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道東の名所とチャシ跡巡りです。納沙布岬の見学を終えて、次にやって来たのは根室市資料館です。縄文土器や擦文土器、石器類の出土品のほか、根室市の自然も紹介されていました。

2018秋、道東の名所(17/21):9月29日(5):根室市資料館(1):樺太日露国境石標

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2018/09/27 - 2018/09/29

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旅行記グループ 2018秋、道東のチャシ跡巡り

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旅人のくまさん

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道東の名所とチャシ跡巡りです。納沙布岬の見学を終えて、次にやって来たのは根室市資料館です。縄文土器や擦文土器、石器類の出土品のほか、根室市の自然も紹介されていました。

交通手段
観光バス ANAグループ

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  • 根室駅の駅舎光景です。根室市光和町にある北海道旅客鉄道(JR北海道)根室本線(花咲線)の終着駅です。駅名は、アイヌ語の『メム・オロ・ペッ(わきつぼがそこにある川)』に由来する説や、『ニムオロ』説もあります。アイヌ語で『樹木の生い茂るところ』という意味です。

    根室駅の駅舎光景です。根室市光和町にある北海道旅客鉄道(JR北海道)根室本線(花咲線)の終着駅です。駅名は、アイヌ語の『メム・オロ・ペッ(わきつぼがそこにある川)』に由来する説や、『ニムオロ』説もあります。アイヌ語で『樹木の生い茂るところ』という意味です。

  • 同じく、根室駅とその周りの光景です。単式ホーム1面1線を持つプレハブ構造の地上駅です。ホームの北側に接して平屋の駅舎があります。

    同じく、根室駅とその周りの光景です。単式ホーム1面1線を持つプレハブ構造の地上駅です。ホームの北側に接して平屋の駅舎があります。

  • 根室駅前にあった観光案内所です。現地説明のガイドさんは、この建物に詰められていました。正式名は、『根室市観光インフォメーションセンター』で、入居者は、根室市観光協会(観光案内業務ほか)、根室交通(旅行手配、バス発券業務ほか)、お土産店(土産品販売)と喫茶店です。

    根室駅前にあった観光案内所です。現地説明のガイドさんは、この建物に詰められていました。正式名は、『根室市観光インフォメーションセンター』で、入居者は、根室市観光協会(観光案内業務ほか)、根室交通(旅行手配、バス発券業務ほか)、お土産店(土産品販売)と喫茶店です。

  • 根室駅前を観光バスで出発し、根室市資料館に到着しました。正式名称は、『根室市歴史と自然の資料館』です。根室市内遺跡から出土した考古資料、ロシア初の遣日使節であるラクスマンの根室来航に関する資料、樺太に設置されていた国境標石などの歴史資料のほか、シマフクロウ、ラッコ等、この地域を特徴づける自然資料も展示しています。

    根室駅前を観光バスで出発し、根室市資料館に到着しました。正式名称は、『根室市歴史と自然の資料館』です。根室市内遺跡から出土した考古資料、ロシア初の遣日使節であるラクスマンの根室来航に関する資料、樺太に設置されていた国境標石などの歴史資料のほか、シマフクロウ、ラッコ等、この地域を特徴づける自然資料も展示しています。

  • 写真撮影が許可されていた、展示品の写真紹介です。この展示品には、『1号墓出土遺物』の表示がありました。手前の列が左から『槍先型石器』、『有茎石鏃』、『黒曜石棒状原石』、奥の展示品が『石製玉』でした。初田牛20遺跡出土の縄文時代後期後半の遺物です。

    写真撮影が許可されていた、展示品の写真紹介です。この展示品には、『1号墓出土遺物』の表示がありました。手前の列が左から『槍先型石器』、『有茎石鏃』、『黒曜石棒状原石』、奥の展示品が『石製玉』でした。初田牛20遺跡出土の縄文時代後期後半の遺物です。

  • 初田牛20遺跡・2号墓出土遺物<br />縄文時代後期後半<br /> (約3000~3500年前)<br />屋の列が、土製耳飾や漆塗櫛、手前の列が磨製石斧や黒曜石の有茎石鏃や原石などです。<br />

    初田牛20遺跡・2号墓出土遺物
    縄文時代後期後半
    (約3000~3500年前)
    屋の列が、土製耳飾や漆塗櫛、手前の列が磨製石斧や黒曜石の有茎石鏃や原石などです。

