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二条城は、城内全体が国の史跡に指定されているほか、二の丸御殿(6棟)が国宝に、22棟の建造物と二の丸御殿の障壁画計1016面が重要文化財に、二の丸御殿庭園が特別名勝に指定されています。さらに1994年(平成6年)にはユネスコの世界文化遺産に登録されました。

2017暮、滋賀と京都の日本百名城(13/17):二条城(2/6):二の丸御殿、二の丸庭園

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2017/12/02 - 2017/12/02

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旅人のくまさん

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二条城は、城内全体が国の史跡に指定されているほか、二の丸御殿(6棟)が国宝に、22棟の建造物と二の丸御殿の障壁画計1016面が重要文化財に、二の丸御殿庭園が特別名勝に指定されています。さらに1994年(平成6年)にはユネスコの世界文化遺産に登録されました。

交通手段
新幹線 JRローカル

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  • 二の丸御殿の建物の一部です。内部は自由参観できましたが、写真撮影は禁止です。二条城は、慶長8年(1603年)、徳川家康が将軍任官拝賀など、朝廷に対しての儀式を行うための拠点として慶長7~8年(1602~1603年)に造営した城です。慶応3年(1867年)、15代将軍徳川慶喜による大政奉還の舞台ともなりました。

    二の丸御殿の建物の一部です。内部は自由参観できましたが、写真撮影は禁止です。二条城は、慶長8年(1603年)、徳川家康が将軍任官拝賀など、朝廷に対しての儀式を行うための拠点として慶長7~8年(1602~1603年)に造営した城です。慶応3年(1867年)、15代将軍徳川慶喜による大政奉還の舞台ともなりました。

  • 『特別名勝・二条城二之丸庭園』の文字が刻まれた石標の光景です。『特別名勝』は、国(文部科学大臣)が文化財保護法に基づいて指定したもので、現在は26カ所です。大雑把に言えば、特別名勝が国宝クラス、名勝が重文クラスです。

    『特別名勝・二条城二之丸庭園』の文字が刻まれた石標の光景です。『特別名勝』は、国(文部科学大臣)が文化財保護法に基づいて指定したもので、現在は26カ所です。大雑把に言えば、特別名勝が国宝クラス、名勝が重文クラスです。

  • 国の特別名勝に指定されている、二条城二の丸庭園の光景です。二条城は、慶長年間の造営後も拡張・整備が続けられ、完成したのは寛永3年(1626年)でした。京都における将軍の居館としての役割を持つようになりました。しかし、江戸幕府時代の二条城は、寛永11年(1634年)以後、文久2年(1863年)までは利用されることがなかったようです。

    国の特別名勝に指定されている、二条城二の丸庭園の光景です。二条城は、慶長年間の造営後も拡張・整備が続けられ、完成したのは寛永3年(1626年)でした。京都における将軍の居館としての役割を持つようになりました。しかし、江戸幕府時代の二条城は、寛永11年(1634年)以後、文久2年(1863年)までは利用されることがなかったようです。

  • 明治から昭和初めにかけても、一時期を除き皇室の離宮となっていたため、一般の人の目に触れることは、まずなかったようです。昭和14年(1939年)、国から京都市に下賜されてから公開されるようになりました。二の丸庭園が今見るような形になったのは寛永3年(1626年)になってからとされます。当時、二条城の構造奉行だった小堀遠州の指揮のもとに完成しました。

    イチオシ

    明治から昭和初めにかけても、一時期を除き皇室の離宮となっていたため、一般の人の目に触れることは、まずなかったようです。昭和14年(1939年)、国から京都市に下賜されてから公開されるようになりました。二の丸庭園が今見るような形になったのは寛永3年(1626年)になってからとされます。当時、二条城の構造奉行だった小堀遠州の指揮のもとに完成しました。

  • 二条城二の丸庭園とその周りの建物光景です。小堀遠州(1579~1647年)の本名は小堀政一、既に紹介したように、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名、茶人、建築家、作庭家で書家でした。父の小堀正次は、縁戚であった浅井氏に仕えていましたが、天正元年(1573年)の浅井氏滅亡後は、羽柴秀吉の弟・秀長の家臣となりました。

    イチオシ

    二条城二の丸庭園とその周りの建物光景です。小堀遠州(1579~1647年)の本名は小堀政一、既に紹介したように、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名、茶人、建築家、作庭家で書家でした。父の小堀正次は、縁戚であった浅井氏に仕えていましたが、天正元年(1573年)の浅井氏滅亡後は、羽柴秀吉の弟・秀長の家臣となりました。

