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カリカリウスチャシ跡は、伊茶仁(いちゃに)カリカリウス遺跡とも呼ばれ、ポー川と伊茶仁川に挟まれた標高20メートルの台地に位置します。1200余りの竪穴住居跡が台地周辺部に確認されています。

2018秋、道東の名所(9/21):9月28日(7):カリカリウスチャシ(2):復元住居、光苔

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2018/09/27 - 2018/09/29

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旅行記グループ 2018秋、道東のチャシ跡巡り

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旅人のくまさん

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カリカリウスチャシ跡は、伊茶仁(いちゃに)カリカリウス遺跡とも呼ばれ、ポー川と伊茶仁川に挟まれた標高20メートルの台地に位置します。1200余りの竪穴住居跡が台地周辺部に確認されています。

交通手段
観光バス ANAグループ
  • 右のパネルには、『トビニタイ文化・土着した北の渡来人』、左のパネルには『擦文文化とオホーツク文化』のタイトルがありました。トビニタイ文化は、9世紀ごろから13世紀頃にかけて、北海道の道東地域および国後島付近に存在した文化様式の名称です。1960年に羅臼町飛仁帯(とびにたい)で発見された出土物が名前の由来です。

    右のパネルには、『トビニタイ文化・土着した北の渡来人』、左のパネルには『擦文文化とオホーツク文化』のタイトルがありました。トビニタイ文化は、9世紀ごろから13世紀頃にかけて、北海道の道東地域および国後島付近に存在した文化様式の名称です。1960年に羅臼町飛仁帯(とびにたい)で発見された出土物が名前の由来です。

  • 左のパネルには『チャシの時代』、右のパネルには『時代と共に遷り変わるチャシの性格』のタイトルがありました。左のパネルでは、平安時代の末期に平泉奥州藤原氏が滅亡したことがきっかけで、アイヌ文化の紅葉が始まった時代がチャシの時代と概括されていました。右のパネルでは、最も古いチャシは13世紀に出現し、18世紀までのチャシの変遷について概説されていました。

    左のパネルには『チャシの時代』、右のパネルには『時代と共に遷り変わるチャシの性格』のタイトルがありました。左のパネルでは、平安時代の末期に平泉奥州藤原氏が滅亡したことがきっかけで、アイヌ文化の紅葉が始まった時代がチャシの時代と概括されていました。右のパネルでは、最も古いチャシは13世紀に出現し、18世紀までのチャシの変遷について概説されていました。

  • 壁に展示された説明パネルのタイトルを紹介しておきます。左から、『遺跡を包むミズナラの森』、『無数の命を繋ぎ続ける湧水』、『時代を超えたサケの利用が育んだサケ文化』と『縄文時代の遺跡にみるサケ文化』でした。ミズナラがドングリ、湧水が生活用水、サケが食資源として古代から生活を支えて来ました。

    壁に展示された説明パネルのタイトルを紹介しておきます。左から、『遺跡を包むミズナラの森』、『無数の命を繋ぎ続ける湧水』、『時代を超えたサケの利用が育んだサケ文化』と『縄文時代の遺跡にみるサケ文化』でした。ミズナラがドングリ、湧水が生活用水、サケが食資源として古代から生活を支えて来ました。

  • 同じく、壁に展示された説明パネルのタイトルを紹介しておきます。左から、『天然のガラス・黒曜石』、『石斧素材のブランド・アオトラ石と青色片岩』と『択捉島まで拡がる縄文文化』です。それぞれイラストと文章で説明してありました。ガラスケースには、その出土品が展示してありました。

    同じく、壁に展示された説明パネルのタイトルを紹介しておきます。左から、『天然のガラス・黒曜石』、『石斧素材のブランド・アオトラ石と青色片岩』と『択捉島まで拡がる縄文文化』です。それぞれイラストと文章で説明してありました。ガラスケースには、その出土品が展示してありました。

  • 『天然のガラス・黒曜石』の説明パネルに関する展示品です。数多くの石鏃(せきぞく)が展示してありました。北海道の屋戸町や遠軽町白滝で採れる黒曜石が使われていることが説明されていました。

    イチオシ

    『天然のガラス・黒曜石』の説明パネルに関する展示品です。数多くの石鏃(せきぞく)が展示してありました。北海道の屋戸町や遠軽町白滝で採れる黒曜石が使われていることが説明されていました。

