはAとΩで、聖書ではアルファ(Α)とオメガ(Ω)は、万物の最初と最後を意味し、永遠の存在者である神とイエス・キリストを指します。PX(パックス)は新約聖書では救い主の意味であるヘブライ語の「メシア」をギリシャ語で「ΧΡΙΣΤΟ&Sigma」(クリストス)と表現しました。教会の創立当初から、この最初の2文字を組み合わせて、キリストの名前のシンボルとして用いられています。
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そして一対のブロンズ像もギリシャ神話に題材をとったものです。ヘラクレスはアマゾネスとの戦いになると考え、テセウスらの勇士を集めて敵地に乗り込んだところ、アマゾネスの女王ヒッポリュテは強靭な肉体のヘラクレス達を見て、自分達との間に丈夫な子を作ることを条件に腰帯を渡すことを承諾します。
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大聖堂とも記念写真を撮っておきます。この15分くらいの写真タイムで7オイロ払って大聖堂を見学してきた方もいらっしゃいました。
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せめてもの記念写真です。ガイドさんも外観の説明だけでは、本領を発揮できませんね。
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ネメアの獅子は刃物を通さない強靭な皮を持っていて、矢を撃っても傷一つつきません。ヘラクレスは棍棒で殴って悶絶させて洞窟へと追い込みます。そこで洞窟の入り口を大岩で塞いで逃げられないようにし、3日間の格闘の末に絞め殺します。あらゆる武器を弾く毛皮は獅子自らの爪によって加工され、ヘラクレスはその皮を頭からかぶり鎧として用います。
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テレビ塔はベルリン市内のどこからでも見えるようです。
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5分くらい時間があったので、博物館島の中を少し歩いてみます。
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時間があればこのエリアにある3つの美術館と博物館は見たかったです。
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ギリシャ神殿のような旧国立美術館の左にあるのが「新博物館」の建物です。第2次世界大戦による損傷のため修復作業が続けられていましたが2009年から再び博物館として再会されています。ここに収蔵されているエジプト美術のコレクションは本当に見たかったです。「王妃ネフェルティティの胸像」だけでも…。これらの建物の向こうには長年のあこがれである「ペルガモン博物館」もあるのです…。
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第三帝国時代に焚書が行われた「ベーベル広場 (Bebelplatz)」です。「インディー・ジョーンズ 最後の聖戦」の焚書のシーンでヒトラーから手帳にサインをもらうシーンを思い出します。1933年に4万人以上の人がヨーゼフ・ゲッベルスの演説を聞きに集合したそうです。
ベーベル広場 広場・公園
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バスの車窓から見えた「犠牲者追悼メモリアル」です。ガイドさんちゃんと説明してください。これは壁を乗り越えようとして国境警備隊に射殺された東ベルリンの市民を追悼する白い十字架です。最後に亡くなった人は1989年2月に亡くなってます。壁の崩壊はその8か月後です。
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ウンター・デン・リンデン通りのフンボルト大学前にある立派な騎馬像が「フリードリヒ大王騎馬像」です。この通りは冬で葉は落ちていますが菩提樹の並木が美しいです。フリードリッヒ2世は啓蒙専制君主の典型といわれ、プロイセンの強大化に努めました。オーストリアのマリア・テレジアとは生涯の宿敵で、オーストリア継承戦争で矛を交えたことは有名です。4日後のウイーンでマリア・テレジア像へ良い土産話が出来ました。
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1882年のコンペで189件の応募案の中からパウル・ヴァロットの案が選ばれ1884年に最初の礎石を皇帝が置いて建設が始まります。10年の歳月をかけて1894年に完成した屋根の鉄とガラスのドームは最先端技術の粋といわれたそうです。現在の中央の巨大なガラス張りのドームは19世紀末の議事堂建設時のガラスドームの存在を意識していますがオリジナルではありません。
ドイツ連邦議会議事堂 現代・近代建築
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アドルフ・ヒトラーが1933年1月30日に首相となり、翌月27日に国会議事堂は謎の出火で炎上します。この国会議事堂放火事件をきっかけにヒトラーは老齢の大統領パウル・フォン・ヒンデンブルクに緊急大統領令を発布させ、ヴァイマル憲法によって認められた基本的人権や労働者の権利のほとんどを停止させ、共産党や社会民主党に対して激しい妨害を加えます。
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第2次世界大戦中に半ば崩れた国会議事堂は1943年のベルリン大空襲の被害を受け、1945年のベルリン市街戦では武装親衛隊の強力な抵抗拠点の1つとなっていたため赤軍の主要な攻撃目標とされて徹底的に破壊されます。テレビで何度か見ましたが国会議事堂の屋根にソ連兵がソ連国旗を掲げる写真(ライヒスタークの赤旗)は、ベルリン陥落を象徴するよく知られた1枚です。
