2017/12/02 - 2017/12/02
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旅人のくまさんさん
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二条城が完成する前の慶長8年(1603年)2月、家康は伏見城において征夷大将軍の宣旨を受けました。竣工間もない二条城に入城したのは、3月12日とされます。同月25日、室町幕府以来の慣例である『拝賀の礼』のため、御所への行列を発しました。
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日本庭園とは趣が異なる、様式庭園の『本丸庭園』の光景です。天明8年(1788年)の大火の飛び火によって、本丸御殿、隅櫓、多聞櫓などが焼失しました。庭園も延焼して空地となっていたようです。幕末には、本丸内に最後の征夷大将軍の徳川慶喜(よしのぶ:1837~1913年)の居室が建てられ、庭園は茶庭風に作られました。その後、明治に造られたのが現在の本丸庭園です。
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本丸庭園は、本丸御殿が移築された後に作庭が始まり、1896年(明治29年)に完成した洋風庭園です。日本庭園と異なり、池や枯山水ではなく、芝生と植樹を中心とした回遊式の洋式庭園です。現在の二条城には、江戸時代に造られた二の丸庭園、明治時代の本丸庭園、昭和時代の清流園の三つの庭園があります。
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江戸時代の二条城とは無関係とされる、『本丸御殿』の建物光景です。過去には春と秋に期間限定で公開されていましたが、耐震性の不足が判明したため、2007年(平成19年)春を最後に、内部公開は中止されています。
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同じく、今は内部見学が出来なくなった本丸御殿の光景です。創建当時の本丸御殿は、二の丸御殿にほぼ匹敵する規模を持っていて、内部は狩野派の障壁画で飾られていました。しかし、天明8年(1788年)の市中の大火のため、本丸御殿は焼失してしまいました。また、本丸には五層の天守閣が聳えていましたが,寛延3年(1750年)落雷のために焼失しています。
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本丸御殿の甍のズームアップ光景です。この旧桂宮御殿は、京都御所にあった当時、仁孝天皇の皇女和宮が14代将軍家茂に嫁がれる前、約1年8ヵ月にわたって住まわれた建物です。嘉永7年(1854年)、内裏が炎上したときにも延焼を免れ、孝明天皇の仮皇居に使用された由緒深い建物です。孝明天皇は、明治天皇の父です。
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北西方面から眺めた本丸御殿の光景です。幕末の最後の将軍、徳川慶喜に対しては、恭順謹慎、江戸無血開城などにより、無血革命に近い状態で政権移譲できたことから、近代日本の独立性が守られ、維新への功績は大きいとの評価があります。勝海舟は、皇居参内の翌日、慶喜がわざわざ訪ねて来て、礼を言われたため、生きていた甲斐があったと、うれし涙をこぼしたとされます。
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本丸庭園の隅の方の光景です。推測になりますが、幕末に建てられた、最後の征夷大将軍の徳川慶喜の居室のために造られた茶庭風庭園の名残のようです。飛び石や石灯篭の光景です。無血開城の当役者、勝海舟についても少し紹介しておきます。慶喜が強硬派を罷免、海舟は海軍奉行並、続いて徳川家の家職である陸軍総裁に昇進し、恭順姿勢を取る慶喜の意向に沿い、朝廷などとの交渉を始めました。
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芝生を張った、洋風の本丸庭園光景です。勝海舟の紹介の続きです。官軍が駿府城にまで迫ると、早期停戦と江戸城の無血開城を主張、ここに歴史的な和平交渉が始まりました。海舟は、山岡鉄舟を駿府の西郷隆盛との交渉に向かわせ、基本条件を整えました。鉄舟は、官軍が警備する中を『朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る』と大音声で堂々と歩行していったと伝わります。剣の達人で傑物です。
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芝生を張った本丸庭園の光景が続きます。予定されていた江戸城総攻撃の3月15日の直前の13日と14日には海舟が西郷と会談、江戸城開城の手筈と徳川宗家の今後などについての交渉を行いました。その結果、江戸城下での市街戦という事態は回避され、江戸の住民150万人の生命と家屋・財産の一切が戦火から救われました。
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後に見える石段は、何度も粗油買いする『雁木』と呼ばれる防御施設です。海舟は交渉に当たり、幕府側についたフランスに対抗すべく、新政府側を援助していたイギリスを利用し、英国公使のパークスを抱き込んで新政府側に圧力をかけさせました。さらに交渉が完全に決裂した時は、焦土作戦の準備をして西郷に決断を迫ったとされます。
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内堀に囲まれた本丸の西南角にある、天守台への登り口の石段光景です。慶長20年(1615年)に一国一城令が出され、廃城とした伏見城の天守が移築された場所です。この寛永期天守は、取付矢倉が付属する層塔型5重5階の天守でしたが、寛延3年(1750年)に落雷で焼失して以来、再建されませんでした。天守台の広さは、150メートル四方です。
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『天守閣跡』のタイトルがあった説明看板です。先ほど紹介した、後水尾天皇が二回登られたと伝わる、寛永期天守について紹介されていました。それ以前の天守についても簡単に説明されていましたので、もう少し補足してこきます。創建時の天守は、『洛中洛外図屏風』に城の北西部分(現在の清流園の辺り)に望楼型の5重天守として描かれています。この天守は慶長期に家康によって現在の二ノ丸北西隅に建てられたもので、大和郡山城天守の移築説があります。記録には小天守や渡廊下の記述があり、天守曲輪を形成していたようです。慶長19年(1614年)に『大坂冬の陣』が勃発、二条城は大御所(家康)の本営となりました。伏見城から出撃する将軍秀忠の軍勢に続き、家康は二条城から大坂へ軍を進めました。この天守は、3代将軍・家光の時に行われた、寛永の大改修時に淀城に再び移築されました。
