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彦根城本丸からの眺望は見応えがあります。この時期ですと、雪を被った伊吹山、琵琶湖と沖に浮かぶ多景島、紅葉の佐和山城があった佐和山、旧城下町の彦根の市街などが見所です。

2017暮、滋賀と京都の日本百名城(6/17):彦根城(6/11):天守閣の眺望、伊吹山、琵琶湖

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2017/12/02 - 2017/12/02

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

彦根城本丸からの眺望は見応えがあります。この時期ですと、雪を被った伊吹山、琵琶湖と沖に浮かぶ多景島、紅葉の佐和山城があった佐和山、旧城下町の彦根の市街などが見所です。

交通手段
新幹線 JRローカル

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  • 彦根城本丸の目立つ場所に生える梅の古木の光景です。幹は苔生していました。その根元付近にあった案内標識には、奥行きの矢印で『表門』、右向きの矢印で『玄宮園・黒門・西の丸三重櫓』が表示してありました。

    彦根城本丸の目立つ場所に生える梅の古木の光景です。幹は苔生していました。その根元付近にあった案内標識には、奥行きの矢印で『表門』、右向きの矢印で『玄宮園・黒門・西の丸三重櫓』が表示してありました。

  • 同じく、彦根城本丸の目立つ場所に生える梅の古木の光景です。奥に見える白い建物の右端付近に『天守入口』の標識がありました。

    同じく、彦根城本丸の目立つ場所に生える梅の古木の光景です。奥に見える白い建物の右端付近に『天守入口』の標識がありました。

  • 彦根城の『天守入口』付近から眺めた、かつての城下町の光景です。その先の中央に見えるのがかつての佐和山城があった『佐和山』になるようです。その左手奥に伊吹山らしい姿も見えました。

    彦根城の『天守入口』付近から眺めた、かつての城下町の光景です。その先の中央に見えるのがかつての佐和山城があった『佐和山』になるようです。その左手奥に伊吹山らしい姿も見えました。

  • 彦根城の『天守入口』付近から眺めた、琵琶湖方面の光景です。琵琶湖に浮かぶ小さな島が見えていました。この後紹介する、『多景島』です。

    彦根城の『天守入口』付近から眺めた、琵琶湖方面の光景です。琵琶湖に浮かぶ小さな島が見えていました。この後紹介する、『多景島』です。

  • 彦根城の本丸付近の樹木の光景です。樹種は分かりませんが、中々の迫力を持った枝振りの古木でした。苔生した幹と枝と、白っぽい木肌の幹と枝とが輻輳していました。その両脇から、かつての城下町が見えていました。

    彦根城の本丸付近の樹木の光景です。樹種は分かりませんが、中々の迫力を持った枝振りの古木でした。苔生した幹と枝と、白っぽい木肌の幹と枝とが輻輳していました。その両脇から、かつての城下町が見えていました。

  • トクサです。『トクサ(砥草、木賊)』は、トクサ科トクサ属の植物です。同じトクサ科の植物には、ツクシ(土筆)で知られる『スギナ(杉菜)』があります。トクサのツクシのような花が咲く時期には、仲間の植物であることが実感されます。

    トクサです。『トクサ(砥草、木賊)』は、トクサ科トクサ属の植物です。同じトクサ科の植物には、ツクシ(土筆)で知られる『スギナ(杉菜)』があります。トクサのツクシのような花が咲く時期には、仲間の植物であることが実感されます。

  • 黄色の花が満開だった、ツワブキの光景です。ツワブキ(石蕗、艶蕗)は、キク科ツワブキ属に属する常緑多年草です。年中、青葉が見られ、それをバックに咲く黄色の花は風情があります。

    黄色の花が満開だった、ツワブキの光景です。ツワブキ(石蕗、艶蕗)は、キク科ツワブキ属に属する常緑多年草です。年中、青葉が見られ、それをバックに咲く黄色の花は風情があります。

  • 冠雪が始まった伊吹山の光景です。伊吹山(いぶきやま、いぶきさん)は、滋賀県米原市、岐阜県揖斐郡揖斐川町、不破郡関ケ原町にまたがる伊吹山地の主峰です。その最高峰の標高は1377 メートルです。

    イチオシ

    冠雪が始まった伊吹山の光景です。伊吹山(いぶきやま、いぶきさん)は、滋賀県米原市、岐阜県揖斐郡揖斐川町、不破郡関ケ原町にまたがる伊吹山地の主峰です。その最高峰の標高は1377 メートルです。