  • 『石斧素材のブランド・アオトラ石と青色片岩』のパネルに関する展示品です。中央に展示された出土品には、上から『地元の石材』、『アオトラ石の石斧』、『神居古潭(カムイコタン)の青色片岩』の名札表示がありました。縄文時代の『石斧(せきふ)』に関する展示です。

    『石斧素材のブランド・アオトラ石と青色片岩』のパネルに関する展示品です。中央に展示された出土品には、上から『地元の石材』、『アオトラ石の石斧』、『神居古潭(カムイコタン)の青色片岩』の名札表示がありました。縄文時代の『石斧(せきふ)』に関する展示です。

  • 『択捉島まで拡がる縄文文化』のパネルに関する展示品です。上の2個の大きな遺物には『続縄文土器(択捉島出土・約1600年前)』、左下には『石鏃(択捉島出土・続縄文時代及びオホーツク文化期)』、右下には『石斧(択捉島出土・時期不明』の名札表示がありました。

    『択捉島まで拡がる縄文文化』のパネルに関する展示品です。上の2個の大きな遺物には『続縄文土器(択捉島出土・約1600年前)』、左下には『石鏃(択捉島出土・続縄文時代及びオホーツク文化期)』、右下には『石斧(択捉島出土・時期不明』の名札表示がありました。

  • 左が『縄文御宝石・翡翠の勾玉』のタイトルがあった説明パネルと展示品、右が『縄文時代のアクセサリー』のタイトルがあった説明パネルと展示品です。この後、個別に粗油買いしておきました。

    左が『縄文御宝石・翡翠の勾玉』のタイトルがあった説明パネルと展示品、右が『縄文時代のアクセサリー』のタイトルがあった説明パネルと展示品です。この後、個別に粗油買いしておきました。

  • 『翡翠(ひすい)の勾玉(まがたま)』<br />縄文時代<br />(3000年前)<br />この展示館の目玉展示の一つのようでした。最初消灯されていましたが、点灯した後で鑑賞できました。

    イチオシ

    『翡翠(ひすい)の勾玉(まがたま)』
    縄文時代
    (3000年前)
    この展示館の目玉展示の一つのようでした。最初消灯されていましたが、点灯した後で鑑賞できました。

  • 『標津遺跡群で見付かった縄文漆工品』の説明パネルがあった展示品の光景です。<br />『縄文漆工品』<br />伊茶仁チシネ第1竪穴群遺跡出土<br />縄文時代前期<br />(約6000年前)

    『標津遺跡群で見付かった縄文漆工品』の説明パネルがあった展示品の光景です。
    『縄文漆工品』
    伊茶仁チシネ第1竪穴群遺跡出土
    縄文時代前期
    (約6000年前)

  • 12枚に纏められた『夷酋列像(いしゅうれつぞう)』と呼ばれる有名な絵画です。最初に目にしたのは、松前城内の展示室でした。差異化列の3枚は、次のページの写真と重複しています。松前藩の家老で画家の蠣崎波響が描いたものです。

    12枚に纏められた『夷酋列像(いしゅうれつぞう)』と呼ばれる有名な絵画です。最初に目にしたのは、松前城内の展示室でした。差異化列の3枚は、次のページの写真と重複しています。松前藩の家老で画家の蠣崎波響が描いたものです。

  • 同じく、12枚に纏められた『夷酋列像(いしゅうれつぞう)』と呼ばれる有名な絵画の紹介です。上の3枚は前のページ写真と重複しています。1789年に起きた『クナシリ・メナシの戦い』というアイヌの人びとによる場所請負人の横暴に対する蜂起に対し、それを平定した松前藩側に協力したアイヌの指導者たちが描かれています。

    同じく、12枚に纏められた『夷酋列像(いしゅうれつぞう)』と呼ばれる有名な絵画の紹介です。上の3枚は前のページ写真と重複しています。1789年に起きた『クナシリ・メナシの戦い』というアイヌの人びとによる場所請負人の横暴に対する蜂起に対し、それを平定した松前藩側に協力したアイヌの指導者たちが描かれています。

  • 『標津番屋屏風(レプリカ)』の展示光景です。幕末、『蝦夷地』に新たな領地を貰い受けた会津藩は、ここに初めて自らの海を手に入れました。欧米列強を前に幕藩体制が大きく揺れる中、蝦夷地に派遣された会津藩士達は、標津の豊富な水産資源・木材資源を利用して、新たな時代を切り拓くために尽力しました。その藩士達の想いを藩主松平容保公に伝えために描かれたのが、『標津番屋屏風』です。