  • 『土偶』<br />初田牛20遺跡出土<br />北海道指定有形文化財<br />縄文時代後期後半<br />(約3000~3500年前)<br />全長18.2センチ、全体を赤色顔料(ベンガラ)で塗っています。首をすくめ、左右の手を少し両側にそらしたかのようなポーズです。<br />

    イチオシ

    『土偶』
    初田牛20遺跡出土
    北海道指定有形文化財
    縄文時代後期後半
    (約3000~3500年前)
    全長18.2センチ、全体を赤色顔料(ベンガラ)で塗っています。首をすくめ、左右の手を少し両側にそらしたかのようなポーズです。

  • 手前の列は、左が『掘り具』が3種、右が『骨鏃(こつぞく)』が4種で、いずれも弁天島遺跡出土品です。奥の列が、左が弁天島遺跡出土の『銛先』が4種、右が3種の釣針です。こちらは、弁天島遺跡と温根元遺跡出土品です。

    手前の列は、左が『掘り具』が3種、右が『骨鏃(こつぞく)』が4種で、いずれも弁天島遺跡出土品です。奥の列が、左が弁天島遺跡出土の『銛先』が4種、右が3種の釣針です。こちらは、弁天島遺跡と温根元遺跡出土品です。

  • 縦三段に展示された、最上段が温根元遺跡出土の『牙製夫人像(複製)』、中段がトーサムポロ湖周辺竪穴群出土の『円盤状歯牙製品』、最下段が弁天島遺跡出土の『針入(複製)』です。オホーツク人の捕鯨の様子が線刻されています。

    縦三段に展示された、最上段が温根元遺跡出土の『牙製夫人像(複製)』、中段がトーサムポロ湖周辺竪穴群出土の『円盤状歯牙製品』、最下段が弁天島遺跡出土の『針入(複製)』です。オホーツク人の捕鯨の様子が線刻されています。

  • 左半分は、先ほど紹介したものです。右側の列は、上がトーサムポロ湖周辺竪穴群出土の『石錘(せきすい)』、下が温根元出土の『石錘(せきすい)』です。こちらには、オヒョーとみられる魚の浮彫があります。

    左半分は、先ほど紹介したものです。右側の列は、上がトーサムポロ湖周辺竪穴群出土の『石錘(せきすい)』、下が温根元出土の『石錘(せきすい)』です。こちらには、オヒョーとみられる魚の浮彫があります。

  • 貝塚のレプリカ展示です。最下層に摩周火山灰層(約6500~7000年前)が表示され、買いが堆積した部分井は、アサリ、ウバガイやオオノガイが表示されていました。

    イチオシ

    貝塚のレプリカ展示です。最下層に摩周火山灰層(約6500~7000年前)が表示され、買いが堆積した部分井は、アサリ、ウバガイやオオノガイが表示されていました。

  • 7点の擦文土器の展示光景です。擦文土器は、北海道,東北地方北部に分布する鉄器時代土器で、器面全体に擦痕文がみられるので、この名があります。擦文時代(さつもんじだい)は、7世紀ごろから13世紀(飛鳥時代から鎌倉時代後半)にかけて、北海道を中心とする地域で擦文文化が栄えた時期を指します。

    7点の擦文土器の展示光景です。擦文土器は、北海道,東北地方北部に分布する鉄器時代土器で、器面全体に擦痕文がみられるので、この名があります。擦文時代(さつもんじだい)は、7世紀ごろから13世紀(飛鳥時代から鎌倉時代後半)にかけて、北海道を中心とする地域で擦文文化が栄えた時期を指します。

  • 壁に展示された土器類の右下に展示してあったパネル写真のズームアップ光景です。擦文土器などの遺物の発掘調査状況のようです。

    壁に展示された土器類の右下に展示してあったパネル写真のズームアップ光景です。擦文土器などの遺物の発掘調査状況のようです。

  • 9世紀(平安時代前期)までは擦文文化と並行して、これとは異質なオホーツク文化が北海道北部から東部のオホーツク海沿岸に広がっていました。その後13世紀(鎌倉時代後期)まではその系譜を継ぐトビニタイ文化が北海道東部にあって、擦文文化と隣り合っていました。トビニタイ文化は、オホーツク文化に擦文文化が取り入れられたものですが、後期には擦文文化との違いが小さくなりました。このため、トビニタイ文化を擦文文化に含める考えもあります。写真は、トーサムポロ湖周辺竪穴群出土のオホーツク式土器です。オホーツク文化は、3世紀から13世紀までオホーツク海沿岸を中心とする北海道北海岸、樺太、南千島の沿海部に栄えた古代文化です。