  • 琵琶湖に浮かぶ小島、『多景島(たけしま・たけいしま)』の光景です。写真をズームアップしましたら、仏塔のような姿が見えました。琵琶湖には、歴史の島の『竹生島』のほか、日本で唯一の『淡水湖に浮かぶ有人島』の『沖の島』もあります。多景島は、竹島とも呼ばれ、1655年(明暦元年)に長浜・妙法寺僧慈雲院の日請上人が島内に日蓮宗見塔寺を開寺しました。島全体が花崗岩とされます。

    琵琶湖に浮かぶ小島、『多景島(たけしま・たけいしま)』の光景です。写真をズームアップしましたら、仏塔のような姿が見えました。琵琶湖には、歴史の島の『竹生島』のほか、日本で唯一の『淡水湖に浮かぶ有人島』の『沖の島』もあります。多景島は、竹島とも呼ばれ、1655年(明暦元年)に長浜・妙法寺僧慈雲院の日請上人が島内に日蓮宗見塔寺を開寺しました。島全体が花崗岩とされます。

  • 東側方面の眺望です。右手に見える紅葉した山が佐和山の裾野付近になるようです。かつて、石田三成が居城とした佐和山城がありました。『三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近に佐和山の城』と称された名城です。石田三成は町民に好かれていたらしく、それを嫌って、井伊直政は彦根に城を移したともされます。

    東側方面の眺望です。右手に見える紅葉した山が佐和山の裾野付近になるようです。かつて、石田三成が居城とした佐和山城がありました。『三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近に佐和山の城』と称された名城です。石田三成は町民に好かれていたらしく、それを嫌って、井伊直政は彦根に城を移したともされます。

  • 本丸から眺めた西方向の光景です。市街地の先に琵琶湖が広がっていました。彦根城の北側には、かつて『松原内湖』が広がり、お城のとの間の水路で西側の琵琶湖に繋がっていたようです。『松原内湖』の南面は、彦根城の外堀の一部にもなっていました。

    本丸から眺めた西方向の光景です。市街地の先に琵琶湖が広がっていました。彦根城の北側には、かつて『松原内湖』が広がり、お城のとの間の水路で西側の琵琶湖に繋がっていたようです。『松原内湖』の南面は、彦根城の外堀の一部にもなっていました。

  • 中央奥に『本丸入口』の標識が見えました。入場待ちの行列は出来ていませんでしたから、この後は天守に入場しての見学です。入口近くに見える人達は、この場所からの眺望を楽しんでいるようでした。

    中央奥に『本丸入口』の標識が見えました。入場待ちの行列は出来ていませんでしたから、この後は天守に入場しての見学です。入口近くに見える人達は、この場所からの眺望を楽しんでいるようでした。

  • ここからは、天守閣に登城しての見学です。近世の城で天守が残っているのは、弘前、松本、犬山、丸岡、彦根、姫路、備中松山、松江、丸亀、松山、宇和島、高知の12城です。彦根城天守は、その内の国宝に指定された五つの天守の内の一つです。

    ここからは、天守閣に登城しての見学です。近世の城で天守が残っているのは、弘前、松本、犬山、丸岡、彦根、姫路、備中松山、松江、丸亀、松山、宇和島、高知の12城です。彦根城天守は、その内の国宝に指定された五つの天守の内の一つです。

  • 『連子窓』と呼んだ方がいいのでしょうか、『格子窓』から眺めた外の光景です。手前の樹木が城内、遠くの街並みが、かつての城下町になるようです。左奥には、琵琶湖も見えました。

    『連子窓』と呼んだ方がいいのでしょうか、『格子窓』から眺めた外の光景です。手前の樹木が城内、遠くの街並みが、かつての城下町になるようです。左奥には、琵琶湖も見えました。

  • 二つ並んだ『鉄砲狭間』の光景です。この後紹介するパネルには、狭間の間隔は一般に1間(2メートル弱)が多いとされますが、彦根城ではその半分の半間(1メートル弱)の間隔で密に設けてあると紹介されていました。<br />

    二つ並んだ『鉄砲狭間』の光景です。この後紹介するパネルには、狭間の間隔は一般に1間(2メートル弱)が多いとされますが、彦根城ではその半分の半間(1メートル弱)の間隔で密に設けてあると紹介されていました。

  • 『狭間(さま)』のタイトルがあった説明パネルの光景です。三枚の写真は、左から縦長の『矢狭間』、三角の『鉄砲狭間(鎬狭間)』と四角の『鉄砲狭間(箱狭間)』です。外面を塗塞いだ『隠し狭間』であることが紹介されていました。