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国会議事堂からブランデンブルグ門へバスで移動するときに「ソヴィエト戦争記念碑」が見えました。第2次世界大戦のドイツ降伏直前にベルリンに行軍したソ連赤軍を追悼するために建てられた記念碑です。
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記念碑の近くには本物の T-34 型戦車が2台置かれています。ベルリン占領時に最初にベルリンに入った戦車だと言われています。時代は下がりますがベトナム戦争でサイゴンが陥落した時の戦車を見たのを思い出します。
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6月17日通りでバスを降りてブランデンブルグ門に向かいます。道路標識の上にワインのコルクとシャンパンのコルク栓で造った人形が置かれてありました。胸にはクラースナヤ・ズヴェズダー(赤い星)が貼られて旗を振っています。
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ドイツの信号機で使われている「アンペルマン」です。信号機を意味するアンペルから名付けられたちょっと太めの男性です。帽子をかぶり今にも歩き出しそうにつま先をあげる緑の「進め」と、思い切り両手を広げた赤の「止まれ」があります。
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アンペルマンが生まれたのは1961年にさかのぼり、旧東ドイツの交通局に勤めていた交通心理学者カール・ペグラウがデザインして生まれました。
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信号の写真を撮っていたら妻に置いて行かれました。
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ブランデンブルグ門の間からもテレビ塔が望めます。東ドイツの国威を表した姿です。
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同じポーズで横断歩道を渡ります。今回の旅ではレーゲンスベルグのフートケーニッヒで買った帽子を持ってこなかったのが残念です。ジョニー・デップの「アリス・イン・ワンダーランド」のマッド・ハッターの帽子を造った老舗帽子店です。
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西ドイツ側から東ドイツ側に門をくぐります。
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実際にベルリンの壁の崩壊をテレビではありますが、オンタイムで見た世代なのでここを通り抜けるのは感無量です。
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東ドイツ側のホテルの「アドロン・ケンピンスキー」がお出迎えです。 1907年に営業開始したこの名門ホテルは100年以上の歴史と伝統を誇るベルリンの高級ホテルです。映画「グランド・ホテル」のモデルにもなったホテルでもあります。5人の宿泊客は人気が落ちて無気力なロシア人バレリーナ、賭博で地位も名誉も失ってホテルで盗みを働く男爵、事業が危機に瀕した実業家、彼の速記秘書として雇われた実利的な女性、 不治の病に侵されて残り少ない人生を贅沢に謳歌しようとする老人。 彼らはホテルでの1日の滞在の間に互いに交流を深めながら人生の交錯を繰り広げるというストーリーです。 ベルリンの高級ホテルを舞台に1930年代のグレタ・ガルボ、ジョン・バリモア、ジョーン・クロフォード、ウォーレス・ビアリー、ライオネル・バリモアのスター俳優たちが競演しています。
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近年では2002年11月にマイケル・ジャクソンがベランダから娘を落としそうになって世界中に映像が流されたホテルでもあります。
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ベルリンから各地に向かう街道と壁が交差するところには14か所(のちに18か所)の関税門が設けられ、ベルリンを出入りする物資に関税を課していました。ブランデンブルク門も関税門のひとつであったそうです。
ブランデンブルク門 建造物
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ブランデンブルク門はフリードリヒ・ヴィルヘルム2世の命により建築家カール・ゴットハルト・ラングハンスによって古代ギリシャ風で設計され、1788年から3年間の建設工事を経て1791年に竣工しています。門はアテネのアクロポリスの入り口にあったプロピュライアの門を模しており、当時ドーリア式円柱だけが残っていたプロピュライアの創建時の姿を想像してそのままベルリンに再現したと言われます。
