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道東の名所とチャシ跡巡りです。オンネモトチャシ跡の見学のついでに、温根元漁港の見学や、港の海鳥さん達のバードウオッチングができました。

2018秋、道東の名所(16/21):9月29日(4):根室半島:納沙布岬、歯舞群島、国後島

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2018/09/27 - 2018/09/29

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旅行記グループ 2018秋、道東のチャシ跡巡り

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

道東の名所とチャシ跡巡りです。オンネモトチャシ跡の見学のついでに、温根元漁港の見学や、港の海鳥さん達のバードウオッチングができました。

交通手段
観光バス ANAグループ

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  • オンネモトチャシ跡の見学のために立寄った、温根元漁港の紹介です。限られた時間でしたが、日本本土最東端の海鳥さん達のバードウオッチングができました。半ば壊れたような防波堤の光景です。浅瀬には岩礁が顔を覗かせていました。

    オンネモトチャシ跡の見学のために立寄った、温根元漁港の紹介です。限られた時間でしたが、日本本土最東端の海鳥さん達のバードウオッチングができました。半ば壊れたような防波堤の光景です。浅瀬には岩礁が顔を覗かせていました。

  • 半ば壊れたような防波堤の上で休憩中の鳥さん達の光景です。この部分では、20~30羽の姿が写りました。順番にズームアップしながら紹介します。

    半ば壊れたような防波堤の上で休憩中の鳥さん達の光景です。この部分では、20~30羽の姿が写りました。順番にズームアップしながら紹介します。

  • 少しズームアップした、左端付近の15羽ほどの鳥さん達の紹介です。見当をつけたのは、セグロカモメとオオセグロカモメさんです。三羽ほどの茶色の個体は、幼鳥のようでした。ネット情報では、『ふた昔前までは、大形カモメのこの両種の幼鳥の野外識別は不可能とされていました。それほど酷似していますが、いくつかのポイントに着目すれば、識別できることが分ってきました。』と紹介されていました。

    少しズームアップした、左端付近の15羽ほどの鳥さん達の紹介です。見当をつけたのは、セグロカモメとオオセグロカモメさんです。三羽ほどの茶色の個体は、幼鳥のようでした。ネット情報では、『ふた昔前までは、大形カモメのこの両種の幼鳥の野外識別は不可能とされていました。それほど酷似していますが、いくつかのポイントに着目すれば、識別できることが分ってきました。』と紹介されていました。

  • 少しズームアップした、右側方面の20羽ほどの鳥さん達の紹介です。幼鳥らしい姿が半分以上でした。先ほど紹介したネット情報では、『大きさも姿もよく似ていますが、ぱっと見た大まかな感じで、セグロカモメの羽衣は模様がはっきりしているのに比べて、オオセグロカモメの羽衣はぼんやりした模様』とありましたが、私のような素人では、判断が難し過ぎるようです。

    少しズームアップした、右側方面の20羽ほどの鳥さん達の紹介です。幼鳥らしい姿が半分以上でした。先ほど紹介したネット情報では、『大きさも姿もよく似ていますが、ぱっと見た大まかな感じで、セグロカモメの羽衣は模様がはっきりしているのに比べて、オオセグロカモメの羽衣はぼんやりした模様』とありましたが、私のような素人では、判断が難し過ぎるようです。

  • 更にズームアップした10羽ほどの成鳥と幼鳥の光景です。幼鳥の見分け方の続きです。『全体の色合いでは、オオセグロカモメの方が、茶褐色味が強い』、とありましたが、これも素人では判断が無理でした。次に、『尾羽の先の位置』の差異、『風切羽根の突き出し長さ』の差異なども写真比較されていました。かつての『幼鳥の野外識別は不可能』の意味が納得できました。

    更にズームアップした10羽ほどの成鳥と幼鳥の光景です。幼鳥の見分け方の続きです。『全体の色合いでは、オオセグロカモメの方が、茶褐色味が強い』、とありましたが、これも素人では判断が無理でした。次に、『尾羽の先の位置』の差異、『風切羽根の突き出し長さ』の差異なども写真比較されていました。かつての『幼鳥の野外識別は不可能』の意味が納得できました。