    『狭間(さま)』のタイトルがあった説明パネルの光景です。三枚の写真は、左から縦長の『矢狭間』、三角の『鉄砲狭間(鎬狭間)』と四角の『鉄砲狭間(箱狭間)』です。外面を塗塞いだ『隠し狭間』であることが紹介されていました。

  • 跳ね上げ式の扉が開かれていた、格子窓から眺めた城内の光景です。横木、縦木ともに、頑丈そうな造りでした。窓の外には、紅葉の彩りが目に入りました。

    跳ね上げ式の扉が開かれていた、格子窓から眺めた城内の光景です。横木、縦木ともに、頑丈そうな造りでした。窓の外には、紅葉の彩りが目に入りました。

  • 国宝に指定されている、彦根城天守の内部光景です。個性のあるまがった柱が適所に配置されているようでした。湖のよぷうな木組みを見ますと、最後の宮大工、大棟梁とも呼ばれた西岡常一(1908~1995年)さんの著作などを想い出します。その口伝の一部に、?木は生育の方位のままに使へ、?堂塔の木組は木の癖組、③木の癖組は工人たちの心組、との口伝があります。法隆寺専属の宮大工だった人です。

    イチオシ

    国宝に指定されている、彦根城天守の内部光景です。個性のあるまがった柱が適所に配置されているようでした。湖のよぷうな木組みを見ますと、最後の宮大工、大棟梁とも呼ばれた西岡常一(1908~1995年)さんの著作などを想い出します。その口伝の一部に、?木は生育の方位のままに使へ、?堂塔の木組は木の癖組、③木の癖組は工人たちの心組、との口伝があります。法隆寺専属の宮大工だった人です。

  • 内側から眺めた、『花頭窓(かとうまど)』の光景です。同じ読み方の『火打窓』の表示と解説文がありました。ネット情報には、『日本の寺社建築・城郭建築・住宅建築などに見られる、上枠を火炎形(火灯曲線)または、花形(花頭曲線)に造った特殊な窓』と説明されていました。

    内側から眺めた、『花頭窓(かとうまど)』の光景です。同じ読み方の『火打窓』の表示と解説文がありました。ネット情報には、『日本の寺社建築・城郭建築・住宅建築などに見られる、上枠を火炎形(火灯曲線)または、花形(花頭曲線)に造った特殊な窓』と説明されていました。

  • 天守から眺めた城内の紅葉光景です。常緑樹とのコントラストが見所になっていました。周りには、落葉を終えた冬木立の姿もありました。

    天守から眺めた城内の紅葉光景です。常緑樹とのコントラストが見所になっていました。周りには、落葉を終えた冬木立の姿もありました。

  • 井伊直弼像です。『井伊直弼(1816~1860年)』は、幕末の譜代大名で近江彦根藩の第15代藩主(16代藩主、13代当主という数え方もあります)、幕末期の江戸幕府にて大老を務めました。日米修好通商条約に調印し、日本の開国近代化を断行しました。また、強権をもって国内の反対勢力を粛清しましたが(安政の大獄)、それらの反動を受けて暗殺されました(桜田門外の変)。藩主に就任した直後の直弼は、亡兄・直亮の遺命であると称して、藩金15万両を士民に分配しました(井伊家史料)。また、安政の大獄で死罪となった吉田松陰は、彦根藩主就任当時に藩政改革を行った直弼を『名君』と評し、兄の杉梅太郎宛書簡に、直弼を領民に対する哀れみの心を持った領主であると記しています。

    井伊直弼像です。『井伊直弼(1816~1860年)』は、幕末の譜代大名で近江彦根藩の第15代藩主(16代藩主、13代当主という数え方もあります)、幕末期の江戸幕府にて大老を務めました。日米修好通商条約に調印し、日本の開国近代化を断行しました。また、強権をもって国内の反対勢力を粛清しましたが(安政の大獄)、それらの反動を受けて暗殺されました(桜田門外の変)。藩主に就任した直後の直弼は、亡兄・直亮の遺命であると称して、藩金15万両を士民に分配しました(井伊家史料)。また、安政の大獄で死罪となった吉田松陰は、彦根藩主就任当時に藩政改革を行った直弼を『名君』と評し、兄の杉梅太郎宛書簡に、直弼を領民に対する哀れみの心を持った領主であると記しています。

  • 天守内の廊下の光景です。明かりが射し込んでいた右側が室外側、左に見える締め切った板戸が奥が部屋になっているようでした。城郭らしく、廊下の上を太い柱が過ぎっていました。

    天守内の廊下の光景です。明かりが射し込んでいた右側が室外側、左に見える締め切った板戸が奥が部屋になっているようでした。城郭らしく、廊下の上を太い柱が過ぎっていました。