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門の上には有名なクアドリガ(4頭立てのチャリオット)が置かれてあります。1793年にヨハン・ゴットフリート・シャドウが平和の象徴として設計したもので、ヴィクトリアがオリーブのリースを掲げています。1806年にナポレオンがベルリンを占領した際にパリに持ち去りますが、1814年に陸軍元帥ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘルが取り返してベルリンに戻します。後にオリーブのリースが鉄十字に置き換えられます。第2次世界大戦時にひどい損傷を受け、プロイセンの軍国主義を象徴する鉄十字が問題となり、東ドイツのドイツ社会主義統一党はその部分を取り除くことを決定します。鉄十字が戻ったのは1990年のドイツ再統一の後だったそうです。
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第2次世界大戦後は東ベルリンと西ベルリンとの境界線が門のすぐ西側に引かれ、門は東ベルリン側になります。1961年8月13日に東ドイツが国民流出を防ぐために西ベルリンとの境界線を封鎖し「ベルリンの壁」と呼ばれる壁を建設すると、門の前を壁が横切る形となったため、門は東ベルリン西端の行き止まりとなり通行できなくなります。壁の崩壊の映像はこの門の前で行われたことを思い出します。
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ヴィクトリアの持つ杖の先は再び鉄十字に戻り、門は2000年12月から巨額の資金をかけて清掃と改修工事が行われたそうです。
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ポーズを取って記念写真。
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2019年の年賀状には間に合わないので、翌年の年賀状写真候補にします。
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ブランデンブルグ門から続く6月17日通りの突き当りには「戦勝記念塔」ジーケスゾイレが見えます。この塔はデンマーク戦争での勝利を記念して建てられた高さ67メートルの石造の塔で、塔の頂上に金色の勝利の女神ヴィクトリアが立っています。 この像は1987年公開のヴィム・ヴェンダース監督の「ベルリン・天使の詩」で初めて知りました。ヴェンダース監督はベルリンの街をロケハンするうちに、街のあちこちに天使の意匠があることを発見し、好きだった画家のパウル・クレーの天使のイメージと重なって、天使を主人公とした映画というアイデアに結びついたそうです。ドイツ語の美しさを引き出すために脚本は書かれず、詩人のペーター・ハントケによって書かれた詩の断片を集め、それをつなぎ合わせることで撮影が進められます。 写真はブランデンブルグ門からバスに戻る途中に、望遠レンズでめいっぱいで撮ったものです。ここは予定表には載っていないのでこれ以上近寄ることは出来ません。
ジーゲスゾイレ (戦勝記念塔) モニュメント・記念碑
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「Der Rufer」ゲルハルト・マルクス(Gerhard Marcks)の作品はブランデンブルグ門に向かって叫んでいます。
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何気なくバスに乗って道路を走っていてもあちこちに壁の跡を見つけることができます。大抵は2列になったレンガが埋められています。
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「ホロコースト記念碑」は2005年にブランデンブルク門の南に開設されたホロコーストで殺されたユダヤ人犠牲者のための記念碑です。19,073平米の広大な敷地にグリッド状に並ぶコンクリート製の石碑が2,711基が一般公開されています。
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厚さ95センチで幅238センチのコンクリートブロックが、多様な高さで置かれています。設計したのはニューヨーク在住のピーター・アイゼンマンで、地下にはホロコーストに関する情報センターがあり、イスラエルの記念館ヤド・ヴァシェムが提供したホロコースト犠牲者の氏名や資料などが展示されているそうです。
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庭先に立体のアンペルマンが走っていました。
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ソニーセンターは中心部ミッテ区のポツダム広場にある複合商業施設です。ソニーのヨーロッパ拠点としてソニーやダイムラーの出資により2000年に完成したヘルムート・ヤーンの設計した建物です。この広場にもベルリンの壁が記憶されています。
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ニーダーキルヒュナー通りでバスを降りてトイレ休憩です。とうとう東西を股にかける女になりました。この通りにも壁の跡が残されています。
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右側の建物は「マーティン・グロピウス博物館」です。もともと芸術工芸博物館として1881年に建てられたマーティン・グロピウスの設計した建物です。名前の通りバウハウス運動の創始者ヴァルター・グロピウスの縁故者で、彼の叔父にあたる人物です。
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博物館の前はベルリン市議会及びベルリン州下院議会の建物です。二ーダーキルヒナー通りに面し、テロのトポグラフィーの斜め前にも位置します。現在はベルリン市議会とベルリン州議会の下院議会の建物として使用されていますが、実はこの建物はナチス党本部の建物でした。そのためにこの建物の斜め前にはゲシュタポとナチス親衛隊の国家保安本部(現在テロのトポグラフィー)が置かれていました。