  • 最後に横から眺めた、お休み中の鳥さん達の光景です。セグロカモメの成鳥の特徴です。『背中と翼上面は明るい灰色で、頭部、首、腹、尾は白い。外側初列風切羽が黒く、先端に白斑がある』、また『くちばしは黄色く、下くちばしの先端近くに一つだけ赤い斑点がある。虹彩は黄色で、眼瞼は赤色、脚は薄いピンク』と紹介されていました。(ウィキペディア)

    最後に横から眺めた、お休み中の鳥さん達の光景です。セグロカモメの成鳥の特徴です。『背中と翼上面は明るい灰色で、頭部、首、腹、尾は白い。外側初列風切羽が黒く、先端に白斑がある』、また『くちばしは黄色く、下くちばしの先端近くに一つだけ赤い斑点がある。虹彩は黄色で、眼瞼は赤色、脚は薄いピンク』と紹介されていました。(ウィキペディア)

  • オオセグロカモメの成鳥の特徴も紹介します。『頭部や胴体下面は白い羽毛で被われる。尾羽の色彩も白い。背中や翼上面は青みがかった暗灰色の羽毛で被われている。風切羽は黒く、先端に白い斑紋が入る。くちばしは太くて長い。くちばしの色彩は黄色で、下くちばしの先端近くに赤い斑紋が入る。後肢の色彩はピンク色』などです。写真は、温根元漁港の漁船の光景です。

    オオセグロカモメの成鳥の特徴も紹介します。『頭部や胴体下面は白い羽毛で被われる。尾羽の色彩も白い。背中や翼上面は青みがかった暗灰色の羽毛で被われている。風切羽は黒く、先端に白い斑紋が入る。くちばしは太くて長い。くちばしの色彩は黄色で、下くちばしの先端近くに赤い斑紋が入る。後肢の色彩はピンク色』などです。写真は、温根元漁港の漁船の光景です。

  • 同じく、温根元漁港の光景です。先程まで紹介した鳥さんは、セグロカモメさんとオオセグロカモメさんでしたが、それ以外のカモメさんの姿も交じっていたかも知れません。温根元漁港でのバードウオッチング情報では、ミツユビカモメ、ウミネコ、オオセグロカモメ、セグロカモメが紹介されていました。

    同じく、温根元漁港の光景です。先程まで紹介した鳥さんは、セグロカモメさんとオオセグロカモメさんでしたが、それ以外のカモメさんの姿も交じっていたかも知れません。温根元漁港でのバードウオッチング情報では、ミツユビカモメ、ウミネコ、オオセグロカモメ、セグロカモメが紹介されていました。

  • 温根元漁港の光景が続きます。三隻並んだ赤い帯が入った漁船は、左から昭宝丸、幸栄丸と光進丸でした。昆布漁の漁船でしょうか、竿のような道具が積まれていました。

    温根元漁港の光景が続きます。三隻並んだ赤い帯が入った漁船は、左から昭宝丸、幸栄丸と光進丸でした。昆布漁の漁船でしょうか、竿のような道具が積まれていました。

  • 陸揚げされた漁船のズームアップ光景です。底部が痛まないよう、緩衝材を使って陸に上げられていました。船名は、『海宝丸』でした。こちらも昆布漁の船のようです。

    陸揚げされた漁船のズームアップ光景です。底部が痛まないよう、緩衝材を使って陸に上げられていました。船名は、『海宝丸』でした。こちらも昆布漁の船のようです。

  • 温根元漁港と、漁港からのオンネモトチャシ跡の見学を終えた後、次に向かったのは納沙布岬です。北海道根室市にある岬で、根室半島の先端で、東経145°49′、北緯43°22′に位置します。離島を除けば、日本の本土最東端にあたります。

    温根元漁港と、漁港からのオンネモトチャシ跡の見学を終えた後、次に向かったのは納沙布岬です。北海道根室市にある岬で、根室半島の先端で、東経145°49′、北緯43°22′に位置します。離島を除けば、日本の本土最東端にあたります。

  • 『北方館・望郷の家』のタイトルがあった看板の光景です。左側のイラスト図はラッコのようです。『ラッコ(海獺、猟虎)』は、イタチ科ラッコ属に分類される食肉類です。成長したラッコは気に入った特定の石を保持し、潜る際には錘(おもし)に使うとされます。