    『標津番屋屏風(レプリカ)』の展示光景です。幕末、『蝦夷地』に新たな領地を貰い受けた会津藩は、ここに初めて自らの海を手に入れました。欧米列強を前に幕藩体制が大きく揺れる中、蝦夷地に派遣された会津藩士達は、標津の豊富な水産資源・木材資源を利用して、新たな時代を切り拓くために尽力しました。その藩士達の想いを藩主松平容保公に伝えために描かれたのが、『標津番屋屏風』です。

  • 『幕末会津藩・北辺防衛』のタイトルがあった説明パネルの光景です。かつて日本列島の東方、『メナシ』の地に置き忘れられた幕末会津藩士達の想いを、150年の時を経た今(2018年)、会津松平家直系の子孫である14代当主松平保久氏を招いて講演会と展示会が行われました。その時に利用された説明パネルのようです。

    『幕末会津藩・北辺防衛』のタイトルがあった説明パネルの光景です。かつて日本列島の東方、『メナシ』の地に置き忘れられた幕末会津藩士達の想いを、150年の時を経た今(2018年)、会津松平家直系の子孫である14代当主松平保久氏を招いて講演会と展示会が行われました。その時に利用された説明パネルのようです。

  • 『幕末会津藩、蝦夷地開拓・警衛の開始』のタイトルがあった説明パネルの光景です安政2年(1855年)、江戸幕府はそれまで松前藩が統治していた蝦夷地を直轄地とし、仙台、秋田、津軽、南部、会津と庄内の東北六藩に分割統治させました。会津藩が受け持ったのは、道東から道北方面、標津に陣屋を置きました。派遣されたのは家族を含めて200名余りと紹介されていました。

    『幕末会津藩、蝦夷地開拓・警衛の開始』のタイトルがあった説明パネルの光景です安政2年(1855年)、江戸幕府はそれまで松前藩が統治していた蝦夷地を直轄地とし、仙台、秋田、津軽、南部、会津と庄内の東北六藩に分割統治させました。会津藩が受け持ったのは、道東から道北方面、標津に陣屋を置きました。派遣されたのは家族を含めて200名余りと紹介されていました。

  • 『標津番屋屏風の来歴』のタイトルがあった説明パネルの光景です。『標津番屋屏風』と、その対を成す『箱館港屏風』は、現在新潟市の西巌寺に収蔵されています。その来歴が詳細に記されえ散ました。左下が西巌寺の本殿、右の写真が元住職の手島師です。屏風を運んだのは御用船船頭の南半之助、和歌は会津藩9代藩主の松平容保(かたもり)公が南半之助に贈ったものです。

    『標津番屋屏風の来歴』のタイトルがあった説明パネルの光景です。『標津番屋屏風』と、その対を成す『箱館港屏風』は、現在新潟市の西巌寺に収蔵されています。その来歴が詳細に記されえ散ました。左下が西巌寺の本殿、右の写真が元住職の手島師です。屏風を運んだのは御用船船頭の南半之助、和歌は会津藩9代藩主の松平容保(かたもり)公が南半之助に贈ったものです。

  • 『標津番屋屏風の柵舎と描かれた人物』のタイトルがあった説明パネルの光景です。右下にピックアップされた絵には、商人姿の人が加賀屋伝蔵、その上の絵の中央には、南摩綱紀が描かれています。

    『標津番屋屏風の柵舎と描かれた人物』のタイトルがあった説明パネルの光景です。右下にピックアップされた絵には、商人姿の人が加賀屋伝蔵、その上の絵の中央には、南摩綱紀が描かれています。

  • 『標津番屋屏風の人物』のタイトルがあった説明パネルの光景です。南摩綱紀は、文政6年(1823年)に若松城下で生まれ、幕末から明治の時代を生きた会津藩士です。幕末会津藩においては、秋月悌次郎と並ぶ秀才と称されていました。26歳の時に入門した江戸の昌平黌時代、南摩は黒船を目の当たりにしました。欧米列強の科学の先進性を痛感した南摩は、以後洋学を学ぶと共に、当時江戸にあり、海防問題の第一人者として名声を上げていた松浦武四郎の下を頻繁に訪問し、『蝦夷地』を知ることとなりました。武四郎との交友は、明治の時代まで続きました。もう一人の人物は加賀屋伝蔵、南摩綱紀や松浦武四郎に慕われた人と紹介されていました。