    9世紀(平安時代前期)までは擦文文化と並行して、これとは異質なオホーツク文化が北海道北部から東部のオホーツク海沿岸に広がっていました。その後13世紀(鎌倉時代後期)まではその系譜を継ぐトビニタイ文化が北海道東部にあって、擦文文化と隣り合っていました。トビニタイ文化は、オホーツク文化に擦文文化が取り入れられたものですが、後期には擦文文化との違いが小さくなりました。このため、トビニタイ文化を擦文文化に含める考えもあります。写真は、トーサムポロ湖周辺竪穴群出土のオホーツク式土器です。オホーツク文化は、3世紀から13世紀までオホーツク海沿岸を中心とする北海道北海岸、樺太、南千島の沿海部に栄えた古代文化です。

  • 『オホーツク式土器』<br />(3~13世紀)<br />トーサムポロ湖周辺竪穴群出土<br /><br />3点のオホーツク文化時代の土器の展示です。いずれも、トーサムポロ湖周辺竪穴群出土の土器です。<br />

    『オホーツク式土器』
    (3~13世紀)
    トーサムポロ湖周辺竪穴群出土

    3点のオホーツク文化時代の土器の展示です。いずれも、トーサムポロ湖周辺竪穴群出土の土器です。

  • 上段:『オホーツク式土器:2個』<br />(3~13世紀)<br />トーサムポロ湖周辺竪穴群出土<br /><br />下段:『擦文土器』<br />擦文時代前期<br />トーサムポロ湖周辺竪穴群出土<br />深鉢型の土器で、表面には刻み目による文様があります。

    上段:『オホーツク式土器:2個』
    (3~13世紀)
    トーサムポロ湖周辺竪穴群出土

    下段:『擦文土器』
    擦文時代前期
    トーサムポロ湖周辺竪穴群出土
    深鉢型の土器で、表面には刻み目による文様があります。

  • 左側は、3種類の木製品の展示です。<br />穂香竪穴群出土<br />擦文時代後期<br /><br />右側は、はずみ車として使用されたらしい『紡錘車』です。<br />関江谷1竪穴群出土<br />擦文時代後期<br />

    左側は、3種類の木製品の展示です。
    穂香竪穴群出土
    擦文時代後期

    右側は、はずみ車として使用されたらしい『紡錘車』です。
    関江谷1竪穴群出土
    擦文時代後期

  • 『樺太日露国境第二天測境界標』のタイトルがあった説明パネルの光景です。この標石の2号は、最初にポロナイ川上流に設置されました。日本としては、最初で最後の国境標石です。この地図上に、東端の1号から西端の4号標石までの位置が記されていました。

    『樺太日露国境第二天測境界標』のタイトルがあった説明パネルの光景です。この標石の2号は、最初にポロナイ川上流に設置されました。日本としては、最初で最後の国境標石です。この地図上に、東端の1号から西端の4号標石までの位置が記されていました。

  • 『樺太日露国境標石』のタイトルがあった説明パネルの光景です。日露戦争(1904~1905年)の終結後、ポーツマス講和条約が締結され、南樺太が日本に割譲されました。その時に北緯50度線に措かれた標石の内の一つです。ポーツマス(講和)条約は、アメリカ合衆国大統領ルーズベルトの斡旋により、1905年(明治38年)9月4日(日本時間では9月5日)、アメリカ東部の港湾都市ポーツマス近郊のポーツマス海軍造船所において、日本全権小村寿太郎(外務大臣)とロシア帝国全権セルゲイ・Y・ウィッテの間で調印されました。

    『樺太日露国境標石』のタイトルがあった説明パネルの光景です。日露戦争(1904~1905年)の終結後、ポーツマス講和条約が締結され、南樺太が日本に割譲されました。その時に北緯50度線に措かれた標石の内の一つです。ポーツマス(講和)条約は、アメリカ合衆国大統領ルーズベルトの斡旋により、1905年(明治38年)9月4日(日本時間では9月5日)、アメリカ東部の港湾都市ポーツマス近郊のポーツマス海軍造船所において、日本全権小村寿太郎(外務大臣)とロシア帝国全権セルゲイ・Y・ウィッテの間で調印されました。

  • 国境標石が設置された当時、日本側から眺めた標石の光景です。右から読んで『大日本帝国』と菊のご紋があました。『大日本帝国』は、かつての日本国の国号の一つで、江戸時代末期(幕末)に外交文書に使用され始め、1946年(昭和21年)頃まで公式に使用されました。なお『大日本帝国』と定めた法律は存在しません。