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二条城の天守閣が建っていた天守台の石垣光景です。打込み接ぎの石積のようでした。元和5年(1619年)、二代将軍・秀忠は、娘・和子の後水尾天皇への入内に備え、二条城の改修を行いました。この時の縄張は、秀忠自らが藤堂高虎と共に行ったされますが、実態は、秀忠は二つの案から一方を最終選定しただけでした。将軍自らの縄張りであると、藤堂高虎に持ち上げられたようです。
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『天守台』から眺めた本丸庭園の光景です。元和6年(1620年)6月、徳川和子は二条城から長大な行列を作り、後水尾天皇のもとへ入内しました。徳川秀忠と正室・江(崇源院)夫妻の間に7番目の子(五女)として江戸城大奥で生まれ、徳川家康の内孫でした。はじめ『かずこ』でしたが、入内に際し、濁音を忌み嫌う宮中の慣習にしたがい、『まさこ』に改めました。
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天守台から眺めた、二条城内の建物光景です。右手方面が、先に見学してきた二の丸御殿になるようです。徳川家光が将軍、秀忠が大御所となった翌寛永元年(1624年)から、二条城は後水尾天皇の行幸を迎えるため大改築が始まりました。城域は西に拡張され、天守も拡張された西側に位置を変え、廃城となった伏見城の天守を移築しました。作事奉行には小堀政一と五味豊直が任じられました。
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同じく、天守台から眺めた、二条城内の建物光景です。雁行する二之丸御殿の一番北側付近の建物光景になるようです。二女油状の築城では、尾張藩や紀伊藩などの親藩や譜代の19家が石垣普請を担当しました。行幸は、寛永3年9月6日(1626年10月25日)から5日間に亘って行われました。その間舞楽、能楽の鑑賞、乗馬、蹴鞠、和歌の会が催されました。この行幸が、二条城の最盛期とされます。
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天守台からの眺めが続きます。この方角は、南側になるようです。城内の高い樹木と、内堀に沿った雁木の光景が見えています。行幸のために新たに建てられた行幸御殿は、上皇となった後水尾院の御所に移築されました。その他多くの建物が解体撤去されました。近代で例えれば、会期が終わった万博のパビリオンといったところでしょうか。
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天守台から眺めた内堀の光景です。この光景も南側方面になるようです。内堀の東南角が見えていました。水面には、沢山の水鳥の姿がありました。第二代将軍の秀忠は、寛永9年(1632年)に亡くなり、寛永11年(1634年)7月、家光が30万7千の兵を引き連れ上洛し、二条城に入城したのを最後に、幕末の動乱期までの230年間、二条城は歴史の表舞台から姿を消しました。
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眼下に眺めた内堀光景です。この方角が南方向になるようです。内堀の先には、西丸エリアの梅林があり、左手方面の東側には桜園が続きます。
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天守台の直近になる、内堀の西南角付近の光景です。内堀の外に見える長い屋根の建物は、西南角の土蔵です。内堀の外側には、西北角にも土蔵があります。それぞれ、西北土蔵と西南土蔵と呼ばれ、いずれも当時の遺構で、国の重要文化財に指定されています。
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内堀の外に見える、国の重要文化財に指定されている『西南土蔵』の光景です。『西南土蔵』は『南米蔵』、『西北土蔵』は『北米蔵』とも呼ばれているようです。名前から判断して、穀類の貯蔵庫のようでした。
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お堀の西北方面の光景です。かつては西の門から西の丸から外に通じる『西門』へと繋がっていたようです。江戸時代中期の二条城の縄張り図には『西門』が記されていますが、現在は外堀の西側に橋は架けられていません。
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天守台から眺めた黄葉と褐葉の光景です。これらの木々は二条城の敷地内に立っていました。一際高かったその木々を、松の庭木が取り囲んでいました。西北方面の光景になるようです。
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天守台から眺めた、内堀の西北角方面の光景です。本丸の突き出した石垣から西側になる左手に向かって橋が架かっていました。内堀の西北角付近には、西北土蔵の建物が見えていました。帰り道にその前を通りました。
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珍しい剪定をされた松の庭木の光景です。長い幹が高さを競うように上に向かって伸びていました。家康による創建時は、現在の二の丸東側部分が本丸であり、本丸のみで構成される『単郭式』だったとされます。将軍滞在の城としては、規模も小さく防御能力に問題がありそうですが、家臣の疑問に対して家康は、『一日二日も持ちこたえれば周辺から援軍が来る』、『万が一この城が敵の手に落ちたら堅城だと取り返すのに手間がかかる』と答えたと伝えられます。
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天守台の光景です。危険防止の柵が周りに設けてある以外、余分なものはありませんでした。寛永期天守は、取付矢倉が付属する層塔型5重5階の天守でしたが、寛延3年(1750年)に落雷で焼失して以来、再建されませんでした。伏見城の天守が移築されたものでした。
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ここからは、天守台を下りて、本丸庭園の光景になります。石灯篭と庭木の光景です。その背後に石段のような造りの『雁木』が見えていました。
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北側から眺めた本丸御殿常盤殿の光景になるようです。本丸御殿は、御所の北にあった旧桂宮邸(1847年建築)を1893年(明治26年)から1894年(明治27年)にかけて移築したものです。徳川家の二条城とは本来無関係の建物とされます。
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半ば落葉した紅葉の庭木の光景です。見事に剪定された、楓の古木でした。地表に大きな根を這わせていました。周りは、あまり高く無い土塀で囲われていました。
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まだ内堀に架かる西側の橋を渡る前でしたから、本丸内の城門の一つのようでした。次はもう一度、二の丸エリアの見学です。
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