    『北方館・望郷の家』のタイトルがあった看板の光景です。左側のイラスト図はラッコのようです。『ラッコ(海獺、猟虎)』は、イタチ科ラッコ属に分類される食肉類です。成長したラッコは気に入った特定の石を保持し、潜る際には錘(おもし)に使うとされます。

  • この位置からは『祈りの灯』は見えていませんが、『四島のかけはしと祈りの火』の光景です。建設が決定してから3年の歳月を経て1980年9月に竣工しました。高さ13メートル、底辺の長さ35メートルのシンボル像です。特殊耐候性鋼板製で、四島とは国後島、択捉島、色丹島、歯舞群島のことです。

    この位置からは『祈りの灯』は見えていませんが、『四島のかけはしと祈りの火』の光景です。建設が決定してから3年の歳月を経て1980年9月に竣工しました。高さ13メートル、底辺の長さ35メートルのシンボル像です。特殊耐候性鋼板製で、四島とは国後島、択捉島、色丹島、歯舞群島のことです。

  • 『朝日にいちばん近い街・ねむろノサップ岬』の文字があった観光案内看板の光景です。『朝日にいちばん近い』とは、日本の最東端を意味しています。根室市観光協会の看板でした。

    『朝日にいちばん近い街・ねむろノサップ岬』の文字があった観光案内看板の光景です。『朝日にいちばん近い』とは、日本の最東端を意味しています。根室市観光協会の看板でした。

  • ノサップ岬の光景が続きます。地面にカラフルに描かれているのは、手前が北海道、その先が北方四島でした。

    ノサップ岬の光景が続きます。地面にカラフルに描かれているのは、手前が北海道、その先が北方四島でした。

  • 『返せ・全千島・樺太・北の防人』の文字が記された標識の光景です。樺太は、樺太島、サハリン、サハリン島とも呼ばれます。南北約948キロ、東西の幅最大約160キロの南北に細長い島です。樺太は、日露戦争後のポーツマス条約により、北緯50度線を境界に南北に分割され、南樺太を日本(大日本帝国)が領有した時期がありました。日本はサンフランシスコ講和条約により、南樺太を放棄しました。ネット情報では、台座に記された内容などから、右翼系の人達による建設と分析していました。

    『返せ・全千島・樺太・北の防人』の文字が記された標識の光景です。樺太は、樺太島、サハリン、サハリン島とも呼ばれます。南北約948キロ、東西の幅最大約160キロの南北に細長い島です。樺太は、日露戦争後のポーツマス条約により、北緯50度線を境界に南北に分割され、南樺太を日本(大日本帝国)が領有した時期がありました。日本はサンフランシスコ講和条約により、南樺太を放棄しました。ネット情報では、台座に記された内容などから、右翼系の人達による建設と分析していました。

  • 『根室市指定文化財・史蹟・寛政の蜂起和人殉難墓碑』の文字が記された標識と、その説明看板の光景です。碑文は、和人の立場から記されていて、『和人が殺害された原因は、アイヌ民族への非道行為が原因で、(碑文は)史実とは異なる』と明記してありました。

    『根室市指定文化財・史蹟・寛政の蜂起和人殉難墓碑』の文字が記された標識と、その説明看板の光景です。碑文は、和人の立場から記されていて、『和人が殺害された原因は、アイヌ民族への非道行為が原因で、(碑文は)史実とは異なる』と明記してありました。

  • 海中から見つかった、『寛政の蜂起和人殉難墓碑』の表面の光景です。寛政元年(1789年)のクナシリ・メナシの戦いの際、蜂起したアイヌの人々に殺害された和人71人の供養のために建てられたもののようです。この碑は明治45年(1912)納沙布岬近くの浜で発見されましたが、この地に建て直されました。海上輸送の途中で船が難破し、海中に没していたものと推定されています。