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壁の跡の途中途中にプレートが埋め込まれています。
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ニーダーキルヒナー通り沿いの壁の跡をそのまま進むと、ベルリンの壁の一部が200メートルほど当時のまま残されています。ここもドキュメントセンターの一部として見学することができます。
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先ほどのイースト・サイド・ギャラリーの観光地化されたベルリンの壁とは違った印象を受けます。壁の上に手を掛け難くするための土管のようなカバーの形状も分かりやすいです。
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「テロのトポグラフィー(Topographie des Terror)」と呼ばれ、かつてのナチス政権下の重要な機関の本部が集中するまさに恐怖政治の発信源でした。その跡地はナチス時代の記録を展示したドキュメントセンターとして無料で一般公開されています。何故ここに来たかというと地下のトイレが無料で使えるからです。ここもちゃんとツアーの予定表に入れたほうが良いと思いました。
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長い間空き地のままだった敷地は使い道について議論が交わされていました。ドイツ統一後は歴史の記憶を再確認する声が高まったことにより、ナチス政権の非行の数々の記録をきちんと後世に残し、歴史を繰り返さないためにこのドキュメントセンターが新たに跡地に建設されます。
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展示室には、主に写真や書類等の記録物が展示されており、ナチス政権がどのようにして発展していったのか、時系列で歴史を辿れるようになっています。いかにして恐怖政治のプロパガンダが国に浸透していき、結果として多くの人々が迫害されることになったのか知ることができます。TIME誌の表紙を飾るハインリッヒ・ヒムラーとラインハルト・ハイドリヒ。この未曾有の大虐殺の首謀者です。
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美しくカラフルな壁面のパネルですが、国民の情報をナチスに流してユダヤ人と知らしめたりした職員についての展示です。壁から浮いているパネルがその人物についての情報です。
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1945年に廃墟と化したベルリンの写真で展示は終わります。
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「ゲシュタポ」という活字にドキッとします。
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1936年6月17日にベルリンでヒトラーと握手するSS(ナチス親衛隊)のハインリッヒ・ヒムラーの写真です。
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実際の跡地はあえて空き地のままにして、新たな建物は訪れた人々に余計な印象を与えないようシンプルで、出来るだけ歴史に干渉しないデザインだと感じます。建物の位置も通りから斜めになるよう配置されています。建物の内部もシンプルで外壁は全てガラス張りです。
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ドキュメントセンターの建築デザインのコンセプトは「開かれた傷口」で、跡地にきらびやかな建物を建てて歴史の傷口を塞いでしまうより、歴史そのものに目を向けてもらおうという思いが感じられます。
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ルネッサンス様式の美しい建物ですが、1945年の大爆撃の後は建物は廃墟のままにされました。 1966年に歴史的建造物として分類されますが、修復は1970年代後半まで始まらなかったそうです。
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日本では戦前から戦中の姿をありのままに伝え、後世に伝えるような施設がほとんど無く、我々は過去から学ぶことができるのだろうかと疑問を持つことがあります。
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特に海外を旅していてテレビで見たナショナル・ジオグラフィックの太平洋戦争の番組では日本では見たこともない映像や写真が出てきたり、旧満州を旅しているときに行った博物館では当時の日本のプロパガンダのポスターや移民団の残した村の看板や生活の痕跡を見ると、日本では見ることのないものばかりだと感じます。
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ニーダーキルヒナー通りのこの場所には、当時ナチスのゲシュタポ(秘密国家警察)とSS(ナチス親衛隊)とSD(親衛隊情報部)の本部がありました。かつての建物は敗戦後に取り壊されてしまい今では残っていませんが、東西ドイツ統一後に跡地の発掘調査が行われた際に発見された、ゲシュタポ本部の地下牢の一部が屋外展示場として利用され見学できるようになっています。写真の左側のレンガの遺跡のような部分です。
