2017/12/02 - 2017/12/02
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旅人のくまさんさん
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彦根城は、現在の滋賀県彦根市金亀町にある標高50メートルの彦根山に、井伊氏の拠点として置かれた平山城です。山は『金亀山(こんきやま)』の異名を持つため、『金亀城(こんきじょう)の別名を持ちます。
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先に紹介した古い門とは別の、新しい門の光景です。埋木舎には柳が植えられていました。直弼は柳をことのほか愛し、号にも『柳王舎』を使うことが多かったようです。また、直弼はある時、外出先で非常に立腹することがありましたが、帰宅して庭に植えられた柳を見て、『むっとして 戻れば庭に 柳かな』という句を詠み、心を落ち着けたと言われます。
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門の近くに建てられていた、『埋木舎』の文字が刻まれた石標の光景です。1984年(昭和59年)の豪雪で建物が倒壊したため、11月から修理に入りました。この修復では、1985年(昭和60年)2月に彦根市が一般公開を条件として助成を決め、国からの補助金が出ることが決まりました。約4年かけて全面的に解体修理が進められ、直弼が住んでいた頃のように復元されました。1991年(平成3年)3月に完工記念式が行われ、同年4月1日から内部も一般公開されました。
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井伊直弼が自ら命名した、『埋木舎(うもれぎのや)』の紹介はこれでおしまいです。お城の堀を挟んで右側が『埋木舎』、左側が彦根城の白塀です。直弼は、藩主となるまでを、この『埋木舎』で過ごしました。
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かつての彦根城の縄張りの紹介です。完成した彦根の城下町は、三重の堀によって四つに区画されていました。内堀の内側の第1郭は、天守を中心として各櫓に囲まれた丘陵部分と藩庁である表御殿(現在の彦根城博物館)などで構成されていました。内堀と中掘に囲まれた第2郭は、藩主の下屋敷である槻御殿(現在の玄宮楽々園)と家老など千石以上の高禄の武士の邸宅が広がっていました。
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彦根城の縄張り紹介の続きです。中掘と外堀の間の第3郭は、内町(うちまち)と呼ばれ、中級以下の武家屋敷と町屋がありました。また、外堀の外の第4郭は、外町(とまち)と呼ばれ、商工人の住居と足軽の組屋敷がありました。内町、外町ともに武士と町人が合わせて居住していますが、居住地は明確に区分されていました。写真は二の丸佐和口多門櫓の光景です。国の重要文化財に指定されています。
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現在の彦根城の平面図です。おおむね二重の堀が現在も残されています。現在位置は、二の丸佐和口多門櫓の近くですが、先ほど見学してきた埋木舎や元池田屋敷跡の場所も近くに記されています。
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イチオシ
国の重要文化財に指定されている、二の丸佐和口多門櫓付近の光景です。通り道がクランク構造に造られた虎口のようでした。佐和口は南の京橋口、西の船町口、北の長橋口とともに中堀に開かれた四つの門の一つです。表門に通じる入口として、大手の京橋口とともに彦根城の重要な城門でした。
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二の丸佐和口多門櫓から北方面に伸びる石垣と多門櫓の光景です。多門櫓の先には、先に紹介した、隅櫓の姿がありました。関ヶ原合戦後の論功行賞により、石田三成の居城だった佐和山城を与えられたのは、のちに徳川四天王の一人に称えられた井伊直政でした。慶長6年(1601年)正月、直政は上野国高崎城(群馬県高崎市)から佐和山に入りました。
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虎口の右手の佐和口多門櫓のズームアップ光景です。井伊直政は、関ヶ原合戦で受けた鉄砲傷が悪化し、翌年の慶長6年(1601年)に亡くなりました。嫡子の直継は未だ若年でしたから、直政より後事を託されたのは家老の木俣守勝でした。城の移築計画を徳川家康にはかり、慶長9年(1604年)7月、佐和山城の西方約2キロの彦根山に、新たな築城工事が始まりました。20年を要して出来上がったのが彦根城です。この櫓と太鼓櫓は、廃城となった佐和山城からの移築とされます。また、天守も大津城からの移築でした。
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虎口の左手の多門櫓の光景です。前期工事では、本丸や鐘の丸などの城郭主要部が築かれました。幕府から3名の奉行が派遣され、近隣諸国の大名に助役(すけやく)が命ぜられるなど、天下普請の様相を呈していました。織田信長は佐和山城に丹羽長秀、ほど近い長浜城を羽柴秀吉配しました。また、豊臣秀吉と徳川家康はそれぞれ重臣の石田三成と井伊直政を、この地に配置しました。
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イチオシ
佐和口門のかつての枡形の姿を残した、虎口の光景です。彦根城は、琵琶湖と山の間、5キロほどの狭い平地に立地します。中山道と北陸道(俗称:北国街道)が合流する、水陸双方から京に至る、東国と西国の結節点となる、戦国時代の戦略地点として、重要な場所に位置していました。
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佐和口多門櫓の石垣のズームアップ光景です。東国と西国の結節点となるこの地では、白鳳元年(672年)の『壬申の乱』、元亀元年(1570年)の『姉川の戦い』、天正11年(1583年)の『賤ヶ岳の戦い』、そして慶長5年(1600年)の『関ヶ原の戦い』など、古来多くの合戦がこの周辺で行われました。
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『佐和口多門櫓・重要文化財』のタイトルがあった説明看板です。かつての『佐和口』には、中堀に接して高麗門が設けられ、最強の枡形になっていたことが紹介されていました。