    海中から見つかった、『寛政の蜂起和人殉難墓碑』の表面の光景です。寛政元年(1789年)のクナシリ・メナシの戦いの際、蜂起したアイヌの人々に殺害された和人71人の供養のために建てられたもののようです。この碑は明治45年(1912)納沙布岬近くの浜で発見されましたが、この地に建て直されました。海上輸送の途中で船が難破し、海中に没していたものと推定されています。

  • 『寛政の蜂起和人殉難墓碑』の裏面の光景です。根室市の指定文化財の石碑ですが、その説明には、『この墓碑が現在に伝えているのは一般に寛政元年に起きた「寛政アイヌの蜂起」、「クナシリ・ナメシの戦い」などと呼ばれている出来事です。この墓碑は最初「寛政の乱和人殉難墓碑」として指定されていましたが、昭和63年に現在の名称に変更されました。』と、解説してありました。指定区分は『史跡』でした。

    『寛政の蜂起和人殉難墓碑』の裏面の光景です。根室市の指定文化財の石碑ですが、その説明には、『この墓碑が現在に伝えているのは一般に寛政元年に起きた「寛政アイヌの蜂起」、「クナシリ・ナメシの戦い」などと呼ばれている出来事です。この墓碑は最初「寛政の乱和人殉難墓碑」として指定されていましたが、昭和63年に現在の名称に変更されました。』と、解説してありました。指定区分は『史跡』でした。

  • 石垣模様の台座の上に置かれた、横長の石標の光景です。『島を還せ』の文字が刻まれていました。日本健青会による建立です。終戦直後、1949年(昭和24年)8月に創設された日本健青会に参画し、副委員長、委員長を務めたのは、末次一郎氏(1922~2001年)です。沖縄と北方領土の問題で、他にさきがけて精力的に取り組んだ人のようです。

    石垣模様の台座の上に置かれた、横長の石標の光景です。『島を還せ』の文字が刻まれていました。日本健青会による建立です。終戦直後、1949年(昭和24年)8月に創設された日本健青会に参画し、副委員長、委員長を務めたのは、末次一郎氏(1922~2001年)です。沖縄と北方領土の問題で、他にさきがけて精力的に取り組んだ人のようです。

  • 設置者名は記してありませんでしたが、『四島のかえる日、平和の日』の文字が記された説明看板の光景です。右端から、納沙布岬灯台、歯舞群島、国後島、左端に知床連山が眺望できる位置が記されていました。

    設置者名は記してありませんでしたが、『四島のかえる日、平和の日』の文字が記された説明看板の光景です。右端から、納沙布岬灯台、歯舞群島、国後島、左端に知床連山が眺望できる位置が記されていました。

  • 納沙布岬に建てられた、数々にお記念碑などの光景です。近くからの撮影はしませんでしたが、殆どが右翼団体に関係するもののようでした。

    イチオシ

    納沙布岬に建てられた、数々にお記念碑などの光景です。近くからの撮影はしませんでしたが、殆どが右翼団体に関係するもののようでした。

  • 納沙布岬にあった『北方館』の建物光景です。根室振興局のHPの紹介文です。『納沙布岬にあった『北方館』の建物光景です。根室振興局のHPの紹介文です。『北方館は望郷の岬公園内に位置し、北方領土返還要求運動の発祥の地で、北方領土問題の発生の状況や歴史的経緯を展示資料によって観覧できる。』と説明されていました。

    納沙布岬にあった『北方館』の建物光景です。根室振興局のHPの紹介文です。『納沙布岬にあった『北方館』の建物光景です。根室振興局のHPの紹介文です。『北方館は望郷の岬公園内に位置し、北方領土返還要求運動の発祥の地で、北方領土問題の発生の状況や歴史的経緯を展示資料によって観覧できる。』と説明されていました。

  • 『北方館』の紹介の続きです。『望郷の家は戦前の島民の生活関連資料や島々における街並みや住居表示を祈り込んだ地図等を展示。北方領土の歴史と生活が幅広く紹介されている。』とも説明されていました。休憩を兼ねて、内部も見学しました。公式HPには正式名称が、『独立行政法人・北方領土問題対策協会・北方館』と記されていました。