  • 天正13年(1585年)、豊臣秀長(1540~1491年)が110万石で郡山城に移封されると、正次は家老となり、政一も共に郡山に移りました。秀長は山上宗二を招いたり、千利休に師事するなど、郡山は京・堺・奈良と並んで茶の湯の盛んな土地となっていました。小姓だった政一は、秀吉への給仕を務め、利休や黒田如水、長政父子とも出会い、長い親交を深めていきました。

    天正13年(1585年)、豊臣秀長(1540~1491年)が110万石で郡山城に移封されると、正次は家老となり、政一も共に郡山に移りました。秀長は山上宗二を招いたり、千利休に師事するなど、郡山は京・堺・奈良と並んで茶の湯の盛んな土地となっていました。小姓だった政一は、秀吉への給仕を務め、利休や黒田如水、長政父子とも出会い、長い親交を深めていきました。

  • 特別名勝の二条城二の丸庭園に造成された滝のズームアップ光景です。庭園のみどころの一つです。豊臣政権を陰で支えた名参謀の秀長について、少しだけ紹介しておきます。豊臣政権の中でも、秀吉に意見できる数少ない貴重な存在でした。秀長が生きていれば、利休や関白秀次への切腹命令や、無謀な朝鮮侵攻も起きなかったのではないかとも言われます。温厚な性格で、調整能力にも秀でていました。

    特別名勝の二条城二の丸庭園に造成された滝のズームアップ光景です。庭園のみどころの一つです。豊臣政権を陰で支えた名参謀の秀長について、少しだけ紹介しておきます。豊臣政権の中でも、秀吉に意見できる数少ない貴重な存在でした。秀長が生きていれば、利休や関白秀次への切腹命令や、無謀な朝鮮侵攻も起きなかったのではないかとも言われます。温厚な性格で、調整能力にも秀でていました。

  • 回遊式の池泉の畔の石組のズームアップ光景です。小堀遠州は、作事奉行とし禁裏や城、茶室の作事を行い、今でも現代の建築家の手本となっています。茶道にも共通する端正な美学が、作庭や建築物にも表現され、現存する大徳寺孤篷庵、金地院などがその代表作とされます。

    回遊式の池泉の畔の石組のズームアップ光景です。小堀遠州は、作事奉行とし禁裏や城、茶室の作事を行い、今でも現代の建築家の手本となっています。茶道にも共通する端正な美学が、作庭や建築物にも表現され、現存する大徳寺孤篷庵、金地院などがその代表作とされます。

  • 池に写り込んだ庭木や空の光景です。小堀遠州の公儀作事の主な業績としては、備中松山城の再建、駿府城修築、名古屋城天守、後陽成院御所造営等の宮中や幕府関係の作事奉行が挙げられます。宮中造営の業績のほかに品川東海寺(徳川家の菩提寺兼別荘)、将軍上洛の休泊所の水口御殿(甲賀市)、永原御殿(野洲市)、伊庭御殿(東近江市)、柏原御殿(米原市)、大坂城内御茶屋などが知られています。

    池に写り込んだ庭木や空の光景です。小堀遠州の公儀作事の主な業績としては、備中松山城の再建、駿府城修築、名古屋城天守、後陽成院御所造営等の宮中や幕府関係の作事奉行が挙げられます。宮中造営の業績のほかに品川東海寺(徳川家の菩提寺兼別荘)、将軍上洛の休泊所の水口御殿(甲賀市)、永原御殿(野洲市)、伊庭御殿(東近江市)、柏原御殿(米原市)、大坂城内御茶屋などが知られています。

  • 庭園の脇の建物光景です。二条城では、1611年(慶長16年)3月28日に、徳川家康と豊臣秀頼が行った『二条城会見』も史上有名です。後水尾天皇の即位の儀式に立ち会うため、当時69歳の徳川家康は駿府城より4年振りの上洛を行いました。織田長益(有楽斎)や高台院(秀吉正室)などを通じて、孫娘の千姫の婿である豊臣秀頼(17歳)に、二条城における会見を要請した出来事です。

    庭園の脇の建物光景です。二条城では、1611年(慶長16年)3月28日に、徳川家康と豊臣秀頼が行った『二条城会見』も史上有名です。後水尾天皇の即位の儀式に立ち会うため、当時69歳の徳川家康は駿府城より4年振りの上洛を行いました。織田長益(有楽斎)や高台院(秀吉正室)などを通じて、孫娘の千姫の婿である豊臣秀頼(17歳)に、二条城における会見を要請した出来事です。