  • 手摺りで囲まれた城内の戒壇光景です。手摺りが付いた急勾配の戒壇ですが、これが保存天守である証の一つです。

    手摺りで囲まれた城内の戒壇光景です。手摺りが付いた急勾配の戒壇ですが、これが保存天守である証の一つです。

  • 天守閣から眺めた、伊吹山の光景です。北側の伊吹山系と南側の鈴鹿山脈の隙間に関ヶ原が位置します。古くから霊峰とされ、山域は琵琶湖国定公園に指定されています。『古事記』には、ヤマトタケルが伊吹大明神と戦って敗れる物語があります。1964年(昭和39年)、深田久弥により日本百名山の一つに選定されました。

    天守閣から眺めた、伊吹山の光景です。北側の伊吹山系と南側の鈴鹿山脈の隙間に関ヶ原が位置します。古くから霊峰とされ、山域は琵琶湖国定公園に指定されています。『古事記』には、ヤマトタケルが伊吹大明神と戦って敗れる物語があります。1964年(昭和39年)、深田久弥により日本百名山の一つに選定されました。

  • 天守閣から眺めた、琵琶湖の光景です。彦根城は、琵琶湖の東岸近くに位置します。天守からの眺めでは、西側が琵琶湖へのかつての水路の要所、東側方面の眺めでは、佐和山と彦根山に挟まれた陸の交通の要所であったことが実感できました。

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    天守閣から眺めた、琵琶湖の光景です。彦根城は、琵琶湖の東岸近くに位置します。天守からの眺めでは、西側が琵琶湖へのかつての水路の要所、東側方面の眺めでは、佐和山と彦根山に挟まれた陸の交通の要所であったことが実感できました。

  • 天守閣から眺めた、かつての城下町と山並みの光景です。山並みの右端が、かつての佐和山城があった佐和山になるようです。

    天守閣から眺めた、かつての城下町と山並みの光景です。山並みの右端が、かつての佐和山城があった佐和山になるようです。

  • 上の段から、『前方』、『右方』と『左方』に分けた天守からの見所が記された案内パネルの光景です。西側になる『前方』では多景島、北側方面になる『右方』では、麓の玄宮園や楽々園、隘路を挟んだ佐和山など、南側方面になる『左方』では、三上山、荒神山や有人島の沖島が紹介されていました。

    上の段から、『前方』、『右方』と『左方』に分けた天守からの見所が記された案内パネルの光景です。西側になる『前方』では多景島、北側方面になる『右方』では、麓の玄宮園や楽々園、隘路を挟んだ佐和山など、南側方面になる『左方』では、三上山、荒神山や有人島の沖島が紹介されていました。

  • 前方と左右に展望が利く窓があった、三方向の写真紹介パネルがあった付近の光景です。後方を見晴らすことができる窓がない場所でした。前方の窓が琵琶湖方面なる西側です。

    前方と左右に展望が利く窓があった、三方向の写真紹介パネルがあった付近の光景です。後方を見晴らすことができる窓がない場所でした。前方の窓が琵琶湖方面なる西側です。

  • 天守城内の木組みの光景です。昭和の大棟梁と呼ばれた、西岡常一さんの言葉を思い出すような柱の光景でした。数多くの名言の中に、『自然の木と、人間に植えられて、だいじに育てられた木では、当然ですが違うんでっせ。自然に育った木ゆうのは強いでっせ。千年たった木は千年以上の競争勝ち抜いた木です』との一項もありました。

    天守城内の木組みの光景です。昭和の大棟梁と呼ばれた、西岡常一さんの言葉を思い出すような柱の光景でした。数多くの名言の中に、『自然の木と、人間に植えられて、だいじに育てられた木では、当然ですが違うんでっせ。自然に育った木ゆうのは強いでっせ。千年たった木は千年以上の競争勝ち抜いた木です』との一項もありました。

  • 同じく、天守城内の木組みの光景です。もう一つ紹介する、西岡常一さんの名言です。『棟梁いうものは何かいいましたら、「棟梁は、木のクセを見抜いて、それを適材適所に使う」ことやね。木のクセをうまく組むためには人の心を組まなあきません』宮岡さんは、法隆寺に象徴される、『最後の宮大工』とも呼ばれました。

    同じく、天守城内の木組みの光景です。もう一つ紹介する、西岡常一さんの名言です。『棟梁いうものは何かいいましたら、「棟梁は、木のクセを見抜いて、それを適材適所に使う」ことやね。木のクセをうまく組むためには人の心を組まなあきません』宮岡さんは、法隆寺に象徴される、『最後の宮大工』とも呼ばれました。

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