2017/12/02 - 2017/12/02
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旅人のくまさんさん
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彦根城の最後の紹介は大名庭園の『玄宮園』です。江戸時代後期の文化10年(1813年)に第11代藩主井伊直中の隠居屋敷として再整備され、今日に近い形に整えられたといわれます。
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玄宮園の回遊池泉式の庭園紹介の続きです。池の中に3つ際された小島の内の一つです。小島に名前は付けられていないようですが、この小島には、龍臥橋、琴橋と高場氏の3つの橋が架かっていました。園内の通り道にもなっていた小島です。
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『琴橋』らしい小橋のズームアップ光景です。緩く弧を描いた、太鼓橋のような光景でした。橋の両側には手摺りはありませんでした。『池の中の小島に架かる三つの橋の内の一つです。あとの二つは、龍臥橋と高橋です。
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三つ架けられていた橋の内の一つです。『玄宮・楽々園』の案内図を重ねますと、『高橋』当たりのようでした。左から、紅葉した枝が張り出していました。右上には、彦根城の二の丸にある三階櫓とその続櫓が見えていました。
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『玄宮園』から眺めた彦根城天守の光景です。付櫓や続櫓も見えています。天守の東面の光景になるようです。左手に背の高い常緑樹が入った光景です。
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イチオシ
風流な造りの建屋が池に写り込んだ光景です。『臨池閣』と呼ばれる、池に柱を張り出した建物のようです。屋根は茅葺き当たりでしょうか。
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池の中の小島に配されていた、立派な枝振りの松の庭木の光景です。幹や太い枝のいるが赤色でしたから、赤松のようでした。冬支度の菰巻がされていました。
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島を模した庭石のようです。2つの石が組み合わされていました。その石組に対応して、岸辺にも庭石が配されていました。名前は特定できませんでしたが、有名な景勝地を縮小した光景かも知れません。岸辺には、楓の紅葉が打ち寄せられていました。
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玄宮園の東端当たりの光景です。かつての船着場のような光景です。船着場といっても、厳重な出入口門があったらしく、その石垣が残っていました。『松原内湖』があった頃には、琵琶湖に直結していたようです。
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小高い場所に置かれていた三重石塔の光景です。散策路を歩きながら、見上げての撮影でした。周りには杉木立のような大木がありました。
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池に張り出して建てられた『臨池閣』の建物光景です。意外と細い柱を使っているようでした。推測になりますが、屋根の茅葺きを含めて、定期的なメンテンナンスを考慮した資材が使われているのかも知れません。土台の石垣も、建物に沿って、途中まで張り出していました。
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先程通ってきた、池の北側方面の光景になるようです。池の広い部分には、『魚躍沼』の名前が付けられているようです。
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イチオシ
カラフルな自然石が敷き詰められていた散策路の光景です。茶人の遊び心の一つかも知れません。すべて表面が平らな石が使われていました。
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散策路の敷き詰められていた、カラフルな自然石のズームアップ光景です。赤石や青石のほか、白っぽい石や黒っぽい石も散りばめられていました。
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庭園の池と、その池に架かる、中継点を介した二つの橋の光景です。右側の橋が本体で、『龍臥橋』の名前があるようです。
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『水田遺構と遣り水以降』のタイトルがあった説明看板の光景です。玄宮園内にあった水田遺構の紹介です。藩主自らが稲を育てる神事が行われていたようです。岡山藩をはじめ、多くの大名家に伝わっていた行事のようです。日本では、古くから五穀豊穣の祈念や収穫を祝う風習があったとされます。
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イチオシ
『二季咲桜』の名札があった桜の花の光景です。この後に紹介する立札に、水戸市から寄贈を受けたものであることが記されていました。水戸藩と彦根藩は、井伊直弼が暗殺された『桜田門外の変』をめぐって、かつては対立があったようです。また幕末の水戸藩も『尊王攘夷派』と江戸幕府に忠誠を尽くす『保守派』とに分裂し、一発触発の状態でした。
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同じく『二季咲桜』の光景です。水戸藩の『尊王攘夷派』は、幕府が水戸藩に介入し、尊皇派のメンバーを次々と逮捕しました。この渦中で起こったのが、尊王過激派による井伊大老暗殺でした。幕府による水戸藩への尊攘派弾圧は、更にエスカレートしました。その過激派が結成したのが、『天狗党』でした。『天狗党』は、天皇から直接 『錦の御旗』を貰うために京都へ向かいました。