    『標津番屋屏風の人物』のタイトルがあった説明パネルの光景です。南摩綱紀は、文政6年(1823年)に若松城下で生まれ、幕末から明治の時代を生きた会津藩士です。幕末会津藩においては、秋月悌次郎と並ぶ秀才と称されていました。26歳の時に入門した江戸の昌平黌時代、南摩は黒船を目の当たりにしました。欧米列強の科学の先進性を痛感した南摩は、以後洋学を学ぶと共に、当時江戸にあり、海防問題の第一人者として名声を上げていた松浦武四郎の下を頻繁に訪問し、『蝦夷地』を知ることとなりました。武四郎との交友は、明治の時代まで続きました。もう一人の人物は加賀屋伝蔵、南摩綱紀や松浦武四郎に慕われた人と紹介されていました。

  • 『幕末会津藩のアイヌ政策』のタイトルがあった説明パネルの光景です。蝦夷地に領地を持った会津藩にとって、新たな領民はアイヌの人達でした。江戸幕府と同じようにアイヌ人の日本人化政策をとりましたが、決定的に違った点がありました。それを主草したのが、南摩綱紀と加賀屋伝蔵でした。南摩綱紀(南間・つなのり:1823~1909年)はアイヌ語を使って、日本人の価値観を教育し、一方、アイヌ人の人としての誠実さも汲み取っていました。残念ながら、お互いを尊重する南摩の精神は、明治時代には受け継がれなかったようです。左下の写真は、『五輪名義』のアイヌ語訳、右下の写真が、カタカナで翻訳されたアイヌ語です。漢学者として名声があった南摩は明治政府に招聘され、太政官に出仕し次いで東京大学教授、東京高等師範学校教授などを歴任しました。

    『幕末会津藩のアイヌ政策』のタイトルがあった説明パネルの光景です。蝦夷地に領地を持った会津藩にとって、新たな領民はアイヌの人達でした。江戸幕府と同じようにアイヌ人の日本人化政策をとりましたが、決定的に違った点がありました。それを主草したのが、南摩綱紀と加賀屋伝蔵でした。南摩綱紀(南間・つなのり:1823~1909年)はアイヌ語を使って、日本人の価値観を教育し、一方、アイヌ人の人としての誠実さも汲み取っていました。残念ながら、お互いを尊重する南摩の精神は、明治時代には受け継がれなかったようです。左下の写真は、『五輪名義』のアイヌ語訳、右下の写真が、カタカナで翻訳されたアイヌ語です。漢学者として名声があった南摩は明治政府に招聘され、太政官に出仕し次いで東京大学教授、東京高等師範学校教授などを歴任しました。

  • 『標津番屋屏風』のタイトルがあった説明パネルの光景です。右上の写真が『標津番屋屏風』、右下の写真がが『箱館港屏風』です。オリジナルの所蔵者は、新潟市の西巌寺です。作者は会津藩の絵師の星暁邨、元治元年(1864年)に制作されたことが紹介されていました。

    『標津番屋屏風』のタイトルがあった説明パネルの光景です。右上の写真が『標津番屋屏風』、右下の写真がが『箱館港屏風』です。オリジナルの所蔵者は、新潟市の西巌寺です。作者は会津藩の絵師の星暁邨、元治元年(1864年)に制作されたことが紹介されていました。

  • ここからは、カリカリウスチャシ跡の実地見学です。その前に、南摩綱紀(1823~1909年)と加賀屋伝蔵(1805?~1874年)との繋がりが深かった松浦武四郎(1818~1888年)について、簡単に紹介しておきます。幕末から明治にかけての探検家、浮世絵師、著述家で好古家でした。蝦夷地を探査し、北海道という名前を考案したのも松浦です。肥前国平戸の松浦氏の一族とも伝わります。

    ここからは、カリカリウスチャシ跡の実地見学です。その前に、南摩綱紀(1823~1909年)と加賀屋伝蔵(1805?~1874年)との繋がりが深かった松浦武四郎(1818~1888年)について、簡単に紹介しておきます。幕末から明治にかけての探検家、浮世絵師、著述家で好古家でした。蝦夷地を探査し、北海道という名前を考案したのも松浦です。肥前国平戸の松浦氏の一族とも伝わります。

  • 発掘調査が済んだ竪穴式住居の光景です。約1000年前のオホーツク文化の家とされるようです。実に膨大な数の住居跡を目にしましたが、全部を発掘し終えたものではありませんでした。