  • 世界遺産に登録されている、二条城二の丸御殿の建物の一つです。秀頼の生母である淀殿は、『家康が大坂に来るべき』と難を示しましたが、片桐且元、加藤清正、浅野長政などが、両家の不和を危惧して説得しました。豊臣秀頼にとって、大坂城の外の世界は、慶長4年(1599年)1月に伏見城から移って以来、12年振りのことでした。外の世界を見せなかったのは、淀殿の計らいがあったようです。

    世界遺産に登録されている、二条城二の丸御殿の建物の一つです。秀頼の生母である淀殿は、『家康が大坂に来るべき』と難を示しましたが、片桐且元、加藤清正、浅野長政などが、両家の不和を危惧して説得しました。豊臣秀頼にとって、大坂城の外の世界は、慶長4年(1599年)1月に伏見城から移って以来、12年振りのことでした。外の世界を見せなかったのは、淀殿の計らいがあったようです。

  • 二条城二の丸御殿の建物の破風のズームアップ光景です。秀頼公の一行は、竹田街道を通り京都に入り、片桐且元の京屋敷で秀頼の衣装を整え、隊列を組み直して二条城へ向かいました。秀頼は、玄関先にまで出迎えた家康に丁寧な挨拶を返したとされます。高台院も臨席して盃を受け、会見は2時間ほどで終了しました。秀頼は、船で帰路に付き、途中、清正の伏見屋敷に入り、大坂城へ戻りました。

    二条城二の丸御殿の建物の破風のズームアップ光景です。秀頼公の一行は、竹田街道を通り京都に入り、片桐且元の京屋敷で秀頼の衣装を整え、隊列を組み直して二条城へ向かいました。秀頼は、玄関先にまで出迎えた家康に丁寧な挨拶を返したとされます。高台院も臨席して盃を受け、会見は2時間ほどで終了しました。秀頼は、船で帰路に付き、途中、清正の伏見屋敷に入り、大坂城へ戻りました。

  • 二の丸庭園の見学を終え、次の場所に向かう途中の光景です。二条城の会見が無事に済み、大坂の上下万民、京堺あたりの畿内の庶民も、天下泰平を祝ったとされます。しかし、家康の腹中はわかりませんが、この会見で、豊臣家との最終的な決着を決めたとの説もあります。家康のことを気にしながら、加藤清正、福島正則と浅野幸長の三大名は秀頼を守り抜きました。

    二の丸庭園の見学を終え、次の場所に向かう途中の光景です。二条城の会見が無事に済み、大坂の上下万民、京堺あたりの畿内の庶民も、天下泰平を祝ったとされます。しかし、家康の腹中はわかりませんが、この会見で、豊臣家との最終的な決着を決めたとの説もあります。家康のことを気にしながら、加藤清正、福島正則と浅野幸長の三大名は秀頼を守り抜きました。

  • 二の丸御殿の雁行する建物群の、一番北側に位置する建物のようです。秀吉の旧臣の中でも、この会見に時点では藤堂高虎と池田輝政は、完全に家康の中枢の立場となっていました。家康は高虎・輝政に命じて、関ヶ原の翌年から、将来の大坂城攻撃を想定して次々と築城をさせました。膳所城を皮切りに、伏見城、二条城、彦根城、篠山城、亀山城、名古屋城などです。

    二の丸御殿の雁行する建物群の、一番北側に位置する建物のようです。秀吉の旧臣の中でも、この会見に時点では藤堂高虎と池田輝政は、完全に家康の中枢の立場となっていました。家康は高虎・輝政に命じて、関ヶ原の翌年から、将来の大坂城攻撃を想定して次々と築城をさせました。膳所城を皮切りに、伏見城、二条城、彦根城、篠山城、亀山城、名古屋城などです。

  • 二条城の会見後の慶長16年(1611年)に浅野長政、堀尾吉晴・加藤清正が、慶長18年(1613年)に池田輝政、浅野幸長、慶長19年(1614年)に前田利長が亡くなったことで、豊臣家の孤立は強まりました。清正をはじめ、いくつかの死には暗殺説もあります。『大坂冬の陣』が始まったのが、慶長19年(1614年)、二条城での会見から約4年後のことです。既に徳川方の勢力が大きく豊臣側を凌いでいました。

    二条城の会見後の慶長16年(1611年)に浅野長政、堀尾吉晴・加藤清正が、慶長18年(1613年)に池田輝政、浅野幸長、慶長19年(1614年)に前田利長が亡くなったことで、豊臣家の孤立は強まりました。清正をはじめ、いくつかの死には暗殺説もあります。『大坂冬の陣』が始まったのが、慶長19年(1614年)、二条城での会見から約4年後のことです。既に徳川方の勢力が大きく豊臣側を凌いでいました。