    イチオシ

    国境標石が設置された当時、日本側から眺めた標石の光景です。右から読んで『大日本帝国』と菊のご紋があました。『大日本帝国』は、かつての日本国の国号の一つで、江戸時代末期(幕末)に外交文書に使用され始め、1946年(昭和21年)頃まで公式に使用されました。なお『大日本帝国』と定めた法律は存在しません。

  • 国境標石が設置された当時、ロシア側から眺めた標石の光景です。1905年のこと、日露戦争後のポーツマス講和条約にて、北緯50度に延長133キロに亘って直線に国境が引かれました。国境線の幅10メートルは、森林が伐採されました。

    国境標石が設置された当時、ロシア側から眺めた標石の光景です。1905年のこと、日露戦争後のポーツマス講和条約にて、北緯50度に延長133キロに亘って直線に国境が引かれました。国境線の幅10メートルは、森林が伐採されました。

  • 『国境標石の位置図』のタイトルがあった説明パネルの光景です。第1号標石は国境線東端に、第2号はポロナイ川右岸に、第4号は国境線西端に、第3号は第2号と第4号のほぼ中間に置かれました。ちなみに天文測量標石4基の間には、地上測量の中間標石17基と木標19基が設置されました。

    『国境標石の位置図』のタイトルがあった説明パネルの光景です。第1号標石は国境線東端に、第2号はポロナイ川右岸に、第4号は国境線西端に、第3号は第2号と第4号のほぼ中間に置かれました。ちなみに天文測量標石4基の間には、地上測量の中間標石17基と木標19基が設置されました。

  • 6箇所の鯱跡が写真と説明文で紹介されていました。左の列は、上から『ノツカマフ1・2号チャシ跡』、『ヲンネモトチャシ跡』と『ポンモイチャシ跡』です。右の列が上から『ヲーナイ1・2号チャシ跡』、『チャルコロフイナ1・2号チャシ跡』と『サツコタンチャシ跡』です。

    6箇所の鯱跡が写真と説明文で紹介されていました。左の列は、上から『ノツカマフ1・2号チャシ跡』、『ヲンネモトチャシ跡』と『ポンモイチャシ跡』です。右の列が上から『ヲーナイ1・2号チャシ跡』、『チャルコロフイナ1・2号チャシ跡』と『サツコタンチャシ跡』です。

  • 『穂香(ほにおい)』でみつかったコンプラ瓶』のタイトルがあった説明パネルと展示品の光景です。コンプラ瓶は、江戸時代の終りから大正時代にかけて、長崎県彼杵郡波佐見(はさみ)で焼かれていた磁器で、欧州への酒や醤油に輸送用に使われていたことが紹介されていました。北海道で見付かる理由は解明されていないようです。『コンプラ』は、ポルトガル語の『コンプラトール』という言葉に由来します。その意味は買い手という意味があります。

    『穂香(ほにおい)』でみつかったコンプラ瓶』のタイトルがあった説明パネルと展示品の光景です。コンプラ瓶は、江戸時代の終りから大正時代にかけて、長崎県彼杵郡波佐見(はさみ)で焼かれていた磁器で、欧州への酒や醤油に輸送用に使われていたことが紹介されていました。北海道で見付かる理由は解明されていないようです。『コンプラ』は、ポルトガル語の『コンプラトール』という言葉に由来します。その意味は買い手という意味があります。

  • 上から『チャシ跡とは』、『クナシリ・メナシの戦いとチャシ』、『さまざまなチャシ跡のかたち』の中見出しがあった展示パネルの光景です。『チャシ跡とは』の項目では、根室市の根室半島等のチャシ跡が図示され、次の『クナシリ・メナシの戦いとチャシ』では、1789年に起きた戦いと、1798年に記された『夷酋列像附録』に、国後島などで築かれたチャシのことが紹介されていました。『さまざまなチャシ跡のかたち』では、代表的な四分類のチャシ様式が図示されていました。

    上から『チャシ跡とは』、『クナシリ・メナシの戦いとチャシ』、『さまざまなチャシ跡のかたち』の中見出しがあった展示パネルの光景です。『チャシ跡とは』の項目では、根室市の根室半島等のチャシ跡が図示され、次の『クナシリ・メナシの戦いとチャシ』では、1789年に起きた戦いと、1798年に記された『夷酋列像附録』に、国後島などで築かれたチャシのことが紹介されていました。『さまざまなチャシ跡のかたち』では、代表的な四分類のチャシ様式が図示されていました。