    発掘調査が済んだ竪穴式住居の光景です。約1000年前のオホーツク文化の家とされるようです。実に膨大な数の住居跡を目にしましたが、全部を発掘し終えたものではありませんでした。

  • 今回のチャシ見学の中でも、強気印象に残ったのが、このカリカリウスチャシ跡でした。1979年(昭和54年)5月に国の史に登録されています。わが国最大規模の竪穴式住居群跡のようです。

    今回のチャシ見学の中でも、強気印象に残ったのが、このカリカリウスチャシ跡でした。1979年(昭和54年)5月に国の史に登録されています。わが国最大規模の竪穴式住居群跡のようです。

  • 復元された、約1000年前の竪穴式住居の光景です。復元する時の手掛かりは、炉や柱の位置、焼け残った柱や壁の材料だけと紹介されていました。

    イチオシ

    復元された、約1000年前の竪穴式住居の光景です。復元する時の手掛かりは、炉や柱の位置、焼け残った柱や壁の材料だけと紹介されていました。

  • 『竪穴住居の復元・竪穴住居の復元に使った材料』のタイトルがあった説明パネルの光景です。約1000年前のオホーツク文化の住居が、2戸復元された状況が、使用された材料一蘭と共に紹介されていました。

    『竪穴住居の復元・竪穴住居の復元に使った材料』のタイトルがあった説明パネルの光景です。約1000年前のオホーツク文化の住居が、2戸復元された状況が、使用された材料一蘭と共に紹介されていました。

  • 復元された、約1000年前の竪穴式住居の光景です。住居の中央に川原石が置かれ、炉の位置を示していました。炉の瓦石は、すべて遺物とお聞きしました。入口の左右は屋根の先端が地上まで伸びていましたから、明かり採りは入口と、その反対側の壁の隙間部分だけでした。

    復元された、約1000年前の竪穴式住居の光景です。住居の中央に川原石が置かれ、炉の位置を示していました。炉の瓦石は、すべて遺物とお聞きしました。入口の左右は屋根の先端が地上まで伸びていましたから、明かり採りは入口と、その反対側の壁の隙間部分だけでした。

  • 住居の中央に置かれた川原石のズームアップ光景です。炉の周りには、肉眼でも中々見分けがつきませんでしたが、ヒカリゴケが生育していました。ヒカリゴケ(光苔)は、ヒカリゴケ科ヒカリゴケ属のコケで、1科1属1種の原始的、かつ貴重なコケ植物とされます。洞窟のような暗所では、金緑色(エメラルド色)に光ります。

    住居の中央に置かれた川原石のズームアップ光景です。炉の周りには、肉眼でも中々見分けがつきませんでしたが、ヒカリゴケが生育していました。ヒカリゴケ(光苔)は、ヒカリゴケ科ヒカリゴケ属のコケで、1科1属1種の原始的、かつ貴重なコケ植物とされます。洞窟のような暗所では、金緑色(エメラルド色)に光ります。

  • 『住居の使い方』のタイトルがあった説明パネルの光景です。オホーツク文化の家は、隈の図骨など、動物の骨を祀った部分が特徴で、それを中心に、道具置き場、寝床、作業所、貯蔵場があったことが紹介されていました。

    『住居の使い方』のタイトルがあった説明パネルの光景です。オホーツク文化の家は、隈の図骨など、動物の骨を祀った部分が特徴で、それを中心に、道具置き場、寝床、作業所、貯蔵場があったことが紹介されていました。

  • 『ヒカリゴケ』のタイトルがあった説明パネルの光景です。ヒカリゴケがレンズ効果により光って見えるメカニズムが説明されていました。光が差し込んだ方角からしか、黄緑色の蛍光色は見えないと解説されていました。

    『ヒカリゴケ』のタイトルがあった説明パネルの光景です。ヒカリゴケがレンズ効果により光って見えるメカニズムが説明されていました。光が差し込んだ方角からしか、黄緑色の蛍光色は見えないと解説されていました。

  • 標準的か、あるいは少し大きめの長方形の竪穴式住居跡の光景です。発掘調査が済んだ住居跡で、司法が木枠で囲んであり、中央に炉の跡の川原石の遺仏が残されていました。その並び方は円形ではなく、ほぼ長方形でした。

    標準的か、あるいは少し大きめの長方形の竪穴式住居跡の光景です。発掘調査が済んだ住居跡で、司法が木枠で囲んであり、中央に炉の跡の川原石の遺仏が残されていました。その並び方は円形ではなく、ほぼ長方形でした。

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