  • 国の重要文化財の『本丸櫓門』の光景です。織田信長が15代将軍足利義昭のために造営した『旧二条城(二条御所)』や、本能寺の変で嫡男の信忠が自刃した『二条新造御所(誠仁親王御所)』とは別の場所に建つ現在の二条城です。『二条新造御所』は2002年の発掘調査で、現場から『洛中洛外図屏風』に描かれた二条家の邸宅である『二条殿』の『龍躍池』の一部と推定される庭園跡が発見されました。

    国の重要文化財の『本丸櫓門』の光景です。織田信長が15代将軍足利義昭のために造営した『旧二条城(二条御所)』や、本能寺の変で嫡男の信忠が自刃した『二条新造御所(誠仁親王御所)』とは別の場所に建つ現在の二条城です。『二条新造御所』は2002年の発掘調査で、現場から『洛中洛外図屏風』に描かれた二条家の邸宅である『二条殿』の『龍躍池』の一部と推定される庭園跡が発見されました。

  • 『重要文化財・本丸櫓門』のタイトルがあった説明看板の光景です。寛永3年(1626年)頃の造営で、焼失した本丸西櫓門と並んで、本丸を守る重要な門と説明されていました。寛永3年は、後水尾天皇の行幸の年です。その時の橋は二階建で、天皇は下を歩くことなく、畳の上を歩いて天守に二度登られたようです。二階橋の一部は昭和5年(1930年)頃まで残っていましたが、解体されて、その部材は土蔵に保管されていることも紹介されていました。

    『重要文化財・本丸櫓門』のタイトルがあった説明看板の光景です。寛永3年(1626年)頃の造営で、焼失した本丸西櫓門と並んで、本丸を守る重要な門と説明されていました。寛永3年は、後水尾天皇の行幸の年です。その時の橋は二階建で、天皇は下を歩くことなく、畳の上を歩いて天守に二度登られたようです。二階橋の一部は昭和5年(1930年)頃まで残っていましたが、解体されて、その部材は土蔵に保管されていることも紹介されていました。

  • 二条城のお堀と、石垣の光景です。石垣の光景をズームアップしてみましたが、所々に小さな石が挟まれているものの、打込み接ぎではなく、切込み接ぎに近い積み方でした。

    二条城のお堀と、石垣の光景です。石垣の光景をズームアップしてみましたが、所々に小さな石が挟まれているものの、打込み接ぎではなく、切込み接ぎに近い積み方でした。

  • 同じく、二条城のお堀と、石垣の光景です。橋の名前は確認できませんでしたが、二の丸と本丸との間に架かるはそ上から眺めた左方向の光景です。逆光での撮影になりました、先程が東方向、こちらが西方向の光景になるようです。

    同じく、二条城のお堀と、石垣の光景です。橋の名前は確認できませんでしたが、二の丸と本丸との間に架かるはそ上から眺めた左方向の光景です。逆光での撮影になりました、先程が東方向、こちらが西方向の光景になるようです。

  • 『本丸櫓門』の鎧戸の光景です。火攻めに耐えるよう、表面には銅板が全面に鋲で止めてありました。扉の厚さも相当なものです。本丸には、井戸や米蔵もの備えられ、籠城も視野に入れた造りのようです。

    イチオシ

    『本丸櫓門』の鎧戸の光景です。火攻めに耐えるよう、表面には銅板が全面に鋲で止めてありました。扉の厚さも相当なものです。本丸には、井戸や米蔵もの備えられ、籠城も視野に入れた造りのようです。

  • 『本丸櫓門』の鎧戸のズームアップ光景です。戸の下部に『潜り戸』のような細工がありましたが、折角の鎧戸に弱点を設けるはずはありませんから、別の細工かも知れません。

    『本丸櫓門』の鎧戸のズームアップ光景です。戸の下部に『潜り戸』のような細工がありましたが、折角の鎧戸に弱点を設けるはずはありませんから、別の細工かも知れません。

  • 戦国時代を思わせるような本丸の防備の光景です。虎口を形成しているらしい石垣と、狭間を備えた土塀の光景です。本丸の内側の光景になります。修復はされているのでしょうが、原形を留めている石垣と土塀のように見えました。<br />