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佐和口多門櫓を潜ったお城の内側の光景です。多門櫓の一角に百名城スタンプを置いた開国記念館がありました。彦根城はに日本百名城の50番に選ばれています。
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彦根城内の紅葉の光景です。徳川四天王の一人だった井伊直政(1561~1602年)の遺志を継いで、彦根城の築城が始まったのが慶長8年(1603年)、完成したのは元和8年(1622年)のことでした。直政は、赤備えを纏って兜には鬼の角のような立物をあしらい、長槍で敵を蹴散らしていく勇猛果敢な姿が『井伊の赤鬼』と称されて、諸大名から恐れられました。
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同じく、彦根城内の紅葉や常緑樹の光景です。近江国佐和山藩(彦根藩)の初代藩主だった、『井伊直政』の紹介を続けます。直政は、永禄4年(1561年)2月、今川氏の家臣である井伊直親の嫡男として、遠江国井伊谷の近く(現在の浜松市)で生まれました。井伊氏は代々、井伊谷の国人領主です。当時の井伊家当主の井伊直盛(父・直親の従兄で養父)は、今川義元に仕えて桶狭間の戦いで戦死しました。
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小高い場所に見える隅櫓と多門櫓の光景です。父の直親は、虎松(直政の幼名)の生まれた翌年の永禄5年(1562年)、謀反の嫌疑を受けて今川氏真(今川義元の嫡男)に誅殺されました。当時、虎松はわずか2歳でしたから、当主だった直盛の娘に当たる次郎法師が井伊直虎と名乗り、井伊氏の当主となりました。NHKの大河ドラマの『おんな城主 直虎』で話題を呼びました。
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直政は、彦根城の築城が開始されると同時に佐和山藩(18万石)は廃藩となり、代わってこの地には新たに彦根藩(30万石)が置かれました。それ以来、彦根藩は明治時代になるまで井伊氏の藩として栄えることとなりました。井伊家からは、四人の大老を輩出しました。大老職は、井伊家、酒井家(雅楽頭流酒井家)、土井家と堀田家の四家に限られたようです。
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直政は、徳川四天王の一人にも数えられました。安土桃山時代から江戸時代初期に、徳川家康の側近として仕えて江戸幕府の樹立に功績を立てた酒井忠次、本多忠勝、榊原康政と井伊直政の4人の武将を顕彰した呼称です。仏教の四天王に準えたものです。類似の呼び方として、四天王に12人を加えた『徳川十六神将』があります。
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重要文化財に指定されている馬屋の入口付近の光景です。左側に見える白い接系看板には、『馬屋』のタイトルがありました。『全国の近世城郭に残る大規模な馬屋として例がない』ことが紹介されていました。
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『重要文化財(建造物)彦根城馬屋』のタイトルがあった古い木板の説明看板です。昭和43年(1968年)に建てられた、滋賀県教育委員会、彦根市と彦根市教育委員会三者連名の説明看板でした。
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近年に化粧直しがされたのでしょうか、真っ白な外観の馬屋の壁と軒下でした。出入口は、複数設けてありました。緊急の場合の対応が考慮されているようでした。
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イチオシ
国の重要文化財の馬屋の内部光景です。リアルに表現された馬の置物がありました。おとなしそうな顔付きでした。カイバ桶も置かれていましたが、竹製の低い柵が簡単に乗り越えられそうで、意外な光景でした。
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『重要文化財・馬屋』のタイトルがあった説明看板です。21頭の馬が収容できたことなどが紹介されていました。全国の近世城郭に残る大規模な馬屋として、ほかに例がないようです。『重要文化財の馬屋』でネット検索しても、他に例がありませんでした。
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花のピークの時期は過ぎてしまったツワブキ(石蕗、艶蕗)です。ツワブキは、キク科ツワブキ属の常緑多年草です。冬でも葉が緑のままで、食用にもなります。
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見学を終えた後で、振り返って眺めた馬屋の光景です。L字形をなしていて、全長は62.2メートル、奥行5.9メートルの規模になります。L字の角の部分は、写真に写っていない右側になりますが、復元されていないかも知れません。
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縄張図や、現況の地図を参照しますと。『佐和口多門櫓』の裏側光景になるようでした。表側がお堀に面した建物です。佐和口は南の京橋口、西の船町口、北の長橋口とともに彦根城の四つの門の一つです。表門に通じる入口として、大手門がある京橋口とともに彦根城の重要な城門でした。二の丸の諸建築は元和8年(1622年)にほぼ完成しました。明和4年(1767年)の火災で焼失し、その後再建されました。
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観光案内所の近くに設置してあった、彦根城の縮小モデルです。国宝に指定されている、実物の方がずっと綺麗に見えます。
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国の重要文化財の『佐和口多門櫓』や『馬屋』がある『二の丸』から眺めた本丸方面の光景です。手前の右端にあるのが『馬屋』、その左手には、観光案内らしい建物がありました。中央奥の松の木の陰に天守も見えていました。
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同じく、『馬屋』などがある『二の丸』から眺めた本丸方面の光景です。その手前の内堀に架かる木橋が見えました。城址の一部として再建された橋ではないらしく、名前を調べても分かりませんでした。
(追記)一部の資料には、『表門橋』の表記がありましたが、正式名かどうかは分かりませんでした。
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