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現在はクリスマスツリーも置かれ、そんな歴史は感じられません。今回の旅では2時間程度のバスで通過するだけのベルリン観光でしたが、事前にいろいろなことを調べておきました。そのおかげでガイドさんの説明と合わせて、いろいろなことが理解できました。
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結局ベルリンではクリスマスマーケットに接することはありませんでした。
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係留気球がありました。これはベルリンのシンボルで毎日多くの観光客に利用されているようで、早朝から空中を浮遊している姿が見えました。地上500フィート、150メートルくらいまで上昇するようです。ここを1ブロック進めばチェック・ポイント・チャーリーですが、無情にもバスはここを右折します。
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ベルリン市内を抜けてマイセン経由でドレスデンまで移動します。車窓からは巨大な風車がたくさん見えました。ドイツでは再生可能エネルギーによる発電が推進され、全発電量に占める割合が急速に上昇しています。2020年には原子力発電所はすべて閉鎖されるそうです。日本の政策はこのままでよいのかと考えることの1つです。
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ヨーロッパでは冬になるとヤドリギが目立ちます。ヤドリギの話はヨーロッパ各地に残り、ケルトの儀式や北欧の神話、キリストの十字架もヤドリギだったが、材料にされたことを恥じて小さな木になったとか。恋人同士がヤドリギの下でキスをすると結婚の約束を交わしたことになるそうです。
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この4年間はずっとこの季節にクリスマスマーケット巡りに来ています。青々とした草が残り、ずっと暖冬のような気がします。
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マイセンまでの間にドライブインでトイレ休憩がありました。ドイツの場合トイレは有料でだいたい0.5オイロでした。
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寒々しい風景ではありますが、日本では見ることのできない美しさを感じます。
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どこを切り取っても絵になります。
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いつまで見ていても飽きることがありません。
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ザグレブの美術館で見たナイーブアートのガラス絵を思い出します。そろそろお腹が減ってきたのでマイセンに到着するはずです。
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2018 ドイツと中欧のクリスマスマーケット周遊の旅
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この旅行記へのコメント (7)
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- 78129さん 2020/03/07 16:56:32
- 夢のあるヨーロッパ旅行!!
- 私は、60歳代の年寄り女性ですが、一人ツアー参加で7年位前から健康寿命があるうちに海外旅行をしようと毎年1回出かけてます。k0jikojiさんの旅行記は、行先の細かな情報ばかりでなく、ツアー会社や費用についても記載があるので、次に行く旅行の情報源として大変参考になります。様々な国の旅行記を拝見させていただいてます。ほんと、助かります。
- kojikojiさん からの返信 2020/03/07 23:23:16
- Re: 夢のあるヨーロッパ旅行!!
- 旅行記にお立ち寄りいただきありがとうございます。我が家も健康寿命のあるうちにと思い、時間を作っては夫婦で海外旅行をメインに楽しんでいます。若いころは個人旅行を一人で楽しんでいましたが、結婚してからは2人旅が楽しく思え、ここにきては妻も60代半ばを過ぎ、私も還暦を目の前にしてここ数年は旅行会社のツアーを積極的に利用しています。ツアーを選ぶ方法として同じようなツアーに参加された方の旅行記を検索しているうちに、意外に知りたいことが書かれていないことに気が付きました。同じようなツアーは今後もあるので、次に参加される方の参考になればいいなと思って詳しくコメントを入れるようにしています。ただ、まだ個人旅行でも旅をしたい気持ちはあるので自由時間や夜間はどうしてもプラスアルファで出歩いてしまいます。まあこれが楽しいのですが。
いろいろ情報を入れようとすると旅行記が長くなってしまい、作るのも大変なのですが(さらにあまり人気が無いので)、こうやってお便りいただけると次も頑張ろうと思えます。来月は新たにANAが就航するウラジオストク、GWは阪急交通社のイギリスツアーを申し込んでいるのですが、昨今のコロナの件でどうなるかとモヤモヤしています。またお時間がありましたら旅行記にお立ち寄りください。ありがとうございました。
- 78129さん からの返信 2020/03/08 13:02:43
- Re: 夢のあるヨーロッパ旅行!!