  • 『擦文時代の遺跡』のタイトルがあった展示パネルの光景です。『遺跡のひろがり』の中見出しの項では、6~13世紀の擦文文化の遺跡は、北海道全域に見られ、根室地方では12~13世紀の遺跡が多いことが紹介されていました。『擦文時代の土器と住居』の中見出しの項では、この時代の土器は刻線を用いた幾何学模様が多く、住居は半地下式の竪穴が掘られ、床面が正方形であるのが特徴と紹介されていました。

    『擦文時代の遺跡』のタイトルがあった展示パネルの光景です。『遺跡のひろがり』の中見出しの項では、6~13世紀の擦文文化の遺跡は、北海道全域に見られ、根室地方では12~13世紀の遺跡が多いことが紹介されていました。『擦文時代の土器と住居』の中見出しの項では、この時代の土器は刻線を用いた幾何学模様が多く、住居は半地下式の竪穴が掘られ、床面が正方形であるのが特徴と紹介されていました。

  • 縄文土器<br />縄文時代<br />(紀元前131世紀頃~紀元前4世紀頃)<br /><br />氷河期が終わるとともに、石器を主な道具としていた旧石器時代は終わりを告げ、約1万5,000年前に縄文時代が始まりました。最古の土器は無文で、その後、隆起線文土器、爪形文土器と変遷し、約一万年前に縄目の模様がついた多縄文土器が登場しました。

    縄文土器
    縄文時代
    (紀元前131世紀頃~紀元前4世紀頃)

    氷河期が終わるとともに、石器を主な道具としていた旧石器時代は終わりを告げ、約1万5,000年前に縄文時代が始まりました。最古の土器は無文で、その後、隆起線文土器、爪形文土器と変遷し、約一万年前に縄目の模様がついた多縄文土器が登場しました。

  • 縄文土器<br />縄文時代<br />(紀元前131世紀頃~紀元前4世紀頃)<br /><br />縄文前期には日本列島内に九つの文化圏が成立していたと考えられています。それは、①石狩低地以東の北海道、②北海道西南部および東北北部、③東北南部、④関東、⑤北陸、⑥東海・甲信、⑦北陸・近畿・伊勢湾沿岸・中国・四国・豊前・豊後、⑧九州(豊前・豊後を除く)と、⑨トカラ列島以南です。

    縄文土器
    縄文時代
    (紀元前131世紀頃~紀元前4世紀頃)

    縄文前期には日本列島内に九つの文化圏が成立していたと考えられています。それは、①石狩低地以東の北海道、②北海道西南部および東北北部、③東北南部、④関東、⑤北陸、⑥東海・甲信、⑦北陸・近畿・伊勢湾沿岸・中国・四国・豊前・豊後、⑧九州(豊前・豊後を除く)と、⑨トカラ列島以南です。

  • 『縄文土器』<br />穂香竪穴群出土<br /><br />縄文時代は、縄文土器が使用された時代を示す呼称でしたが、次第に生活内容を加えた特徴の説明がされるようになり、磨製石器を造る技術、土器の使用、農耕狩猟採集経済、定住化した社会ととらえられるようになりました。

    『縄文土器』
    穂香竪穴群出土

    縄文時代は、縄文土器が使用された時代を示す呼称でしたが、次第に生活内容を加えた特徴の説明がされるようになり、磨製石器を造る技術、土器の使用、農耕狩猟採集経済、定住化した社会ととらえられるようになりました。

  • 『縄文土器』<br />穂香竪穴群出土?<br /><br />『縄文』という名称は、エドワード・S・モース( 1838~1925年)が1877年(明治10年)に大森貝塚から発掘した土器を Cord Marked Pottery と報告したことに由来します。当初は『索紋土器』(さくもんどき)と訳されましたが、後に『縄紋土器』と改められました。続いて、『縄文土器』という表記が用いられ、時代の名称が『縄文時代』に落ち着いたのは戦後のことです。

    『縄文土器』
    穂香竪穴群出土?

    『縄文』という名称は、エドワード・S・モース( 1838~1925年)が1877年(明治10年)に大森貝塚から発掘した土器を Cord Marked Pottery と報告したことに由来します。当初は『索紋土器』(さくもんどき)と訳されましたが、後に『縄紋土器』と改められました。続いて、『縄文土器』という表記が用いられ、時代の名称が『縄文時代』に落ち着いたのは戦後のことです。

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