    戦国時代を思わせるような本丸の防備の光景です。虎口を形成しているらしい石垣と、狭間を備えた土塀の光景です。本丸の内側の光景になります。修復はされているのでしょうが、原形を留めている石垣と土塀のように見えました。

  • 同じく、虎口を形成しているらしい石垣と、狭間を備えた土塀の光景です。土塀の支柱は、外からの攻撃に対する補強のようですが、結果として有効な地震対策にもなっているようでした。

    同じく、虎口を形成しているらしい石垣と、狭間を備えた土塀の光景です。土塀の支柱は、外からの攻撃に対する補強のようですが、結果として有効な地震対策にもなっているようでした。

  • 本丸側から眺めた、『本丸櫓門』の光景です。『本丸東櫓門』とも呼ばれているようです。入母屋造、本瓦葺きの櫓門で、寛永3年(1626年)に徳川家光が造営した本丸内の建物のうち、天明8年(1788年)に起きた『天明の大火』で唯一焼け残った遺構です。国の重要文化財に指定されています。

    本丸側から眺めた、『本丸櫓門』の光景です。『本丸東櫓門』とも呼ばれているようです。入母屋造、本瓦葺きの櫓門で、寛永3年(1626年)に徳川家光が造営した本丸内の建物のうち、天明8年(1788年)に起きた『天明の大火』で唯一焼け残った遺構です。国の重要文化財に指定されています。

  • 本丸櫓門の近くの石垣のズームアップ光景です。複雑な加工をした石材を組み合わせた切り込み接ぎに近い積み方でした。石工さんの遊び心も入っているかも知れません。

    本丸櫓門の近くの石垣のズームアップ光景です。複雑な加工をした石材を組み合わせた切り込み接ぎに近い積み方でした。石工さんの遊び心も入っているかも知れません。

  • 本丸の城内側から眺めた、本丸櫓門方面の光景です。楼門を潜った後に虎口の守りが備えていました。侵入しても、直進は出来ない石垣配置です。戸惑ったところで、石垣の上から狙い撃ちされそうです。石垣の上には櫓があったのかも知れません。

    本丸の城内側から眺めた、本丸櫓門方面の光景です。楼門を潜った後に虎口の守りが備えていました。侵入しても、直進は出来ない石垣配置です。戸惑ったところで、石垣の上から狙い撃ちされそうです。石垣の上には櫓があったのかも知れません。

  • 本丸を区画する土塀の光景です。本丸の外側は、全周を内堀で守られていますが、その内堀とは離れた場所にあった簡易な土塀です。土塀の下には通風のためらしい隙間がありました。

    本丸を区画する土塀の光景です。本丸の外側は、全周を内堀で守られていますが、その内堀とは離れた場所にあった簡易な土塀です。土塀の下には通風のためらしい隙間がありました。

  • 少し離れた場所からの『本丸櫓門』方面の光景です。櫓門尾近くに、石垣に登るための石段がありました。『本丸櫓門』を横から守る機能もあるようでした。『雁木』と呼ばれています。

    少し離れた場所からの『本丸櫓門』方面の光景です。櫓門尾近くに、石垣に登るための石段がありました。『本丸櫓門』を横から守る機能もあるようでした。『雁木』と呼ばれています。

  • 『本丸庭園』のタイトルがあった説明看板の光景です。明治29年(1896年)、明治天皇の指示によって造営された庭園と紹介されていました。明治26~27年(1893~1894年)、京都御所の北東部にあった桂宮御殿が、本丸に移設された後、本丸庭園も改造されました。移築された桂宮御殿が、現在の本丸御殿です。

    『本丸庭園』のタイトルがあった説明看板の光景です。明治29年(1896年)、明治天皇の指示によって造営された庭園と紹介されていました。明治26~27年(1893~1894年)、京都御所の北東部にあった桂宮御殿が、本丸に移設された後、本丸庭園も改造されました。移築された桂宮御殿が、現在の本丸御殿です。

  • 『本丸庭園』の中の庭木の光景です、常緑樹が多い中に、紅葉した樹木がありました。落葉を始めた楓の樹でした。その先に見えるのは、『本丸櫓門』の脇から続いていた石段の防衛設備の光景です。石垣や土塁に昇降するために付設された石階段で、『雁木(がんぎ)』と呼ばれています。

    『本丸庭園』の中の庭木の光景です、常緑樹が多い中に、紅葉した樹木がありました。落葉を始めた楓の樹でした。その先に見えるのは、『本丸櫓門』の脇から続いていた石段の防衛設備の光景です。石垣や土塁に昇降するために付設された石階段で、『雁木(がんぎ)』と呼ばれています。

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