- お忙しい中、返信ありがとうございます。投稿にぜひ追記したく再度投稿させていただきます。今はツアーで出かけていますが、回数を重ねるごと、海外への一人旅も慣れてきて、ツアーの自由時間を利用して、ひとりで公共交通機関を利用して好きな所へ出向きます。時間を自由に使え、ツアーと違う満足度があります。できれば、延泊や全くの個人旅行も挑戦したいですが、一人旅ですので、まだ、勇気が出ません。kojokojoさんのツアーとは違う自分たちだけの自由行動(ツアーに組み込まれていない所への観光、食事等)の記載もまた勉強になります。読んでいると、「やはり、ツアー以外の旅行は充実しているな」と旅行記から感じます。細かな旅行記の記載は、大変だと思いますが、非常に参考になり、これからも勝手ながら楽しみにしてます。
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- チェロ爺さん 2019/01/27 11:50:07
- 懐かしいベルリン!
- 私達夫婦はベルリンが好きで過去に5回訪問しています。直近は2014年です。ベルリンの壁の絵も上書きされている様でキッスの絵以外は初めてのものばかりです。家族全員(6名)で行った時はその方が安くつくのでテレビ塔から近くのアパトメントを10日間借りてそこを拠点にプラハにも行きました。ベルリンは見るところが多いので是非再度訪問ください。ブランデンブルグ空港は本当に2020年に開港するかベルリンの人も疑っている様です。私はテーゲル空港の方が狭くて迷子にならず市内に近いので好きです。
- kojikojiさん からの返信 2019/01/27 14:25:12
- Re: 懐かしいベルリン!
- チェロ爺さん
5回もベルリンへ行かれているとは羨ましい限りです。我が家は昨年末に初めて行きました。若いころから気になっていた都市ではあるのですが、なかなか機会がありませんでした。今回はクリスマスマーケット巡りのツアーではないのですが、コースが面白そうだったので選んだのですが、2時間のベルリン観光はどうなのだろうと思っていました。ただ、うわべだけでも街の雰囲気は感じられ、絶対に再訪しないといけないと感じたので新たな計画を立てて、個人で行こうと思っております。これからドレスデンからプラハへと旅行記が続いて行きますので、お時間がありましたらまたお立ち寄りください。ありがとうございます。
KojiKoji
- チェロ爺さん からの返信 2019/01/27 19:00:31
- Re: 懐かしいベルリン!
- 丁寧な返信ありがとう御座います。懐かしいベルリンの風物に夫々丁寧な解説に感心しています。私はいつも1月後半の寒い最中の個人旅行で、孫達を連れて行った時だけ10月でした。クリスマスマーケットに行った事が無いので1度行ってみたいと思っていますが、果たして行けるかどうか?
- kojikojiさん からの返信 2019/01/27 20:13:00
- Re: 懐かしいベルリン!
- チェロ爺さん
個人旅行も楽しいのですが、割り切ってしまえばツアーに参加してしまうのも便利でらくちんなので利用しています。特にクリスマスツアーはそこに特化してしまえばこれほど便利なものは無いと思っています。どうしてもクリスマスの飾りや人形やお菓子など荷物が増えてしまいますから。ミュンヘンをベースにニュルンベルグやレーゲンスベルグなど日帰りで行けるのでお勧めですよ。
あまりに楽しいので毎年行き先を買えてツアーを探しています。
KojiKoji
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