    『北方館』の紹介の続きです。『望郷の家は戦前の島民の生活関連資料や島々における街並みや住居表示を祈り込んだ地図等を展示。北方領土の歴史と生活が幅広く紹介されている。』とも説明されていました。休憩を兼ねて、内部も見学しました。公式HPには正式名称が、『独立行政法人・北方領土問題対策協会・北方館』と記されていました。

  • 『北方館』の入口付近に展示してあった、沖縄から贈呈されたらしい一対のシーサーの光景です。ともに、領土問題を抱える地域の連帯のようでした。沖縄復帰20周年に贈られたものでした。

    『北方館』の入口付近に展示してあった、沖縄から贈呈されたらしい一対のシーサーの光景です。ともに、領土問題を抱える地域の連帯のようでした。沖縄復帰20周年に贈られたものでした。

  • 納沙布岬灯台の光景です。大きなクレーンが稼働し、修復工事が行われているようでした。日本本土の最東端の地に位置する灯台です。北方四島や知床半島を望む、風光明媚の地に立つ、『日本の灯台50選』に選ばれた灯台です。1872年(明治7年)に初点灯され、1930年(昭和5年)に現在のコンクリート造りとなりました。

    納沙布岬灯台の光景です。大きなクレーンが稼働し、修復工事が行われているようでした。日本本土の最東端の地に位置する灯台です。北方四島や知床半島を望む、風光明媚の地に立つ、『日本の灯台50選』に選ばれた灯台です。1872年(明治7年)に初点灯され、1930年(昭和5年)に現在のコンクリート造りとなりました。

  • 少しだけズームアップした、納沙布岬灯台の光景です。『日本の灯台の父』と呼ばれる、スコットランド出身の技師、『リチャード・ヘンリー・ブラントン(1841~1901年)』の設計による、八角形の建築で、北海道の洋式灯台としては最初のものとされます。明治時代に来日したお雇い外国人の一人です。7年6カ月の間に灯台26基を手がけました。

    イチオシ

    少しだけズームアップした、納沙布岬灯台の光景です。『日本の灯台の父』と呼ばれる、スコットランド出身の技師、『リチャード・ヘンリー・ブラントン(1841~1901年)』の設計による、八角形の建築で、北海道の洋式灯台としては最初のものとされます。明治時代に来日したお雇い外国人の一人です。7年6カ月の間に灯台26基を手がけました。

  • 『望郷の塔(オーロラタワー)』の光景です。旧称は『笹川記念平和の塔』、または『平和の塔』でした。右翼の大物だった、『笹川良一(1899~1995年)』が北方領土返還運動の象徴として建設、1987年(昭和62年)夏に竣工したタワーです。

    『望郷の塔(オーロラタワー)』の光景です。旧称は『笹川記念平和の塔』、または『平和の塔』でした。右翼の大物だった、『笹川良一(1899~1995年)』が北方領土返還運動の象徴として建設、1987年(昭和62年)夏に竣工したタワーです。

  • 納沙布岬の見学を終え、次に向かったのは、根室市資料館です。その途中で目にした、根室市役所の建物光景です。市役所の屋上には、『世代越え、心に願うは四島返還』のキャッチフレーズが掲げられていました。右端には、大坂なおみ選手の全米オープン・女子シングルス優勝の垂れ幕が掲げられていました。

    納沙布岬の見学を終え、次に向かったのは、根室市資料館です。その途中で目にした、根室市役所の建物光景です。市役所の屋上には、『世代越え、心に願うは四島返還』のキャッチフレーズが掲げられていました。右端には、大坂なおみ選手の全米オープン・女子シングルス優勝の垂れ幕が掲げられていました。

  • 大坂なおみ選手の母の出身地は根室で、なおみさんは小さい頃は大阪で暮らし、家族でアメリカに移住しました。現在日本とアメリカの2重国籍を持っています。国籍法の決まりで、22歳までにどちらかの国籍を選択することになります。法的には2重国籍になりますが、テニス選手としての国籍は日本です。

    イチオシ

    大坂なおみ選手の母の出身地は根室で、なおみさんは小さい頃は大阪で暮らし、家族でアメリカに移住しました。現在日本とアメリカの2重国籍を持っています。国籍法の決まりで、22歳までにどちらかの国籍を選択することになります。法的には2重国籍になりますが、テニス選手としての国籍は日本です。

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