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『二季咲桜』のタイトルがあった説明立札の光景です。『天狗党』は、井伊直弼の復讐に燃える彦根藩が京都へのルートを封鎖し、天狗党は敦賀への退却を余儀なくされ、その地で幕府に降伏しました。400名余りが処断され、『天狗党』は壊滅しました。桜田門外の変から110年後の1970年、敦賀市が仲介となって、水戸市と彦根市が正式に和解、親善都市提携を結びました。
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『二季咲桜』の紹介が続きます。この桜は春(4月~5月)と冬(11月~1月)の2回開花する珍しい桜です。先程の立札にも紹介してありましたが、この二季桜は、昭和47年(1972年)に三年から寄贈されたものです。水戸の偕楽園には、『二季咲桜』のほか、同じ二季咲の『十月桜』もあります。
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『二季咲桜』の紹介の最後です。水戸偕楽園の『二季咲桜』は一重咲、『十月桜』は八重咲種です。猿以外に咲く伯らでは、『四季桜』等もあります。『四季桜』といっても、花は4月上旬頃と10月末頃の年二回の開花です。コブクザクラも年に二回開花し、フユザクラは冬季から3月まで咲いています。
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井伊直弼は、埋木舎時代より文武に励み、いずれもその道を極めていきまました。和歌に秀で、自作の和歌集を編纂したほどでした。子の歌碑に記されているのは、『あふみの海 磯うつ波の いく度か 御世にこころを くだきぬるかな』の和歌です。
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先ほど紹介した和歌と、直弼の肖像画です。安政7年(1860年)の正月に直弼は正装姿を、お抱え絵師狩野永岳に描かせました。江戸に取り寄せた自画像に、和歌をしたため、井伊家の菩提寺である清凉寺に納めました。碑文は直弼の直筆を写し取ったものです。
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直弼の歌碑のズームアップ光景です。この和歌に詠み込まれた直弼の心情は、『琵琶湖の磯うつ波が、打ちくだけてはひき、また打ちくだけてはひくことを何回も繰り返しているように、大老就任以来難問が何回となく押し寄せてくる。しかし、わたしは国の平和と安心を願って、全身全霊を尽くして心を砕いてきたので悔いは残らない』の意味とされます。2ヶ月後の3月3日、直弼は桜田門外で水戸浪士らの凶刃に倒れました。この和歌が、実質的な辞世となりました。
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発掘調査されたらしい彦根城の『外堀』の光景です。彦根城は、『内堀』、『中堀』と『外堀』の三重の堀で護られていました。この堀幅はかつての『外堀』の一部で、右手に見える道路を含んだ幅の堀に満々と水を湛えていたようです。
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『彦根城の外堀跡』のタイトルがあった説明看板です。縄張図と古写真も添えてありました。古写真は、護国神社の常盤橋の上から撮影された、埋め立てが行われる前の『外堀』の光景です。説明文によれば、『コレラ対策』として堀が埋め立てられたようです。
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彦根駅前のロータリーに建つ、彦根藩初代藩主の井伊直政公の騎馬像です。井伊直政公(1561~1602年)は、井伊氏第17代または24代当主で、上野国高崎藩の初代藩主、後に近江国佐和山藩(彦根藩)の初代藩主を務めました。徳川四天王や徳川十六神将に数えられる、家康の天下取りを支えた功臣の一人です。
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井伊直政公の騎馬像のズームアップ光景です。彦根市では、直政公が現在の彦根市の発展の基礎を築いたということを顕彰して、『井伊直政公顕彰式』という名の祭典が毎年行われているようです。直政公の幼名は虎松、小さい頃は波乱続きでした。生母の『おひよ』が徳川氏家臣の松下清景に再嫁し、虎松を松下氏の養子としました。天正3年(1575年)、家康に見出され、井伊氏に復することを許された虎松は、名を井伊万千代と改め増した。さらに旧領である井伊谷の領有を認められ、家康の小姓として取り立てられました。万千代は、高天神城の戦いの攻略を初めとする武田氏との戦いで戦功を立てました。天正10年(1582年)、22歳で元服し、直政と名乗りました。
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更にズームアップした、井伊直政公の騎馬像の上半身です。家康が武田氏の旧領である信濃国・甲斐国を併呑すると、武田家の旧臣達を多数に付属されて一部隊を編成することとなり、士大将になりました。これにより、徳川重臣の一翼を担うことになりました。その部隊は、家康の命により武田の兵法を引き継ぐもので、『井伊の赤備え』と呼ばれる軍装でした。
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『井伊直政公像』の説明プレートの光景です。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで軍功を挙げ、18万石を拝領し、石田三成の居城だった佐和山城に入りました。城を佐和山から彦根山に移す計画を立てましたが、関ヶ原の戦いの傷が元で亡くなりました。島津義弘の甥である島津豊久を討ち取り、更に退却する島津軍を百余騎率いて追撃し、島津義弘に迫ったところで鉄砲で撃たれました。
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亀に似た『贔屓(ひいき)』の背中に載せられた石碑の光景です。『彦根延喜(神代~現代)』のタイトルがありました。古事記に記された神代の時代から始まり、藤原不比等の治世時代、平安時代中期の観音信仰による金亀山への三系ブームから、戦国時代を経て江戸時代までの略史が紹介されていました。締め括りは、地元の世評の『一に大老、二に佐和山』を引用して、井伊直弼公と石田三成公を称えて結びとされていました。
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